紀元1571年頃の世界

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解説

この年は西洋の分岐点とも言うべきレパントの海戦が起こった年です。 この年以降、敗者となったオスマン帝国は衰退を始めて主役から外れ、 勝者であるスペインやヴェネツィアも没落し始めます。 大航海時代が始まったこともあり、 西洋世界の主役は地中海沿岸からイギリスやフランス等西北ヨーロッパに移行し始めます。
一連のイタリア戦争により、 教皇領(PapalStates) は世俗的な権力をほとんど失いました。 カトリック勢力の盟主としての権威は保持していますが、 実質的なカトリック勢力の指導的立場は スペイン (Spain)や 神聖ローマ帝国 (HolyRomanEmpire) に移っています。 カール5世 (カルロス1世) の退位によってこの両国は再び別の国となりましたが、 スペインは本国の他にネーデルランド・フィリピン・新大陸に広大な領土を持ち、 アジア・アフリカに植民地を持つ ポルトガル (Portugal) と共に当時世界有数の財力を保持していました。 スペイン王フェリペ2世は、さらにポルトガルを併合して世界帝国を実現させますが、 オスマンやネーデルランドの反乱に対する戦いや イングランド王国 (EnglandKingdom) に対する敗戦によって世界有数の資産を破綻させ、 早々と没落を始めます。
一方後に勝者となるイングランドは、 エリザベス女王の統治下で発展しています。 後の大英帝国の兆しがこの頃から見え始めています。
イタリア戦争によって国外の影響力をほとんど喪失した フランス王国 (FranceKingdom) は、百年戦争後のイングランドのように、 国内問題で荒れることになります。 これはイタリア戦争の勝者側である神聖ローマ帝国も同様で、 この両国はプロテスタントとカトリックの宗教対立が 深刻な内乱に発展することになります。
一方、東欧では、 モスクワ大公国 (Moskva) がかつての宗主であったキプチャク汗国の末裔であるカザンやアストラハンを傘下に収め、 着々と勢力を拡大させています。
アフリカでは、 ソンガイ王国 (Songhai) が滅亡前の最後の繁栄を迎え、 コンゴ (Congo) がポルトガルとの交易で繁栄しています。
マムルーク朝やハフス朝の滅亡した北アフリカを併合した オスマン帝国 (OttomanEmpire) ですが、英主スレイマン大帝の死後、レパントの敗戦、 それ以上にこの時のセリム2世を始め堕落したスルタンが続き、 躍進が止まります。 相変わらずイスラム圏の盟主ですが、むしろ勢いは東の方にあります。
その東の諸国ですが、イランの サファヴィー朝 (SafaviDynasty) は建国直後の怒涛の勢いはすぐに収まり、安定期に入っています。 まもなく後継者争いから内乱になりますが、 それを乗り切るとアッバース大帝の最盛期を迎えます。
さらに東では、インドの ムガール帝国 (MughalDynasty) がアクバル大帝の大躍進期を迎えています。 インド (India) のイスラム教・ヒンズー教の諸国を平定し、 この時点で既に北インドの大部分を征服しています。 ムガール帝国はティムール帝国の残存勢力が築いたイスラム教帝国ですが、 支配者層にラージプートを始めとするインドで多数派のヒンズー教徒を取り込み、 そのことが躍進の原動力ともなっています。
彼らをインドに追いやった シャイバニー朝 (ShaybaniDynasty) も安定期を迎えています。
モンゴル高原では、モンゴル帝国直系の タタール (Tatar) 系諸部族が強く、 オイラート (Oirat) 系部族を追いやっています。
東アジアでは、 明 (Ming) が翌年から万暦帝の最後の繁栄を迎えます。
朝鮮 (Korea) は国内の党派の対立で荒れており、後に豊臣秀吉に侵略を許す下地ができています。
日本 (Japan) は戦国時代の末期で、織田信長が中央を掌握しつつも、 敵対勢力に包囲され苦戦しています。
東南アジアでは、 大越国 (Daiviet)・ アユタヤ朝 (AyuthayaDynasty)・ カンボジア王国 (Cambodia) などが平穏を保っていますが、 マジャパヒト王国はイスラム勢力に滅ぼされました。 しかし、最大の脅威は彼らではなく、徐々に侵攻しつつあるヨーロッパです。 既にフィリピンやマラッカは植民地となっています。

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