−「許された危険の法理と車社会」−

車社会の今後を考える・・。


社会の発展は、車の技術革新とその普及にあると云っても過言ではありません。流通経済や日常生活を支える基盤がそこにあるのです。

しかし、車社会は、交通事故という悲劇的な事象を生み出します。日々報道される自動車事故。それは誰でもが遭遇し得る身近な事象です。 私は、このような、交通事故を引き起こす車社会をそのまま許容しても良いのかという疑問を日々感じています。人間のための道具が人間を殺す凶器になっている。 それを見過ごしても良いのかと思うのです。

刑法的には、車社会の正当性は「許された危険の法理」で説明されます。

「社会生活上不可避に存在する法益侵害の危険を伴う行為につき、その社会的有用性を根拠に法益侵害結果を許容する考え方」です。 ヴェルツェルによれば、全ての危険を禁止すれば、鉄道営業も禁止され、社会は停止してしまう。 もう少し進んで、結果無価値の行為を処罰したら社会は止まってしまう。 そのため、社会的有用性のある行為は、法益侵害結果を伴う行為であっても、一定の制約のもとに許容されるという考え方です。 この「許された危険の法理」が、車の運転を人間社会に許容する根拠となっています。

そこで問題なのは、社会の有用性と個人の法益とを比較衡量して、個人の法益よりも社会的有用性を優先するという考え方の妥当性です。 確かに、現実に車社会を禁止してしまうと、社会は麻痺してしまいます。これは、ヴェルツェルが進言する通りです。 しかし、個人の法益は何事にも変えられない唯一の価値です。 社会的有用性という考えの下に黙殺される個人の価値は見過ごしてはならない重大な人権侵害であると思われるのです。

すなわち、憲法13条が規定する個人の尊重原理は、「許された危険の法理」をもってしても、侵すことのできない不可侵な原理だと考えられるのです。

したがって、我々が成すべきことは、如何に社会的有用性がある行為であっても、それを個人の法益を守るために最大限に制約する社会構造を作り出すことにあると 思うのです。そのためには、例えば、車の個人的所有を禁止して、公共機関を利用するように規制する。 流通経済を保つためには、商業的車両の所有のみを認める。それは、公共機関の発展と街作りに寄与する可能性も秘めています。 極端な提案かもしれませんが、それが交通社会を健全な方向に導く一手段だと思えるのです。

車の利便性と危険性を考え直す。そんな時代であると思います。



− 2010/07/11 written by kazkaz −