けやきのつぶやき

                   

草土庵主のブログ

   草と土を友として    
   蘭 人 一 如   


2011.7.28記

続々花泥棒はやっぱり泥棒

あの泥棒は、いまでも拉致した富貴蘭たちを愛培しているのであろうか。
あのときのことを思い出しては、ニンマリほくそ笑んで、愉悦に浸っているのであろうか。
それとも、とっくにどこかの競りにでも出して、あのことは忘却の彼方なのだろうか。

 前の3回と違って、今度は本格的な泥棒だったので、警察に被害届けを出した。
それで犯人が捕まり、盗られた物が戻るとは露ほども思わなかった。
警察はこんな程度の犯罪を、真剣に捜査するほど暇ではないし、人手もないことは分かっている。
犯人がどこかでへまをして捕まったときに余罪ということで、知らせが来るかもしれないと、
かすかな期待を持ったのだ。


 そもそも植物の窃盗犯に対して、被害額の多寡にかかわらず、警察はかなり寛大なように思える。
かつてウチョウランブームのさなか、私の周辺だけに限っても、数件の盗難事件が起きている。
それぞれ被害額は千万単位であったようだ。
ウチョウランを盗む者、換金のためにそれを持ち込む先といえばかなり絞り込める筈と思うが、
いずれも未解決のままである。
これが宝石貴金属や美術品の盗難であれば、警察の対応も全く違っていたはずである。
なぜ?多分社会的影響という点で全く異なるという判断があるためと思われる。
狭いマニアックな世界の中のことであり、多発したところで、影響は限定的であるとの判断か。

 また指先で摘めるほどのちっぽけなランに、千万単位の金を掛ける趣味を理解できず
(普通の感覚では理解できなくて当然であるが)、何か怪しげな世界と見たかもしれない。
小さくて、高価なのは宝石貴金属も同じであるが、一方は流行りものであり、
他方は世界的に認められた価値観に支えられている点が全く異なる。

 いっとき、商店街に置かれたプランターの花が切り取られるという事件があり、かなり大きく報道された。
被害は金額にすれば、ウチョウラン泥棒1件の被害額の100分の1にも及ばないのではないか。
しかし、こちらは社会的影響が大きいということであろう。
仕方ないといえばしかたないことである。
私の知人は、「そんなに大事なら金庫に入れて置け」と言われた。
警察官の言うべきことではないが、そう放言した警察官の個人的感情が滲み出ている言ではある。

 さて、我が家にやってきた刑事と、鑑識とおぼしき2人は、形ばかりの事情聴取と、指紋調べをしてくれた。
多忙の中、ありがたいことである。
一応の調べが終わると、刑事が「うちのかみさんも山野草が好きでねえ」と
どこかで聞いたことのあるようなセリフを口にして、しばらくその雑談にお付き合いするはめになった。
それほど多忙でもなさそうであった。

 前年のロンドンオーキッドショウの展示に対して、王立園芸協会が年間最優秀展示賞を下さるということで、
授賞式に行く直前の盗難事件であった。
留守中にまた彼の人に来訪されてはたまらないと、急遽作場の周囲のフェンスを高さ180cmに換え、
入り口にはシャッターをつけ、ガードを固める工事をした。
盗られた富貴蘭の額より、この工事の方が痛い出費であった。
しかし、10年、20年の間一度も株分けせずに作ってきた大株に対する愛着は、また別のことである。
愛情を注いだ時間は金銭で購えない。








2011.7.27記

続花泥棒はやっぱり泥棒

しばらくドロボーの被害がなかったので安心していたら、8年前のこと、まとめてやられた。
ある朝2階の居間から見渡せる富貴蘭の棚がいやにスカスカしているのに気付いた。
ところどころ不自然に空いている。外階段を降りてみると、鍵がかかっている筈の扉が開いている。
こういうときの決まり文句そのまま、バール状のものでこじ開けられていた。
センサーライトのコードは鋭い刃物で切断されていた。

 調べてみると、富貴蘭の大株が全て鉢ごとなくなっている。それだけでなく、温室にも侵入した形跡が。
棚下に鉢から抜かれた錦蘭がころがっていた。錦蘭には用なしらしく、鉢だけを持ち去っている。
後で調べてみると、鉢置き場からも、富貴蘭に使える形のものだけが消えていた。

 前の年にロンドンオーキッドショウに招待され、伝統園芸のランと鉢を出品して、
権威ある賞を色々戴いたことが、園芸雑誌その他の出版物に紹介された。
これを見た何方かが、我が家には富貴蘭の高級品種がたくさんあると勘違いして深夜に忍び込んだのであろうか。
富貴蘭は女房の持ち物である。

我が家ではそれぞれのランの所有権が明確に分かれており、それぞれのやり方で管理している。
互いに配偶者の持ち物が欲しいときは、「増えたらちょうだい」などと他人行儀のことを言うので、
友人たちには変な夫婦とみられている。

それは兎も角、チラシを見て、少しでも安い店に足を運んでいる主婦のコレクションに、
高額な品種があるわけがない。裾ものか、それに毛の生えたようなものばかりである。
その辺の事情をご存知でないドロさんが、せっかく侵入したのに目ぼしいものがないので、
仕方なく大株を選んで持ち去ったのか。他のランには全く手をつけていない。
 
 更に驚いたことがあった。素焼が終わった電気炉が開けられて、中の鉢が取り出され、炉の前に置かれていた。
富貴蘭の透かし鉢が1点足りなかった。

 犯人像は以下のように推察される。富貴蘭以外には関心がない。鉢に強い感心を持っている。
焼き物の知識経験がある。普通泥棒に入って、目的のものを盗ったら、一刻も早くずらかろうとするであろう。
このドロさんの行動は、いやに落ちついている。
焼き物の門外漢であったら、暗い中で作業場の隅の電気炉に目が止まることはないだろうし、
見ても電気炉と気付かない。
ましてや、開けて見るということは考えられない。

もうひとつ、磁器の素焼の透かし鉢は非常にもろく、うっかり扱えばすぐに壊れてしまう。
それをこんな状況下で、傷ひとつ付けずに、丁寧に?取り出しているというのは
(これにはちょっと感謝の念を持ってしまった)、扱い慣れた人物が、慌てずに行ったと推察される。


 不思議なのは、水を掛ければ崩れてしまうような素焼を何のために持ち去ったのか。自分で釉薬を掛けて焼くつもり?また、比較的高額な六角鉢は残して、丸鉢を選んだ理由も分からない。
 
 この話しを聞いた知人たちの多くが、こういう場合、犯人は下見をしているはずだから、私が顔を知っている人物だと言う。そう言われれば、夜間初めて来て、二階に富貴蘭の棚があるということは分からない。他にも棚の様子が分かっている者の行動と思われる点があったが、それ以上詮索するとは止めた。犯人探しをしたところで、盗られてしまったものは戻らない。あれこれ考えても不快さが増すだけである。

(長くなるのでまた続く)







2011.7.25記

花泥棒はやっぱり泥棒

我が家では、今までに何回も花泥棒の被害にあっている。
最初は開花中のナゴラン。
このときは、道路から手を伸ばせば届く所に置いてあったので、たまたま通りかかった人が、
出来心で手を出したものと善意に(?)解釈した。
次は私のアイデア作品である、横枝式しみ壷に着けたムギランが狙われた。
これはよくできていて、気に入っていたので残念であった。

 その頃の作場はかなり無防備で、その気になれば人通りの少ない夜間に、
さほどの困難もなく入り込むことができた。
ムギランは道路からはよく見えない場所に吊るしてあり、作場に入り込まなければ盗れない。
これは出来心ではなく、確信犯であると確信した。

こういうものを選んで持っていくのは、かなりこの世界にはまっている人物である。
これは危ないと思っている内に、作場中央の棚下にあった、春蘭の大雪嶺の鉢が消えていた。
当時はまだ春蘭が高かった頃で、蘭鉢展の売り上げをつぎ込んで、無理して買ったものである。
一度にいくつも持って行かずに、毎回1点づつ(こちらが気付かなかっただけかもしれないが)
というのは、いかにも多数の鉢の中から獲物を物色するのを楽しんでいるようで、実にいやな感じである。

 警察に被害届けは出さなかったが、いい具合にこのドロボーは3回で手を引いた。
潮時を心得た賢いドロボーだったのであろう。
「花泥棒は泥棒でない」と言われるが、これは道端に咲いている梅を一枝折り取って行ったようなとき、
風流心に免じて、見てみぬ振りをするというようなときに言うことである。
「花盗人は風流のうち」という諺はその辺をあらわしている。
夜間他家の敷地内に侵入し、物を盗るのは価格の高低にかかわらず、立派な犯罪である。
「泥棒でない」という言葉が拡大解釈されて、花ドロボーの罪の意識を軽減しているとしたら、
全く困ったことである。

(続く)






2011.7.24記

アザミウマ

もうだいぶ前のこと、ウチョウランの新芽が枯れはじめ、すべて枯死してしまった。
サギソウの花も咲かなくなった。原因が全く分からないままに、何年か過ぎた。

寒蘭の花茎が上がり、蕾がふくらみはじめたころ、花芽がしけて花が見られないことが続いた。
あるとき、蕾に数ミリのオレンジ色の虫がついているのに気付いた。
調べてみると、スリップスの1種アザミウマという農業害虫だということが分かった。

ウチョウランを枯らしたのも、サギソウや寒蘭の花をダメにしたのも、犯人はこいつだった。
山野草やランの栽培書をめくってみたが、アザミウアマのことはどこにも書かれていない。
東京山草会ラン・ユリ部会の会報にアザミウマの危険を訴える文を載せたが、反応がない。
草友たちのところでは、アザミウマの被害がなかったらしい。
後になって、私の作場が、最初にアザミウマの標的になっていたことがわかった。
何とも面白くない「最初」である。

といっても、我が家でアザミウマが発生した訳ではない。
それまでいなかった害虫が、我が家に来て居ついてしまったのだ。
アザミウマは何処から来たのか。多分市内の畑から風に乗ってきたのであろう。
その前は南の方から温暖化とともに北上してきたのか、農作物にくっついて海外から来たのか、
その辺は分からない。

いまでは仲間内ではアザミウマの存在は半ば常識化しているが、被害地域はまだら状に分布しており、
敵もまだ東京全域制覇にはいたっていないらしい。
北茨城のメンバーの作場では被害が皆無であるという。

丹精の結果の花を枯らすだけでもいやらしいが、その上小型のランの新芽をも侵す。
チドリ類のように生長点が一つのランは、やられると再生できずに枯死に至る。
今年はフウランの花の被害が大きかった。

薬剤には弱いようで、新芽と花芽に浸透移行性の殺虫剤をまめに散布すれば防げるが、
効きめが切れたり掛け忘れがあると、すぐに待っていたように取り付く。
わたしはベニカDスプレー(住友タケダ園芸)とオルトランを交互に用いており、
気を抜かなければ被害を防げる。

できれば農薬は使いたくないが現在我が家の作場では、恒常的に薬剤に頼らなければ
野生ランの花が見られない状態である。
そのせいか、孫たちにも愛されていたヤモリが姿を消してしまったのは残念である。

写真説明 アザミウマの被害例 被害にあって気付くことが多く、虫の姿を見ることは稀である。

01 花が枯れたスルガラン     02 ナンゴクネジバナ   03 果実にもついてタネを駄目にする
                                   コウトウヒスイラン(国産)
            







2011.7.19記

長生蘭

長生蘭の新芽が出揃った。このところセッコクは花物の人気が高く、反比例して葉ものの評価は
右下がりのままである。
本来は葉を観賞するものである長生蘭は、新芽の季節が一番美しいと常々思っている。

 数年前に、どういう素性のものか知らずに入手した「紅紫丹」という品種がある。
長生蘭の新芽の魅力の一つは斑の部分に現れる紅の色素(紅隈)である。
通常これは次第に薄れ、消えてゆくが、紅紫丹は発色が特に濃く、秋まで明瞭に残る。
昨年の葉にもかすかだが、紅の痕跡を残しており、こういう芸は他に知らない。

 先日上野グリーンクラブの富貴蘭展を見に行ったが、そこに「紅紫丹」が売られていた。
十分見られるサイズの株で、1000円。
自分が気に入っている品種がこの値段で多数出ているのに、正直少々ガッカリした。
しかし、もともと高い安いに関係なく、長生蘭の芸が好きでやっているのだから、がっかりすることもないのだ。
売られていたものより、我が家の「紅紫丹」の方が、色も姿もはるかに優れているのに満足することにした。

 他に気に入りの2点、天宮殿と幽天の写真を添える。

 






2011.7.18記


窯出し

数回の地震に脅かされ、アツモリたちを脅かしながら焼いた窯を出した。全部で80点程。
今回はスペースをとる寒蘭鉢が10点入ったので数は少ない。
焼き上がりは上々というには今一歩というところだが、おおむね良好。
釉裏紅、マット(つや消し)貫入釉の寒蘭鉢は良好、助手Kの雪割り鉢もロスがなく、
教室の作品もそれぞれによい上がりであった。
釉裏紅の発色不良と、寒蘭鉢の割れがいくつか出たのは残念だが、この位は毎度のことである。

 釉裏紅は銅の絵の具で描き、還元焼成(ガスを不完全燃焼させて窯内を一酸化炭素で満たす焼き方)
で赤く発色させる技法であるが、発色が非常に不安定で、焼く度に色が変わり、
色が飛んでしまうこともしばしばである。
磁器で行うのはリスクが大きいが、うまく行けば独特の味わいが出る。

 寒蘭鉢の割れは、鉢特有の宿命のようなもので、完全には避けがたい。
これは、鉢は内側に施釉しないことによって起きる。
濃い色を出すには、発色剤である酸化金属の量を増しても駄目で、
釉薬を厚掛けすることによって可能となる。
青磁や瑠璃釉の場合、こっくりとした色を出すために鉢の外側に厚く釉を掛け、内側には釉がない。
釉と素地の膨張率の違いにより、冷却の段階で両者の収縮の仕方に微妙な差異が生じる。
このときに厚い釉に素地の方が負けて、素地にひび割れが生じる。

エビネ鉢のように胴が膨らんでいる形の場合は割れにくく、
寒蘭鉢のように胴がくびれているものは特に割れやすい。
器の内外に施釉する一般の陶磁器には起こらない失敗である。
他にも鉢に特有の制作上の困難がある。
それなのに鉢は単価が低いなどという泣き言は、いまさらいうまい。

    2011.7.18 窯出し                  テーブルの上で整理
         



          釉裏紅 発色良好       釉裏紅 発色不良
                







2011.7.15記


キバナノセッコク

       キバナノセツコク 素心                      キバナノセツコク 素心 緑花

            
   素心セルフのタネをラン・ユリ部会が無菌培養したもの。     翠緑色の素心。  枯死寸前の極小株を、
   2000年フラスコ出し。                        咲かせるまで9年かかった。
                                         


     キバナノセツコク 屋久島産          キバナノセツコク 緑花
     

屋久島産石着け 20年以上栽培している。          花が黄ばまず、緑色のまま終わる。
キバナノセッコクにしてはよく増え
何度か株分けした。     2005年に矢伏せからスタートした。
丈が低く、矢が直立する。


6月から7月はキバナノセッコクのシーズンである。
セッコクの近縁種であるが、花期はセッコクより1ヶ月半ほど遅く、
花は黄緑色、茎が長く垂れ下がるという違いがある。

セッコクは野生ラン愛好家にとって、初夏を告げる花としてエビネと共に欠かせないもので、
山草好きの人たちの間でも人気の高いランである。ところが、近縁種のキバナノセッコクとなると、
知名度はずっと下がり、これを熱心に作る人はかなり限定される。

 その理由は、ひとつにはセッコクに比して花の変異が乏しく、華やかさに欠ける。
従って増殖品の流通も少なく、一般的には入手しにくい。
加えて、栽培もセッコクよりやや難しく、機嫌が取りにくい。新子(新芽)の立ちも悪く、増えにくい。
しかしそれでもというか、それだからこそ、愛好家にとっては魅力ある着生ランの1種なのである。

 キバナノセッコクのもうひとつの特徴として、同じ矢()に2年続けて花が着く
という性質がある
(セッコクは1年限り)
ちょっと専門的な話しになるが、矢の上部の生長点は、花芽になりたがる傾向が強い。
その結果、高子が出にくくなるという性質がある。
古矢の生長点にベンジルアデニン(生長ホルモンの1種)を塗布すると、高子が出ないで、
花芽になってしまうことが多い。
また、セッコクの増殖法として知られる、矢伏せ(放置すれば枯れてしまう古い茎を水苔に挿して
芽を出させる方法)を行っても、しばしば芽が出ないで花が咲いてしまう。

セッコクのように栽培年数に応じて、大きな株になることを拒否しているような、
ヘソ曲がりなところが、マニアにとっては愛しいのである。
当然そういう性質のキバナノセッコクを好むマニアのヘソもまた、相当曲がっているということになろう。

 先日私が属する東京山草会ラン・ユリ部会の7月例会があり、そこでいくつものキバナノセッコクが展示され、
参加者の目を楽しませた。
ヘゴ着けあり、鉢植えあり、長く垂れ下がるものあり、矮性のものあり、中には珍品の素心もあり、
それぞれ気合の入った力作であった。この会もへそ曲がりの集まりなだろうか。
それぞれが自分だけは常識人と深く信じているところがまた妖しい。

 高知の友人の話では、昔は至るところにキバナノセッコクが見られ、庭木(特に柿の木)には
たいてい実生が生えていたという。
彼によると、キバナノセッコクは、非常に実生の出やすいランであるという。
そういえば、牧野植物園内にもキバナノセッコクの実生が散見された。
それで、キバナノセッコクが増えにくいということも納得がいく。

自然はうまくしたもので、野生ランでも栄養繁殖が苦手ランは、タネからよく芽を出し、
実生の出にくいものは、株でよく増える。
そうでなければ、その種は絶滅するか、増えすぎて自然界のバランスを崩すかのどちらかになる。
どういう種がどういう理由で、いずれの生き残り策を選択したのか。
それは個々のランに聞いて見なければ分からない。
分からないところがあるということはいいことである。

(この文を書いている最中にまた震度3の地震があった。窯内はまだ200℃程で、中を確かめることはできない)






2011.7.14記

窯焼き

 初の高温注意情報が出た今日、ガス窯を焼いた。
週間天気予報を見て、少しでも気温の低そうな日があればそれまで延ばそうと思ったが、
ずぐずしていると台風が来そうである。低気圧は窯の大敵、台風よりは暑さを我慢する方を選んだ。

 夏の窯は、暑いだけでなく、窯内の温度上昇が不安定になることがある。
出来ることなら避けたいのだが、なかなかそうも言っていられない。
暑いときの方が温度が上がりやすいと思われがちであるが、実は反対に秋から冬の方が焼きやすい。
気温より気圧の影響が大きいようだ。高気圧のときの方がガスの燃焼がよいように思われる。

 ガス窯であるから、薪窯のように長時間付きっ切りでいる必要はないが、ただでさえ暑い季節、やはりしんどい。
しかし、人間よりもっとしんどい思いをして、悲鳴をあげているのは、アツモリたちである。
我が家のアツモリたちの定位置は、
2階の作場、ちょうど窯の真上に当たる。
上からは太陽に焼かれ、下からは窯の熱を受け、頭と尻から同時にあぶられることになる。
何の因果で毎年こんな目に合うのかと、己が不運を嘆いていることであろう。
何とも気の毒ではあるが、こういう商売の家に身を寄せてしまったのも運命と諦めてもらうほかはない。

 昨年の異常な猛暑で半減したアツモリたち、その試練に耐えて何とか生き残ったばかりに、
またまた炎熱地獄に身をさらすことになり、本当にかわいそうに思う。
そうは思っても、窯焼きの度に重い断熱鉢や水冷鉢に植わったアツモリたちを移動することは、
腰痛持ちの主にはできない相談である。
もしかすると(いや間違いなく)、世界で最も不運なアツモリたちであろう。
このような多大な犠牲を払って焼いた窯、うまく焼けていることを祈る。
窯出しは三日後である。

焼成中の窯、7/14am10:00頃 窯内は約1,120℃

    







2011.7.13

新作

ただ今、透かし鉢の新作を製作中
      







2011.7.9記


地震

このところまた余震が続発している。
昨日も大した揺れではなかったが地震があり、仕事場を飛び出して窯の前に走った。
思わず窯を押さえようとしが、窯も身体も地面と一緒に揺れるのだから意味がないと悟って、
揺れがおさまるのを待った。というのも、いま窯詰めを終えて、焼くのを待っている状態だから。
ホームページ表紙の写真は窯詰め途中のものである。

 焼物屋にとって、何より怖いのは地震である。焼き損なっても、一窯全滅といういうことはまずない。
窯詰め中、または焼成中に大きな地震が来ればそれまでである。
窯詰めをしていると、いつも棚組みが崩落するイメージが脳裏に浮かぶ。
写真を見ていただけばお分かりの通り、ツクという陶製の柱を3本立てて棚板を支え、
更にその上に棚組みし、段を重ねていく。
ツクと棚板は、より土とよばれる、ひも状の粘土を挟むだけで、固着されていない。

3月11日のように震度5クラスがくればひとたまりもない。

 幸いまだ最悪に事態を経験していないが、3月11日には肝を冷やした。
直前に窯出しをしたので、危うく全滅を逃れた。
しかし経験したことのない強烈な揺れに、家が潰れることを覚悟した。
いま作業場兼住宅の建物が倒壊すれば、ケヤキ窯は再起不能になる。

幸いにここ三鷹は地盤が堅固なのか、建物の被害は皆無。
揺れが収まって恐々作品置き場を見ると、棚の鉢が一つも落ちていない。一つでも落下すれば、
その下の床に置いてあった、窯出ししたばかりの個展用の透かし鉢もろとも砕け散るところであった。
あの強い揺れにもかかわらず、安定の悪い寒蘭鉢もすべて無傷でもとの場所に立っていたのは奇跡的とも思える。

後に栃木県益子で多数の作品が壊れたり、窯が崩れたり、多くの被害が出たことを知った。

 東京にも震度6クラスの地震がくる可能性は低くないようだ。
しかし、いつ来るか分からない地震を恐れて、窯を焼かないわけにもいかない。
運を天に任せるよりしかたない。

           (窯詰めを終え火が入るのを待つガス窯)
                           





2011.7.4記

タイワンショウキラン開花

             

ランという植物の魅力のひとつは、葉姿や花が実に多様であることが挙げられる。
スミレ科など、一目見てすぐに「ああ、これはスミレだな」と分かるし、
キク科だって、そう詳しくない人でも、キクの仲間だなと見当をつけられる。
ところがランとなると、山草好きの人でも「ええ、これがラン?」、
若い人なら「ウッソー」とのけぞりそうなものがある。

ランは華やかで美しいものという先入観を持つ人が見たら、
日本の野生ランの大半は、「ランにあるまじき超地味な花!

という受け止め方をするだろう。
欅窯陶芸教室の生徒たちもしばしば満開のランを前にして、
「これいつ咲くんですか?」などと、こちらがずっこけるようなことを言ってくれる。

米粒より細かい緑の花では、ランの花と見てもらえなくても仕方ないが。

 タイワンショウキランもランの花としては奇妙な形をしている。
距(蜜をためる通常管状の器官)は壷のように極限まで肥大し、

花びらがその入り口を取り巻くようにしてついている。
あたかも目一杯の笑顔と媚で花粉を運んでくれる昆虫を誘惑しているように見える。
厚化粧をして、大口を開いているようで、風情に欠け、

少々やぼったくも感じられるが、多分昆虫には魅惑的に映るのであろう。

いろいろなランをみていると、人間と昆虫の美意識が、ときにぴったりと一致し、時に微妙にずれたりするのが、
また面白く感じられる。

写真は一昨年の開花時のもの。今年の花は日照不足のためか、花色が淡く、本種の特徴がよく出ていない。

 栽培品の高さは50センチ程、ミョウガのような葉を2、3枚つけ、下部は柱状になりここに水分養分を蓄える。
栽培品は肥培するとこの部分がラッキョウを大きくしたような形に肥大して、4センチほどの太さになる。
こうならないと、鉢栽培では花がつかないようだ。

鹿児島県以南に分布し、いかにも南方のランという雰囲気の大形のランで、6月頃に咲く。
温室が必要なのと、場所を取るので、野生ラン趣味家の間でもあまり人気があるとは言い難い。
それ以前にこの花に趣味家を惹きつける魅力が乏しいのかもしれないが、
これも日本の野生ランの一種、長年付き合っていれば情がわく。

 この株は、23年前に沖縄の愛ラン家故H氏より増殖株をいただいたもので、
記念として大切にしている。








2011.6.24記

富貴蘭展

S山草店に注文品の納品に行った。注文を受けてから1年以上たっている。
申し訳ないと同時に、気長に待って下さったことに感謝である。

 折りしも富貴蘭展の搬入で、出展者の方々が忙しく立ち働いている。
納品を済ませてから近くのイタメシ屋でしばらく時間をつぶしてから戻ってみると、
展示品はもうきれいに並べられていた。

 思ったよりはるかに多くの欅鉢が展示に使われており、これまた感激である。

鉢屋としては、自分の作品が晴れの舞台で、上手に生かされて使われているのを見るほど嬉しいことはない。
出展者の方々に愛され、大事に扱われていることが、直に伝わってくる。
この仕事を選んで良かったという思いがこみ上げてくる瞬間である。

 懐かしい鉢がある。忘れていた鉢がある。
焼き上がったときには、特に気に入っていた訳でもないのに、思いがけずに目を引いて、見直す鉢もある。
鉢は使われて、あるべき場に置かれて、はじめてその持ち味を発揮するものだということを再確認し、
改めて制作意欲を刺激された展示会であった。


                        




2011.6.23記

窯出し

期日の迫った注文のものを、小さい電気炉(風蘭・石斛鉢が30個ほど入る)で焼いて窯出しした。
数の多寡にかかわらず、窯出しはいつも期待と不安で緊張する。不安は言うまでもなく失敗への恐れである。
今回は幸い大きな失敗はなく、焼き直しで救える程度の小さな失敗があっただけで済み、
予想以上の効果を生んだものもあった。

 そのひとつは、M氏の特注の富貴蘭鉢で、鉢の内側に色を塗るというもの。
蜻蛉の透かし鉢の内側を赤く塗れば、飾っておくときに内側が透けて見え、赤蜻蛉になるというアイデアである。
そううまく行くものであろうかと、半信半疑であったが、注文どおり外は白磁、内は赤の下絵でやってみた。
出来上がってみるとこれが見事に赤蜻蛉である。蝙蝠も黒く透けてみえる。
長年透かし鉢を作っているが、考えたこともない思いつきである。

                      

 失敗は焼き物につきものである。様々な段階で様々な失敗が起きるが、多いのは焼きでの失敗である。
素地作りに1週間精魂傾けた作品でも、失敗すればそれまでである。よ
くしたもので、焼き物を業としていると、諦めがよくなる。
失敗をいつまでも引きずっていては、先に進めない。
とは言え期待を込めた労作にいくつもロスが出るとやはり応える。
一日二日は落ち込んでいるが、3日もすれば気持ちが先に向いてくる。

 焼き物で鍛えられているせいか、ランで失敗してもさほどへこむことはない。
無理して買ったランを枯らしても、それまで楽しんだこと、失敗の経験を積んだことで報われたと、
気持ちを切り替えられる。
値段より、長年つきあって、気心が知れたと思っていた相手を失う方がつらい。

昨年夏のとんでもない猛暑で、フラスコ出しから育てたものや、20年掛かって増殖した
レブンアツモリソウを20本程あちらへ送ってしまった。
そのときも、もう東京では、いままでのようにアツモリと対話することは困難な時代になったと、
さして心乱れることもなく諦めた。

盛夏には小笠原より暑いという最悪の環境下で、25℃以上は苦手という、
アツモリソウの栽培の楽しさを、もう十分に味わったと思うことにしよう。
鉢作りも、ドジな失敗を重ねながら、もうしばらくは続くことであろう。



2011.6.20記

       
ナゴラン

  

暑さが身に応えるようになると、ナゴランの季節。ナゴランは好きな着生ランのひとつだ。
美しく、栽培しやすく、香りもいい。増殖品が入手しやすいので、フウラン・セッコクとともに、
着生ラン御三家のひとつとして推奨したいランである。
この3種は着生ラン入門種であるとともに、長年手がけても尽きない魅力を秘めており、
日本の着生ランを代表する種とも言えよう。


上の写真はナゴランを松の枯れ枝につけただけの、どうということのない作品だが、
何となく気に入っているもののひとつ。2001年にフラスコ出し馴化し、翌年松につけた。
松ノ木は樹肌が荒れていて、着生ランをつけやすいのと、油を含んでいるために腐りにくいのでよく使う。
根が枝からはみ出したので、数年前にヘゴ板に乗せて固定した。


素焼鉢に水苔植えでもよくできるが、毎年植替えが必要な水苔植えが増えると負担になる。
植替え不要という点では、ヘゴやコルクもいいが、趣の点ではいささか見劣りがする。


着生作りの楽しさは,新根が伸びて着生物にしっかりと着いてゆく様を観察できるところにある。
これぞ着生ラン作りの醍醐味で、伸びてゆく根を見ているとランと気心が通じたようで嬉しくなる。
ナゴラン・フウラン・ムカデランのような根の太い着生ランの栽培の楽しさはこんなところにも見出せる。


下の写真左は水苔作りのナゴラン、鉢は自家製素焼鉢。東京農大の収穫祭で売られていた
小さな無菌培養苗から育てて10年ほどになる。紅色の斑紋の少ない清楚な花だ(中央はその拡大)。


写真右の着生物はサボテンの芯。日草展で着生ラン用に売っていた。
この株は、名前の元になった沖縄県名護市に唯一残った株から増殖されたもので、
2年前名護市の道の駅で土産物として出ていた。
野生ラン好き、山草好きには、道の駅は結構当たりのある穴場。


最初に着けたときに、根を網目にとおして固定したので、少々不自然なところがあるが、
後はナゴ君が好きなように網目くぐりをしている。
仕事の合間にこんなことをして着生ランに遊んでもらっている。