−「正義論としての労働保障論」−
国家コミュニティでの正義論・・。
古来から哲学の分野で「正義論」が議論された。今日、ハーバード大学教授のサンデル氏の”これからの「正義」の話をしよう” でアリストテレスの正義論が注目を浴びている。
アリストテレスの正義論は、その所属するコミュニティにおいて、共通に認識される共通善を正義の基準としている。 そして、各人に各人のものを配分すること,すなわち、「配分的正義」が正義の基調とされる。
そこで、今日、我々が所属する日本国家というコミュニティにおいて、最も重要な共通善としての正義とは何かを考えてみる。
資本主義経済が飽和状態に達し、経済が縮小し、大量の失業者(大量の社会保障者)を生み出す世の中となった。 太平洋沖震災は、それに拍車をかけている。
人が人として生きがいを感じるのは、達成感のある仕事をして、その報酬として賃金を受け、自由に生きていけることである。 社会保障の恩恵を受け、つつましく暮らすことは、人間としての尊厳を尊重しているとは云えない。
確かに、暮らしに窮している者を救済する社会保障制度は必要である。しかし、これは翻して考えてみると、 国家の産業政策の失敗を穴埋めしているに過ぎない。
すなわち、国家の共通善としての正義は、失業者の社会保障と共に、 全国民に労働環境を保障する産業政策としての労働保障政策を実現することにある。
各人の能力に応じて仕事を保障することが、配分的正義としての共通善である。
憲法では、「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。」と定められている(同法27条1項)。
この勤労の権利は、国家は、勤労の機会を実質的に保障する責務と失業者に対する生活配慮の責務を負うことを規定したものである。この規定は、正義論に適う。
今、国家は、先決事項として被災者の救援に当たることは勿論であるが、それと共に日本復興対策として全国民に対して共通善としての労働保障を行わなければならない。
それが、国家コミュニティでの正義である。
2011/05/15 修正