[ヨーロッパ−近世]
オーストリア・プロイセン間のシュレージエン領有問題を発端に起こった戦争。
オーストリア継承戦争にてプロイセンは豊かなシュレージエン地方を獲得したが、
奪われた側のオーストリアの大公で「女帝」と呼ばれたマリア=テレジアは、
これの奪還を企図した。
オーストリア単独ではフリードリヒ大王率いるプロイセンに勝算は薄かったため、
先ずロシアと同盟を結んだ。
プロイセンはこれに対抗するためイギリスと和解し同盟を結んだが、
フランスはこれを裏切り行為と見做した。
フランスは長年イギリスやオーストリアと対立していたが、
オーストリアの働きかけを受けて同盟を結び、
プロイセンはオーストリア・ロシア・フランスといった大国に包囲される形となった。
イギリスはフランスと植民地の領有を巡って対立しており、
まず北米にて開戦したが、
プロイセンはイギリスの援助を受け、機先を制するためオーストリア方のザクセンに侵攻し、
戦争が勃発した。
大王が率いるプロイセン軍は勝利を重ねたものの、
国力の差は大きく次第に劣勢に追い込まれていった。
イギリス及びフランスは植民地の戦いに傾注してヨーロッパの戦場からは離れていったが、
ロシアとオーストリアの連携によって滅亡寸前にまで追いやられた。
しかしロシアの女帝エリザヴェータが死去し、
フリードリヒ大王の熱烈なファンであったピョートル3世が即位すると、
ロシアは和平を結んで手を引き、
プロイセンは持ち直すことができた。
戦いは膠着状態に陥り、参戦国の疲弊が酷くなり和平条約が結ばれ戦争は終結した。
戦いの結果オーストリアはシュレージエン奪還を果たせず、
また財政破綻寸前まで追いやられたため戦後行政改革に専念することとなった。
プロイセンは大国の地位を獲得し、財政面ではまだ余裕があったものの、
領土を占領され多くの兵を失ったため特に兵士の損害が大きく、
フリードリヒ大王在位中は大規模な軍事行動を行えなくなった。
ロシアも損害が大きかったものの、ポーランドにおけるフランスの影響の排除に成功し、
後のポーランド分割の下地を作ることができた。
また後進国と侮られていた面があったが、プロイセン相手に引き分けに持ち込んだことで、
ヨーロッパにおける評判を高めることになった。
もう一方の主当事者であるイギリスはフランスとの植民地戦争に勝利し、
多くの植民地を獲得したが、多額の戦費と援助金のため植民地に重税を課さざるを得ず、
後のアメリカ独立へ繋がることとなった。
またあまりに勝ち過ぎたため諸国に警戒され、
アメリカ独立戦争で孤立無援となる原因ともなった。
フランスは財政難に加え多くの植民地を失い、
後のフランス革命の遠因となった。
ほとんどのヨーロッパ大国が参戦しただけでなく、
世界中の植民地で戦われた世界大戦とも呼ぶべき戦争であり、
それだけに後々に与える影響は大きかった。