会津八一 奈良 歌碑アルバム
猿沢池畔歌碑
「わぎもこが きぬかけやなぎ みまくほり いけをめぐり ぬ かささしながら」

早朝、冷たい小雨が石畳を濡らしている中訪ねた。歌碑の周りを、作者同様に「芽吹く柳の猿沢池を傘さしながら」巡った思い出の一枚である。
新薬師寺歌碑
「ちかづきて あふぎみれども みほとけの みそなはすとも あらぬさびしさ」
奈良市の南東・高畑地区はのんびりと古都の風情を楽しむにはもってこいの場所。もう、堀辰雄や亀井勝一郎の描いた「崩れた築地」に代表される「荒廃」の様子は姿を消していますが、新薬師寺の少し手前あたりには曲りくねった細道に残っています。
本堂左手前に会津八一の歌碑があります。この碑は昭和17年に当時の中央公論社社長の嶋中雄作が建てたもので稲井石に作者の達筆が刻まれています。
東大寺歌碑
「おほらかに もろてのゆびを ひらかせて おほきほとけは あまたらしたり」
歌意は「ゆっくりと大きく、両手の指をお開きになって、大仏様は宇宙空間一ぱいに満ち溢れたお姿であられます」

高さ3m近い巨大な御影石に彫られた自筆の書も歌のように雄大です。昭和18年大仏建立発願1200年にあたり、「大仏讃歌」として10首を献詠した歌の一つ。歌碑を建てる計画は早くからあったが、戦局の悪化で進まず、昭和25年作者の古希を記念して漸く実現した。
万葉植物園歌碑
「かすがのに おしてるつきの ほがらかに あきのゆふべと なりにけるかも」
「南京新唱」の巻頭の一首で、八一の自信作と言われています。「ほがらかに」と「秋の夕べ」の対比は常人にはない詩想を感じます。
この歌碑はここに落着くまでに春日野のあちらこちらを放浪した曰くつきのものです。高さ1mほどの黒御影石角柱の小さな歌碑は、作者が自費で思いを込めて建てた。
般若寺歌碑
「ならざかの いしのほとけの おとがひに こさめながるる はるはきにけり」
天平7(735)年創建のこの古寺は、奈良・京都往還の重要な地に位置しているため、幾多の戦乱に巻き込まれ、今は、広い寺域は見る影もなく荒れている。水仙で縁取られた石仏の後、崩れた築地塀の中にこの碑は立っています。
奈良にある八一の歌碑は「雨や夜」を歌ったのが多い。作者は雨の中や夜道の散策を好んだに違いない。古都の静寂がいたく詩的感興を刺激して名歌を吐かしめたのだろう。
法華寺歌碑
「ふぢはらの おほききさきを うつしみに あひみるごとく あかきくちびる」

白い塀に取り囲まれた法華寺は如何にも尼寺の総本山らしく、清楚な、それでいて何処か華やかな雰囲気を持っている。本堂手前の鐘楼の脇に、白い土塀を背景に、右につつじ、左に桜をお供に歌碑は立っている。
奈良を愛した写真家入江泰吉が昭和40年に建てたもの。
海龍王寺歌碑
「しぐれのあめ いたくなふりそ こんだうの はしらのまそほ かべにながれむ」(まほそ:「真赭。赤色の土、またその色。」

海龍王寺は別称「隅寺」(平城京の鬼門に建てられたので)の名の通り、隣の法華寺の隅に追いやられた格好で、何時もしょんぼりしている。山門を潜り、崩れそうな築地塀に沿って本堂に向かう道は、名物の雪柳が生茂っている。会津八一の歌碑は本堂左前に、草木にかこまれて、その隙間から顔を覗かせている。
秋篠寺歌碑
「あきしのの みてらをいでて かへりみる いこまがたけに ひはおちむとす」

山門を潜り、樹木の生い茂った庭を通りぬけると本堂。この庭は、昔の金堂・東西両塔の跡地だが、今は、木々と見事な苔に覆われている。
歌碑は南門の傍の林中にある。雨中の訪碑で暗い写真しか撮れなかった。この寺の「技芸天像」に魅せられた文人は数多い。
唐招提寺歌碑
「おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ」

薬師寺から北に真っ直ぐ伸びる往時の「西二坊大路」は絶好の散歩道。南北に寺を囲む森を見ながら、右手に薬師寺の築地塀が続く道で行き止まりが唐招提寺である。
金堂西横の松林の中に歌碑(古稀祝に建立・歌碑の下に遺骨分骨埋葬)がある。歌といい、歌碑といい、その置かれた場所といい、見事である。
薬師寺歌碑
「すゐえんの あまつをとめが ころもでの ひまにもめる あきのそらかな」
再建なった薬師寺は朱塗りの回廊や色彩の溢れる金堂・講堂・西三重塔に取り囲まれて、1300年の時間に耐えた東三重塔が、可哀想に浮き上がっている。金堂西の芝生の中に歌碑が立っている。四囲の華やかさに負けないような姿であるが東塔と同様に浮き上がって見える。歌は長い風雪に耐えて輝く東塔への讃歌であり、塔を見上げられる隅の方に慎ましく置かれることによって一層、生きてくると思う。脇役もこう表舞台に引きずり出されては居心地が悪い。