けやきのつぶやき

                   

草土庵主のブログ

   草と土を友として    
   蘭 人 一 如   



2019.元旦 記


ご挨拶



みなさま明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

75歳のときに最後の個展を催しました。
遠方からも多くの鉢愛好家の方々が来てくださり、おかげさまで今までで一番よかったとの評価をいただき、
鉢作家冥利に尽きる幸せをいただきました。

その後1年休むつもりが、燃え尽き症候群というのでしょうか、やる気をなくして3年休眠してしまいました。

ネットショップは、お客様のご要望を受けて、昨年2月に2年ぶりに復活いたしましたが、その後も在庫の旧作で凌いでまいりました。
それでも多くのお客様の鉢への熱い思いに背を押される感じで、昨年後半から鉢作りに復帰いたしました。
まだ気持ちはあっても完全には勘が戻らず、細かい透かし鉢には往生しています。
今年はなにか新しいものを生み出して行きたいと念願しています。
うまくいったならば、ショップの上でご覧いただきます。

今年最初の更新、ショップ35は、久しぶりの新作綴じ目鉢です。
目標としては、5点位づつで毎月更新して行きたいと思っております。
どうぞよろしくお願いいたします。

                                                         欅窯 三橋俊治











2018.11.22記


寒蘭「鷲住」と「湖月」


ランの花の少ない時期、寒蘭が楽しませてくれている。
といっても管理能力とスペースの事情で、数鉢しかないが。

 「鷲住」は昭和48年、38才のときからの長い付き合いである(もう40年になるのだ)。
一時寒蘭への関心が薄れて機嫌を損なっていたが、ラン捨離が功を奏して、どの鉢にも平等に愛情を注げるようになったせいか、
今年久しぶりに笑ってくれた。
用土を土佐白根土に替えたのもよかったようだ。

 東京では名を知られていない寒蘭であるが(そもそも阿波寒蘭そのものが、土佐の陰に隠れて、東京では馴染みが薄かった)、
命名される価値のあるしっかりした赤花であると今にして思う。

 「湖月」は、寒蘭の世界の端っこに足を踏み入れた頃、誠文堂新光社のカラー園芸選書のカンラン」の写真を見て憧れ星になった銘品である。
もちろん当時は名のある寒蘭は、高値の花で、駆け出しの若造に手が届くものではなかった。

最高峰であった「豊雪」も今では花付きの株が、1万円でお釣りがくる時代である。
当時三越本店で、花茎2本を上げた「豊雪」が2000万円で出たのものが!その「豊雪」が、
40年後に我が家の棚で咲くとは、夢にも思わなかったことである。

 しかし我が家で咲いた「豊雪」は、咲かせ方や花色の違いがあるにせよ、昔初めて見た「豊雪」の燦然たる輝きは、まったく感じられなかった。
東京で初めて三越の高い棚に幻の寒蘭かんらん姿を現したという舞台、背景、値段札に沢山の0がついていたという驚愕が、後光をみせたのかもしれない。

長年恋焦がれ、そのうち記憶の底に沈みかけていた「湖月」に、一昨年ラン部会の寄贈品で出会い、焼けぼっくいに火が付いた思い出入手した。
しかも、嘘のような値で。

かつて高嶺の花であった寒蘭の銘品は、いまでは山裾まで駆け下りてきて、気軽に手を出せるようになった。
誰でも楽しめるという点ではいい時代ということもできるが、燦然と輝いていた星が落ちると、人の見る目もかわり、寂しいことでもある。











2018.11.6記


影を追いて


今年最初に咲いた寒蘭銀鈴を、居間の東側窓際の薬箪笥に置いて楽しんでいる。

 朝日が昇ると西側の壁にほんのいっとき銀鈴の影が映る。
影を見ていると、太陽の動きが見える。
意外と早く、影は間もなく消える。

 午後になると、我が家の向かいに駐車している、車のフロントガラスに反射した陽光が、
南面の壁に掛けた畦地梅太郎の浅間山を描いた版画の辺りに、銀鈴の影を作る。
2台の車の反射光が、2か所に影を作ることも稀にある。
駐車した車の位置と、太陽の位置がたまたまうまく噛み合ったときに起こる現象で、今回限りになるかもしれない。

 こんな、どうということもないことに、いっとき気持ちが和むのも、年のせいかもしれないと思ったりしている。

 
  

  右 寒蘭銀鈴                    朝日が作った銀鈴の影
 中 鉢作家に転向する前に作った徳利
 左 クラマゴケ オアシスに葉を挿すと皆活着する。
   


    
  フロントガラスの反射光による影 
                                                     2か所に現れた影 










2018.10.29記


鍋ラーメンの幸せ


今日のNHK朝ドラで、主人公夫妻がラーメンを食べるシーンを見ていて50年以上前のことが思い出された。

 結婚して、6畳一間、台所、トイレは共同というオンボロ屋に住み、長女も生まれていなかったときである。
夜中に腹が減って(夕飯を満足に食べていなかった?)、眠れなくなった。

 即席ラーメンを食べようということになったが夜中のこと、手を抜いて鍋からじかに食べた。
鍋の縁が熱くて、汁を飲みにくかった記憶がある。

 高齢になると味覚が退化するのか、何を食べても感激する程美味しいと思うことがなくなった気がする。
美食家ではないから、高級料理は食べないが、以前は好物のうな重に満足したのが、いまはこんなものだったかという気がする。
それでもうな重が贅沢な食事という思いが定着しているのか、時々食べたくなって、軽い失望をおぼえる。


何も具のない、即席ラーメンひとつを「美味しいね」といいながら、鍋から分け合って食べたのも、いま思い起こせば幸せのひとつの形であったのか。










2018.10.24記



カイジョウロウホトトギスとキイジョウロウホトトギス



カイジョウロウホトトギス(以下ホトトギスを略)は昭和51年6月に山梨県南巨摩群で発見され、東京山草会内では、
カイジョウロウの名で栽培されてきた。
いまでは、会の外でも知名度が上がり、各地で作られるようになった。

かつてはスルガジョウロウが、山梨県に飛んだと推測されていたが、最近になって、
キイジョウロウと同一ではないかという説が有力になってきた。
確かに両者を比べて見ると、姿・葉のつき方、形、花に外見上の差異は見られない。

我々趣味家は(というより私はとしたほうが無難か)DNAのことは分からないので、外見上区別がつかなければ、同じものと受け止める。
しかし、その来歴にこだわるという意味でやはりこの個体にはカイジョウロウの名をラベルに記したい。

1個体と思われていたカイジョウロウであるが、新たな自生が見つかったという話も耳にする。
そうであれば、キイジョウロウの隔離分布という可能性も出てくる。
カイジョウロウ=山梨産キイジョウロウというのなら納得して受け入れられる。
それでもやはりカイジョウロウの名は残したい。



         

     右キイジョウロウ 左 カイジョウロウ










2018.10.7記


トサカメオトラン再び


 ホームページの表紙にトサカメオトランを載せてから、間もなくパソコンが壊れ、その後の報告ができなかった。
大分間が空いたが、やっとその続きである。


 表紙の写真は消えてしまい、正確な撮影日が分からないが、8月中ごろの咲き始めであったと思う。

和名の由来は、葉を夫に、その影でつつまし気に咲く花を婦に見立てたものということは前に記した。
このときの姿は正にその通りで、花(婦)はうつむき加減で、葉(夫)の陰にひっそりと寄り添っている感じである。
ところがその後・・・。



8月21日 次々に花を咲かせ、それと同時に花茎が伸びてくる。

8月28日 花茎の高さが、葉と同じになる。

9月1日 遂に花茎が葉を越え、葉を見下ろすようになる。

9月9日 うつむいていた花茎頂部が上がり始める

今年は結実しなかったが、結実すると(子ができると)、とたんに頂部が直立してくる。
誇らしげに、自信に満ちて?

ここまで見た上での、この和名であれば、命名者はかなり捻りの利いた人物に違いない。
だが普通分類学者は栽培をしないので、標本を見た印象で名づけたに違いない。
それが結果的にメオトの真実を突いた和名として面白がるのは、我々後世の愛好家であるが、和名の由来も本当のところは分からない。


                
        2018.8.21                            2018.8.28

            
        2018.9.1                    2018.9.9










2018.10.5記


パソコン ダウン


 長いこと中断していたホームページを復活して、調子が戻り始めたと思ったら、パソコンが壊れた。
2016年までは、毎年年末にバックアップをとっていたが、昨年は気がゆるんで、そのままにしていた。
もう1年くらい大丈夫だろうという、根拠の無い思い込みが仇となり、17年以降のデータが失われた。これは痛かった。

 9月に入ってから、新しいパソコンが届いたが(息子に機種の選択を任せて)、中々使いこなせない。
新しい機種はより使い易くなっているだろうと思い勝ちだが、全く逆で、分からないことばかり。
いままで1回のクリックでできていたことが、散々回り道をしないとたどり着けない。
その度に迷子になる。
機械相手に喧嘩してもはじまらないが、パソコンを作る側は、初心者が悶え苦しむ様を楽しんでいるのではないかと、マジで腹が立った。

 弱り目に祟り目で、ふとしたことで軽い腰痛になり(若い頃なら1週間で治った)、1ヶ月もヘコヘコしていた。
もう使わないと思っていた(山歩きは諦めた)ストックが思いがけないところで役に立ったのは、嬉しくない活用であった。

 腰痛を経験した方はお分かりと思うが、パソコンも腰への負担が大きい。
そんな訳で、またまたホームページに空白期間ができてしまい、ご迷惑をお掛けいたしました。


 何とか腰痛も治まり、パソコンも喧嘩しながらも、どうにか使えるようになったので、
これからはポチポチ無理の無い程度にホームページを更新して行こうと思っている次第です。
よろしくおつきあいお願いいたします。











2018.8.12記


下駄


近頃気がつくと、子供の頃のことを追懐していることが多々ある。
年をとると子供に戻るというが、それとは違う意味で、先に進展することがなくなるので、思考が過去に向かうものなのだろうか。

 NHKの「チコちゃんに叱られる」という番組の中で、年を取ると何故時間が経つのが早くなるのか?ということを取り上げていた。
答えは、年を重ねる程にときめくことが少なくなるから、1年が短くなるという。
そんな気もするが、それだけではないような気もする。

 高齢になれば、進歩やときめきはなくなる。
したいことも、欲しいものも少なくなるが、日々発見がないわけではない。

中高年の頃は4,5年経つと自分か変わった(良い意味ではなく)と自覚するが、70過ぎると、2,3年で、75過ぎると年々、
喜寿を越えると、月単位で自分の能力があらゆる点で退歩して行くと自覚する。

就寝前に、翌日の予定を書いておく習慣がある。
筆に慣れるように、メモは筆ペンで書く。
つい最近までは、毎日5~6件の、翌日やるべきことを書いていた。

今は翌日の予定は、3件までにしている。それ以上はこなせないことが分かっているからである。
年とともに1年を短く感じるのも、幼少時に思いを馳せるのもそんなことと関係があるような気もする。

経験したことのない事態に日々向き合うのだから、これも自身に関わる発見の連続である。
あまり嬉しくない発見ではあるが、後期高齢者の域に入るというのは、こういうことかと、この先を考えると,ときに恐ろしさも感じつつ、
これが当たり前、多少の早い遅いはあっても、人間皆が通る道と納得しようと努めている。

同年の友もみな似たような感慨を持つようだから、当たり前のことなのであろう。
恐れることも、不安を抱くこともなく、心静かに、淡々と年と向かい合って過ごすのは、なかなか容易ならざることと実感する。

私は終戦から小学校を卒業するまで、北区十条の伯父夫婦の家で過ごした。
私には故郷がないが、十条が第二の故郷といえる。
1年から6年までクラス替えがなかったので、いまも年に何回かは集まりを持つ。

小学校2年生頃まで、遊ぶのも通学も下駄履きであった。
雪のときには、歯の間に雪が着いてそれが段々高くなる。
一本足の高下駄を履いたようで、足元がふらつく。
道端の石に下駄を蹴りつけて雪を落とそうとしらた、前の歯が欠けてしまったことがある。
左足は高下駄、右足は一本歯で、ひどく狼狽した記憶が鮮明である。
欠けた歯は、木工職人であった、伯父がそくい(続飯 ご飯粒を練って作った糊)でつけてくれて、叱られなくてすんだ。

下駄は走り回って遊んでいると、よく鼻緒が切れる。
今と違って、その頃の子供たちは、薄暗くなるまで、よく外を駆け回って遊んだ。
家から離れた場所で遊んでいたときに、下駄の鼻緒が切れた。
すると、一緒に遊んでいた年長の子供が、針金と釘を探せといった。
皆で道端をはいつくばって、針金の切れ端とさび釘をみつけた。
いま思うと、不思議だが、その頃はよく針金や古釘、ガラスのかけらなどが落ちていた。
ガラスの破片を集めて、くず屋に売って小遣いを得たこともある。
これは祖母にみつかって、「みっともない真似をするな」と叱られ、禁止されたのが不満であった。

下駄の話にもどると、年長の子は、切れた紐の代わりに針金を輪にして鼻緒にかけ、二本の先端を穴に通した。
下駄の裏に釘をあてがい、しっかり針金を釘に巻き付けて固定した。
このときに、針金の余分なところは、繰り返し右に左に曲げ伸ばしすれば、自然に切れるということも学んだ。
金属疲労という言葉は知らなかったが、道具がなくても針金が切れる理屈は理解できた。

指の股に針金が当たり、ちょっと痛かったが、また遊びを再開することができた。

私はこのとき、そこで手に入るもので、応急処置した知恵にいたく感心したものである。
それから自分で工夫して何かを作ることの面白さに熱中した。

父に連れられて行った温泉旅館で遊んだ、スマートボールを作ってみたくなった。
伯父が木工職人だから、必要な道具、材料は全部揃っている。
板にたくさん穴を開け、浅く釘を打ち並べ、ゴムひもでビー玉を打ち出すところまではうまくいった。
どうしても出来なかったのは、穴にビー玉が入ったときに、ビー球がジャラジャラでてくる仕掛けであった。

ボール紙でもいろいろなものを作ったが、当時セロテープという便利なものがなかったので、折り曲げた糊代を、糊づけするのに大変苦労した。

小学校高学年になると、工作部に入り、鋸、カンナ、鑿の使い方、刃の研ぎ方まで習った。
工作部の教師はやはり木工職人であった。
このときに習ったことは、後日陶芸の仕事場を持った時に大変役立ち、大抵の大工仕事は自分でできた。

最近池波正太郎の時代小説を、図書館で借りて読んでいる(1日の内読書で過ごす時間が増えていく)。
その中に幼児期の体験はその人の一生に大きな影響を与えるという意味の文に出会い、大いに納得した。

趣味から発した焼き物を業とし、手探りで鉢の世界に入って行ったのも、幼時の体験と一本につながっているのは間違いないと実感できる。
遊びと工夫が、もの作りを得意とする遺伝子を目覚めさせたのであろう。
勉強は嫌いで、宿題を故意に忘れたこともあったが、家で勉強を強いられたことはなかった。
淋しい小学校時代であったが、今にして思えばありがたい環境でもあったと思える。











2018.6.25記


オサラン


 梅雨明けにならない内に猛暑日である。
東京都心は32.6℃だが、我が家の2階の棚は35℃になった。
打ち水をして、扇風機を回した。

 この暑さの中で、オサランが咲いている。
古いバルブが櫛の歯のように並んでいる様が筬(機織り機の横糸を打ち込むための櫛の歯状の部品)に似ていることから、この和名がついた。

 愛らしい花であるが、惜しいことに花持ちが極めて悪く、咲きそろうのは2日間くらいである。
この2日の楽しみのためだけに、1年間水やりをしている訳ではない。
オサランの魅力は、和名の元になった、古いバルブが行儀よく連なっている様にある。
これは、オサランのバックバルブが10年位腐らずに残るからである。
これを2,3個ずつに切り離せば、それぞれから芽を吹く。
可愛いが、しぶといところもあるランである。
栽培は容易で、良く増える。

    

    同一個体が増えたものなので、        和名の元になった、オサランのバルブ
    一斉に咲きそろう。













2018.6.8記


新茶の香り


待望の新茶が届いた。我が家では、毎朝食前に煎茶をいれ、水と共に仏壇に供えてからいただくのが習慣である。
これは、仏壇を引き継いだ時に、伯父から必ず行うように強く言われてから続いている。

私は子供の頃から煎茶が好きで、お茶の時間にはいつも祖母や伯父伯母と一緒に飲んでいた。
祖母は「俊治はお茶の味がわかる」と、目を細めていたが、それほどの事でもなく、ただ何となく好きだっただけのことである。
もし当時ココアや甘い紅茶を飲む習慣があったら、そちらの方を好んだであろう。

毎朝煎茶を飲む習慣がいつごろから始まったのか考えてみると、結婚した当初からだったようだ。
その頃は食うのが精いっぱいだった筈であるが、よく煎茶を買う金があったものだ。
安いお茶だったであろうが、切らすのが淋しかったのかもしれない。

始めに住んだ6畳一間の間借りに落ち着いたときに(前記「会社やめてきた」の頃)、そこを紹介してくれた地主の隠居が様子を見に来た。
女房がお茶を出すと、隠居が
「美味いお茶だ。舌におどむ」と言ったのを鮮明に記憶している。

「おどむ」は淀む、溜まるの意味だが、お茶の味わいを「おどむ」と表現したのを聞いたのは、前にも後にも、そのときだけである。
三鷹あたりの言い方なのだろうか。良くわからないが、言い得て妙という感じがする。

 吉祥寺の借り家に住んでいたとき、隣地との境に茶ノ木が植わっていた。
一度だけ八十八夜のころに、葉を摘み取り、お茶を作ったことがある。
インターネットもパソコンもなかった頃にどうやってお茶の作り方を知ったのか記憶にない。
摘み取った茶の葉を蒸すと粘り気がでてきた。
小型のガス窯の鉄製の蓋を裏返して、ガスバーナーで熱し、蒸した茶の葉をその上に入れて、両手で揉んだ。
熱くて手の平が赤くなったが、その内に乾いて茶葉らしい形になった。
すぐに急須に入れて飲んでみた。
自分で作ったという思い入れがあったせいであろうが、これが感激的においしかった。
いまも女房と思い出しては懐かしむ話である。

 以前は吉祥寺のお茶屋で買ったお茶を飲んでいた。
銘柄で選ぶのではなく値段で決めていた。
その後静岡のお茶を取り寄せるようになり、味わいが一段上がった。
その後知人が送ってくれた三重県四日市市のお茶「おもてなし かぶせ茶」に二人して魅了され、以来愛飲している。
かぶせ茶は、茶葉の旨味を増すために、遮光ネットを掛けて栽培したお茶らしい。

今年の新茶も期待に違わず、まろやかで濃厚な旨味と香り、その裏に潜んだかすかな苦みが程よく、とろりと舌におどむ絶妙な味わいである。
一口含むと、思わず「アー」と声が出る。
妙な譬えだが、大汗をかいた後に冷たいビールを一口飲み込んだときに出る、あの声である。
二煎茶は全く味わいが変わり、透き通った苦みを感じる。
三煎茶まで味の変化を楽しみ、満足感から一日が始まる。

煎茶は好きであるが、通というわけではないので、特に凝るということはないが、道具は決まっている。
急須は備前の宝瓶、茶碗は女房が散歩の折に見つけた、伊万里専門の骨董屋で気に入って選んだ、八角染付の煎茶碗、湯冷ましは砥部焼の片口である。
金網のついた急須では煎茶の旨味は出ないようだ。

茶葉は7g程、湯温は55℃くらいがいいようだ。湯をさしてから2分間待つ。
割合せっかちなたちであるが、ここで急くと美味しくはいらない。
毎回茶葉の量と湯温を計るわけではないから、毎日味が微妙に変わる。
はっきり自覚している訳ではないが、もしかするとその日の天候にも左右されるのかもしれない。
お茶の味は一度限り、同じ味はないと感じる。
それがまた楽しみでもある。

わが屋では、コーヒーを飲む習慣がないからわからないが、コーヒー通も細かいこだわりがあるのだろうと想像はつく。

 仏壇に供えた茶も、捨てずに飲む。時間がたって、冷めたお茶でも旨味は残り、これもまたおいしい。
ここで終わりではない。
以前は茶殻も惜しがって、酒のつまみにしていた。
今はこのお茶屋さんに、佃煮もよいと教わり、自己流で佃煮にして、つまみの一品として楽しんでいる。
女房もこれが気に入り、ワインのつまみにしている。

 1週間分くらいの茶殻を冷凍庫に貯めておき、酒・牡蠣醤油・山椒漬け醬油(山椒の実も)・三温糖・だしの素などを適当に入れて、汁けがなくなるまで弱火で煮詰める。
これも結構時間がかかるが、大事な酒のつまみの一品であるから、手を抜かない。
茶葉がよいと出がらしを佃煮にしてもおいしい。

 ここまで煎茶を味わい尽くすのは、良い茶葉であるからはもちろんであるが、お茶を注文するときと、注文したお茶が届いたときの、わずかな接触から、
このお茶屋さんが、家族総出でお茶作りに掛ける愛情と、それを楽しむ客を大切に思う気持ちが伝わってくるからである。
業種は違っても、同じものづくりとして、仕事に向かう姿勢は同じであると、親近感と感銘を覚える。











2018.6.2記


野生ラン展

51820日上野グリーンクラブで、私の所属する東京山草会ラン・ユリ部会の野生ラン展が開かれた。
この展示会は2009年から14年まで、池袋西武百貨店屋上園芸売り場で6回開催。
その後1年休み、上野グリーンクラブに移って今年は第9回展である。


 毎回直前まで花期が合うものがない、出すものがないと、会員が皆弱気になる。
今年は特に例年より異常に早い開花だったので、予定が狂って戸惑ったが、ふたを開ければ立派な作が並ぶのも毎度のことである。


今年も多くの熱心な来場者に楽しんでいただけたと思う。
いつも感じることだが、ただの花好き以上に、野生ランに詳しい方が多く、
気合の入った作品(昨日今日植え付けたものでなく、一見して長年作り込んできたことがわかるものは作品といってよい)や、独自の栽培の工夫を評価していただけるのが嬉しい。
花がない展示でも、見るべきところを見ていただけるので、主催する側としては気が楽である。


会員が増殖した即売苗も、毎年人気があり、信じられないような、超地味でマニアックなランの増殖苗を求められる方が少なくない。
他では入手できないようなものに出会うと、手が出てしまうのは、同じランマニアとして良くわかる。




          
 

サイハイラン白花                  ヨウラクラン烏葉              イリオモテラン

個体の維持が難しいラン               密集した後が難しい



           
        
       ヤマトキソウ これも機嫌がとりにくい     コゴメキノエラン 国内希少種       クニガミトンボソウ 国内希少種
                                                  ヘゴ床栽培
 


         

             キンセイラン            アメリカトキソウ 丈夫でよく増えるが入手難  
 
           暖地では栽培困難な種           ドイツで増殖した株


    

      
       小町蘭


         

               ベニシュスラン

        ペットボトル栽培


      

                          ムカデラン



      


           ジガバチソウ ヘゴ床栽培               ミヤマウズラ ヘゴ床栽培













2018.4.25記


コオズ素心「緑苑」

 私が40代のときにエビネの大ブームが起こり、私も頭の天辺までどっぷりとエビネに浸かっていた。
当時東京のエビネ趣味界で、垂涎の的であったのが、「緑苑」であった。
地エビネ型ではなく、典型的なコオズタイプの素心は、他になかった。
多分その後も出ていないのではないか。


 発見者で、命名者の宮本寛氏と、エビネを通じて親しい間柄であったので、分けていただけたが、まともに買えるものではなかった。

 長い間栽培していれば、エビネの泣き所のウィルス症状が出て、泣く泣く処分したこともあったが、
ラン友の棚に危険分散してあったのが幸いして、里帰りしてきた。

 今ではエビネは数鉢しか作っていないが、最後まで残したい大名品である。


シランはウィルスに強い?

 先日若いラン友たちと、ラン談義の楽しい時を過ごした。
その中でウィルス病の話題が出た。
ウィルスは、ラン愛好家にとって、最も悩ましい病害である。

感染して一度症状が現れると、ほとんどの場合治まることがない。
植物の場合、一度ウィルスに感染すると治療法がなく、他の株への感染源になるので、処分されることになる。
あまり気にしない人もいるが。近頃は絶滅危惧種の保全ということもあって、なんでも処分ということもできなくなった。
その辺もまた、悩ましい問題である。

ラン談義のなかで出たのは、シランにウィルス症状が現れているのを見たことがないという話だ。
確かに鉢植えでも、地植えでもウィルス症状のシランを見たことはない。
私の散歩コースでも、庭にシランを植えている家は多いし、公園の花壇にも植えられている。
そういう場合、ウィルス対策を講じているとは思えない。
現に我が家でも、長年地植えにして放ってあるが、見た目には健全である。
シランも野生ランの一種、考えれば不思議なことである。

 ほかの野生ランもこれくらい気楽に作れたらいいのだが。
それとも多くの頭痛のタネを抱えつつランとつき合うのがこの趣味の醍醐味なのか、などど自虐的なことも考えてしまう。
悩み多き道楽である。

我が家のシランたち

 酔白花 花粉塊は紫
 
  


 純白花 花粉塊は黄色
 



 ブルー花
 



 ブルー花「紫式部」やや大型で、花も大味

 










2018.4.16記


会社辞めてきた

 昨年5月のことである。朝刊を読んでいた女房が、「世の中には同じような人がいるものね」といって、新聞を寄こした。
何の事だ?

 北方健三氏が、作家を目指してフリーターをしていた頃のことを回想して語っていた。
女房が目をとめたのは、「きちんとした仕事を持ったひとと一緒になれば楽かもしれないという気持ちもあり、大学の同窓生だった人と結婚したが、
(相手の方は)すっぱり仕事を辞めてしまった」という下りであった。

このときの北方氏の気持ちは、実感としてとてもよくわかる。
というのは、私にも同様の経験があるからだ。
24で結婚したとき、6畳一間、台所、トイレは共同というおんぼろ屋に住み、アルバイト生活で、食うに事欠くこともしばしばであった。
そんなある日、バイトから帰ると、女房からいきなり「今日会社辞めてきた」という言葉を喰らった。

北方氏も、文句を言うわけにもいかず、腹をくくって仕事をしたと語るが、
私も同様に、ケロッとしてそういうことをいう女房に文句を言うこともできず、ただただ唖然としていた。
こういうとき、大抵の男の反応はそういうものだと思う。
ここで文句の一言もいったら、男が廃るなどという大仰なものではないが。

私は会社勤めだけは絶対にしないと心に決めていたが(高校のときから)、その時は先に何の見込みもなく、腹をくくってする仕事もない。
これからどうやって食っていこうという不安だけがあった。

後で気づいたのは、女房は独身のときから、今日食べる米がないという生活に憧れていたので、それを実現するために会社を辞めたのではないかということだ。
まさかいくら何でも、独身時代に抱いていた憧れを実現するために、そういうことをするとは思いもよらなかった。
私に稼ぎがないないことを知っているので、当然会社を続けるという思い込みで、それについては相談したこともなかった。

結婚してから分かったが、女房は相当天然がかったひとで、食える見込みもなく結婚した私も、無責任といえば無責任、変なところが似たもの夫婦なのかもしれない。

翌年そんな状況のなかで、長女が生まれた。
朝一番にベビーベッド(おさがりの貰い物)の中のむすめに声をかけると、全身で喜びを表し、顔中口にして笑った。
膝に乗せて抱きしめ(口がきけるようになると、むすめはこのポーズをピッタリダッチといった)目と目を見つめ合う毎日。
子供というのはこんなにも可愛いものかと、当然のことだが、その時初めて知った。

周囲は驚き、かつ戸惑ったようだが、私にとっては4歳のときの310日に家庭を失って以来、初めて知った幸せな時間であった。
生きていてよかったと心底思った。
親子3人で身を寄せ合って暮らす幸福感は何にも代えがたく、以来女房は就職したことがない。
体面にこだわらず、多くを望まなければ何とかなると知ったのは、その後の人生に大いに役立った。

北方氏の話に戻るが、かつかつの生活のなかで、「女房は子供まで産んじゃった。愕然としましたねえ」と語る。この辺の反応は、我が家とちょっと異なる。

北方氏の娘さんがおおきくなって、母親に「どうして結婚したの」ときいたら、「才能を見抜いていた」という返事。

私も少し生活が安定した頃「どうして結婚したの」と聞いたら、女房は「何かやる人だと思っていた」という答え。
ちょっと似すぎた話である。


ピッタリダッチその後

むすめは、女児がうまれると、孫を私の膝に押し付けた。
自分と同じに、ピッタリダッチをさせたかったのだろう。
以来二人の孫娘は、高校生になるまで我が家を訪れる度にピッタリダッチをされて、困った顔をしていかったが、拒みはしなかった。
そのうち「もうサイズが合わないよ」言われて、ピッタリダッチは卒業した。
確かに孫たちは私の懐に収まらなくなっていた。
その後は会えばハグを強要している。
これも孫たちが結婚するまでのこと、じいじの楽しみを奪わないでほしい。


付記

鉢作家で野生ラン栽培家のブログらしくない文が多いと思いますが、それには理由があります。

ひとつには、ランにも鉢にも特に関心がなくて、このブログを楽しんでくださる方のため。
もうひとつは、欅鉢を愛好してくださる方々のなかでも、直接お会いしているのは極々一部です。
こんな人間が作っていますと、お伝えすることによって、また欅鉢を見る目が違うのではないかと想像するからです。

鉢は確かに私の分身のようなもので、それ以上説明の要はないという考え方もあるでしょうが、文はまた別な意味で綴る人そのものです。
私がなぜ鉢作家を目指したのか、直接ではありませんが、このブログから読み取っていただけることもあるかもしれません。
そんなことを考えるのも、私の仕事が一代で始まって、一代で終わるためかもしれません。
これからも駄文を綴りますが、よろしくお付き合いお願いいたします。










2018.4.15記


ことしの牡丹

 今年も牡丹が咲いた。
通り掛かりに我が家の棚を除く人たちの、一番人気の花である。
アンケートを取ったら絶対そうなる。
いつ咲いているのかわからないようなランが多い棚であるから、当然であると了見しているが。
たまに、フェンスの隙間から手を差し込んで、花に触れる人もいる。
その動機がよくわからない。

 通信教育のテキスト原稿を書いた縁で、お歳暮にいただいたものだが、我が家に居ついて20年くらい咲き続けている。
特別に世話もしていないのだが、中々の根性の持ち主と見た。

 宇江佐真理に、「深尾紅くれない」という、ボタンを熱愛する武士を主人公にした小説がある。
毎日自慢の牡丹の世話を欠かさない様を読むと、ちょっとばかり済まない気持ちになる。
ランの世話だけで手いっぱいの家に来たのが不運と、あきらめてもらうほかない。










2018.4.10記


柿とハナミズキ (写真:表紙)

 ハナミズキの花色が今年は濃いように感じる。
柿の新芽のやわらかな緑とともに目に優しい。


 ランの棚に頃合いの影を作るよう、ここに移ってきたときに苗木を植えた。

柿は樹肌が着生ランを着けるのに適しているので選んだ。
10種ほどの着生ランが居つき、セッコクやムギランは実生も育っている。


    



ナンゴクネジバナ

 朝鮮民具の薬箪笥は、わが家のお立ち台である。
季節のランが1鉢でも置いてあると目がなぐさめられる。
   

  
  











2018.4.3記


小指が痛い その後


小指の腫れは引いてきたが、爪の変形は治まらない。
爪の下に入った菌に薬が効きにくいようだ。
カビが元であるから、患部を乾かしておかないといけない。

炊事をするにも、植え替えをするにも、ゴム手袋をすると後の調子が悪い。
自然に小指を立てて、患部に触れないよう、濡れないように気をつかう。
完治したあと、小指を立てるのが癖になったらヤバいと気に病むこの頃である。

また色について

 むすめに靴下を買ってもらった。むすめが選んだのは赤い縞と青い縞の柄だった。
いままで靴下といえば、グレーか茶系、黒などばかり。
靴下は履いていればよいという感じで、色を意識したこともない。

 若い頃朝がいやだったのを引きずってか、いまも朝は気が重いことがあるが、
履いたことのない派手柄の靴下を身につけると、何となく気持ちが華やぐ。

 むすめが来たときにそれを言うと、「そう思って選んだんだよ」と言った。
中学から美校に通っていたむすめは、色合いが気分に及ぼす効果を学んでいたようだ。


    












2018.3.31記


春の山野草



春の先駆けを告げる山野草が盛りを過ぎると、桜とともに春の花が咲き始めます。
そう言えば我が家の棚で、ラン科植物以外は、春の花ばかりだということを、今年初めて自覚しました。
多くの野生ランが、休眠から目覚めて、芽を出し始めるころに花を咲かせて、
冬の終わりを実感させてくれる花たちに、無意識に惹かれていたのかなと思います。
それに春のランたちが咲き始めるまでの、間を埋める草花がほしかったのかもしれません。

写真右手前はシラネアオイ。
この山草は、寒冷地で生産した株を花時に購入しても、東京ではほとんど夏を越せません。

しかし実生をすれば、東京の気候に適応できる個体だけが育ち、簡単に栽培できます。
写真の株は、“帝系”(花色は濃いが花が開かない)と、やや濃色の北海道のタネの実生株を交配し、
濃くて開く花を狙いましたが、咲いたのはごく普通のシラネアオイでした。
タネを播いてもなかなか思い通りには咲いてくれないものです。
東京の猛暑にも耐えて毎年咲いてくれるので、ランが大きな顔をしている我が家の棚でも、それなりの地位を得て、可愛いがられています。

左手前はカタクリの白花です。カタクリは鉢では咲かせにくいと言われていましたが、
東京山草会の大先輩が、砂糖水を与えればうまく作れるということを発見しました。
いまは砂糖より水に溶けやすく、用土を固まらせないブドウ糖が使われています。
12月頃から、葉が落ちるまでブドウ糖と肥料を混合した水を潅水代わりに与えていれば、よく増殖し、毎年花を楽しむことができます。

左奥は滋賀県産のイチリンソウです。イチリンソウも鉢植えでは花をつけにくいと聞いていました。
この個体は毎年良く咲いてくれるので、良い系統の個体かとおもって、「志賀」という個体名を与えましたが、特別の個体ではないようです。
カタクリと同じに扱えばよく咲くということがわかりました。
生長期間の短い、これら早春の花は、肥培さえすれば難しいことはないようです。
昔は山野草に多肥は禁物、控えめにという”常識“が邪魔をして、うまくいかなかったのでしょう。

            













2018.3.25記


小指が痛い


 といっても色っぽい話ではない。
当方あと半年で78歳になる身なので、関心を持つ色といえば、ランの花色と、鉢の焼き上がりの色くらいである。

 2月上旬に、不注意で右手小指の爪の元を引ん剝く怪我をした。
いつものように、マキロンで消毒して、クロマイ軟膏を塗り、バンドエイドを巻いておいた。
いままでは、軽い怪我ならばこれで治まっていたのだが、今回はそうはいかなかった。
傷口は間もなくふさがったが、赤く腫れあがり、爪の下にも血がたまったような赤黒い斑点ができた。

 半月ほどたっても治らず、腫れが広がっていくので、行きつけの皮膚科に行った。
医師は細菌による化膿と判断したようで、クロマイ軟膏と抗生剤を処方してくれたが、その後も腫れが引かない。

次週、感染した菌を調べましょうということで、検体を取るために、ニッパーで爪を削ろうとしたが、うまくいかない。
「ドリルで穴を開けます」といわれたときには、背筋が冷えた。
医師が取り出したのは、手工芸に使うような小型ドリルで、先端が球状のものだったので、強い痛みはなく安堵したが。

 2週間後に判明したのは、ガンジダということ。
ガンジダといえば、性行為で感染する、性病の原因菌として知られるが、もちろん色に無縁の私の場合は、皮膚病である。
ガンジダ自体は皮膚表面によくみられるカビの一種という。

 原因が分かって薬も変わり、テープを貼らずに乾かすということになったが、時期が悪い。
ランの植え替えの適期であり、順番を待つ鉢が待機しているが、中々着手できないでいるうちに、次々に新芽が伸び出した。
ランは待ってくれない。仕方なく指を気にしながら植え替えをしているがはかどらない。

 こんな失敗を敢えてブログに載せるのは、高齢になり免疫力が落ちると予想外のことが起きるということを、同年代の読者に伝えたいからだ。
ちょっとした傷でも、軽く見てはいけない。
私の知人にも小さな傷がもとで、2週間も入院したひと、腕が丸太棒のように腫れ上がったひとなどがいる。
怪我をしたら、素人判断しないで専門医の治療を受けるべきということを痛感したことであった。
間もなく2か月になるが、爪の形も変わって、赤い腫れも小指を一周してまだ完治していない(悪趣味の誹りを受けないよう写真は載せない)。
ロクロ成形には小指も使うので、鉢作りもできない。もう春なのに・・・。










2018.3.18記


春告げ花



 長い間野生ラン栽培に嵌り、斑入り・花変わり等の変異個体にこだわり、夢中で集めてきた。
元々コレクション癖があったらしい。
コレクションというのは、火がつくと際限がない。
おまけに同趣味の人間が集まっている会に所属していたので、互いに火に油を注ぐような交わりを続けてきた。

 そんな自分であるが、近ごろちょっと風向きが変わってきた。
野生ランも栽培も好きであるから止める気はないが、だいぶ鉢数は絞ってきた。
それとともにコレクション意欲が減退してきたように思われる。
早い話が年を取って管理能力、集中力が落ちてきたことを自覚した結果であろう。

 知らぬ間に身についていた、ラン以外の植物を見る目の濁りも薄らいできたようだ。
一般的な価値観からすれば、観賞価値はゼロに近い超地味な種であっても、希少種であればマニア(ランオタク)は特殊な目で見る。
その反面ありふれた山野草だと、美しい花を美しいと感じる感性も鈍っていたように思う。

 ところが今年は野生ランの芽が動き始める前、まだ肌寒いなかで咲く早春の花たち、イチゲ類などの可憐さ、美しさが心に浸みた。
特に鉢栽培より、気が向けばたまに化成肥料を播くくらいの事しかしないのに、毎年増殖して、春を告げるように咲き競う、地植えの花たちにこころ魅かれた。

 そういえば、私が20代で植物栽培に手を染めたのは、山野草であったことを思い出した。
庭の広い借家に住んでいたので、地植えも楽しんだ。
ランに傾斜していったのは、エビネがきっかけであった。
「鮒に始まって鮒に戻る」ということでもないが、この嗜好の変化はやはり年齢に起因するように思える。
三鷹に住んでいた物故作家が、エッセイのなかで、「高齢になると、それまで見えなかった女性の美しさが見えてきた」と言っていたが、そんな感じであろうか(違うかな?)。
ちなみに春告魚はニシンの異名であるが、ランを魚に譬えると何であろうか。


        
        カイコバイモ                                コシノコバイモ


     
          セツブンソウ                              ユキワリイチゲ


   
       キクザキイチゲ














2018.3.11記


オキナワチドリ無点花'Ohnuki'


東京山草会ラン・ユリ部会会友O氏選別の優良個体。
増殖が抜群によく、増え
過ぎて困るという。
花付きも良好。
丹波7号浅鉢に70球植えつけた。

 居間の東側窓辺、薬箪笥の上で春の香を放っている。
これだけの数咲くと匂い
も強い。
芳香とはいえないのが残念だが。


      
         オキナワチドリ無点花'Ohnuki'










2018.3.7記


金メダル


 冬季オリンピックの受賞者の、喜び感激の表情をテレビで見ていて、
2002年イギリス王室園芸協会(RHS)主催のロンドンオーキッドショウの鉢展示で、受賞したときのことを想起した。

 初日に関係者らしい女性が、ゴールドメダルの押し型と金文字の入ったカードを黙って置いていった。
私たち(私と女房)は招待されて欅鉢を展示したが、審査を受けるということも、賞のことも全く知らなかった。
あとで思えばうかつなことだったが、準備だけで手いっぱいで、
協会やオーキッドショウについては、50年(当時)の歴史を誇る、世界で最も権威あるラン展だというくらいの知識しか持っていなかった。

であるから、受賞を知らされても、特別な感慨はなかった。
ただ世界に冠たる園芸王国(帆船の時代に想像を絶する犠牲を払って熱帯雲霧林のランを持ち込み、日本で言う洋ランの趣味を根付かせた国)であるが、
鉢については関心も歴史もない(植物と鉢との調和を鑑賞するという文化がない)イギリスで、
RHSが、鉢だけの展示を例外的に、そして初めて評価したということは大いに喜んだ。

そして日本の伝統園芸鉢を目にしたイギリスの園芸愛好家たちが、
東の外れの小国(その頃日本人はウサギ小屋に住み、働くばかりで、園芸文化とは無縁の人種とみなされていた)がこういう文化を180年も前から確率していたということに
、ショックと感銘を受けているのが、手に取るように分り、誇らしく感じた。
そして、それを今に受け継ぐことを業としていることにも。

 翌日だったか、翌々日だったか、受賞者の名と、展示名を刻した、金メダルの実物が届けられた。
予想したのより大きく、持ち重りがするものだった。
この展示を世話してくれたY子さんの説明によると、オリンピックの金メダルよりずっと数が少なく、金メッキではなく、金の含有量もずっと多く、こちらの方が価値が高いという。

 すごいものをいただき、大変名誉なことと思ったが、オリンピック受賞者のような涙の受賞とは程遠いものだった(RHS審査員には申し訳ないが)。
このほかにも、もっと価値ある賞も併せていただき、当時日経新聞ヨーロッパ支社長だったH氏は、私が帰国後時の人になると思われたようだったが、
全くそういうことはなかったのは、みなさんご存知の通りである。

 オリンピック選手はメダルを目標に、涙ぐましい努力重ねて競技に臨んでおり、メダルを持つか持たないかが、その後の人生にどれほどの違い生むかをよく知っている。
一方こちらは受賞もメダルのことも当日まで知らなかったのだから、思い入れに大きな違いがあって当然である。
また、オリンピックは日本国中の関心事であるが、園芸に対する社会的関心が、日本ではイギリスと比較にならないくらい軽いことを思い知らされたことであった。


        














2018.2.24記


すずこ


昨年のことである。
2階作場に雀が来て、水冷鉢の水や、ラン鉢の受け皿の薄汚れた水を飲んでいるのを見かけ、別の受け皿にきれいな水を入れて置いた。
子供の頃十姉妹を飼っていて、1日水が切れると死んでしまうことを経験していたので、さぞ喜んで飲んだり、水浴びをしたりするかと思ったが、
意に反して雀たちはそれには見向きもせずに、やはりラン鉢の受け皿の水を飲んでいた。

 気まぐれに大きめの受け皿に、残りのご飯粒を入れてみた。
ベランダの南はしで、居間からも離れているので、警戒心の強い雀たちも、すぐに見つけて食べに来た。
毎日やっているうちに、食べにくる雀の数が段々増えてきた。

 雀が餌をついばむ姿は可愛い。
もっとそばで見たくなり、餌皿の位置を少しづつ居間に近づけてみると、警戒しつつも餌につられて雀たちが近づいて来た。
2か月位かけて
5メートル程移動、居間のサッシから20センチ位の位置まで移動し、間近で雀たちの食事する様を見られるようになった。
その内警戒心も薄れてきたようで、室内で人影が動いても逃げなくなった。
餌を切らすと、催促するように、ベランダの手すりに止まったり、餌皿の周りを歩き回ったりする。
しかし警戒心の薄いキジバトとは対照的に、臆病な野鳥であるからそれ以上に馴れるということはない。
都内には、人の手から餌を食べる雀が居るというのを何かで読んだ記憶があるが、三鷹の雀はそこまでは人に馴れないらしい。

 春には小雀が一緒に来て、親に甘えて、頭を低くして羽を揺すり餌をねだる姿が愛らしい。
餌が乏しいであろう雪の日には、いつもより多めに与えた。
飯粒以外にも、クッキーや餅、出しを取った後の鰹節なども好むが、なぜかパンの耳は食べない。
雀にも味覚や嗜好があるのだろう。
何にしても、雀の口にあうように細かく刻むのが手間である。

 餌場の情報が伝わるのか、下連雀という地名に相応しく、連れ立って来る雀の数も徐々に増え、10羽以上が餌を取り合って争ったりもする。
何をしても可愛い。
雀の個体識別はできないので(背番号でもつけたいが)我が家にやってくる雀は、すべて「すずこ」と呼んでいた。

 その内当然予想すべきであった(が考えていなかった)弊害が目につくようになった。
 食べればお土産を置いてゆくのは当然の理である。
あちこちに点々と白い汚れが目につくようになった。
困るのはラン棚の、夏によしずを掛ける桟に止まった雀が、棚の上に糞を落とすことである。
いまはランの鉢はブルーシートで囲った風よけの中に置いているから実害はないが、ランの葉にフンを掛けられては困る。
新芽に掛けられれば、病気も出かねない。

 ほんの出来心で、すずこたちに一時よい思いをさせて(依頼心を起こさせて?)、突然やめるのはちょっと心苦しいところがあるし、
すずこたち採餌の様子を間近に見られなくなるのも淋しいが(高齢になるとこういう小さな楽しみにも癒される)、ランのためには代えられない。
すずこたちも察しがよいらしく、あまり近づかなくなった。
居間から離れた元の位置に受け皿を戻し、たまに申し訳のように鍋窯を洗ったときにでる飯粒を入れておく。
群れで来ることはないが、飯粒はいつの間にかなくなっている。




         













2018.2.10記


スピランテス ケルヌア


 北米産のネジバナで、山草店では、「アメリカ白ネジバナ」の名で売られていることがある。
日本のネジバナの白花は希少で、結構値が張る。
北米には、ネジバナの種が非常に多く、そのほとんどが白花であり、種の同定は難しいが、日本で入手できるのは
ケルヌアと思っていいと言えるほどこの種が普及している。
日本に導入されたのは、野生ランとしてではなく、淡水魚を飼育する水槽に入れる水草としてだと聞く。

 花茎の高さは、30~50㎝(作り方による)と大型、花も子房から先の長さが1.5㎝程で、日本のネジバナと比べてかなり大きい。
捩じれはゆるい。
大味と言えば大味、日本のネジバナのような可愛らしさ、可憐さはない。
というと形無しであるが、よいところもある(だから作っている)。
丈夫でよく増えること(増え過ぎる嫌いがあるが)、野生ランの花の少ない秋から冬にかけて咲くことである。
写真の株は10月末に咲き始め、3ヶ月も衰えも見せずに咲き続けた。
もう十分と花茎を切って植え替えたが、切り花はまだしつこく(これはケルヌアには内緒))咲き続けている。


よく増えるのは、根の先端部に新芽を生じるためである。
こういう性質はネッタイラン属など他のランでも知られているが大家族のラン全体から見れば、きわめて稀である。

 分布は広く、北米大陸を十文字で4分した南東部、メキシコ湾沿いから、カナダ国境の五大湖周辺まで及ぶ。
このためか暑さ寒さに強く、環境適応力が大きい。
戸外でも、室内の明るい窓際でも長く花を楽しめる。

 自生環境は湿地帯で、水を好むので、どっぷり腰水にしてもOK.用土も渇き過ぎなければ特に選ばない。
私は魚の趣味はないので、その手の店で売られているのを見たことはない。
水草をして扱えるということは、完全に水没させても死なないということらしい。
ラン科の水草というのは稀有な存在であるが、私は何となく抵抗があり、まだ水没栽培をしたことはない。


  スピランテス ケルヌア