− 『車輪の下』の読書感想文 −
今回、文庫本『車輪の下』を30年ぶりに読み返しました。読んだ訳書は、『車輪の下』 (ヘルマン・ヘッセ著,井上正蔵訳,集英社文庫発行)です。30年前の少年期に読んだ記憶は、 情けなく、既に消失してありません。初めて読んだ気持です。内容を見直した結果、当初の感想文と若干異なる趣旨となりましたが、よろしくご拝読願います。
なお、この感想文には、物語の核心部分が記載されている可能性があることをご了承願います。
【感想文,教育改革に向けて】
この『車輪の下』は、多感な少年期の日々を神学校進学・在学の為の勉強に費やした少年(ハンス)
の挫折とその後の運命(短すぎる死)を描いた小説であることは皆様周知であると思います。
この本を読んで感じたことは、著者へルマン・ヘッセが、少年(ハンス)を通して、教育・学問の重要性を説きつつも
国家の教育批判をしているのではないかということです。
学問をすることの楽しさは、『日ごとに、真の学問とはすばらしいものであり、 むずかしいけれどもやり甲斐のあるものだというふうに思えてきた。』(65頁13行目乃至14行目) と述べています。学問に対する批判はありません。むしろ、素晴らしいと讃えています。
その裏づけは、次の記述にも伺えます。ギリシャ語やラテン語・数学等の基礎科目を学ぶ重要性は、『これは将来の勉学や生活にはなんの役にも たたないように見える。だが、それはただそう見えるだけだ。実際にはたいへん大事なことなのだ。いや、ほかの主要課目 よりもずっと大事なくらいだ。これは論理的な能力を養い、あらゆる明瞭な、冷静な、効果のある思考の基礎になっている からだ。』(11頁15行目乃至12頁1行目)
あらゆる論理的思考の基礎は、基礎学問の習得によると説いています。非常に重要な部分です。基礎学問の重要性はここにあるのです。
しかし、ヘッセは、国家や教師に対し、教育に関し、次のような批判を述べています。
『教師の義務と国家からゆだねられた使命は、年わかい少年たちのなかに宿っている自然のままの
粗野な力と欲望を押えつけて取りのぞき、そのかわりに穏健で、中庸な国家の認める理想像を植えつけ
ることである。』(67頁7行目乃至9行目)−中略−
そして、『学校の役目は、政府の認めた原則にしたがって、自然のままの人間を社会
の有用な一員とし、自己の特性を発見させることである。そして、それぞれの特性の最後の仕上げは、
兵営での周到な訓練というわけだ。』(67頁17行目乃至68頁1行目乃至3行目)
そして、天才について、次のように述べています。
『天才と教師たちのあいだには、昔から埋めがたい深い溝があるものだ。 天才的な人間が学校で自分をむきだしにすると、教授連は頭から危険なものとしてしまうものである。 』(136頁17行目乃至137頁1行目)−中略−『学校の教師にとっては、自分のクラスに ひとりの天才がいるよりも、だれが見てもばかだと思われるような生徒が十人いたほうが、 まだましなくらいだ。よく考えてみれば、これももっともなことである。教師の任務は、 規格外の人物を育成することではなく、ラテン語や数学のできる実直な小市民をつくりあげることに ほかならない。』(137頁5行目乃至9行目)−中略―『ほんとうの天才なら傷口はたいていふさがるし、 学校などものともせず、りっぱな仕事をなしとげる。のちに、かれらがこの世を去って、 時のへだたりという快い後光につつまれてしまうと、こんどは後代の同じ教師連から偉材として、 模範とすべき高貴な実例として引き合いに出されるのであるから、それでわれわれは慰めとするほか ない。』(137頁15行目乃至138頁2行目)−中略−『いつもわれわれ国民の文化財を豊かに してくれるのは、ほかでもない。この教師たちの憎まれ者であり、たびたび罰をくらい、脱走し、 放校された連中なのである。といっても、かなりなものが、その数はどのくらいかわからないが無言 の反抗に精も根もつきはてて、破滅してしまっている。』(138頁5行目乃至8行目)
即ち、国家から委託された教師の使命は、画一的な教育体制により、規格内の小市民を育成することにあり、 規格からはみ出す天才の芽を潰してしまうことを批判しています。 その教師達に潰されても、立派に偉業を成し遂げた天才が、後代、模範として示される訳ですから、おかしなものです。 天才と教師達の間の埋めがたい溝と、その矛盾を指摘しています。
そして、少年(ハンス)が学校の枠組みから外れないように、校長は次のように忠告します。
『うん、これでよし。へたばらないようにするんだよ。さもないと車輪の下に圧しつぶされてしまうよ。』 (141頁4行目乃至5行目)
この校長の助言は、行き過ぎた勉強で精神的な重圧に押し潰されるな!というものであると思いますが、単にそれだけの 意味ではないと思います。
即ち、『車輪の下』の車輪とは、うまく表現できませんが、社会が課した重い荷物を背負った機関車の車輪を意味し、 その機関車とは個々人の人間を表象しているのだと思います。そして、その個々人たる人間は、常に国家・社会・学校が定めた 厳格な規律というレール上を車輪を接して走り続けなければ脱線して社会から弾き飛ばされてしまうという試練にさらされている。 特に、天才は、国家の規律するレールからははみ出してしまう。重い荷物を背負った機関車の車輪の下に引かれたレール。 ヘッセは、それを『車輪の下』に例えて問題視しているのだと思います。また、その車輪の下に引かれたレールは、大人達のエゴ を表象しているのかもしれません。これらが、『車輪の下』の比喩だと思われます。
しかし、少年(ハンスは)、学校のレールから外れ、車輪の下に押し潰されてしまいます。
そして、車輪の下に押しつぶされた少年(ハンス)は悟ります。
『自分たちの店の前で、陽あたりのいいベンチに腰かけて、王様然とゆったりかまえ、 にこにこしている肉屋や皮屋、パン屋や鍛冶屋などの気持が、いまならわかる。 ハンスは、もうけっしてそういうひとたちを気の毒な職人風情だなどという目で見なかった。』 (235頁14行目乃至236頁1行目)と・・・。
挫折して、精神的に苦しんだ挙句に、やっと、他人の気持が分ったのです。
勤勉して、苦悩して偉くならずとも、社会で労働を通して明るく暮らしている人達がいるということを・・・。 そして、自分を見つめなおします。しかし、それは遅すぎたのです。
ハンスの短かった人生の最後に、大人達は語りました。
『あなたもわたしも、この子にはもっとしてやることがあったのではないですかな。 そうは思いませんか?』(255頁1行目乃至2行目)
今、国家間の紛争・教育問題・行政機関の不祥事・格差問題等、社会問題が山積しています。
これら社会問題を解消するヒントが、この『車輪の下』にあると思います。
教育関係者はもとより、国家行政に携わる方々、そして子供を育てる親等がこの『車輪の下』 を今一度再読する機会が来ているのだと思います。
2008/01/21;若干の加筆・修正を加えました。
2009/07/31;若干の加筆・修正を加えました。
2009/08/03;若干の加筆・修正を加えました。
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