アレクサンデル6世

[ヨーロッパ−近世]

近世のローマ教皇。 当時の世俗化した教皇の代表で、しばしば堕落した存在として非難される。 本名ロデリク=ランソルであるが、後母方の姓ボルハに変え、 それをイタリア語読みしたロドリーゴ=ボルジアとして知られる。 スペイン(生誕時はアラゴン)の出身で、 枢機卿(後の教皇カリストゥス3世)であった母方の伯父によって引き立てられ、 若い頃から順調に教会組織の中で出世していった。 ちなみに当時の教会組織は世俗化が進み、 彼のように親族が登用されるのが普通であり、 また彼自身愛人との間に子を設けるなど品行は良くなかった (当時はそれが普通であったが)。 長じて教皇の候補となると、ライバル達を買収して教皇の地位を手に入れた。 教皇となって後、自分の親族の登用、 植民地の取り分を定めたトルデシリャス条約の締結などの本国スペインへの贔屓、 さらに自身を含む教会の汚職やローマの治安悪化など、 後世に悪評を残すような治世となった (幾分ライバルによるデマも含まれるだろうが)。 しかしフランスのシャルル8世がナポリ王位を求めて大軍を率い侵攻してきたときは、 これを懐柔して当面の危機を回避、 さらに他国と同盟を結んでシャルルを撤退に追い込む優れた外交手腕を発揮した。 その後教会内部の権力闘争の過程で息子チェーザレの権力が増大し、 徐々に主導権を息子に奪われていくことになった。 また汚職に加えてチェーザレは身内の暗殺も躊躇わなかったことで ボルジア家の悪評もさらに高まった。 そんな中自身を非難したフィレンツェの修道士兼政治家サヴォナローラを破門し、 処刑に追いやるなど外交(或いは権謀術数)手腕は健在であった。 主にヴァレンティーノ公となったチェーザレの活躍によって 事実上分裂していた教皇領をほぼ統一し、その権力は頂点に達した。 しかし、その後突然熱病にかかって死去した。 当時は誤って政敵暗殺用の毒を飲んでしまったとも言われたが、 現在ではマラリアであろうと考えられている。 その死体は棺桶に入りきらないほど膨れ上がっており、 毒殺の噂を広めることになった。 彼の死を切っ掛けとしてチェーザレは失脚し、 ボルジア家の野望は潰えることとなった。
アレクサンデルはしばしば当時の堕落した教会の象徴として非難されることが多いが、 同時代の他の教皇に比べて特別酷かったわけではない。 息子チェーザレがかなりエゲツナイ手段で勢力を拡大させたことに対する 嫉妬と警戒、 また子孫が失脚したことでライバルのプロパガンダを止める手段が無かったことが 悪評が集中する原因であろう。 この辺りヴラド=ツェペシュに近いものがあるように思う。

見出しのページに戻る
歴史小事典+歴史世界地図に戻る