遅かりし… 

 今でこそ、ネットや雑誌あるいは口コミでの情報のやりとりが盛んで、イベント列車の試運転はもとより全検中の機関車の不具合箇所修理状況まで自宅にいながら詳細にわかるという時代になりましたが、30年前はそうした情報を手に入れることができたのは、ごくごく限られた人たちだったでしょう。まして、中学卒業したての「ジャリ鉄」にとってはそうした情報は全くの無縁でした。
 もう国鉄蒸機も終焉まであと2年となった頃、誰しもが必死になって追い求めていた情報は「どの線がいつ無煙化されるのか?」ということでした。しかし現代とは違って、その頃私たちが目にすることのできる情報源というのは年に2回発行される「SLダイヤ情報」と隔月刊の「蒸気機関車」誌だけ(他にも鉄道雑誌はありましたが、車両の去就などについてはほとんど書いていなかった)。その二誌にしても、載っている情報というのは編集時、つまり発売から1ヶ月以上前の編集部による「推測」でしかなく、リアルタイムでの情報は入手すべくもありませんでした。
 もちろん、当時でも社会人や大学生の人たちならば、機関区や国鉄管理局に直接電話で問い合わせたり、あるいは現地で懇意になった機関区職員や地元の人たちから情報を得ていたはずですが、まだ15歳にもならない子供には、そんな度胸も人脈もなく…。少なくとも地元の人と知り合いになっていれば無煙化期日については比較的確度の高い情報が得られたはずです。当時、よく各駅の待合室などには「●●線は▲月■日をもって無煙化されます」などというポスターが貼られていたのですから…。
 急速に無煙化が進んだ昭和48〜49年、煙はどんどん東京から遠のいていき、高校受験が終わった春には、本州内では山陰と東北の一部にしか煙が残っていませんでした。その東北もあちらにポツリ、こちらにポツリ、とまさに孤塁が残っているだけの状況。阿仁合、大湊、石巻、陸羽東、会津、日中、只見。本線上に残っているのはC11だけ。
 その春、いくつかの路線がまた無煙化される、というウワサは聞いていたのですが、それがどこなのかは当然知る由もなく…。まだ会津あたりは大丈夫なんじゃないか、程度の漠然とした期待しかありませんでした。手元にある「SLダイヤ情報」は48年の秋の号…まだ手元には49年のものがない…。
 その春の撮影行の計画を立てるにあたって、メインは会津三線、そしてその後に石巻線と陸羽東線を組み入れたのは、そんな情報皆無の状況によって生まれた錯誤でした。石巻線というのはC11の貨物列車がかなりな頻度で走っていた線でしたが、それまでなぜか訪問したことがなく「なくなる前に行こうよ」という友人の意見によって2日間会津で撮影をした後に北に上がって小牛田に向かうことにしたのでした。片や陸羽東線はC58重連の貨物列車こそ消えていたものの、C11が朝、陸前古川までの通勤列車を牽いている…そして本線運用がなくなったC58のうち何両かはまだ予備機として火が入っている…ここまでが前年秋の「SLダイヤ情報」で得た情報でした。
 そして、会津の撮影を終え、小牛田に着いた私たちが見たものは…駅の掲示板に張られた「石巻線・陸羽東線は3月24日を以って無煙化いたします」という水色のポスター。24日といえば、わずか4日前。
 それを目にした私たちは、まさに目の前真っ暗。
 「でも、あれって…あくまで『予定』だよね。遅れてるってことだって…。」
 藁をもつかむような気持ちで機関区に行くと、職員が気の毒そうな顔をして、
 「SLかい?もう動いてないんだよなぁ…。」
 「…予備とかで残ってるのはいないんですか?」
 「もう全部廃車になったよ。どこから来たの?」
 「東京です…。」
 「せっかく遠くから来てくれたのにね…せめて春休み一杯残ってればよかったんだけどねぇ。」
 しょげ返っている私たちを見て、気の毒と思ったのか、
 「もう動いてはいないけど、せめて見ていくかい?番号(ナンバープレート)は外しちゃってるけど…。」
 と言って、私たち4人にヘルメットを渡して、機関区の中に入れてくれました。
 機関区の一隅、留置側線の上に、二列に並んで、廃車となったC58とC11が並んでいました。
 ナンバープレートを外され、ペンキ書きにされたその姿は見るに堪えないものがありましたが…。

小牛田機関区

小牛田機関区

 実はこうした光景はそれまでにも見たことがないわけではありませんでした。機関区の一隅に横たわる廃車体の列…しかし、これまではその屍のすぐそばには常に生きた蒸機が煙を上げていました。ひとつの機関区の蒸機がまるまる全部火を落として屍をさらしているというのは、私たちにとっては初めて見る酷な光景でした。他の機関車の煙の匂いもドラフトの音も聞こえない静寂の中での廃車体…。それは、まだ子供だった私たちにとっても、いよいよ日本の蒸機終焉が間近に迫ったのだということを容赦なく思い知らせる光景だったのです。
 そして、これから2年、追分で最後の96が火を落とすまで、これがあちこちの機関区で日常的な光景として繰り返されることになっていくのでした。
(1974年3月 小牛田機関区)