紀元前119年頃の世界

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解説

この時代は、ローマ・パルティア・漢の3強国の躍進の目立つ頃です
ローマ (RepublicRome) はマケドニア・カルタゴを滅ぼし、ペルガモンに王国を委譲されて (無言の圧力に屈したとも言いますが) 、領域が大きく広がりました。 しかし、カルタゴを滅ぼしたことで ヌミディア (Numidia) が力をつけ、親ローマ (で親スキピオ) の王マシニッサの死後、 ユグルダがローマに反抗することになります。 また、内政ではグラックス兄弟の改革が暗殺によって頓挫し、 閥族派と平民派の内乱の世紀はまだまだ続きます。
セレウコス朝シリア (SeleukosSyria) はパルティアに押され、もはや見る影もありません。 プトレマイオス朝エジプト (PtolemaiosEgypt) も地中海貿易で繁栄しているものの、 そろそろローマの影が気になる所です。
パルティア (Parthia) は旧支配者であるセレウコス朝を圧迫し、領土を大きく広げています。 また、弱ったバクトリア王国や混沌としたインドにも手を出しています。
その北では、カスピ海・アラル海の北に アラン人 (奄蔡 Alan) と呼ばれる遊牧民が屯っています。 彼らは後にヨーロッパまで来てローマにちょっかいを出します。 また、康居 (Kangli) と呼ばれる国が、東西の交易路を押さえ儲けています。
インド (India) では、マウルヤ朝が滅び、分裂状態が続いています。 まだ統一される気配は見えません。
東アジアでは、前漢 (FormerHan) が武帝の統治下、度々侵入する匈奴 (Tsongnoo) に逆襲します。祖父文帝・父景帝の時代に蓄えた国力と、 名将衛青・霍去病の活躍により、匈奴を大いに打ち破り、 北と西に勢力範囲を広げます。 そしてこの年、遂に單于を匈奴の本拠地で破り、 北方の安全を確固たるものとします。 そしてしばらくは東の朝鮮と南の進出に専念することになります。 バクトリア (Bactria) では東から追われるように移ってきた月氏がバクトリア王国を滅ぼし、 大月氏と呼ばれて国を築いていました。 漢は張騫を使者として派遣し匈奴の挟撃を説いたが、 彼らは受け入れず、この地に留まりしばらく繁栄することになります。

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