猫たちの声を聞きながら

〜好きで野良に生まれたわけじゃない!〜


私が猫たちの撮影を本格的に始めたのは2015年頃から。この稿を起こしている2017年4月現在でやっと2年です。
もともと猫は大好きでしたからそれ以前にも鉄道写真の撮影のついでに猫を撮るという機会はけっこう多く、それなりに猫写真も多く撮っていたのですが、それはあくまで他の撮影の「ついで」でメインであるネイチャーや鉄道に比べれば比率としては微々たるものに過ぎませんでした。
それが急に撮影活動のメインになってしまったのにはあるきっかけがありました。
2015年の5月。磐越西線にSLを撮影に行った時のこと。この時はC6120という機関車が入線するということで沿線は大変な人出。うかつなことに私はそれを直前まで知らぬままに予定を組んでしまい、静かな沿線で撮影するつもりが「騒擾と喧噪」という私のもっとも苦手とする環境の中での撮影を余儀なくさせられ、あまつさえ数々の非常識な行動を目にし耳にして鉄道撮影そのものにいささかどころか相当な嫌悪感を抱いてしまい、自分の趣味そのものに嫌気と懐疑感を持ってしまった撮影行。
「もう鉄道撮影なんかやめたい!」「こんな奴らと同じ人種と思われたくない!」一時はそう考えてしまうほどのトラウマ状態でした。
そんな中、三脚の列が並び時に怒号が飛び交う道から離れて一人静かな小道を分け入っていくと、そこにいたのは一匹の猫。たぶん近所の農家の飼い猫でしょうね。鈴がついていたから。人懐こい猫で頭を撫でさせてくれたし、草の上に胡坐をかいた私の膝の上に乗ってきて丸まって…SLが来るまでの小一時間、自分の三脚とカメラを放りっぱなしにしてこの猫と一緒にいました。
「みかんさん、どこに行ってたの?」同行の撮影者に訝しがられながら。
さて、その撮影行から帰った翌月。
家からほど近いある場所に、野良猫が5匹棲みついているという話を母親から聞きました。なんでも、そこには毎朝毎夕猫たちの世話をするおばさんがやってきて餌をやり、周辺の掃除やフンの始末も自発的にやっていくのだという。猫にエサをやるだけの人はそれこそ数えきれないほどいますが、自発的に清掃までしていく人は珍しい。どんな人なのだろう?そしてどんな猫たちがいるのだろう?
そう興味を抱いて何度か足を運ぶようになりました。
最初のうちはそのおばさんが来る時間をよく知らなかったために、おばさんと会うことができずにいつもすれ違い。いたのは猫たちだけ。
白い雌の猫が一匹、その仔猫が二匹、長毛種の三毛が一匹、茶トラの雄猫が一匹。
最初の頃はさすがに警戒心が強くなかなか近くまで寄って見ることができませんでしたが、何度か通ううちにまず茶トラの雄が近くに来るようになり、次いで二匹の仔猫がそばに寄ってきてくれるようになりました。ちょうど道端にネコジャラシ(エノコログサ)が伸び始める時期で、それを持って猫広場(私が勝手にそう名付けたのですが)に行って仔猫たちと遊ぶのがいつしか毎週末の楽しみになりました。
エサやりのおばさんと会えたのは通い始めて三週間目のこと。
それ以来そのおばさんと親しくなり、そこの猫たちとも心が通うようになってやがては彼らの姿を写真に撮るようになりました。それがきっかけになって東京下町や瀬戸内の島の猫たちの写真も撮りたいと思うようになり、今では撮影活動の過半を猫撮影が占めるように。世間では「猫ブーム」だと言われていますが、私の場合その「ブーム」とは何ら関係のないところで猫撮影の嚆矢が放たれたのです。
というより、私にとっては「猫の写真を撮る」というよりも「猫と触れ合う」ほうがメインで写真はその「おまけ」のようなもの。別に「こういう写真を撮りたい」という意識はほとんどありません。でも不思議なものでそうやって自然体で構えていると意外にいいカットが撮れている。猫でも犬でも、心を通わせることができれば自然といい表情を見せてくれるものだなぁ、ということを改めて実感しました。
と同時に私自身、やはり「鉄道写真」よりも「動物写真」のほうが自分の性に合っているんだろうな、ということも。
今では二匹いた仔猫のうちの一匹は姿がありません。ただ、いろいろな情報を総合するとどうやら猫好きの人に引き取られたようです。残った一匹(「空」という名を私がつけました。男の子です)はすっかり懐いて週末の早朝、私と一緒に広場の周辺を散歩するまでになりました。もう二歳になりますから立派な成猫ですが、リードもつけずに猫が私のすぐ横を並んで歩いている姿は初めて見る人は例外なく驚いたようで。「飼い猫ですか?」と何度聞かれたことか…。
そう、飼えるものなら家に連れて行ってあげたいのは山々。でも我が家は諸般の事情があって今は飼ってあげることができない。ちょっと辛いです。
というわけで、私が写真を撮っているのはほとんどが野良猫。お店の看板猫さんや知人の飼い猫さんなども撮りますが、比率からいえば圧倒的に野良猫の方が多い。
今は空前の「猫ブーム」だそうで。
テレビ番組などでもしょっちゅう猫が取り上げられていますし、CMにもやたら猫が出てくる。
でもスポットが当たってるのはほとんどが飼い猫。マンチカン、アメショ、スコティッシュフォールド…そんな純血種が圧倒的な人気で、そこに雑種の家猫が混ざって登場という感じ。野良猫が取り上げられるのは有名な「猫島」や「猫寺」の猫たち。普通に町中で見かける野良猫たちについてはほとんど話題にならない。
でも実際には、そうした名もない町の野良猫たちのほうが圧倒的に多いのです。そして彼らに対して目を向けてくれる人はあまりにも少ないのが現実。
彼らは実に過酷な環境の中で生きることを余儀なくされています。
暑い夏、寒い冬、風の日、雨の日…家の中で暮らすことのできる猫たちとは違い、彼らは自分の身は自分で守らなければ生きていけない。特に冬、寒さに凍えて命を落としていく猫たちは数えきれないほどいます。さらに交通事故やさまざまな病気やケガ、猫同士のケンカ…。室内飼いの猫と比べて外で暮らす猫たちの平均寿命は半分以下の短さ、いや三分の一だという人もいる。
このことは意外に知られていません。
そして…そんな猫たちに心を寄せて、エサをあげたり寝床をこしらえてあげたりという世話をする人が各地にいます。私が知り合ったおばさんもその一人です。
「猫なんか、放っておいても大丈夫じゃないか。なんで世話なんかするんだ」という人も多くいます。しかし猫という動物は長い歴史の中で人間とともに人間社会の中で生きてきた動物。「ノラ」猫というのは特定の飼い主がいないというだけで人間社会の中でなんらかの形でヒトに依存して生きている猫です。完全に野生でヒトに頼らず生きている猫は「ノネコ」と呼ばれますが、都会や郊外では「ノネコ」が生き残ることはまずできません。
だから昭和の昔でも野良猫というのはゴミ箱をあさるか、あるいは猫好きの人の家を回ってエサをもらうか、という生き方をしていました。野良猫にエサやりをするというのは近年に始まったことではなく昔から行われていたことです。それがいいか悪いかは人によって判断の分かれるところでしょう。
しかし一つだけ言えることは、もしエサやりをする人が全くいなくなったら彼らのほとんどは街中では生き延びることができず、冬の訪れとともに死を迎えることになるだろうということです。
「それでいいじゃないか。野良猫には迷惑しているんだから」
という人も大勢いるでしょう。
確かに野良猫による糞尿の害などがあることは事実で、それに頭を悩ませている方も多いはずです。
だから「野良猫にエサをあげるなんてもってのほか!」と言いたくなる気持ちも理解できます。
でもここでちょっと考えてほしいんですよ。野良猫って先祖代々「野良」だったのか、ということを…。
前述したように猫は本来人間社会で人とともに暮らしていた動物。基本的にはほとんどが飼い猫でした。それがノラになるケースというのは飼い主のところから逃げ出したか、あるいは飼い主が捨てたかのどちらかです。そして、圧倒的に「捨てられた」ケースの方が多い。いやほとんど全てがそうだと言っていいでしょう。つまり野良猫を創り出したのは他ならぬ人間だということです。そして近年、「猫ブーム」の裏で捨て猫の数も急増しているという現実があります。
いったい、猫を捨てる人というのはどういう人なのか…?
「捨てる」ということは「飼っていた」ということです。自分で飼っておきながら平気で捨てる。理解できません。万やむを得ない事情があるケースなどは稀で、ほとんどが「もういらない!とモノ同然の感覚で猫を捨てると言います。それに何の罪悪感も感じない人もいる。
捨てるくらいならなぜ飼うのでしょう?「捨てる側の論理」というのを是非聞いたみたい気がします。反論できる勇気のある方、掲示板にご自分の主張を書いてくださいな!
一時の「わぁ、かわいい!猫ほしい〜!」という感情に任せて猫をペットショップから買ったはいいものの次第に世話が面倒になり、当初の「かわいい!」と思う気持ちも薄らいで「捨てちゃお!」と安易に考える人、多くありませんか?
いったいその人たちは猫を何だと思っているのでしょう。アクセサリー同然にしか考えていないのでしょうね。「お金を出せば買えるのだから」くらいにしか。
猫にせよ犬にせよ「命」です。理屈ではわかっているはずですが実際は…。
以前、電車の中でこんな会話を聞いたことがあります。会話の主はどちらも20代半ばくらいの女性。
「ねえねえ、あの猫大きくなった?」
「え?ああ、あれ?捨てちゃったよ〜」
「え〜!?捨てちゃったの〜?」
「だってデカくなってカワイクなくなっちゃったんだもん。エサやったりトイレ替えたりも面倒だしさ。猫いると旅行にも行けないし」
「そうなの〜?飼う時あんなに『この子かわいい!』なんてメロメロだったじゃん」
「そうだったよね〜。でももういいんだ〜♪なんで飼ったんだろね、私。キャハハハ…」
「ふ〜〜ん。ちょっとした気まぐれだったんだ〜。アハハ〜」
横で聞いていて、なんと恐ろしい女たちだろうと。コイツラ絶対いい死に方しないだろうな〜、と。
そもそもこういう話を人前で声高にしていて全然恥ずかしいとも思わないというのは…どういう教育受けて来たんでしょうね?親の顏が見たい。
まあ、ここまでとは言わないまでもこれに近い感覚で猫を捨てる人が多いというのが現実です。「ブーム」に踊らされて猫を飼う人。「かわいい」という衝動だけで飼ってしまい、世話の面倒さまで考えていない人。「猫を飼っている」というだけで自分の可愛さがUPするというとんでもない勘違いをしている人。自分が迎え入れたのは「モノ」ではなく「生命」であり「家族」なのだということを理解しない、あるいは理解しようとしない人。
もっとも昨今は自分が産んだ子供でさえアクセサリーのように扱い、自分の思いのままにならないと虐待するような親がいるご時世ですが…。
捨てられた猫は…どうなるのか、それを想像したうえで捨てているでしょうか。
最近「猫スポット」と言われる場所への猫捨てが跡を絶たないそうです。捨てた本人は「猫のためを思ってやったこと。ここならエサももらえて可愛がってくれる人もいるから」という人がいますが、それはとんでもない勘違い、というより無知極まりない。「バカ!」「オロカ者!」と言いたいですね。
野外で暮らす猫は縄張りを作って生きています。長い間にその縄張りを共有することもありますが、いきなり外から入ってきた「ヨソモノ」に対してはそれが仔猫であろうともほとんどの場合排除しようとします。さらに、自分で餌を獲る術を知らない仔猫は常に飢えに苦しみ、雨に打たれて体温低下で死んでしまうこともあり、さらにはカラスの餌食になってしまうことも往々にしてあります。大人猫であってもカラスと事を構えるのは避けるくらいですから仔猫ではひとたまりもない。現に私はカラスに襲われて死んでしまった仔猫の死骸を目撃したことがありますが、それはそれは正視できないほどむごい有様でした。
猫を捨てる、ということは自分が手を下さないだけで「猫を殺す」ことと何ら変わらないんですよ。どこが「猫のためを思って」ですか?
さらには、さきほど紹介したバカ女たちの会話にあるようにある程度大きくなるまで室内で育てられてからいきなり捨てられた猫は急激な衰弱死を迎えることが多いのです。その原因は肉体的なものよりもむしろ精神的ダメージによるものが大きく絶望感、不信感、虚無感が心を支配し、人・猫問わず他との接触を好まないようになり拒食や不眠を招いて、やがては猫を死に至らしめる…。
このことを知っていますか?
自分の子供に置き換えて想像してみてください。もしあなたが昨日まで可愛がっていた自分の息子や娘にある日突然「もうお前は可愛くないから出ていけ!」と言ったとしたら、そして有無を言わさず家の外に投げ出したらその子はどうなります?心に大きな傷を負うことは間違いないでしょう。そしてこの世界全てが信じられなくなるかもしれない。
以前この話をある人にしたら「野生動物には『子別れ』というのがある。それを猫にやって何が悪い」と言い放ったバカがいます。
無知蒙昧のアホダラ教というべきか、何というべきか…。
野生動物には確かに「子別れ」というものがあります。親が激しい攻撃で子供を自分のテリトリーから追い出して独り立ちを促すのですが…私はタンチョウやキタキツネといったさまざまな野生動物の「子別れ」というものをこの目で見ていますが、彼らは「ある日突然いきなり」我が子を追い出したりはしません。徐々に親は子供に対してつれなくなっていき段階的に距離を取って、時期を見計らって追い出します。その「時期」とは、「自分の子供が自活できる能力を身に付けたかどうか」を見極めた時点を指します。
まだ幼く育ってもいない仔猫を野外に放り出して自活できるとお思いか?
あるいはずっと室内で暮らしてきた猫がいきなり外に出されて自活できるとお思いか?
それは「子別れ」でもなんでもない。「育児放棄」に他ならないのではないでしょうか。
ちなみに「猫を捨てる」ということはれっきとした犯罪です。
以下、動物愛護法より。
第44条 愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、2年以下の懲役又は200万円以下の罰金に処する。
第二項 愛護動物に対し、みだりに、給餌若しくは給水をやめ、酷使し、又はその健康及び安全を保持することが困難な場所に拘束することにより衰弱させること、自己の飼養し、又は保管する愛護動物であつて疾病にかかり、又は負傷したものの適切な保護を行わないこと、排せつ物の堆積した施設又は他の愛護動物の死体が放置された施設であつて自己の管理するものにおいて飼養し、又は保管することその他の虐待を行つた者は、100万円以下の罰金に処する。
第三項 愛護動物を遺棄した者は、100万円以下の罰金に処する。
第四項 前三項において「愛護動物」とは、次の各号に掲げる動物をいう。
     一 牛、馬、豚、めん羊、山羊、犬、猫、いえうさぎ、鶏、いえばと及びあひる
     二 前号に掲げるものを除くほか、人が占有している動物で哺乳類、鳥類又は爬虫類に属するもの
法律云々以前に「人として」良心に恥じないか、ということなんですけどね…。
もう一度言います。
捨てるくらいなら犬も猫も鳥も飼わないでください。一度飼ったら天寿を全うするまで「家族」として手元に置いてあげてください。
その覚悟がない人は動物を飼う資格はありません。
「地域猫」という言葉が最近かなり一般化してきました。
ただ、この言葉がどう受け取られているのか、人によってさまざまなようです。
野良猫イコール「地域猫」というとんでもない誤解をしている人もかなりいるようですね。言葉は知られていても本来の意味を理解されていないということでしょう。
「地域猫」というのは、特定の飼い主がいないものの地域住民の認知と合意の上で共同管理されている猫を指します。
ということは本来の意味から言えば「地域住民の認知と合意」が必要ということになり、地域の中に「ワタシは認めない」という家が一世帯でもあれば、そこに暮らす猫は「地域猫」とはなり得ないということになります。そういう狭義の地域猫に当てはまる猫たちが暮らす街はほんの一握りで、日本全体から言えば1%にも満たないのではないでしょうか。
もともとこの地域猫活動の目的と言うのは、増え過ぎた野良猫を不妊手術によって増殖を防いでエサやりの管理や清掃によって近隣への迷惑を減らし、最終的には飼い主のいない猫をゼロにすることにあります。すべての野良猫に飼い主を見つけてあげるのが本来は理想ではありますが、実際的にそれは不可能に近い。それならば不妊手術を行って一代限りの命とし、飼い主が見つからないならばその一代限りの命を地域で暖かく見守ってあげようということです。
「かわいそうだから」と行きずりの人がエサをあげることはその趣旨に反します。
エサやりは決まった人が(あるいは持ち回りで担当を決めて)決まった時間に決まった場所で行い、食べ残しの始末はきちんとして清掃も行う。また数日に一回はフンの始末もする(幸いなことに猫はほぼ決まった数か所の場所で用を足すという習性があります)ということが絶対条件です。これを怠ると近隣から苦情が相次ぐようになるばかりでなく、食べ残しを狙ってカラスなどが寄ってくることになり思わぬ被害をもたらすことがあります。私たちの地元でも猫の居場所に黙って置きエサをして行く人がいますが、本人は猫のためを思ってやっている行為のつもりでも結果的に猫の世話をしている私たちにとっても迷惑な行為になってしまっています。行きずりのエサやり、置きエサは絶対にやめていただきたいと思います。また人間の食べ物を猫に与えようとするのもやめてください。猫たちの健康を害しますし、食べ残しが出た場合、それこそカラスの格好の標的となります。
話を戻しますが、私たちのところも含めてそういう狭義の「地域猫」という言葉には当てはまらないというのが実情です。
私も含め何人かの有志によって交代でエサやりや寝床の世話をし清掃やフンの後始末もしていますが、実際には近隣に猫の嫌いな世帯もあり、とても「地域住民の認知と合意」が得られている状態ではありません。いわばもろい基盤の上に立った仮設の建物のようなもので、ひとたび大きな揺れ(近隣からの苦情)があれば崩れ去ってしまうというのが偽らざるところでしょう。
野良猫たちの世話をしていることを、よく言う人もいれば悪く言う人もいる。当然のことだと思います。
人はともすると自分の価値観にしがみついて他の価値観を無視または拒絶したがるものですが、自分一人で解決できる問題からまだしも近隣・地域間にまたがる問題ではそういうわけにはいきません。そのことをわかっていても、どうしても自分の価値観を中心に物事を考えてしまう。したり顔でそう言っている私も実はその一人です。残念ながら…。でもそれでは何も解決できない。
世の中には猫の好きな人もいれば、猫嫌いの人もいる。
互いが互いの主張をぶつけ合ってもすれ違いになるだけです。
私も含めて猫好きの人間は近隣の人々の猫に対する理解のなさ、あるいは行政の冷たさを非難するだけになりがちですよね。でも一方で立場を換えれば猫嫌いの人に言わせればなぜそこまで猫を保護しようとするか理解できない。それだけならいいですが、花壇を荒らされたり糞尿の被害を受けたりしている人にとっては「野良猫の世話をするなどもってのほかだ」という考えになっても当たり前だと思います。
自分の価値観を他人に押し付けようとすること自体が無理なのです。自分の主張だけを声高に叫んだところで、それは結局「独りよがり」に過ぎず大勢の人の共感を得ることはできません。
行政に対しても同様です。役所には他にいろいろしなければならないことが山積してます。たかが猫のことにかかずらわってる暇はないというのがどこでも本音でしょう。でも苦情が出れば対処しなければならないのが役所。となれば住民から「野良猫の被害」について苦情が出れば面倒であっても乗り出さなければならない。その場合は100%私たち猫好きあるいは猫の世話をしている人たちにとって不利にはたらく処置だけがなされるはずです。
となれば、私たちがなすべきことは何か?
できるだけそうした苦情が出ないように対策を取っておくこと。具体的に言えばさきほど述べたような清掃やフンの始末、エサの食べ残しの始末をきちんと行うことです。
最初に述べたように、私がいつも行く猫が集まる場所で世話をしているおばさんはもう80歳を超えた高齢の方ですが、毎朝毎夕、猫たちにエサやりをした後は食べ残しをきれいに片づけていきますし、朝はまだ通勤の人の流れが始まる前に広場の周りを掃除していきます。そして二日に一回、周辺を回ってトングとビニール袋を持ってフンの始末をして行く。
その姿は近隣はじめ通りかかる多くの人に毎日のように見られています。となれば「あのおばさんは猫にエサをあげている」と悪口めいていう人のいる一方で「あのおばさんは毎日あそこを掃除してくれている」という評判も立っています。となれば、知らず知らずのうちに同情してくれる人や応援してくれる人も出てきます。
一口に掃除と言いますが、これがけっこう大変なことで私は週末のみお手伝いさせていただくことがありますが、これを毎日やるというのは大変な労力です。それを毎朝見ている方はやはりわかってくれる人も多いんですよね。
だからこそ、市役所も長年の間、このおばさんがここでエサやりをし猫の寝床を置いて世話していることを黙認してくれているのだと思います。しかし、それはあくまで「見て見ないふり」あるいは「黙認」であって正式な「許可」ではないのです。いったん苦情が入れば「許可してはいない」という立場を明確にせざるを得なくなる。それが役所の立場です。それを取り上げて「冷たい」と嘆いても何ら解決策にはなりません。必要なのは常日頃から行政との間に非公式のパイプを持っておくことです。
ブログにはあえて書きませんでしたが、この冬にこういうことがありました。
猫広場の隅、猫たちの寝床を置いてあるすぐ上の壁にこういう警告看板が張られてしまいました。
私たちは驚いてしまいました。それまで何度か市役所の担当課にもここで猫のエサやりをしていること、あるいは寝床を置いていることをおばさんが話していたにもかかわらず、それまでの経緯を無視するようにこのような警告文が掲示されてしまったのです。
私も一時は「なぜ以前黙認されていたことを今になって…去年の冬はこんなことを言ってこなかったのに」と少々感情的になりましたが、落ち着いて考えてみると、もし近隣から何らかの苦情が入ったとしたら市役所の対応は至極当然のことと言わざるをえません。「黙認」はあくまで「黙認」にすぎず、「許可した覚えはない」と言われてしまえばそれで終わりです。
こういう時感情的になって行政の姿勢を非難しても何の得るものもありません。誰も表立っては味方にはついてくれませんし、こちらが感情的になればなるほど行政の態度を硬化させて事態の悪化を招く可能性のほうが大です。
時期は年末。もうすぐ本格的な冬になる。この時期いきなり寝床を撤去することは代替地がない以上猫たちにとっては死活問題になります。寝床を持たぬ野良猫の7割までが冬を越すことができずに命を落としてしまうというのは都会でも田舎でも同じ。まして去年の冬をここの寝床で過ごしてしまった猫たちはいまさら自分で新たな寝床を探すことはおそらくできない。これがもっと早い時期ならばまだどうにかなるかもしれませんが12月も押し詰まった今となっては…。
あいにく年末年始の閉庁期間に入ってしまうので、年が明けてすぐにおばさんと同道で市役所に出向きました。正直、この問題が心に引っかかり正月休みは気が休まりませんでした。
そして話を聞いてみると、やはり何人かの方から苦情が入ったそうです。市役所としても何も対応しないわけにもいかず、ああいう形で警告文を出してむしろ私たちがアプローチしてくるのを待っていたようです。で、その苦情というのが具体的被害を受けたということではなく「公共の施設にああいうもの(猫の寝床)を置いているのはおかしい」という意味合いのことだったそうで、何人か連れ立って窓口に来たそうですが住所も氏名も言わずに帰って行ってしまったのだそうです。
糞尿などの具体的被害によるものではなかった、ということが私たちをホッとさせました。かねてからフンの後始末はしていましたから、そういう苦情はあまり出ないはずという期待もありましたが。
市役所としてもどういう形であれ苦情が出た以上役所として確かに対応しているという姿勢を示さねばならず、ああいう警告文を貼らざるを得なかったということです。本音を言えばこういう問題に煩わされたくなかったということらしい。しかしいったん警告文が張られた以上、それに対して何もアクションをこちらが起こさなければ字義通り寝床は全て撤去されてしまいます。放置のままということになるとさらなる苦情が出ないとも限りませんから。
そこで私たちが出した結論は「猫の寝床のうち、もっとも大きなものを1月10日に撤去する。残りのものは寒さが峠を越す2月末まで置かせてもらいたい」と願い出ることでした。
結果、「苦情が再度出なければ」という条件付きで2月末までの残置を認めてもらいました。4匹猫がいたため寝床が3つあったのですが、そのうちの最も大きな「ネコハウス」を自発的に撤去することにしました。市役所としても警告文を出した結果、もっとも大きなものが撤去されれば残りの物が置かれていても「一応苦情には対処している」という姿勢を示すことができるのですからメンツが立ちます。
実は後で聞いたのですが、この時市役所には「この寒いのに寝床を撤去するなんてかわいそう」だという電話が何本も入っていたんだそうです。その多くは猫好きの方からの電話だったのでしょうが、中には「毎朝掃除までしてくれているんだから大目に見てあげてもいいじゃないか」という声もあったんだそうです。長い間おばさんが広場の掃除をしているのを見ていてくれた方がいたんですね。市役所としてもそれはまた反対の立場からの「苦情」でもあったわけで無視するわけにもいかなかったのでしょう。
2月になりました。半ば近くになり寒さが厳しくなった頃、空が風邪を引いてしまいました。猫の風邪というのは家猫ならともかく外で暮らす野良猫にとっては命取りになるケースが多く、さっそく病院に行って点滴と投薬を行ってもらいましたが、猫の風邪は全快まで半月から長い時では1ヶ月くらいかかることもあるという。しかし寝床の最終撤去期限は前回の約束で2月末になっている。さあ、どうする…。
私たちは再度市役所に出向きました。「ダメだ」と言われることを覚悟の上で…。
しかしながら幸いなことに担当者の方が猫については理解のある方で「そういうことならば」ということであくまで非公式ながら3月末まで黙認というニュアンスを示してくれました。もちろん市役所の立場として「そうしてもいいですよ」と明言することはしませんでしたが「早く治ってくれるといいですね」というやさしい言葉をいただきました。
空の風邪は長引きました。全快したのは3月第一週。三週間かかりました。しかしまだ寒い日が続いていて…。
しばらくして再び市役所へ。空が全快したことを告げお礼を述べるとともに、今ある寝床のうちひとつを月末で撤去するが残りの一つはしばらく残置する旨を伝えました。暖かくなるのを見極めて折を見て撤去すると。担当課の方はやはり前回と同様「いいですよ」とは言いませんでしたが「お互いのために目立たないように気を配ってくださいね」と言ってくれました。
そして、もし何らかの苦情が入った時にはおばさんか私のいずれかに一報をいただくこと、こちらはそれによってできる限りの対策は取っていくということを申し合わせました。そして常に「待ち」の姿勢を取るのではなく、月一回はこちらから市役所に出向いて苦情の有無を確認し、今後の対応も決めて行こうということにしました。
今回の経験でわかったことは、行政に対して「ないものねだり」や理想論ばかりをぶつけるのではなく、相手の立場も考えて譲れるところはこちらが譲ることによって事態を打開できることもあるということでした。もちろん行政としては「非公式」な対応ということになり「許可」を得るということはできませんが、少なくともこちらの立場への理解を示してもらうことが可能だと。そして常に行政との間で非公式ながら話し合いのパイプを持っておくことが重要だということです。もちろんこれには大前提があって、規則的なエサやり、清掃の励行、そして何より猫たちがこれ以上増えることがないように去勢・避妊手術を終えていることです。猫広場の4匹は全て去勢・避妊を終えています。
「北風と太陽」の逸話があるように、こちらが強硬姿勢を示しても行政相手では何らの効果も得られません。むしろ逆効果になるでしょう。しかしこちらが柔軟な姿勢を示せば、そこは人間同士、非公式なテーブルの上では理解を示してもらうことができる時もあります。これは近隣の方々についても同様で、もしこれから万一苦情が市役所に入った場合は(その場合、相手の連絡先を教えてもらうことになっています。市役所としても今後「匿名」での苦情は受け付けないという確約をしてくれました)、先方と話し合って解決策を考えることにしたいと思っています。そうすることによって互いの理解を深めることができ和解につながればいいな、と。
これはこの問題だけではなく世の中のすべてのことに言えるのではないでしょうか?
長々と私の町の例をお話しましたが、この件一つ取ってみても「地域猫」という実態には程遠い。日本全国で私たちと同じような経験をお持ちの方は多いはずです。
しかし狭義の意味での「地域猫」にはなり得ないとしても、長い時間をかけていけばそれに近いものにしていくことは可能かもしれない。
でも世間一般はあまりにも安易に「地域猫」という言葉を連発しすぎるような気がします。実態はそんなに甘いものではないということを認識してほしいのです。
今、外で生きている猫たちは何らかの形で人による助けを得ているとういことは確実です。昭和の頃ならまだしも、ゴミの管理も徹底されてきた昨今では猫がエサをあさることも難しく、今外で目にする猫たちは誰かしかからエサをもらって生きています。そうでなければ、飢えと冬の寒さによって7割が命を落としてしまうのですから。
それを本当の意味での「地域猫」にしていくためには、単に猫好きのエゴを述べ立てるだけではダメで徐々に地域に味方になる人を増やしていくことが必要です。それには途方もない時間がかかるかもしれません。しかし回り道のように見えてそれが一番の近道であると考えます。
全ての外猫を家猫にしてあげることができない以上、やはり人間が守ってあげることが必要です。それと同時にもうこれ以上不幸な猫を増やさないことが何よりも重要。去勢避妊を進めることと、捨て猫を防止すること。後者については本当に頭の痛い問題ではありますが…。
さて以上のことを踏まえたうえで、猫の写真を撮ることについての注意点を私なりにいくつか。
私も以前はただ「猫が好き」というだけで猫の写真を撮っていたものですが、野良猫の世話やそれにまつわる上記のような経験をするにつれて、猫撮影の自分なりの規範というものを認識するようになりました。大前提になるのは猫は外猫であれ家猫であれ人間社会の中に溶け込んで生きているのだということ。となればその近くにいる「人」の存在も無視してはいけないということです。
町中で猫を撮る場合。
できれば同じ場所に何度も通って、まずは猫よりも近所の方々と顔見知りになっておくこと。そうすることによって撮影がしやすくなります。考えてみてください。もし見知らぬ人が黙ってカメラを持って自分の家の近くをウロウロしていたらあなたはそう思いますか?私なら「不審者」として通報するかもしれません。
ですから、初めて行く場所なら地元の方に会ったらこちらから挨拶することが不可欠です。そして自分は「猫の写真を撮りに来ている」ということを正直に告げましょう。万一その時にいい反応が帰って来なかったら歓迎されていないということですから、もうその場所には足を踏み入れない方が無難です。
そして「馴染み」の場所でない場合には、猫を探して同じ場所を行きつ戻りつしてウロウロするのは厳禁です。ゆっくりと通り過ぎ、猫の姿が確認できなければその日はもうあきらめて次の機会に譲りましょう。旧日本海軍の夜戦戦術と同じで「一航過」を原則とするべきです。
さらに猫のそばに人がいる場合は、その人に「写真を撮っていいですか」と確認することが必要です。
特に下町の場合、飼い猫か野良猫かの区別がつかないことも多く、自分の飼い猫の写真を勝手に撮られることを嫌う人もいないとは限りませんから。
猫を追って人の家の敷地や畑に入り込むことは厳禁です。当たり前のことのように思えますが、猫ブームの昨今、そうした常識を無視している人が多いということをけっこう耳にします。
猫は警戒心の強い動物ですから、いきなり近づいていって写真を撮ろうと思ってもまず無理です。嫌がる猫を追い掛け回して連写するなどもってのほか。気長に構えて猫の方から近づいてくるのを待ちましょう。そのためにも同じ場所に通いこんで猫たちにも顔を覚えてもらうことが必要です。少なくとも同じ場所に三回通って初めて写真が撮れる、くらいに考えておいた方がいいでしょう。そうでないとたとえ撮れてもいい表情は見せてくれません。
撮った写真をネット上に掲載する場合、その場所の詳細な情報を併記することは避けましょう。
何故なら、世の中にはそれを見て猫にいたずらや虐待ををしようとする心のゆがんだ人もいますから。人口に膾炙していて有名になっているところもありますが、それでも具体的な細かい位置関係などは書かない方がいいです。これについては他ならぬ私が以前、うっかり過ちを犯してお叱りをいただいたことがあります。
一部には「ネットには一切出してはいけない」という極端な意見を言う方もいますが、それは単なる「囲い込み」のエゴにもつながりかねず賛成できません。表現の自由を侵すことにもなりますので。
猫の写真を撮るためにエサをばらまくなどの行為は言語道断。最近よく耳にしますが近隣の方々の苦情を誘発することにもなりかねません。
町中の場合、猫の背後にも注意が必要です。そこに民家がある場合、玄関や表札などが写り込まないように注意しましょう。どうしてもそのアングルで撮りたいとなれば撮影許可が必要です。家そのものにカメラを向けることになるのですから。
猫の写真を撮る、というよりも私の場合は猫と時間を共有してそのついでにシャッターを押している、といったほうがいいでしょう。
写真は単なるオマケであると言ってもいいかもしれない。
でもそうやって心を通わせることができればよりいい表情を撮ることができるのは確かなようです。
これからも地元で、下町で、島で、猫たちの活き活きとした表情を捉えていきたいと思っています。

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