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この年、チンギス=ハーンが西夏攻略中に死去しました。
しかしモンゴルは監国トゥルイを経てオゴタイに継承され、
さらに発展していくことになります。
ビザンツ帝国を征服した十字軍のラテン帝国 (LatinEmpire)
ですが、国威は振るわずコンスタンチノープルにしがみついている状況です。
一方元ビザンツのニケーア帝国 (NicaeaEmpire)
ですが、テオドルスの跡を娘婿のヨハンネスが継ぎ、
王都奪回といきたいもののルームセルジューク朝との戦いに追われているところです。
十字軍を起こした西欧ですが、
神聖ローマ帝国 (HolyRomanEmpire)
は「早過ぎたルネサンス人」フリードリヒ2世がシチリアに君臨しています
(そう、彼は本拠地とも言うべきドイツには目を向けなかったのです) 。
イスラムの進んだ文化に傾倒していた彼は野蛮な十字軍など歯牙にもかけなかったのですが、
教皇に破門され、ようやく形だけの十字軍を起こそうとしています。
フランス王国 (FranceKingdom)
では後に「聖王」と呼ばれるルイ9世が即位しました。
この王の下余計な十字軍も起こしてしまいますが、フランスは全般的に発展します。
対照的に、イングランド王国 (EnglandKingdom)
では王ヘンリー3世とシモンら貴族との対立によって勢力が衰えています。
ルーシ (Rusi)
ではチンギス=ハーンの西征の際、
一部の諸侯がブルガール族と共にモンゴルのジェベ・スブタイの部隊と戦い、
完膚なきまでに打ちのめされています。
思うにこのときもっと危機意識を持つべきだったのでしょう。
ルーシの繁栄の終末も既に秒読み段階です。
ムワッヒド朝 (MuwahhidDynasty)
はイベリア半島でキリスト教徒に破れ、勢力が後退しています。
既にマリーン朝 (MarinDynasty)
が興っており、やがてハフス朝、ジャーン朝も次々と建国され、
北アフリカは三国志状態になります。
アイユーブ朝 (AyyubDynasty)
ではサラディンの甥、アル=アーディルの息子のアル=カーミルの代です。
国内の分裂に悩んでおり、翌年からのフリードリヒの十字軍によって
さらに悩まされることになります。
ルームセルジューク朝 (RumSeljuqDynasty)
は英主カイ=クバートの下全盛期を迎えています。
専らニケーア帝国との戦いに明け暮れていますが、
真の敵モンゴルの影も徐々に近付いています。
超名門のアッバース朝 (AbbasDynasty)
も、最後から2番目のムスタンスィルの代、ホラズムの元王子ジャラールと争うなど、
既にモンゴルの影響を受け始めています。
インドで興った奴隷王朝 (SlaveDynasty)
ですが、初代アイバクの死後、後継者レースに勝ち残ったイルトゥミシュは、
北インドに勢力を広げました。
デリー=スルタン朝の内、アイバク・イルトゥミシュ・バルバンの3人は奴隷 (マムルーク)
出身なので、まとめて奴隷王朝と呼ばれています。
次に政権を握ったハルジーはマムルークではなかったのでハルジー朝と分けられていますが、
本質的には奴隷王朝で起こった政変と同じ物です
(といわけでこの奴隷王朝という分け方はあまり好きになれないのです) 。
それ以外のインド (India) では、
地勢に拠って群雄割拠です。
モンゴルウルス (MongolUlus)
はチンギス=ハーンによって空前の大帝国へ変容しました。
金の大部分と西夏・カラ=キタイを乗っ取ったクチュルク政権・ホラズムを征服し、
キプチャク平原の諸部族も抑え、アレクサンドロス大王すら大きく引き離す大領土を得ました。
しかしこの大領土を統治することは
息子オゴタイや耶律楚材やヤラワチら名臣の手に委ねられることになります。
金 (Jin)
はモンゴルのチンギス=ハーン・ムカリに領土の大部分を征服され、
黄河流域に僅かな領土を残すのみとなりました。
一部には健闘も見られますが、最早滅亡寸前です。
一方、南宋 (SouthernSong) は
対応の失敗によってやがてモンゴルの攻撃を受けることになります。
高麗 (Koryu)
ではモンゴルの使者が殺害されるという事件が起こり、
間もなくモンゴルの侵略が始まります。
そして武人政権の下、長い抗戦の時代へ突入するのです。
日本 (Japan) では、
源氏の血統が絶え、北条氏による執権政治が始まります。
この時の執権は名政治家と呼ばれる北条泰時で、武家政治の基盤を固めました。
東南アジアでは、大越国 (Daiviet)
で李氏に代わって外戚の陳守度が甥を皇帝にし、陳朝を興しました。
この陳朝がモンゴルの侵略と戦うことになります。
カンボジア王国 (Cambodia) は
この陳朝大越のおかげでモンゴルの侵略を受けずにすんだようです。
しかし、パガン朝 (PaganDynasty) は
そうはいきませんでした。この頃はまだ気づいてもいないようですが、
やがてモンゴルの前に屈することになります。
アメリカ大陸、例えばマヤ帝国 (Maya)
ではさすがにモンゴルは関係有りませんが、平和を謳歌もしていられません。
「恐怖の帝国」アステカ帝国 (Azteca)
が興ったのです。このアステカは、中国の商 (殷) やアッシリアのように、
自分達が信仰する神テストポリトカのため周辺部族の人間を生贄に捧げていました。
侵略は激烈なものの統治はそうでもないモンゴルと比べてもタチが悪いと言えるでしょう。