紀元1402年頃の世界

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解説

この年はアンカラの戦いが起こり、靖南の変が終結した年です。 まさに世界に2大帝王が出現した年と言えます。
この年アンカラの戦いが起こり、 ティムール帝国(TimurDynasty) の創始者ティムールがアナトリアでも覇権を握り、 チンギス=ハーン・アレクサンドロスに次ぐ征服者となりました。
そのオスマン帝国(OttomanEmpire) は雷帝(イュルドゥルム)バヤズィットがバルカン半島で勝利を収め、 勢力を拡大していましたが、 アンカラの敗戦によって一時滅亡します。 オスマン帝国が再興できたのは、オスマンの団結力と ビザンツ帝国(ByzanzEmpire) (あるいは援助すべき西欧諸国)の失策、 なによりもティムール帝国が本拠地以外の統治に不熱心だったことによります。 ビザンツ帝国に関しては、 最早自力で起死回生する力すら残っていなかったというのが実情でしょう。
神聖ローマ帝国(HolyRomanEmpire) はウィテルスバッハ家のルプレヒト1世の治世で、 ドイツでもイタリアでも小領主の小競り合いが続いています。
フランス王国(FranceKingdom)は 百年戦争の前半戦に勝利し、大陸をほぼ抑えていますが、 内政の停滞により、再び イングランド王国(EnglandKingdom) に侵略されることになります。
一方、北アフリカでは マリーン朝(MarinDynasty)・ ハフス朝(HafsDynasty) が国家同士の争いどころか内乱により支離滅裂になっています。 ジャーン朝に至っては最早国と呼べる勢力が消滅しています。
ただし、サハラ以南の マリ(Mali)や コンゴ(Congo) は繁栄を維持していたようです。
エジプトのマムルーク朝(MamlukDynasty) はアルメニア系のブルジー=マムルーク朝を開いた英傑バルクークの死後、 ティムール帝国の侵略を受け、大混乱に陥っています。 政権が崩壊しなかったのは、 ティムールが西のエジプトよりも東の明に執着したからに他なりません。
北インドのトゥグルク朝(TughluqDynasty) はティムールに首都デリーを奪われ、衰退しています。しかし、 南インド(India) のヒンズー教王朝はイスラム王朝に圧されている状況は変わっていません。
キプチャク汗国(KipchakKhanate) ではオルダウルスのトクタミシュが内乱状態を統一しましたが、 ティムールに敗れて再び壊滅状態に陥っています。
このように、多くの国がティムール1人に振り回されていますが、 国が存続できたのは、 単にティムールが本拠地以外の統治にあまり熱心でなかったためでしょう
一方、東方では 明(Ming) で燕王帝朱[木隶]が甥の建文帝を追い落として永楽帝として即位しました。 この永楽帝の代に大元の血統の滅んだ後のモンゴル系の タタール(Tatar)や 大越国(Daiviet) に侵攻し、ティムールの侵攻も未遂に終わり、最盛期を迎えることになります。
朝鮮半島では、内乱の中倭寇討伐の英雄李成桂が 朝鮮(Korea) 王朝を開きました。この時点では3代目の太宗の代です。
日本(Japan) では室町幕府が足利義満により全盛期を迎えています。
東南アジアでは アユタヤ朝(AyuthayaDynasty)が カンボジア王国(Cambodia) やマラッカを従属させて、繁栄しています。 また、マジャパヒト王国(MajapahitDynasty) もやや落ち目ですが、まだ繁栄しています。
アメリカ大陸では マヤ帝国(Maya)・ アステカ帝国(Azteca) がユーラシアとはほとんど無関係に繁栄しています。

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