窯元から一言                 

   
           私の鉢づくり                       けやき窯 三橋俊治 
  

私が鉢屋に転向したのは、気持の上で茶碗や壷を作ることに違和感を覚えたからです。伝統のある焼き物の産地の人と同じものを作ることに迷いが生じ、足が宙に浮いているような不安定な気分に襲われました。

後から思えば、この見切りが結果的によかったと思いますが、

そのときには、じゃあ何をやるかという当てもありません。何の地盤も、基礎もない趣味上がりが、焼き物作りを一生の業とする以上、自分でなければできないことをしたい。また、人が求めているが、誰もそれを供給する人がいないというようなものを手がけたいという思いがありました。潜在需要というか、隙間産業(というほどの規模ではありませんが)というか。

しばらく悶々としている内に、段々形が見えてきました。エビネとランの会の先輩たちから、展示用の鉢の注文がぽちぽち入ってくるようになってきました。これだ!と閃きました。ランや山野草の鉢をつくるには、ランや山野草をよく知っていなければならない。栽培の経験あり、焼き物を作れる。この二つを結びつけて鉢作りができるのは自分しかいない、と気負い込んだものです。幸い吉田先生も家族も賛成してくれました。

私がイメージした鉢は、栽培に適し、工芸品としても見られる鉢でした。植えることにより、植物の持ち味がより生かされ、植えられることにより、鉢もより輝く。そして、鉢単独で飾っても鑑賞に堪える美しい鉢です。

「美しくなければ鉢じゃない」之が私の信念です。

和鉢は江戸末期、伝統園芸の大流行につれて、大量に生産されました。当時上は将軍、大名から、下は町人にいたるまで、園芸に狂っていましたから、藩窯を持つ藩は、献上のため、また贈答用に最高の技術を投入して、素晴らしい鉢を生み出しました。

しかし時代が下るにつれ、伝統園芸は生き残りましたが、鉢作りの伝統は衰退して行きました。戦前までは、細々ながら生き残っていた和鉢の流れは、戦後派は忘れ去られてしまいました。かろうじて、小品盆栽の世界にその片鱗を留めるのみです。鉢は最下等の焼き物と卑しめられ、鉢を焼くと陶芸家の格が下がるとさえいわれる昨今です。

技術の粋を集めた、あの美しい和鉢は死に絶えてしまったのです。

鉢屋に転向するに当たって、私は、和鉢にもう一度市民権をという夢を持って臨みました。今では趣味上がりの人間が一代で実現するには重過ぎる課題だということを知っていますが、何の見通しも、当てもない道に飛び込むにはそれぐらいの思い入れが必要だったのかもしれません。しかし、自分の仕事が、江戸和鉢の流れの末にあるという意識は今も変わりません。

当時私が目指したような仕事で身を立てている人は見当たりませんでした。私がイメージしたような鉢作りが、果たして職業として成り立つものなのか、まあ、雲をつかむような話というのはこういうことをいうのでしょうか。そもそも、学校を出て、そのまま趣味を仕事として選んだときに、それで生活が立つと思った人は周囲に一人もいなかったと思います。いつか自分の作品が園芸雑誌で紹介されるようになりたいと念願したものでした。

幸運にも、私が鉢の世界に飛び込んだ頃は、エビネと東洋蘭の大ブームでした。「豊雪」に1000万の値がついて、大騒ぎの頃です。富貴蘭・長生蘭も熱気をおびていました。それからウチョウラン・イワチドリの流行、山野草ブーム、野生ランの大流行と、次々に鉢の需要が生まれ、指先が磨り減って指紋が消えるほど轆轤(ロクロ)を引いても追いつかない時期が続き、この仕事を続けてこられました。

古希を迎えたいまは、数をこなすことは困難になりましたが、残された時間を、代表作を残すことに注ぎたいと思っています。

わたしの仕事は一代限りですが、わたしと同じ志をもつ人が次々に現れて、何時の日か鉢が伝統工芸の一分野として認められ、私の仕事にも日が当たる日が来ることを夢見つつ、ランと遊び、轆轤に向う日々です。       (平成23年6月2日)