紀元1281年頃の世界

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解説

この年、「弘安の役」と呼ばれるモンゴルの日本侵攻がありました。 またイルハーン国ではアバカが急死し、内部で混乱が起こります。 モンゴルは内部で対立しつつも各地で勢力を広げるべく活動しています。
ビザンツ帝国(ByzanzEmpire) はシチリア王国の侵略の危機にさらされていますが、 「奸雄」ミカエルの謀略により「シチリアの晩鐘」と呼ばれる農民反乱を引き起こします。 ミカエルは翌年死去しますが、その後は往時の勢力を回復すべく小アジアへ侵攻します。
神聖ローマ帝国(HolyRomanEmpire) はハプスブルグ家のルドルフが帝位に就いており、 後のハプスブルグ王朝の基盤を築いています。
フランス王国(FranceKingdom) は聖王ルイの息子フィリップ3世の治世です。「尊厳王」や「聖王」や「端麗王」 に挟まれてパッとしない王です。
イングランド王国(EnglandKingdom) は「イギリスのユスティニアヌス」エドワードの時代、勢力を伸ばしています。
イスラム圏では、北アフリカでは マリーン朝(MarinDynasty)・ ハフス朝(HafsDynasty)・ ジャーン朝(ZayyanDynasty) が分立しています。 またサハラ砂漠の南のイスラム教国家 マリ(Mali) はサハラ貿易で発展しています。 エジプトのマムルーク朝(MamlukDynasty) は、カラーウーンがバイバルスの息子を退けて即位し、 英雄の息子を追い落としたという悪名を払拭すべく内政に力を入れています。 また十字軍諸侯を攻撃し、完全制覇まであと一歩です。
北インドの奴隷王朝(SlaveDynasty) は最後から2人目のスルタン・バルバンの治世です。 その他のインド(India) では小国分立は相変わらずです。
モンゴルウルスは完全に分裂し、本体は中華帝国風の 大元(TaiYuanUlus) となりました。 都を大都に置き、南宋を征服して現代中国とモンゴルを合わせた領土を持ち、 ことに経済力ではモンゴルウルスを上回っています。 反面フビライはアリク=ブカには勝ったものの、分裂は進み オゴタイ家のハイドゥは完全に独立しました (QaiduUlus)。 教科書では「オゴタイ=ハン国」となっていますが、チャガタイ家を支配下に置き、 大元に対抗できる一大勢力となっています。 西の方では、いわゆるキプチャク=ハーン国である バトゥウルス(BatuUlus) では一族、特にハンのトゥダ=マングと有力者ノガイの対立が深刻です。 オルダウルス(OrdaUlus) は比較的平穏です。 イルハーン国(IlKhan) はフラグの息子アバカの代、后はミカエルの庶子「モンゴルのマリア」です。 この年アバカが急死し、長子アルグンを差し置いて弟のテクデルが即位します。 しかし、イスラム風にアフマドと名を改めハンではなくスルタンとなったテクデルは 内部で反感を買いクーデターで倒されることになります。
高麗(Koryu) はモンゴルに服属しており、日本遠征により大きな負担を強いられています。
日本(Japan) では執権北条時宗の代、この年モンゴルの遠征に勝利し、得宗専制を固めます。 しかし、この英邁な執権の急死により北条家の行く末に暗雲が垂れこめることになります。
モンゴル日本遠征の失敗・中止により、 大越国(Daiviet)・ パガン朝(PaganDynasty) といった東南アジアがモンゴルの侵略対象となります。 パガンは征服される運命ですが、大越は救国の英雄陳興道の地形を生かした戦術や 国民の激しい抵抗によりモンゴルを撃退します。 カンボジア王国(Cambodia) はモンゴルからは守られています。この国は外患よりも宗教対立という内憂に苦しみます。
アメリカ大陸では、 マヤ帝国(Maya)・ アステカ帝国(Azteca) があります。

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