[ギリシア−古代ギリシア]
マケドニアを世界最大の強国に押し上げた稀代の征服者。
大王と称せられる。
マケドニアを強国の地位に就けたフィリッポスの長男として生まれ、
英才教育を施された。
家庭教師には当時最高の哲学者アリストテレスがなっている。
また、父の前で暴れ馬であったブケファラスを手なずけ、
武勇でもその才を示したという逸話がある。
父が暗殺されると、20歳王位で王位を継ぎ、
父の大願であったギリシアの覇権を獲得する。
その後、
さらに東の大帝国アケメネス朝ペルシアを征服するべく東方への遠征を開始した。
ペルシア王ダレイオスの率いるペルシア軍本隊とはイッソスで激突した。
ペルシアは1桁上の兵力を持っていたが、
アレクサンドロスは後に「槌と金床」と呼ばれる戦法で勝利した。
マケドニア軍は、ギリシア風の長槍(約6mあったという)
で武装した重装歩兵を主力とし、また強力な騎馬隊も持っていた。
この騎馬隊を槌として敵の側面・背後から追い立て、
金床である重装歩兵で粉砕するのが「槌と金床」である。
こうしてイッソスでダレイオスを撃退したアレクサンドロスは、
地中海沿岸の制圧に乗り出した。
海上都市ティルスを外交で手に入れたフェニキア等の海軍を使って陥落させ、
エジプトにも進出して、
地中海の東側は完全にアレクサンドロスのものとなった。
アレクサンドロスはさらに進軍させ、
またもダレイオスを破りペルシアの首都バビロンやスサを手中に収めた。
脱出したダレイオスを追って、マケドニア軍はさらに東へ進軍した。
ダレイオスは途中寝返った部下に殺されたが、
アレクサンドロスは進軍を止めず、知事達を次々と降伏させていった。
さらにインドにまで進出し、
ポールス王を始めとするインダス川沿岸の有力者を次々と降伏させたが、
この時点で既に軍の内部では厭戦気分が充満していた。
ここに至ってアレクサンドロスの進軍も遂に停止した。
バビロンに帰陣し、己の築いた大帝国の基礎固めに入ったが、
長い戦場での生活で健康が悪化し、僅か32歳で世を去った。
若い大王の死後、
国は後継者(ディアドコイ)の争いとなり、分裂してしまった。
これらの国は、全てローマによって征服されることになる。
アレクサンドロスの王になってからの生涯は、殆ど全て陣中にあった。
彼は戦略・戦術は勿論、外交など政治にも優れた手腕を持ち、
英才教育の賜物か哲学などのあらゆる学問にも優れていた。
そんなエリート中のエリートとも言える彼だが、
エリートの枠に納まらない人物でもあった。
彼の死後国家は分裂したが、
そこにはヘレニズムという1つの世界が誕生した。
生前から自軍の兵士にペルシア人との結婚を奨励し、
自身もダレイオスの娘や太守の娘と結婚し、
また都をペルシアのバビロンにするなど、
ペルシアとマケドニア・ギリシアとの融合に努めていた。
これには、エジプトで自分が神の子であるとの神託を得て、
その気になったせいもあるかもしれない。
何れにしろ、後世に伝わるヘレニズム文化の世界をつくった大人物であった。
そんな彼の最大の欠点は、彼がエリートであったことだろう。
エリート故、余りに真っ直ぐであった。
そのため、休むことなくひたすら征服を進め、己の寿命を縮めてしまった。
大国家を維持するためには、
一歩引く余裕も必要であることを知らしめる人物でもあった。