「ミクロ経済学の常識は非常識」(ミクロ経済学批判)

なぜ、経済学者は無力であるのか?


長引くデフレ不況。このデフレ不況から脱出するためには有効な経済施策を行う必要があると感じている。 しかし、巷の経済学者達からは有効な経済施策が提案されない。 彼らはなぜ無力であるのか、その謎が社会学的考察から解明できた。

経済学も社会的営みを行うものであるから、その理論は実際の社会の実情に照らし合わせて構築されなければならない。 しかし、新古典派ミクロ経済学は、実際の社会から遊離した机上の空論で構成されている。 その理由は、社会学の教科書に書かれていた。

富永健一著「社会学講義」中公新書の「経済社会学」の章で、なぜミクロ経済学が社会と遊離している学問なのか、 その理由が記述されている。以下、長いが重要な考察なので正確に引用する。


「新古典派ミクロ経済学においては、生産者は利潤を最大にすることに指向し、消費者は効用を最大にすることを指向する、 ともにアトム化された功利主義個人として考えられている。グラノヴェッターは、 このようなアトム化された功利主義的個人という想定を、『過少社会化された概念化』と呼んでいる。−中略− 『過少社会化』というのは、経済的行為を社会的行為から切り離すことによって、経済世界から社会を追い出し、 経済を純粋化して考える思考をさす。このように考えると、新古典派ミクロ経済学は、 抽象のレベルの非常に高いところで、つまり現実の経済事実の観察からはきわめて遠いところで、 経済的行為についての高度に純粋化されたモデルを立て、市場における一般均衡の成立の条件とか、 その均衡の安定性の吟味といった数学的定式化に専念する傾向をもつ、ということがわかる。 すなわち、社会とのかかわりの問題は、そこではすべて捨象されているのである。 この意味で、新古典派ミクロ経済学は、経済社会学からはもっとも遠い経済学である。」


私は、ここに答えを見つけたのである。如何に精巧に理論化された学問であっても、実際の社会と遊離した学問は、 有益ではなく無益であり、有害ですらある。ミクロ経済学の常識は、社会から見ると非常識なのである。 優等生の経済学者達は、この欠陥に気づいていない。この欠陥のある学問から答えを見つけだそうとするのである。 しかし、答えを導き出せないのは至極当然なのである。

日本では、学問を西欧諸国からの輸入に頼った。その輸入された学問をそのまま鵜呑みにし、 批判的考察や独自の理論を構築することをおざなりにした。学者の評価は、論文に如何に多くの西欧の文献を引用するかで決まる。

教育は、如何に輸入された学問を理解するかに重点が置かれ、批判的考察はないがしろにされる。 日本の詰め込み教育の弊害はここにあるのである。

今、我々は、経済学を改革する長い道のりを歩かなければならない。経済不況を解消する施策を講じるには、未だ相当の時間を要するのである。



− 2011/02/26 written by kazkaz −