けやきのつぶやき

                   

草土庵主のブログ

   草と土を友として    
   蘭 人 一 如   


2015.7.23記


久しぶりの高山のラン


ある会の自生地見学会で、北関東の山に行った。
事前に情報収集して、あまり厳しくないコースということで選んだ場所である。
この会は登山が目的ではないので頂上まで行くことはないが、いつも案内書のコースタイムの2~3倍の時間がかかる。
平均年齢が高いのと、格好の被写体(ラン)に遭遇すると、撮影の順番待ちになるためである。
ちょっと珍しい種であったり、見事な群落であると、花がなくても通過するまでにかなり時間を要する。

目立って体力の低下している自分が、今回は目的地まで到達できるか一抹の不安があった。
行ってみると、案の定かなりの難コースで、高齢者には危険な場所もある。
宿の主人がしばしば事故が起きるといっていたのも納得できる。

行けども行けどもこれといったランが出てこない。一同の疲労の色も濃くなる。
このまま目的のランをみられなかったら、このコースを選んだ私の立場も微妙なものになるという不安がいや増したころ、先頭集団から「オノエランがあるよー」という声が上がった。

久しぶりに自生地のオノエランに出会えたという喜びと、これで参加者に何とか納得してもらえるという安堵が、半々の瞬間であった。
みなランさえみればご機嫌の面々である。

更に行くとテガタチドリが次々と出迎えてくれ、さらに今回の主目的であるニョホウチドリが群れ咲いていた。
テガタもニョホウも今までに見たことない濃色花ばかりである。
一同夢中でシャッターを押し続ける。
しかし、余りに強い日照で、デジカメの液晶が真っ黒で、全く見えない。

ここで昼食にして、一同大満足で帰路についたが、帰りの道のつらいこと。
重い足をひきずって、ふらふらになって下山した。
あとで思えば、ランを見たい一心とはいえ、よく登れたと思う。
少し自信が持てたが、高齢会員たちから、「こういうコースは今回限り」と釘を刺された。


  オノエラン 今まで見た環境とは違って、灌木の下で咲いていた
  


  テガタチドリ 実物はもっと濃い紫だが、この色は写真に写りにくい。
  


  ニョウホウチドリ 光線が強すぎて、良い写真が撮れなかったのが残念。
  













2015.7.7記


赤と黄


 私の気に入っている長生蘭の話である。長生蘭は新芽の生長中が一つの見頃で、紅が乗る品種は、特にこの時期が美しい。
この色素はアントシアンなので、発色に日照の影響を受けるが、以下の紅斑2品種は雨の多い今年も十分目を楽しませてくれている。
3品種共に最近世に出たものである。


紅紫丹


 以前にもブログに載せた記憶があるが、その後調子を崩していた。
ほんのちょっとであるが、気持ちがほかにそれたのを見透かされた結果である。
反省して手当てに努めたら、機嫌が直って急に回復してきた。
セッコクはこういうところが真っ正直である。
以前より鉢数は大分減っているのだが、すべてに均等に愛情を注ぐというのは結構むずかしいものだ。

「紅紫丹」の個性は、夏から秋になっても、紅が消えないことである。
多少薄くはなるが、前年の葉にも紅が残る。
齢を重ねて若い頃の色気の気配を残す女性のようで、大変好ましい。


錦紅殿


 「紅紫丹」が紅覆輪であるのに対しこちらは逆の紅中斑である。
「大隅紅」という、新子の葉と矢に濃い紫色がのる品種が親で、ここから白中透けの変わりが出た。
葉緑素の抜けた、中透けの部分が濃い紅色となる。
この紅は徐々に消えて行き、前年の葉は鮮明な白中透けとなっている。

長生蘭は全般に供給過剰の気味で、2品種ともに手ごろな価格で入手できる。
この世界、価格と鑑賞価値は無関係で、安くても美しいものは美しい。


冠月


 黄中透けで濃黄色の飴矢に加えて黄花という多芸な品種である。
3月に植え替えが集中して間に合わないので、手の掛る長生蘭は徐々に減らしているが、これは最後まで残るであろう。
鉢掛けの中でも鮮明な黄色が目立つ。

 前2品種よりはちょっと値が張るようだが、1回の飲み代位で黄金の長生蘭が手に入るのだから安いものである。


          紅紫丹                     錦紅殿 
  
       


           冠月

   










2015.6.25記


ナゴラン


 着生ランには深く愛着を覚える。
超地味で、肉眼では花がよく見えないほど小さいクモランにいたるまで、何でも好きだ。
ムギランやモミランなどは、花よりも木や石にくっ付いている姿が何とも好ましい。
こういう常緑の着生ランは、1年中いつでも楽しめて見飽きない。

 ナゴランは、いかにも南方系という感じの、肉厚でやや大型の葉を持ち、これはちょっとしまりがなく、だらけた感じがしなくもない。
そのかわり、花は美しく、香りも良い。
もう一つの見どころは根である。
花の頃に、うどんのような太く白い根が伸びて、着生物にくっつき、体を支える。
生長中の根の先端は、淡い緑色を帯びた半透明で、盛んに伸長を続ける根を見ると、今年も機嫌よくしているなと、満足感を覚えるのである。

 着生ランは、ヘゴに付けるのが定番の栽培法で、これは確かに安全で、楽な栽培法であるが、風情・鑑賞の点からみると面白みに欠ける。
そこで最近は、木の枝や石などにつけて楽しんでいる。
活着するまでの1年間も、その後の管理もヘゴよりは気を使い、手も掛るが、それも楽しみの内である。

 ナゴランは、無菌培養による増殖苗が多量に出回り、好ましいことではあるが、
生産者が派手で目立つ花を親に使うためか、野生ランとしての風情に欠けるものが増えたように思える。
これはナゴランに限ったことではないが。
ランも人も、普通でないことが評価され、普通であることの大切さが、失われていくように思えるが、考え過ぎであろうか。


ナゴラン 標準的な個体。松の枝につけて5年程たっている。ほとんど増えることのないランである。

  


  柿の木につけたナゴラン。冬は寒さ除けに梱包材のプチプチで覆うが、ぎりぎりで生きている感じ。下はカシノキラン、こちらの方が耐寒性があり、増えている。

  


  最近流通している無菌培養のナゴラン。賑やかでけばけばしい。昔は稀にこういう花が出ると、喜ばれたものだが。
  


  伸長中のナゴランの根。
  


キバナノセッコク


 セッコクの遅咲きの花も終わり、一段落するとキバナノセッコク咲き出す。
セッコクにごく近縁のこの種は、花色のバリエーションは少ないが、セッコク以上にこだわりをもつ愛好家が少なくない。

 セッコクは要領を覚えてしまえば、特に気を張らなくてもできるし、よく増える。
キバナノセッコクの方は、分布も狭く、個体数も少ない。
であるから当然変異個体の出現も稀である。栽培困難というほどではないが、気を抜けない。
増殖もセッコクよりかなり悪い。
キバナノセッコクの斑入りが珍重される所以である。

 昔のように野生ランの変異個体に対する強いこだわりはなくなって、収集意欲も余りない。
それより普通の個体とうまく付き合い、安定的に増やすことに関心が向いている。
それも散々散財した後に到達した心境であるが。

しかし20年以上も前から憧れの的であった、キバナノセッコク白中透けの「舞鶴」に対する憧憬の念は消えずにいた。
花も中透けの高級品種である。昨年機会があって入手できたが、初歩的な誤りで枯らしてしまった。

新子が多数出たのを、あわよくばという欲を出して、様子を見ているうちに共倒れになってしまった。
小株に多くの新芽が出たら、優勢な一つ二つを残して他を掻くというのは常識である

このときは、「舞鶴」を提供してくれた人が気の毒がって、次に来訪されたときに、だまってもう一株を差し出してくれた。
いい人なのだ。今度は2芽が元気に生育している。

高嶺の花に手が届いたために、判断を誤るということは、ラン栽培でなくても、世間に往々にしてあることである。
深く自戒した。


キバナノセッコク 屋久島産の小型個体。ヘゴづけ。
 


  同石づけ。
 


  キバナノセッコク「舞鶴」
 


  キバナノセッコク 「神衣」近年現れた人気品種。
 


  キバナノセッコク素心 15年作っているが全然増えない。
   キバナノセッコクにはときにこういう体質の個体がある。
 












2015.6.21記


長生草 最終回


今回で、「長生草」全ページ掲載を終了した。
予定以上に時間がかかってしまったが、約束を果たせてホットしている。
私が知る限りでは、書籍で、あるいはネット上で、全ページが掲載されたことはないと思う。
図書館、研究者、また愛好家の間に、現在8冊「長生草」が保有されていることが分かっているので、私の知らないところですでに発表されているのかもしれない。

 この企画を始めるにあたって、他の所有者の気持ちを忖度し、少しためらうところもあったのだが、
これよって「長生草」の古書としての価値に影響を与えることはないと確信して実行したということを付け加えておく。

関心を持って見てくれた方がどれくらいいらしたのか、役に立ったのか、その辺の感触はまったく分からないが、
いつか、どこかで活用されることもあると思って、締めくくりとする。


    



      


      


      










2015.6.19記


長生草17 扉 序 附言


 前回で掲載品種の色刷り図版は終了したので、今回から一色刷りの部分に入る。
一度に全部掲載の予定であったが、表紙も含めると20枚になるので、2回に分けることにした。
今回は扉、序、附言に品目の冒頭までを載せる。

 読み下し文までつけたいと思ったが、わからない崩し文字が多く、空白部分がたくさんできてしまいそうなので、断念した。
書の専門家に見てもらっても、書き手の癖の強い文字あるため、判読できないところがあるという。
園芸書であるから、故意に難解な書き方をしたはずがない。
当時の人たちはこれをすらすら読めたのであろう。

見開きページを広げてスキャンしたため、閉じ目の部分の文字がぼやけているが、
和綴じの本書をばらしたくなかったので、ご容赦願いたい。
次回で完結の予定である。


    


    


    


    


    













2015.6.11記


カキラン


 今年はランが全般に生育良好である。棚を見廻る時間が多くなったからだろう。
ランは栽培管理者の動向に敏感に反応する植物であるから。

 良くなったり、悪くなったりを繰り返してきたカキランも、今年は全て好調である。
ひとつは、冬の休眠中の植え替えを止めたためと思われる。
これはカキランに限らず、すべてのランを、3月中過ぎから植え替えるようにしている。
当然短期間に集中的に行うようになるが、カキランは芽の動きが遅いので、最後に植え替えることになる。
このままずっと上り調子を持続してくれればよいのだが。

 数年前に、カキランの烏葉と黄花を、スペース節減のために同居させた。
それぞれ増えたら一戸建てを与えるつもりだったが、そのままになってしまった。
濃淡対照的な花が混ざって咲いているが、これはこれで悪くない。

 植え込んだときはどちらも2芽位だったと思うが、黄花がよく増えているのに対し、烏葉は増えが悪い。
性質が弱いのか、黄花との同居を嫌っているのか、このまま同居を続けさせて様子を見ることにする。

 好調に乗じて、以前失敗したことのある、赤花「加賀の緋」に手を出した。
美しい濃紅色のカキランであるが、弱いという印象を持ち、控えていたが、その間に価格もだいぶこなれていて、花付株が頃合いの値で入手できた。
4、5本立で咲かせてみたいが、その頃は今の値で4、5本買えるようになっているかもしれない。
この世界、そういうものである。


ネジバナ


 ネジバナもまた、作が安定しにくいランである。
ランの住みにくい都会でも雑草化しているので、一般には作りやすいと思われがちであるが、なかなか手強い。
芝生に群落を作ることは、よく知られているが、これは実生で広がっているので、株が増えているわけではない。
鉢で作っていても、他の鉢にタネが飛んで、よく発芽する。
短期間に世代交代するランなので、同一個体を長く維持するのは難しい。

 近所のひとが、庭のネジバナを1本掘って、持って来てくれた。芝がついていたので、そのまま植え込んだ。
芝が隣のネジバナの鉢にも入り込み、それぞれ機嫌よさそうに見えたので、いまは他のネジバナの鉢にも、芝を共に植えている。

 芝生でよく増えるということは、ネジバナと芝は相性が良いと言えそうである。
多分芝生にはネジバナの共生菌がたくさんいるのであろう。
ここまでは野生ラン栽培者なら誰でも知っていることであるが、ネジバナと芝を混植するというのは、聞いたことがない。
このまま調子を落とさず、5年以上増え続ければ、私のアイデアを笑ったひとたちも、芝混植の有効性を認めざるを得ないであろう。
秘かにその時を待っているが、なかなかそう単純でないことはよくわかっている。
気持ちを先につなげていくことが大事なのだ。

 高齢になると、楽しみが少なくなる。
小さな楽しみを見つけて、積み上げていくことが大事に思われる。



             カキラン黄花と烏葉                                        カキラン赤花「加賀の緋」 
             


         芝と混植したネジバナ

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2015.6.4記


気まぐれなネジバナ


言葉使いに厳しい方ならば、このような曖昧な表現を是としないであろう。
ネジバナという植物が総じて気まぐれだと言うのか、たまたま気まぐれなネジバナの個体のことを言っているのか、どちらにもとれると言われるだろう。
それは承知に上なのだが、書いている本人にも、どちらなのか分からないのだから困ってしまう。

 写真のネジバナは、ちょっと変わったところがあり、昨年は枝咲き(花茎が枝分かれする)だったが、今年はそれはない。
ただ、茎上部の包葉が、茎を巻くように捻じれているところに、変りものの片鱗をのぞかせている。
全体に大型で、茎はたくましく60㎝以上に伸びている。

 気まぐれというのは、同じ株から出ているのに、花のつき方が全く違う花茎が混じっていることである。
写真のように、1本は普通に1列に連なってつき、他は2~3花づつかたまって、段を切るようについている。
五重塔の天辺についている、九輪のようである。

 それぞれの咲き方は別に珍しいものではなく、ちょっとした群生地に行けば花が捻じれてつくもの、一直線に咲くもの、段になるものなどを容易に観察できる。
いままで見たのは、異なる個体で別々の咲き方をしており、そういうものだと思っていた。

 ネジバナの捻じれかたには、右巻き左巻きがあり、これは遺伝的に固定した性質ではないことが知られている。
何か外的な要因で決まるのか、またはまったくの気まぐれで右にまいたり、左巻きになったりするのか。

 今回のこのネジバナの例で、巻き方だけでなく、花のつき方も個体ごとに、遺伝的に決まった性質ではないということがわかった。
やはりネジバナは少々左巻きのランであり、こういうものを真面目に何鉢も栽培している人間も、相当左巻きといえそうである。

     











2015.6.2記


油断大敵


 ドクダミに殺菌効果のある成分が含まれているということを知り、ネットで調べていたら、ドクダミ茶の情報が目に入った。
昔から十薬の名で(十の薬効がある)、漢方薬として用いられていたという。
邪魔にしている草で、いいこと尽くめの茶ができるならということで、開花中の株を引き抜いていたら、狭い所で腰をひねり、アウト。

 このところ仕事をしないので、腰も肩も好調だったが、久しぶりに腰痛に。
軽かったが治るまで5日かかり、女房には軟弱といわれ、つまらないことになった。

 横になっていると、子供のころに遊んだいろはかるたに、「油断大敵 火がボウボウ」という札があったことを思い出した。
腰痛も大抵は油断から発する。自戒せねば。


ヒナラン


 つまらないことを書いたが、久しぶりにランの話を。

 ヒナランは、花が極小で、淋しいと言えばさびしいが、その風情がまたよい。
細かい花を多数つける花穂と、地際に出る1枚の大きな葉との調和が大変好ましいランである。

しかし、栽培上からいうと、容易とは言い難い。それでも白花の方は、25年維持しているので、栽培困難というわけでもない。
ある年急に増えたかと思うと、翌年激減したりすることをずっと繰り返している。
増えたときに、何度かラン部会に寄贈しているが、25年作っても、さほど大きくない1鉢に収まっているのだから、付き合いやすい相手ではない。
気の抜けないランである。
いいかげんに扱うと、とたんに気分を害するので、正面から向き合って対応しないといけない。
栽培上手の多いラン部会であるが、ヒナランをたくさん増やしたのを見ないから、誰もがそう感じているのだろう。

芽出しの頃は、雑に頭から灌水すると、葉の付け根に水が溜まって腐るので、葉を持ち上げながら、肥料差しで丁寧に水をやる。
置場は2階で、通風のよい、明るい半日蔭、言ってみればそれだけのことなのだが。

赤花(普通個体)の方は中国のヒナランで、我が家の棚に納まってから11年、同じように増えたり減ったりを繰り返している。
「甘くみるなよ」というヒナランの恫喝なのだろう。
逆らわずに恐れ入っておくことにする。

日本の普通個体を、2度手がけたことがあるが、こちらは完敗。
白花が特に強健な個体なのだろうか。
手ごたえがあるような、ないようなランである。


  
 ①通称茨城の白。ウチョウラン全盛の頃、茨城で見つかったと聞いている。



  
 ②中国産ヒナラン 日本産に比べて花が大きいほかは変わらない。


 

③日本産(左)と中国産(右)の花の比較











2015.5.28記


近況


 今年から週休3日制にしようと思っていたのが、2月の個展が終わってから、気が抜けて仕事に手がつかなくなった。
去年の12月から、老骨に鞭打って頑張りすぎたため、反動がきたようだ。

その結果、思いがけずに隠居生活ということになった次第。
憧れの生活が現実になったのだが、気分的にはいま一つすっきりしない。

3月4月はほとんどランの植え替えに費やし、先日やっと1度窯を焼き、10点程仕上げただけである。
思い描いていた隠居は、半陶半ラン、気が向いたときに、気が向いた鉢を作り、あとはランと遊ぶという生活だったが、予想外のことになった。

今は大半はランを見て過ごしている。ランというものは、見れば必ず何か手を掛けることが生じる。
ランはひとを虜にして、こき使う恐ろしい植物なのである。
美しいもの、魅力あるものには気を付けなければいけないと、いまごろ気づいても、もう手遅れである。
そのほかラン関係の様々な用事があって、毎日が忙しく過ぎてゆく。
思い切って浮世の義理を欠く心構えがないと、なかなか悠々自適ということにはならないものだ。

そういうわけで、ホームページの更新も途絶え、ご心配いただき、申し訳ないことになった。
やっと今回で「長生草」の図版公開だけは済んで、少し気が軽くなった。
これも旧友の大橋秀昭氏が、園芸誌「自然と野生ラン」(6月号から「園芸JAPAN」)に「古図に見る野生ラン」の連載を再開し、
「長生草」を取り上げたことに刺激されたことによる。

何事によらず、やろうと思ってから、体が動き出すまでに長く時間が掛るようになった。
心の助走期間がいるのだ。これも、体力気力の限界を超えないように、無意識のうちに調整するという、老人力のひとつと思うことにしよう。


長生草14 盤石丸 大鷹丸


「盤石丸」

うまい銘をつけたものである。名のとおり、堅固しにして重みを感じさせる姿である。
小さいながら盤石の風格を備えている。

図版では石の文字に点がつくが、解説では「石」の文字を使い、「丸」が「團」になっている。
このような同意異文字の例は、この書にはしばしば出てくる。

「大葉にして厚く島(縞)濃くして淡黄の中斑また島あり」と、特徴を解説している。

現存しないとされている。

鉢は香炉形、もっこ文染付で、他の図版に出ている高炉形鉢同様に、三つ足の間を正面にしている。

昨年気まぐれにこの鉢の写しを作り、確か大橋氏のコレクションに加わったと記憶している。


「大鷹丸」

 解説文を読んでみよう。「茎に寿ミ(墨)あり 節のくくりは深く 中斑また島後はぜん」

この品種も名に恥じない堂々とした木ぶりである。図版は矢の太さなどに、多少の誇張があるように思えるが。
後冴えの性質のようである。

 黒楽に牡丹文染付の鉢も好ましい。
鍔の波状の文様は、豆金剛、玉金剛、南京丸、金華山の鉢にも用いられているが、何を表しているのか、単なる線文様なのか分からない。

 この鉢も2個写しを焼いたが、黒釉と染付を一緒に焼いたことがなかったので、発色不良で思ったようにはいかなかった。


  



長生草15 虎額丸 金龍


「虎額丸」

 品種説明では、「虎額團」となっているが、図版では「虎」の字がワードでは表示できない異字体になっている。

図で見ると、小型で肉厚の丸葉に散り斑のはいる、かなり個性的な品種と思われるが、「葉まろく 黄斑なり」とごく簡単な説明で済まされている。
現存しない。

 大鷹丸同様黒楽染付であるが、簡素な絵付けで、空間が生きている。
船体を省略して、水上に白帆だけを描いているのも洒落ている。


「金龍」

  図版でみると、紺地強く、濃黄色の覆輪がくっきりと切れよく入っている。
銘からみても、当時黄覆輪の代表品種として、珍重されたと推察できる。

  現在流通している「金龍」は、これと同一個体とは認められていないようだ。
長生蘭のなかでも、もっともポピュラーな入門品種で、いわゆる裾ものの一番裾に置かれているという感じがする。

 「長生草」は必ずしも図版と品種説明文が一致せず、説明だけで、図のないもの、また、図があっても説明のないものもある。

 「虎額丸」の後に14品種の説明があるが、いずれも図版に載っていない品種である。
つまり、「金龍」以下の4品種については説明文がない。

 これについては、品種説明文の末尾に、「各五拾餘品は 世間にてもてはやせる品名なり

其外一家の名品少なからずといえども これを略せり」と断っている。
これに拠ると、「金龍」は世間でもてはやされる品ではなかったことになる。


   





 

長生草16 銀龍 都覆輪 富士丸


「銀龍」

 こちらは現存しており、裾ものとしてひろく普及しているので、説明の要はないであろう。
強健で長寿、増えの良い品種は供給が需要を大きく超えるのは必然で、希少性がものをいう世界で、軽く扱われるのは仕方ないが、
「長生草」の時代(天保6年1835年)から、現在まで180年も作り伝えれていることの重みを思えば、粗末にはできない。
紺地の強い照り葉は魅力的である。

 静蘭舎の堀内氏は、「銀龍」は「金龍」の芽替わりであろうと、通説とは逆の推測をしている。

これほど古い品種が、「白檀」「銀雪」という芽替わり新品種を生み出していることに、自らの存在を主張し、生き残りを図る執念と、底力を感じる。

袋式(香炉形)染付、破れ亀甲文であるが、亀甲の間に描かれている、虫のようにも、鳥のようにも見える文様は何であろう。
「大江丸」の染付破れ七宝文の鉢にも同じ文様が使われており、同じ絵付師の手になるのであろう。


「都覆輪」

説明がないが淡黄色の覆輪で、矢は太く逞しい感じがする。京にかかわる品種であろうか。

鉢は黒釉染付で、秋草に三日月。大きな月に秋草を配するのを武蔵野文様というが、こちらはより洗練された都風か。

絶種して現存しない。


「富士丸」

図版最後を飾るのは、数ある長生蘭古典品種のなかでも、最も個性的(珍奇、風変り)として知られる富士丸である。
千鳥芸といえば、しゃれた語感であるが、葉は紙屑を丸めたようにくしゃくしゃにしかみ、矢も行儀わるく、あっちこっち勝手な方を向いてまとまりが悪い。
こういう特徴が顕著なほど、本芸として歓迎される妙な美意識である。
少しランを知っている人が見れば、「これって病気じゃないですか」というだろう。

「富士丸」本人にとっても、本芸と言われる、縮れて小さくなった葉は、生産効率が悪く、喜んではいないとみえ、しばしば普通の健康な葉に戻ろうとするが、そ
ういうのは「芸抜け」として排除されてしまうのは、哀れでもある。

当時のマニアが珍しがって飛びついたであろうことは想像されるが、「美しい」と思ったかどうかは疑わしい。
変わっているほどよいという価値観が支配していたであろうことは、他の伝統園芸植物、錦糸南天・松葉蘭・変化朝顔などを見ればわかる。


 花にも軽いしかみが入るが、淡紫色の縞が入り、意外と美しい。

  次回は表紙や、一側刷りのページを載せて完結する予定。


    


    












2015.3.3記


久しぶりに「長生草」シリーズを復活させる。
私の手元にある「長生草」の全ページを公開すると言った約束を忘れたわけではない。

来年で後期高齢者の仲間入りをする私も、いくら気に入っているとは言え、この貴重な古書をあの世に連れていくわけにはいかない。
いずれ手放すことになろうから、その前に約束を果たしておきたい。


長生草12 金石 玉龍


「金石」

 「長生草」が出版された天保時代から生き残り、今も広く栽培されている、数少ない品種のひとつである。
基本種は無地葉であるが、縞や覆輪をも生み、当時としてはかなり注目珍重されたものであることは想像に難くない。
解説文は以下の通り。

 「葉厚くして茎太く 寿ミ(すみ 墨)あり 但し島ふくりんあり」


「玉龍」

  鮮やかな黄中透けに加えて、照り葉の美しさが好まれる品種である。

当時もこの照り葉が目を引いたようで、解説文でも先ずそこに触れている。

 「葉に光あり 島ならびに極黄色なり」

  堀内一博氏は、その著書「長生蘭」(1977年三心堂出版社)のなかで、現在「玉龍中斑」の名で流通している品種が「長生草」に載っている「玉龍」そのものと指摘している。

 氏も書かれているが、確かにこの品種はハダニに侵されやすい。
経験的に黄色の斑はダニの標的にされやすいと感じるが、「玉龍」へのダニの執拗な攻撃には辟易させられる。

  




長生草13 琉球丸 青龍


「琉球丸」

 命名の由来は不明だが、図版で見てもかなりボリュームがあり、南国的雰囲気がなくもない。

 「葉○(形?)厚く 大なり 幅ひろく黄島 并(あわせて)黄中斑あり」と解説されている。
図は中斑(いまでいう中透け)のものを描いている。
解説文のタイトルは「琉球圑」となっており、本書ではこの書き換えはしばしば現れる。
絶種したのが惜しまれる。


 注目されるのは鉢である。
六角の染付窓絵文様で、「長生草」の図版のなかでも、特に魅かれる鉢である。
高台も凝っており、丸の部分は透かしてあると推測している。
若い頃一度だけこの鉢の写しを作ったことがあり、その頃の交友関係が懐かしく思い出される。


「青龍」

 派手な柄ものを見慣れた目には、地味に感じられるが、図版の1ページを当てているから当時はそれなりの珍品であったのだろう。

 「茎青く 小葉にして中斑なり」解説もこれだけで、素っ気ない。

 現在同名の白中透けの品種があり、現存説もあるようだが、前述した堀内氏は絶種説を採っていたようだ。

 図版の「青龍」は葉も節間もつまり、矢も太いが、現存する同名品種は全体の姿にこれほどの特徴がないように思えるが、私には判断できない。

 鉢は黒楽に染付で、縁起の良い宝珠文が描かれている。



    











2015.2.16記


個展を終えて


 すべての発送を終え、ひと段落ついて緊張が途切れたところで疲れが出てきたが、長いこと休眠状態であったブログを再開することにしよう。
個展会場でも、何人かの人に「ずっと更新してないですね」と言われた。
展示作品作を見て、この準備のためなら仕方ない納得してくれたようだが、これからはそうはいかない。

 いつもそうだが、今回は特に初日の熱気がすごかった。
気が急いて署名もそこそこ、ご自分の住所を書き間違える人がいたり、(署名は)後でと、急いで一巡されたり、それもこれもまた嬉しい。

遠方からの方も多く、みなさん気に入った鉢を約定したあとも、半日、中には1日中何度も展示品を見直したり、
初対面のひとと富貴蘭談義、鉢談義が弾む様も見られ、改めてお客様の熱意に打たれた。

だいぶ前のこと、種々の野生ラン用の鉢を作っていた頃、「欅窯を支えているのは日本中でも100人」と言われていたが、
そういう言い方をするなら、いまは「欅窯を支えているのは50人以下」と言えそうである。
その50人以下の方々が、ものすごく熱く、圧倒される。

いまは鉢の需要があるのは、富貴蘭・水晶寒蘭(杭州寒蘭)・雪割草の3つの分野にほぼ限られてしまった。
植物と同じく、鉢作りも流行とともに変わって行かざるを得ない。
私は来年で後期高齢者であるから、先のことはいいが、この先伝統園芸鉢作家が育っていくかとなると、覚束ないと言わざるを得ない。

ことしは休養の年にしようと思っていたが、新たにいろいろ注文もいただき、そうもいかない感じになってきた。

3日間を終えてはっきりしたことは、透かし鉢に人気が集中したことである。
富貴蘭鉢に関しては、欅窯=透かしというイメージがすっかり定着しているようだ
。透かしのない鉢は概ね人気薄であった。

古いおつきあいのお得意さんにも見ていただくので、変化をつけようと初めて赤の絵付けをしてみた。
「こういうのは持っていない」と関心を寄せていただけると思ったのは大間違い。
ほとんど目も止めてもらえなかったのは意外であった。
作者はあたらしい技法にこだわり勝ちであるが、使う人の目はまた違うということを痛感させられた。

ここで思い出すのは、若い頃のことであるが、初めて練り込みの鉢を作ったときに、モダン過ぎると散々な不評であったことだ。
それきり二度と手を出さなかったが、後で結構人気が出た。
2匹目のドジョウはないように思えるが。

欅窯ホームページでは、出品作紹介を準備中であるが、富貴蘭界大御所のHさん、Nさんが早々にホームページに写真を載せてくださった。
美術評論家のT先生も取り上げてくださり、ありがたいことである。
皆様に支えられて、何とか次の個展に向けて気力を充実させてゆきたい。
体力より気力の勝負である。