紀元166年頃の世界

※このページではHTML5を使用しています

解説

この年は大秦国王安敦 (ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌス) の使者が漢帝国に到着した年です。 しかし、この頃これら東西の大帝国は衰退期に差し掛かろうとしています。
ローマ帝国 (RomanEmpire) では最後の五賢帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスの治世です (共治帝のルキウスも一応いましたが)。 もう少し後になると、北の ゲルマニア (Germania) の侵入が活発になり、帝国の平和が崩れ始めてしまいます。 もっとも、 コンモドゥスが阿呆でなければ十分回復できるレベルだったのですが。
パルティア (Parthia) はローマ以上に深刻です。 トラヤヌスに始まり、マルクス=アウレリウス=アントニヌス、 そして後にはセプティミウス=セウェルスといったローマ皇帝に敗れ、 国力は大きく衰退します。 この60年後にはササン朝によって滅ぼされることになります。
インド・中央アジアでは、バクトリアで大月氏から独立した クシャーナ朝 (KushanaDynasty) が発展し、中央アジアから北インドに至る広大な領域を統治しました。 このころクシャーナ朝はカニシカ王の最盛期で、 東西交易によって大いに栄え、仏教文化が花開いていました。 この時代最も元気だった国はここでしょう。 また、南インドの アーンドラ朝 (AndhraDynasty) もまた海上の貿易によって栄えていました。
遊牧民のアラン人 (奄蔡 Alan)、 オアシス国家康居 (Kangli) は相変わらずです。 一方東アジアでは、 鮮卑 (Sabi) というトルコ系の遊牧民がこの10年程前にモンゴル高原を制覇しました。 落ち目の後漢をしきりに圧迫しています。 後漢 (LaterHan) では、この年から党錮の変が始まっています。 宦官が清流派と名乗った士大夫達を弾圧し、 内政は大いに乱れています。 大秦国王安敦の使者も、とんでもない時期に来てしまったわけです。 この混乱が、後の黄巾の乱、さらに三国動乱へと続くわけです。 かつて北方の覇者であった匈奴は南北に分裂し、 南匈奴は漢に服属しました。また、 北匈奴 (NorthernTsongnoo) も鮮卑に押され、西へ追いやられています。

歴史世界地図トップページに戻る