横浜市無形民俗文化財保護団体認定 川島囃子保存会(旧・川島囃子連中)

●ニュース!!  l 1.川島囃子とは l 2.成り立ち l 3.継承 l 4.川島囃子の「お囃子」について l 5.「踊り(舞い)」について l  6.川島囃子の印半纏 l  7.松月庵について l  8.横浜市無形民俗文化財保護団体について l  9.横浜市民俗芸能大会 l  10.海外公演 l 11.主な活動記録 l 12.最後に l 〜番外編〜 l

1.「川島囃子」とは 
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 現在の横浜市保土ヶ谷区川島町に江戸時代から受け継がれている伝統民俗芸能です。笛1・締太鼓2・大太鼓1・鉦1で構成される、いわゆる五人囃子が基本です。その囃子の音(ね)に合わせて獅子・道化・岡目・天狐などの様々な踊りも演じます。地元・川島の地において、五穀豊穣・家内安全・無病息災と地域の安寧を祈願して夏祭り及び正月の獅子舞を中心に活動しています。昭和52(1977)年に横浜市無形文化財保護団体に認定されました。

2.成り立ち 
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 川島囃子の起源は定かではありませんが、確かな記録としては保土ヶ谷区和田町の真福寺に現存する通称「和田寅」(本名:青木寅吉。「笛寅」ともいわれる)の墓碑(明治17年建立)があります。その墓石の中台には和田寅が囃子を広めたと伝えられる地域の名が「狸囃子連中」(ユニークな名称ですが、由来は不明)として刻まれています。そこには現存する地名が多くあり、彼が現在の横浜市に当たる地域の主に中・南部で広範囲に囃子を広めていたことがわかります(市内には和田寅との関わりなく伝承されている囃子もあります)。その一つに「川嶌(島)」があり、その前後には市ノ沢、上星川という隣接する地名が刻まれていることからも、これは元の武蔵国都筑郡川島村、つまり、ほぼ現在の保土ヶ谷区(一部旭区にもまたがる)川島町であることがわかります。
 川島囃子と交流がある横浜市緑区の「鴨居囃子」の昭和52年当時の親方の一人が、自身の先代の囃子方(はやしかた:囃子を演奏する者の意)から聞いたことを書き残した「鴨居囃子の履歴」という書付があります。そこには「…徳川末期か明治の御代になってか、それはわかりませんが、御照覧囃子があったそうです。その時どのくらい集まったかわかりませんが、この辺で参加された方は、保土ケ谷区和田町の青木 虎さんとおっしゃる方が参加されたそうです。その方を「和田虎(ワダトラ)さん」と呼んでおります。…」(原文ママ)とあります(詳細は鴨居囃子のホームページをご覧ください)。時代は江戸時代後期〜末期と推測されますが、和田寅はこの時代に江戸で行われた「御照覧囃子」に参加しており、そこで様々なことを習得してきたと思われます。和田寅が伝えた囃子は「神田囃子」であったようで、狸囃子連中を引き継いでいる囃子連は現在でもやはり神田囃子の系統を思わせる形のものが多いようです。川島囃子もこの点は例外ではありません。
 しかし、和田寅がこれらの地域に囃子の伝承をしたのは天保年間あたりからと推察され、墓碑に記載されている広範囲な地域に短期間に囃子を一からすべて教え込んだとは考えにくく、また、和田寅の息子も父とともに囃子の普及に貢献したとの言い伝えもありますが、いずれにせよ、それ以前から各地域ですでに囃子の原型となるものが存在していたことは十分に考えられます。当時の川島村にも天保年間前後には何らかの形で川島囃子の前身となるものがすでに存在していたと思われます。市内に古くから伝えられている他の囃子も天保年間前後に成立したと推測されるものが多いようですが、その土台となる囃子が元々それぞれの地域に存在していた可能性も否定できません。

3.継承 
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 江戸時代に確立された川島囃子ですが、明治・大正・昭和に渡り、川島の地でこの地域の三村一族を中心に引き継がれてきました。江戸時代後期〜末期の三村定七(定七の名は三代続いたらしく、おそらくは二代目か三代目)が和田寅の手ほどきを受けたようです。その後、三村家は弥輔〜力蔵〜晋輔と続き、一族や足立家・細野家・石井家などの地元の旧家の仲間を巻き込みながら川島囃子を代々引き継いでいきました。
<大正末期の正月の記念撮影>
(後列:細野義雄・足立藤作。当時の若手の中心人物であった。前列の二名は不明だが、三村一族の者と推測される)

 ところが、多くの囃子連がそうであったように戦中・戦後の一時期に様々な要因で川島囃子も衰退しかけたことがありました。昭和20年代も中ごろになり、戦後の混乱期にとりあえず落ち着きが訪れると特に地元の青年団が中心となって川島囃子の復興の気運が高まり、戦前から川島囃子の中心メンバーだった三村晋輔・足立藤作らの尽力もあって、また盛んに行われるようになってきました。囃子は実際にやってみると見たり聞いたりしているだけとは大違いで、最初は数十人いたメンバーも次第に脱落していき、一人前の囃子ができるまでに成長したのはわずか数人でした。しかし川島囃子を復興させたい、という彼らの熱意はもちろんのこと、お互いのライバル意識も相まって稽古に稽古を重ね、川島囃子の囃子としてのレベルは格段に向上していきました。そして娯楽の少ない時代のこと、彼らは囃子の持つその魅力、その楽しさにグングンと引き込まれていったのでした。最早、理屈ではありません。俺たちの住んでいるところにはこんな楽しいものがある。できれば仲間を増やし、そして、さらに次の世代へと確実に引き継ぎたい。この熱い気持ちが原動力となり後代へと伝承されることとなったのです。
<川島囃子戦後復興の功労者たち・昭和20年代中頃>
後列:遠藤善作・三村高治・三村晋輔・三村佐一
前列:足立藤作・三村六三・石井忠男

4.川島囃子の「お囃子」について 
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 川島囃子の基本はいわゆる「五人囃子」です。これは「居囃子」といわれ、トンビ(篠笛)1、ツケ(付け太鼓:小太鼓)2、オオド(大胴:大太鼓)1、チャンチキ(鉦)1で構成されています。
<居囃子(五人囃子)>

<曲目>(笛の曲名)
基本:打込(ウチコミ)→屋台(ヤタイ)→新音(シンネ)→乱拍子(ランビョウシ)→上がり→鎌倉(カマクラ)→四丁目(シチョウメ)→四丁目の上がり→屋台→上がり

全曲:打込→屋台→新音→乱拍子→上がり→昇殿(ショウデン)→鎌倉(奥の手入り)→両国(リョウゴク)→宮鎌倉(ミヤカマクラ)→回殿(カイデン)崩し→攻め(セメ)→二の手返し→四丁目→四丁目の上がり→屋台→上がり

 囃子連によっては「屋台」を「早矢(ハヤ)」と言ったり、「四丁目」を「師丁目」などと表記したりします。他の囃子と「ほぼ」同じと思われる手が様々な呼び名で様々な囃子連に伝えられています。これは昔々の庶民は字の読めない者が多く、すべての楽曲が我々の言うところの「言い事」(口伝)によって引き継がれていたことが影響していると思われます。また、他の囃子で時々聞かれる麒麟・亀戸・郭公・回殿・神田丸などは残念ながら川島では現在では伝承されていません。

 また、踊りの伴奏としての囃子は居囃子(五人囃子)と次にご紹介する二丁太鼓のどちらでも行うことができます。曲目は上記のほかに「岡崎(オカザキ)、ヒトツトヤ(数え歌)、チョウチョトンボ」、岡目のみに使われる「ネンネコ」(子守唄)などがあります。

 正月に家々を巡る獅子舞や少人数の構成で、しかも踊りを披露しなければならない場合には「二丁太鼓」を使います。
 この太鼓は踊りの伴奏のためだけに使用され、重量が軽く作られた「ツケ」と「ヨコド」が一体化された、いわば簡易式の太鼓です。「ヨコド」は「横胴」のことで「オオド」の代わりの役目を担っており、いわゆる「桶胴」に似ているものです。囃子のみの演奏の場合は使われません。川島囃子では二丁太鼓による演奏は「鎌倉」と「ネンネコ」のリズムが早くなり、特に鎌倉はまったく別の曲になってしまうといっても過言ではありません。
<二丁太鼓>

5.「踊り(舞い)」について 
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@獅子舞(曲:打込、鎌倉)
 獅子舞の由来等、詳細な解説は現代ではインターネット等で情報も多いので省略します。大まかに言うと、その「いかつい」顔と激しい動きで邪気を追い払いことを役目としています。ひと暴れした後ではカマクラの曲に合わせて大技を披露し、また、ミカンを転がして観客の皆さんと遊んだりします。川島も含め横浜市域では1頭につき1人の舞子(踊り手)が獅子を被って演じる形がほとんどのようです。頭を噛んでもらうと無病息災・家内安全・学業成就等のご利益があるとされ、最近でも率先して頭を噛んでもらおうという方も多く、踊りの中でも一番の人気者です。川島囃子の獅子舞では「鯱(しゃちほこ)立ち」という演技が特徴で、三点倒立の原理で逆立ちをしながら足や獅子頭を動かす妙技で、常に喝采のまととなっています。獅子によって邪気を払ったあと、続けて岡目や道化たちが登場し福を呼び込みます。
<獅子舞・鯱立ち>

A岡目(曲:ネンネコ、ヒトツトヤ、チョウチョトンボ)
 いわゆる「おかめさん」です。「お多福」などとも呼ばれ、その表情に日本女性の愛らしさが表現されています。本岡(ホンオカ)と立岡(タチオカ)という2通りの演じ方があります。本岡とは本来の岡目の踊りを一通り演じるもので、舞子は衣装(着物)を着て、座位の状態で獅子を赤子に見立て子守をしながら化粧や繕い物をする、というものです。立岡とは立ったままで演じるもので、獅子を背負って子守をしながら羽根突きや毬つきの仕草をします。衣装は着物を着ることが基本ですが正月の渡御では囃子装束のまま面を付けて踊ります。女性特有の優しさ・しなやかさを保ちながら道化た雰囲気も醸し出さなければならない、意外に技術と経験を要する踊りです。

B道化(曲:岡崎)
 「ひょっとこ」に代表される、踊りの中でも最も笑いを誘う連中です。「ひょっとこ」「大笑い」「ばか」などどれも一癖ありそうだけれども憎めない、といったキャラクターが揃っています。衣装は派手な着物に袴、チャンチャンコを羽織ります。正月の渡御ではやはり囃子装束に面を付けて踊ります。
<道化(ひょっとこ)>

C天狐(曲:昇殿、鎌倉)
 「狐舞い」「お狐さん」とも呼ばれ、神社に奉納することが目的の唯一の踊りです。神の使いである擬人化された狐が神への感謝を捧げ地元に平穏を賜うために踊ります。口が稼働する面を用います。川島囃子の狐は現在では白装束です。他の囃子では羽織袴をまとうものもあります。川島でもかつて羽織袴などを着装したこともあったようですが、受け継がれていくうちに現在の白装束が定着したようです。これは天狐の高潔さを象徴し、またその激しい動きをより表現しやすくするための合理性を求めた結果と言えます。後代の囃子方の考え方でまた羽織袴を着装するようになるかもしれません。そういった意味では、川島囃子は伝統を重んじながらも柔軟性を持たせている一面を体現している踊りと言えます。

<天狐:昭和20年代と平成27年の撮影。衣装の違いがわかる>

D両面(曲:鎌倉、岡崎)
 「二ツ面」とも言われ、川島囃子の踊りの中で一番の見どころの踊りです。舞子は面を前後につけ、着物の上に貫頭衣を被って前後どちらから見ても前を向いているような形にします。扇を両手に広げ前向きと後向きで同じ手をあたかも前後を見紛うかのように踊ります。特に複数の舞子が横に並んで同時に踊り、ぴたりと手があった姿は見応えがあります。かつて市の民俗芸能大会等で披露した3人立ちによる「祝松」の型は圧巻の演技で好評を博しました。

<両面:前向きと後向き>

E鼻通し(曲:鎌倉、岡崎)
 道化2人と獅子一頭で演じられるコミカルな芸です。…今日はめでたい祭りの日、道化2人がお宮に出かけ、お参りを終えたところで何やら得体のしれないモノ(獅子)に出くわします。突いたり叩いたり、はたまた見物のお客さんまで巻き込んでの大騒ぎ…会場でご覧のお客さんにも抜き打ちで舞台に上がっていただく、「観覧者参加型」の芸となっています。舞台の規模に応じて道化を3人、4人と増やすこともできます。

<鼻通し・後ろに獅子が控えている>

F種蒔き(曲:鎌倉、岡崎)
 岡目と道化が仲睦まじい夫婦を演じます。まず、“与太郎さん”というお百姓さんが畑に種を蒔く様子を再現します。川島囃子のメンバーは現役の農業従事者が多いので、畑地を鍬で畝(うね)って、やれ大根、やれ菜っ葉と本物の種蒔きの仕草に機械化以前の農作業を御存じに方にはノスタルジーを感じていただけることも多いようです。蒔き終わって、さあ、一息。よし、母ちゃん呼んで一杯やるか。差しつ差されつ、ほどよくお酒も回って踊りだす…
観客の笑いが絶えない演目です。

Gその他
 以上、ご紹介しましたように川島囃子の踊りは伝統に基づいたものを多く演じていますが、時には現代の流行(?)も取り入れることもあります。平成11年の横浜国際仮装行列のサブイベントで赤レンガ倉庫の前で獅子によるサッカーを演じ、そのコミカルさで聴衆の笑いを誘いました。このように伝統を絶やさないようにしながら、かつ、新しいスタイルも見出していく、その努力を我々は続けています。

6.川島囃子の印半纏(しるしばんてん) 
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 川島囃子の半纏は背中に「若纏(わかまとい)」の印(しるし)が染め抜かれている印半纏です。下半分の格子模様は「はしご」を表していると言われています。囃子連の半纏で印が「纏」というのはあまり例がありません。かつて囃子を仕切っていた若者たちが村の火消し(現代の消防団に通じる)の役も担っていた名残と思われます。当時の若者たちは心意気、気風(きっぷ)、そして粋(いき)であることを何よりも重んじていました。先駆者たちの想いがこの印に込められています。現代の我々もこれを誇りとしてこの纏の印を背負っています。なお、襟の「川島」の文字は昭和中期に加えられたものです。

<半纏(前面) 半纏(背面)>


<夏半纏(前面) 夏半纏(背面)>

7.松月庵について
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 古くより川島囃子が稽古場としているのが「松月庵」です。地元では「お堂」の愛称で親しまれています。川島の古刹、隋流院(曹洞宗)にゆかりのある庵です。江戸時代中期の正徳5年(西暦1715年)に亡くなったとの記録がある、隋流院に縁を持つ尼僧「松月」がここに苫屋を築いて寄宿していたと伝えられています。その後、何代にもわたり主に尼僧が居宅としていたようですが、やがて住む人もいなくなり、荒廃していきました。昭和9年に再建され、その後、幾度かの改修を経て現在もほぼ再建当時の形を保っています。川島囃子は戦前からこのお堂で稽古を続けています。地元では無尽などの会合でもよく使われ、地元の人々に愛されている庵です。再建当初、内部は土間で畳敷きとなったのは昭和中期のことです。我々はこれからも、この歴史ある稽古場を大切にしながら芸に磨きをかけたいと思っています。

<松月庵(昭和9年10月28日再建記念撮影)>


<現在の松月庵>

8.横浜市無形民俗文化財保護団体について 
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 昭和50年代、横浜市は教育委員会による市史編纂の一環として市域に伝承されている様々な民俗芸能の調査に着手します。まず、昭和50年12月に横浜市民俗芸能現況調査団が結成されます。約2年にわたる調査の結果、昭和52(1977)年に横浜市内に継承されている無形民文化財の中から、20団体が市の保護団体に選出されました。このうち、いわゆる祭囃子の団体(当時、市内だけでも100を優に超える数が存在した)として選出されたのは阿久和囃子保存会、横浜関古式囃子保存会、そして川島囃子連中の3団体のみでした。このことは当時の川島囃子の技術が専門家や研究者から高く評価されことを物語っています。そして、翌年から市の認定証が発行されるようになりました。その後、他団体の認定の取消し・新認定をへて令和3年度現在、認定されているのは72団体となっています。川島囃子は最初の認定から40年以上を経た令和3年度も途切れることなく認定され続けています。

9.横浜市民俗芸能大会 
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 保護団体に認定された郷土芸能の市民への紹介の場として市教育委員会の主催による「横浜市民俗芸能大会」が開催されました。第1回は昭和52年11月13日、教育文化ホールにて開催され、認定を受けた20団体が参加し盛大に行われました。その後、同大会は新たに認定された団体の紹介の場を兼ねながら平成7年12月3日の第19回大会まで開催されていたようです。川島囃子はそのうち第1,2,4,8,10,12,16回の計7回出演しました。第12回は市政100周年記念プレイベントとして開催されています。現在は市の主催の大会は行われておらず、一部、区主催の行事として開催しているところがあります。

10.海外公演 
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@アイルランド公演
 平成11年11月、川島囃子は友好国であるアイルランドとの文化交流事業の一環として、横浜市長の親書を携えてアイルランド公演を行いました。現地に一週間滞在し、ダブリン、ゴールウェイ両市の劇場や総理府、小学校などで伝統の舞を披露し、好評を博しました(平成11年11月16日付の神奈川新聞に市民との交流の様子が大きく掲載されました)。

Aベトナム・ハノイ公演
 平成28年5月ベトナムのハノイで公演を行いました。ハノイ青年劇場、国際交流センター、ハノイイオンモールなどで計7回公演を行ない、現地の方々に大歓迎を受けました。国際交流センターでは会場(屋外)では見物の人が入り切れずに実際には見ることのできない場所にも大勢の人々が集まってその雰囲気を味わっている様子が伺えました。国営放送のニュース番組でも時間を割いて取り上げられるなど地元メディアの取材も多数受け、人々の関心の高さを実感しました。

Bベトナム・ホーチミン公演 《ベトナム・ホ−チミン公演の様子
 平成30年9月ベトナムのホーチミン市で公演を行いました。GEMセンター、VJIT(日越工業大学)、HUTECH大学、イオンモール・ビンタン店、ベトナム国家大学ホーチミン市校等で公演を行いました。このツアーでは特に若者(大学生等)と触れ合う機会が多く、彼らが我々の芸から日本の伝統の一つを学び、それを大変好意的に受け取ってくれていることを強く感じることができました。

11.主な活動記録 
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■毎年の行事
1月 正月の獅子舞、消防出初式、賀詞交歓会

 獅子舞は夏の祭礼とともに川島囃子にとって重要な行事です。地元では2日に2班、3日には3班の編成で家々を回ります。「地の者」と呼ばれる古くからの地元の方々に特に大変喜ばれており、多数の方から「獅子舞に来てもらわないと一年が始まらない」というお言葉をいただいております。《H26.1 お正月集合写真


<正月獅子舞渡御・地元の家々を回る>

過去には相鉄ジョイナスや横浜高島屋、伊勢佐木町商店街周辺(中区伊勢佐木町5〜6丁目、末吉町、若葉町)、保土ヶ谷区浅間町界隈、戸塚区名瀬町周辺その他様々な地域に長年に渡り要請に応じて獅子舞渡御を行っていました。しかし、時代の変遷によって様々な理由から多くの地域や商店街等で獅子舞自体をやらなくなってしまい、それらの依頼もかなり減ってしまいました。これは川島囃子のみならず、他の囃子連でも同じような状況が見られます。現在ではお年寄りの施設や幼稚園・保育園等からの依頼を多数いただいております。恒例の保土ヶ谷区消防出初式、保土ヶ谷区賀詞交歓会は西谷囃子との交代で隔年出演となっています。
6月 天王町商店街祭礼
 かつては祭礼の囃子方として地元のみならず、あちこちから依頼され出張していました。その際、以前は宿泊が当たり前でしたが現在では日帰りのみになっています。天王町商店街の祭礼はその中で唯一現在まで続いているもので、多数の出店屋台が所狭しと軒を連ね、大小の神輿も繰り出し、多くの人々で賑わいます。我々は開催期間の2日間を山車に乗り囃子方を務めます。 《R1.6 天王町山車写真
8月 地元・杉山神社祭礼
 我々にとってはこの地元の祭礼が原点です。最も大切にしていかなければならない年中行事です。川島囃子には鎮守の杉山神社に専用の屋台があり、神社班と山車班に分かれて演奏します。また、宵宮・本宮とも川島囃子が舞台で様々な踊りのレパートリーを披露します。 《H25.8 夏祭りの様子
9月 敬老会
 川島東部連合町内会は第1〜6まであります。各町内会で開催される敬老会に分担して参加しています。毎年感謝のお言葉を多数いただきますが、元気な川島のお年寄りから我々も“やりがい”という名のパワーをいただいているのも事実です。
10月 JA農業まつり
 メンバーの大半が地元の農家なので、毎年楽しみにしている行事です。
近年では踊りの一部に隣の西谷囃子も参加し、共演も度々しています。
■その他(主なもの、平成以降)
平成 元(1989)年
・横浜博覧会YES'89公演
<YES'89・日本丸前で記念撮影>

平成 9(1997)年
  ・保土ヶ谷区「宿場大学」コンサート(岩間市民プラザホール)
平成11(1999)年
・アイルランド公演
平成14(2002)年
・第50回横浜開港記念みなと祭スーパーエキシビジョン
<第50回みなと祭・赤レンガ倉庫前で記念撮影>

・サッカーワールドカップアイルランドレセプション
・洪福寺松原商店街50周年記念イベント
平成15(2003)年
・セントパトリックデーパレード参加(東京・表参道)
平成16(2004)年
・セントパトリックデーパレード参加(東京・表参道)
<セントパトリックデーパレード・出発前に(東京・表参道)>
平成17(2005)年
・セントパトリックデーパレード参加(横浜・元町)
・川島小学校創立140周年記念式典・祝賀会
平成18(2006)年
・横浜建設労組50周年記念式典
・横浜三渓園開園100周年記念行事
<横浜三渓園内 重要文化財 旧燈明寺本堂・獅子二頭立舞>
平成19(2007)年
・保土ヶ谷区制80周年記念パレード
※この年、地元の鎮守・杉山神社境内に囃子専用屋台を新設
平成20(2008)年
・セントパトリックデーパレード参加(横浜・元町)
平成21(2009)年
・インターナショナル・フットボール・フェスティバル2009(しんよこフットボールパーク)
・セントパトリックデーパレード参加(横浜・元町)
平成24(2012)年
・保土ヶ谷公園梅まつり
・川島東部連合町内会設立40周年記念式典《お囃子の写真
・横浜市立西谷中学校創立50周年記念式典
平成28(2016)年
・横浜善光寺(横浜・日野)節分会
・ベトナム・ハノイ公演
・保土ヶ谷区ふれあい民謡舞踊協会30周年記念大会
平成29(2017)年
・横浜善光寺初祈祷
平成30(2018)年
・横浜善光寺初祈祷
・ベトナムフェスティバル2018《ベトナムフェスティバル2018出演の様子
・ベトナム・ホーチミン公演
平成31(2019)年
・川島御嶽神社鳥居再建神事
・地域ケアプラザ「川島文化祭」
・相鉄・JR直通線開業記念西谷周辺地区御礼の会
令和2(2020)年〜
新型コロナ蔓延防止への対応で正月獅子舞渡御・祭礼・イベント等はごく一部を除き中止となっています。
再開された時には順次掲載していきます。

12.最後に 
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 昔は地域の祭礼では欠かせない存在であった、祭囃子。娯楽の多様化の影響もあり、昭和の終わりころにはかつての勢いは失われつつありました。祭礼そのものは開催されてもそこに流れる囃子は録音されたもの・・・そんな光景も今では珍しくなくなりました。実際に、他の昔ながらの囃子連が後継者不足から継承を断念せざるを得なかった事例を我々も見てきました。しかし、昨今の「和(日本)の伝統」を見直そうという気運からか、祭囃子も再び脚光を浴びつつあります。それぞれの地域の方々が、囃子を始めとするそれぞれの地元の伝統芸能に「生で」触れていただきたき、次世代へと引き継いでいただくことが我々川島囃子の願いです。


〜番外編〜
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                                     〜川島囃子・余話〜
 

その1〜川島囃子には女性がいない?〜
 現在ではどこの囃子連でも普通に見られる女性の囃子方ですが、川島囃子は長い歴史の中で女性を採用したことがありません。何故でしょうか?もちろん、そこには女性蔑視の思想があるわけではありません。むしろ、逆の考え方が根底にあると言えます。
 川島囃子は一人前と認められるまでに鳴り物と踊りを一通り習得しなければなりません。囃子方なのですから鳴り物はすべてできて当たり前。踊りに至っては鳴り物ができない者の踊りは半人前としか見られていませんでした。もちろん、得手不得手、向き不向きということもありますから、現場ではそれぞれの得意なものを割り当てる傾向はありますが。しかし、この方針が、実際にメンバーの急な欠席、あるいは複数の依頼を同時に請け負った時のやり繰りに非常に役に立っています。
 さて、話を戻しましょう。ここで、もし女性がメンバーにいたとしたら・・・一番問題なのは「岡目」の踊りです。川島囃子では岡目踊りは優雅さよりも笑いを誘う滑稽さに重きをおいています。男性が女性を踊るからこそ、の面白さを前面に出しています。これを子供が踊るのであれば男女関係なく微笑ましさを誘えるでしょう。しかし、大人の女性が岡目を踊るのでは男性が踊るのとは違ったものになってしまいます。第一にはリアル過ぎて面白味がなくなってしまうということ。さらに言えば、無理に滑稽なものを女性に求めるのは女性を貶めることにつながりかねません。しかし、現場で川島囃子の岡目を踊れなければ一人前には永久になれません。少々回りくどい話になってしまいましたが、川島囃子に女性がいない理由にはこのような女性に対する配慮があるのです。
 とはいえ、昨今の多様性を重んじる風潮の狭間で、我々も伝統を重んじながらも女性メンバーの採用をどう考えるか、というジレンマを感じ始めているところです。

その2〜西村和泉守の鉦〜
 囃子連の多くが「西村和泉守」の銘が刻まれている鉦を所有していると言われており、川島囃子も例外ではありません。この銘は江戸時代初期から長く続いた鋳物職人の銘であるようで、現在でも横浜を含め、関東の広い範囲にこの銘が刻まれた鉦が残されています。「西村和泉守」の銘は名工として長きに渡って受け継がれ、それ故、この銘を刻んだ贋作も存在したことは否定できません。実際のところ、川島囃子が所有している鉦が真に「西村和泉守」を引き継いだ職人の作はどうかはわかりません。しかし、いずれにせよ、この銘が刻まれた鉦は古くから存在しており、これを所有している囃子連は、それなりの歴史を経て現在に至っているといえるでしょう。
 川島囃子に保管されている和泉守の鉦は写真のように一部が欠損しており、現在は使用されていません。

<西村和泉守作の刻印がある鉦>

その3〜笛にまつわる二つの事件〜
<笛折り事件>
 戦後間もないころ、川島囃子は当時の青年団を中心とした若者が多数加わり、復興に向けて明るい時期を迎えることになりました。ところが、せっかく弟子入りした若者たちがある騒動を起こします。
 川島囃子は昔から川島地区以外で現在の保土ヶ谷区域を初め、市内の様々な地域で祭礼の囃子方として招聘されていました。そのような中、昭和20年代の半ば、若者たちが新稽古(新人)として迎えた隣町、仏向町の祭礼でのことでした。仏向町の祭礼では丘の上の方にある神社とふもとの町場の二手に分かれて囃子を打っていました。当時の親方連中の判断で新稽古には上の神社を任せることになりました。当日は7,8人の新稽古が参加していました。夕方になり、人出も多くなって祭りの雰囲気も盛り上がってきましたが、出店も多く、従って人出も多く賑わっているのは下の町場の方。上の方へは参拝の者が上がっては来ますがお参りが済めばさっさと降りて行ってしまいます。囃子もやっては見るものの、賑わいがなければどうにもパッとしません。新稽古とはいえ、三か月程度、集中的に特訓ともいえる稽古をしたので、とりあえず人前で「ひとっ囃子」(囃子の一通り、初めから終わりまでの演奏。曲目で紹介した「基本」だけでもよい)ができるまでになっていました。ですから、自分たちのウデを披露したくてウズウズしていたのです。ところが、この有り様。そして、血気盛んな若者たちのこと、そうこうするうちに誰ともなく「バカバカしい、やめだ、やめだ!」「帰るぞ!」との声が上がり、皆で持ち場を放棄し、ふもとへ降りてしまいました。親方連中に断るでもなく、さっさと帰途についた新稽古の若者たちは帷子川に架かる両郡橋を渡る段になって苛立つ気持ちに任せて全員が膝で笛を折り、次々と橋の上から川へ投げ込んでしまい、そのまま帰ってしまいました。
 これだけのことを起こしてしまい、川島囃子の面目は丸潰れ。最早終わりかと思われましたが、幸いにも騒ぎを起こした新稽古の親で親方連中と新稽古の仲裁を買って出てくれる人が現れました。親方連中と新稽古は渋々ではあったものの仲直りをして、仏向町へは改めて謝罪をし、何とか丸く収まりました。そして、“雨降って地固まる”とは正にこのことで、実はこの時の笛を折った若者たちが気持ちを入れ替えて稽古に励むようになり、その彼らが後の川島囃子復興の中心となっていったのでした・・・但し、本人たちの回想では、実は、反省は二の次で「やるからには、他の仲間には負けたくない!」と更にライバル意識が高まり、この競い合いこそが囃子の存続、そしてレベルアップに繋がったとのことでした。

現在の両郡橋。橋梁は架け替えられて当時の面影はないが、若者たちはこの上から折った笛を川に投げ込んだ。(相鉄線・上星川駅そば)


<黒笛事件>
先に記したように、川島囃子は川島以外の地域でも祭りの囃子方として招聘される機会が多数ありました。
 昭和30年ごろの話です。ある祭礼に呼ばれ、囃子を請け負っておりました。実は、その地域でも囃子連があったのですが、技術的に今一つだったようで、川島囃子に要請がきておりました。そこでちょっとした事件が起こります。
 午後の休憩時、三名ほどが笛を屋台においてその場を離れておりました。休憩が終わり、戻ってみると、さて、置いてあった笛が見当たりません。辺りをくまなく捜しましたが見つかることはありませんでした。子供の悪戯か、あるいは盗難か。皆が想像を巡らしたものの、時すでに遅し、その日は最悪の気分で終えることとなりました。
 次の年、また同じ祭礼に呼ばれ、あまり気乗りはしませんでしたが、とりあえず出向いてみることにしました。祭りが始まり、ほどなく、地元の囃子連の演奏が始まりました。そこで川島の面々が目にしたのは・・・真っ黒に塗りつけられた笛を吹くある人物の姿でした。当時、川島囃子の連中が知る範囲では黒笛を吹く囃子連はいませんでした。さらに、聞こえて来る笛の音が、技術的なものはともかく、耳に覚えがある音です。疑惑は深まり、合間にその囃子連の一人を呼び出し問い詰めると、川島囃子から盗んだことをあっさり認めました。そして、バレない様にと盗んだ数本の笛をすべて油性の塗料で真っ黒に塗ってしまったのでした。川島囃子の笛がいつもいい音を奏でていたので、きっといい笛を使っているに違いない、と出来心でやってしまったとのことでした(実際、ちょっと値の張る笛だったようですが)。
 とりあえず、笛は戻りました。しかし、川島囃子としては黒いままの笛では体裁が悪く表舞台では吹けません。いろいろ試しましたが塗料をきれいに落とすことはできませんでした。仕方なく、これらの笛は新稽古の練習用に格下げされ、その後しばらくの間、新稽古は漏れなくこのエピソードを聞かされることになったのです。
 その後、黒笛は廃棄され、件の囃子連も、すでに消滅しています。

その4〜地元の支えあっての川島囃子〜
 現代では、いわゆる町内会主催の祭礼でも高性能な音響機器が賑やかに音楽を奏で、様々なパフォーマンス団体が祭りを華やかに彩ります。しかし、昭和の中頃までは祭りの花と言えば神輿、そして双璧をなすのが囃子方で、まさに祭りの中心的存在でした。そのような存在の川島囃子に地域を挙げて支援してきたことを示す資料が残っています。
 昭和4年作成の「里 原 共有太鼓寄付帳」というもので、川島の「里」地区と「原」地区(簡単に言うと川島の丘の下の地域と上の地域)の地元有力者たちが金銭を出し合って川島囃子のために太鼓等の購入資金を寄付し、その収支を記載した書付です。そこには同年5月5日に里地区25名・原地区11名で計100円ほどの寄付が集まったと記載されています。さらに、これに囃子方自らも出資し、計110円余りを持って、早速、5月10日に5名で東京浅草吉野町の南部屋に出向き、大胴と付太鼓等を購入したとの追記があります。このように、川島囃子は昔から地元の人々に支えられ、その支援と期待に応えるべく確かな芸を提供してきたと言えます。

「里 原 共有太鼓寄付帳」(抜粋)。大太鼓(大胴)四拾五円、ツケ太鼓四拾円等の記載がみられる。食事代や交通費の支出もあり、
囃子方の出資の一部はこれら実費を見越してのことだったか。「神中気(汽)車賃」(神中鉄道=現在の相鉄線)の記載が時代を感じさせる。

その5〜囃子に懸けた生涯・三村六三の功績〜
 三村六三(みむら・むつみ 1923〜2010)は昭和後期に川島囃子の代表を務めた人物です。地元・川島の発展に尽力し、その一環として川島囃子継承に最も貢献した人物と言えるでしょう。心底から川島囃子を愛し、鳴り物にも踊りにも抜群の才能を発揮していました。彼は早くから川島囃子の持つ「地域に根差した民俗芸能ならではの魅力」に気付いており、その魅力を広く、時には川島地区にとどまらせることなく発信するべく行動しました。
 彼の功績として大きなことは二つ挙げられます。一つは五人囃子の演奏が中心だった川島囃子の踊りを充実させる足掛かりを築いたことです。川島囃子では昔から踊りが存在してはいましたが、見様見真似で取り込んだものも多く、六三は満足していませんでした。踊りを全般的に充実したものとするため、市内、ときには市外でもあちこちの囃子を訪ねてはその囃子の踊りを見学させてもらい、その囃子連の了解の元、芸として参考になる部分を記録し持ち帰って研究していました。当時、川島囃子には六三よりやや若い「三村佐一」という踊りの名手がいて、特に岡目の踊りは六三と協力しながら佐一を中心に確立させていきました。また、獅子舞については現在の相鉄線を挟んで北部に位置する「池ノ谷戸」と呼ばれる地域で別の囃子に所属していた「中田竹松」という、これもまた獅子舞の名手と言われた男を、たまたまその囃子が解散してしまうという情報を耳にし、仲間に引き込むことに成功しました。川島囃子の踊りの成り立ちはこのような六三の努力があってのことであり、後進の我々もこのような六三の研究熱心な精神を受け継いでいることは言うまでもありません。
<正月に弟子たちと。二丁太鼓を下げているのが六三。隣は佐一。平成18年ごろ>

 六三の功績としてもう一つ、忘れてはならないのは、その後進の育成に情熱を注いだということでしょう。
 昭和30年代後期から40年代初頭にかけて同じ三村の身内等で、ある程度の後継者を確保できていたものの、さらにその次の世代のことに懸念がありました。昭和も50年代に入り若者の価値観がすでに大きく変わっていて、地元で生まれ育った子供たちでもなかなか囃子に興味を持ってくれません。また、市の無形民俗文化財保護団体の認定条件の一つとして後継者の育成が充実していることが必須でした。そこで地元の横浜市立西谷中学校に協力を求めることになりました。昭和53年(1978年)のことです。
 西谷中学校は地元の中学校と言っても学区は広く、大半の生徒が川島育ちではありません。川島囃子は慣例的に地元の親類縁者が受け継いでいくのが自然であり、まったくの部外者を仲間にするという発想は六三以外の者には考え付かないことでした。幸い、六三の人柄が功を奏し、仲間内でこの方針に異論を唱える者もなく、学校側からも理解を得て見込みのある4名の生徒を推薦してもらい、加入の運びになりました。年月の経過とともにその内の3名はすでに脱退してしまいましたが、残った1名は六三の熱意に応えるべく、川島囃子の中心の担い手の一人として成長するに至りました。
 六三はその温和な人柄が地元で知られた人物でしたが、こと芸のこととなると柔軟性を持ちつつも安易な妥協を許さない厳しさを持った人でもありました。そして、新稽古が投げ出しそうになると「囃子は覚えて(習得して)おけば荷物にならない。しかも覚えておいて楽しいことはあっても損になることは絶対ない。」と芸としてのその意義を繰り返し説いていました。
 我々は川島囃子を「囃子方自身が心から楽しむことができるまでに芸を磨き、それを遍(あまね)く披露すること」が人々の心を豊かにし、特に地元・川島を盛り立てるための一助となることを六三から学んだと言えます。

(令和4年 記)

 
尚、当ホームページで使用している用語につきましては「川島囃子」としての代々の使われ方であり、他の囃子連や一般的な使われ方とは違う意味のものもあります。それらは単純に誤りとして捉えるのではなく、伝統の一部であると理解ください。
 

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