ねこたび日記

2022年5月24日(火) 快晴 睦月島 一日目 
5時半に起きて松山市駅へ。ホテルから徒歩15分。
伊予鉄郊外電車に乗って高浜へ。歩いて1分で港。
今日は睦月島に行きます。
7:10発のフェリー。

松山の沖合に連なる忽那諸島。その島々をめぐる中島汽船には東線と西線の二つの航路があります。
睦月島へは東線の船で行かなくてはなりません。一番の船がこの7:10発。
この後は10時過ぎになるんですが、それだと島の滞在時間が短くなるので少々早起きでもいつもこの船に乗ることにしています。
忽那の七つの島をめぐる中島汽船。
この船に乗るといつも聞くのがこの唄。(坂本冬美が歌ってます)
睦月島を含む旧中島町(現在は松山市に統合)のイメージソングですが、船に乗ってこれを聞くと「ああ、忽那の島に来たな~」という実感が湧きますね。

いい唄です♪

今日は静かな伊予灘。鏡のような海を割り、左手に興呉島を眺めながら30分。船は睦月港に着きます。

港から歩いて5分。睦月小学校。

校庭には草が生え、校舎にはツタが…でもこの学校、廃校になったわけではありません。現在は「休校」。
島には子供たちがいますが小学生はゼロ。中学生は船で中島の中学校に通っているそうです。
校庭の草むらから猫が顔を出しました。

やがてワラワラと猫たちが。(^^;

チャトラーズ、皆元気でした♪そう、この睦月港近くの学校前には茶トラが群れを成して暮らしています。学校のそばの方々が手分けをして餌やりをしているのですが、総数20匹近く。不思議なことに茶トラ・茶白がほとんどなんですよね。だもんで初めてここに来た5年前、私は勝手に「チャトラーズ」とチーム名?をつけてしまいました。(^^;

小学校のすぐ向かいのお宅。ここの方がメインでご近所と協力しながらこの子たちのお世話をしているのですが、その前には猫専用??のテーブルなど置いてあって、チャトラーズのたまり場?となってます。

で、そのテーブルを見ると…。

仔猫が2匹!いやその奥にもう1匹いました。
今年も生まれていたんですね。

ちっちゃい!
手のひらサイズです。(^^;
世話をしているお宅の方の話だとまだ生まれて半月足らずということでした。

この子たちがもうキャピキャピと動く動く。(^^;

まだ目が見えるようになってさほど経ってないから、見るもの見るもの珍しくて仕方ないんでしょうね。

特にこの写真の上の子が一番やんちゃでした。
お母さん猫は気が気でないようで。(^^;

とうとう首っ玉咥えてタイホ。

でも遊びたくて仕方ない仔猫はダダこねて

まあ、この頃の仔猫ってどの子も好奇心のカタマリですからね。

二匹は遊び疲れておやすみタイム。それを心配そうにのぞき込む大人猫。

この大人猫、母親じゃないんですよ。よく見ると実の親以外の猫も仔猫たちを見守っているのがよくわかります。

これは、島猫ではよくあることなんですが複数の雌猫が協力して共同保育をしているんですよね。
親戚同士で仔猫の面倒を見ているんです。

このエリアに茶トラばかり集まっているということから考えても、ここにいるのは皆親族御一同様ということになるんでしょう。それだけに近親交配もあるんでしょうが、反面仲間意識はすごく強いようですね。初めてこの島に来た時、なんでここの猫たちはこんなに仲がいいんだ、と驚きましたが…。

茶トラ、というと8割が雄であるということはご存じの方が多いと思います。
ところがこの睦月島のチャトラーズ、女の子多いんですよ。上の写真の手前の子の後姿見ればわかると思いますが…。

私が見た限り、ここの男女比はほぼ均等。もちろん避妊去勢はしていません。
この島、茶トラの女子率を引き上げているんじゃ…。(^^;

そして…すごく人懐っこい。

ここに来るのは三年ぶり。前回来た時いた子も当然いるはず。私のことを覚えていてくれたかな??
カリカリあげたわけでもないのにやたら寄って来てくれます。ちょっと嬉しかった。

やがて朝ゴハンの時間。小学校の校庭が彼らの食堂。

食べ終われば…仲良く食休み♪

仔猫をあやす大人猫。この子もお母さんじゃないんですよ。親戚の「おばちゃん」でしょうね。(^^;
でも本当の親子みたい。見ていてほくほくします。

気が付いたらあっという間に一時間半。(^^;
いったんここを離れて、ちょっと山の方へ。
集落を抜けるとそこは一面のみかん畑。

みかんの花が咲いていました。

実は花はもう終わりかけ。今回天気予報を見て日程変更をしたわけですが、もし当初の予定通りに来ていれば花の盛りだったはずです。毎年みかんの花が盛りになるのは5月10日過ぎですから。
でも…いい匂いがします。まさにあのみかんの匂い。
山裾をぐるりと歩いて今度は東側の集落へ。

こちらにも猫がいるんですが、日が高くなって暑くなってきたせいか出て来てくれません。(^^;
三年前の秋に来たときはゾロゾロ出てきたんですけどね。
床屋さん。営業してます♪

ちょっと歩けば浜に出ます。

海の色がきれいなんですよね。泳ぐにはまだ早いけど。(^^;

テトラポッドの向こうに見えるのは、左側が興呉島(ごごじま)、右側が釣島です。
この浜、今は海水浴場になっていますが、大昔は行商の人たちの船が50隻も並んでいたそうで。
浜沿いの通りには立派な長屋門を構えたお宅が何軒も。

ここ睦月島は江戸時代から昭和にかけて伊予絣の行商で繫栄を極めた島です。その富の象徴がこの長屋門。白壁土蔵も何軒もありました。
昭和の中頃までは「縞売り」と呼ばれた行商人が全国各地に赴いたそうです。そしてその収入は莫大なもので、それで富を成した人たちの豪邸が並んでいたのがこの東の浜。
「縞売り」というのは、松山の伊予絣だけでなく自分の島で織った縞模様の反物も扱っていたことからそう呼ばれたそうです。
江戸後期にはこの島から出た行商船は、北は蝦夷地(北海道)から南は奄美大島まで出張っていたとのこと。
ちなみに忽那諸島で反物行商をしていたのはこの睦月島と隣の野忽那島だけだったそうですが、今は後継者も途絶えてしまいました。
浜でちょっと早目の昼食を取って、一休みしてから今度は西の山の上へ。
みかん畑を縫って登っていく道を汗をふきふき歩いていきます。
少し登ると睦月港が一望できます。

と、途中から「道案内」が。

ヘビ君がエスコートしてくれました。(^^;
100mくらい一緒に並んで歩きましたかね。途中で「もうここまででいいだろ?」とばかりに崖下に下りて行きました。

道案内ありがとね♪

山の上から。松山に向かう高速船が白い航跡を引いて。

しばらくすると漁船が一隻、まるで高速船の後を追うように港を出て行きました。
新緑の向こうに海。そして白い航跡。ちょっと空気が靄ってきたかな。

クサフジが咲き誇っていました。

山から下りて、民家にかかった時計を見ると、あれ、左側の文字盤がハゲて白くなってる。でも動いてますよ。(^^;

滞在時間、残り2時間ちょっと。時間が経つのは早いなぁ。
港の方に向かっていくと、まるで待っていたかのように日陰でゴロンとしていた子が。

するとワラワラとチャトラーズが顔を出し、

今度は西の海辺で撮影会。

ここは浜の通りに並んだ家並みがすごくいい感じなんですよね。写欲をそそる場所です。

小学校前に戻ってみると…。

相変わらずみんな仲良くマッタリと。

仔猫はおっぱいを吸って…睦月の猫を見ていると、ほんとに心が穏やかになりますよ。
平和っていいな~、なんてね。

どこぞの国の大統領に見せてあげたい。平和が一番。

私のバッグと一緒に記念撮影?(^^;

時間が来ました。
14:48発のフェリー。この船の後は18:08というのがあるんですが、さすがにそれではちょっと遅いかなぁ…もうちょっと滞在したかったけど。

松山に戻ります。
まだ時間が早いのでちょっと寄り道。
松山市駅から歩いて5分のところにある子規堂。

正岡子規が少年時代、17歳で上京するまでの間を過ごした住居を正岡家の菩提寺である正宗寺の境内に復元したもの。
門前には正岡子規の座像がありますが、時節柄でしょうか、マスクをしています。(^^;

子規の書斎。机は実際に子規が使用していたものだそうです。

これは子規が亡くなる前年に書いた「仰臥漫録」の一部。日記と言いましょうか随筆といいましょうか…。

驚くのは毎日の食事の内容が克明に記録されているんですよね。
この時期子規は病状が悪化していて自分の死期が近づいていることをわかっていました。随筆にもそのことは書かれていますが、食事の内容を見るととても「死にそう」と言ってる病人のものだとは思えません。

『十月九日。
 昨夜服薬せざりしも熟睡。九時過ぎ目さむ。
 朝飯 粥三椀 つくだ煮 梅干
  かき三個間食 
 昼飯 飯一椀 さしみすこし 無花果
  牛乳五勺 西洋菓子間食 …』
健康な人より食べてるような気が。(^^;
子規はその死に至るまで食い意地だけは衰えなかったという伝説がありますが、これを読むとさもありなん、と。
子規堂を出て、ブラブラ市電通りを歩きます。
途中で数か所、松山城をバックに市電を撮影。光線状態、この時間帯が一番いいんですよね。

さて、明日はいよいよ最終日。
今夜はちょっと早目に休みましょうか。


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