[ヨーロッパ−中世]
中世フランス王位を巡って争われたプランタジネット朝・ランカスター朝イングランドと
ヴァロア朝フランスとの間の一連の戦いの総称。
一般には1337年のイングランド王エドワード3世の挑戦状送付から1453年ボルドー陥落までの
116年間を指す。
無論100年間休みなく戦っていたわけではなく、幾度もの休戦期を挿んでいる。
フランスではそれまでのカペー朝が断絶して親戚のヴァロア伯フィリップが跡を継いだが、
フランス王女の息子であるイングランド王エドワード3世が王位継承権を主張し、
フランドルやスコットランドを巡って対立していたこともあって宣戦布告した。
当初はフランス優勢であったが、
クレシーの戦いで長弓兵を主体としたイングランドが騎士中心のフランスに勝利し、
またポアティエの戦いでも同様に黒太子率いるイングランド軍が勝利して、
フランス西部の広大な領土を手に入れた。
しかし、王太子シャルルの持久戦略のため、戦いは一時休戦した。
その後即位したシャルル5世は休戦期に税制改革で国力を養い機会を待った。
またカスティリャ内乱に双方介入してフランス側のエンリケが最終的に勝利した。
この内乱の戦費調達のため、エドワード黒太子は西フランスのアキテーヌに重税を課し、
それに諸侯が反発したことを切っ掛けとして戦争が再開された。
この再戦では国力を養い名将ベルトラン=デュ=ゲクランを擁したフランスが連勝し、
征服された地の大部分を取り戻した。
この後戦いは休戦期に入ったものの、正式な和平条約はまとまらなかった。
その間、イングランドでは内乱によりランカスター朝成立し、
フランスでも王シャルル6世の発狂と派閥対立から内乱状態となり、
双方国内が混乱し内乱状態となった。
(ちなみにこの後イングランド・フランス双方に精神錯乱する王が続出する。)
先に混乱から回復したイングランドは再びフランスに侵攻し、
パリを含む北部を制圧してフランス諸侯への影響力も高めた。
しかし、イングランド王ヘンリー5世が急死し、
跡を継いだヘンリー6世は赤子であったため、事態は再び混迷した。
この頃フランスのシャルル7世の下にジャンヌ=ダルクが現れ、
それもあってかオルレアン攻城戦でフランスが防衛に成功し、
形勢が逆転して再びフランスヴァロア朝が優勢となった。
ジャンヌ=ダルクは刑死したものの、ヴァロア朝側の優勢は動かず、
終にボルドーが陥落してイングランド側は大陸の拠点の大部分を失った。
カレーなどわずかな領土は残ったが、
最早イングランドがフランス王位に介入することはなくなった。
こうしてフランス側が勝利したことで、現在のイギリス・フランスの国境がほぼ確定した。
また、イングランドとフランスの合併が無くなったことで、
現在の形のイギリス・フランスを成立させたとも言える。
独立を堅持したフランスは勿論、
イングランドも当時は文化的にはほとんどフランスであり、
フランスと離れたことで「イングランド的」になった。