旧吉田茂首相邸(火災前に作成したもの)

―― 半ば以降に旧吉田茂首相に係る資料を紹介しています(大磯町資料館の特別展に基いて) ――


終戦直後の混乱期5回に亘って内閣を担った元首相の吉田茂は、養父の健三が明治17年に建てた
別荘を、戦後総理として外国貴賓を招くために豪壮な邸宅に建替えた。これは吉田御殿と言われ、当
時の政治家の多くが大磯詣でと称して訪れた場所である。
没後は西武鉄道の所有するところとなり現在に至る。年に1回首相経験者がここに集まり往時を偲んだ。
昭和54年カーター大統領も訪問大平総理との首脳会談も行われた。
最近は西武の業績悪化もあって手放す事になり、その行く末が案じられ、話題になっている。
所在地は大磯町西小磯、海岸に面した敷地1万坪、建物は300坪総檜造りである。


敷地内の建物や庭園の配置図

上空から見た建物全景

2006年6月の朝日新聞の天声人語に掲載された昨今の状況

内門:昭和26年の日米講和条約締結を記念して
建てられ、講和条約門とも兜門とも言われる。
釘は一本も使ってない。

内門の扉は竹の纂で出来ている。

門の袖には控えのベンチがある。
窓も竹でスライド式の開閉可。

内門の内側、桜が丁度満開。

本邸、左のガラスの建物は欄の間で温室、サンルーム

本邸の玄関へのアプローチ

本邸の会議室:
かっては国の重要事項が決められたのだろう。
応接室:賓客はこの部屋まで招かれた。

心字池の南側から本邸を望む。

庭の一部は竹やぶ、その中に散歩道もある。

吉田さんが可愛がったポチの墓が庭の隅にあった。

七賢堂:
岩倉具視、大久保利通、三条実美、木戸孝允、伊藤博文、
西園寺公望、吉田茂の7賢人の写真が内部に掲げられている

七賢堂の内部

以前は五賢堂と称していたが、
佐藤栄作が西園寺と吉田を加えた。


吉田茂元首相に係る旧吉田邸再建記念特別展示会の内容紹介 - - -大磯町郷土資料館

平成21年3月22日の火災で焼失した旧吉田茂邸を再建しようと、同年7月に「大磯町旧吉田茂邸再建基金」を大磯町は
設置し、募金活動を開始。その後、平成24年に神奈川県と大磯町が再建事業に係る基本協定を締結した。平成27年に
再建工事が始まり、翌年工事が完了、ほぼ焼失前の邸宅を再現出来た。平成28年4月1日一般公開した。それの係る特
別展があり、ここに紹介する



大磯に在住(居住又は別荘として)した方々の位置関係図 吉田茂さんは左上


焼失前の旧吉田邸 以下焼失前の吉田邸内部写真


2階の書斎・官邸へ直通の黒電話が左に見える


2階の応接室


2階 金の間(富士山が見える)


銀の間の書斎


銀の間の寝室


ローズルーム(食堂 来客の接待に使われた)

和食器一式 吉田茂が特注
 富士山・松林など大磯と邸宅がモチーフに描かれている


大磯の私邸について


安田靫彦(文化勲章受章者)の絵画
安田は大磯に在住し、吉田邸を時折訪れていた


地元の西小磯子供会に寄贈した旗「雲龍」と揮毫


扁額 大磯中学に寄贈 吉田茂書(雅号は素淮(ソワイ))
桃李不言下自為蹊(桃李言わざれども、下自ずから蹊を為す)

鳩杖(御下賜品):昭和40年吉田の米寿のお祝いに昭和天皇より
下賜された杖、持ち手部分に鳩の意匠が施されている


吉田茂書「一枝梅動乍催春」
葬儀のお返しに使った風呂敷を軸にしたもの


清水崑氏が描いた似顔絵


吉田茂大勲位菊花賞受賞を祝い
大磯小学校鼓笛隊が吉田邸を訪問お祝いの演奏をする


皇太子夫妻(今上天皇)吉田邸を訪問 昭和41年


西独アデナウアー首相が吉田邸を訪問


外務省に入省した外交官補を吉田邸に招く


昭和26年9月サンフランシスコ講和条約で署名


講和条約署名の模様


サンフランシスコ講和条約について


日本国憲法原本:首相兼外務大臣として署名


左:吉田茂、雪子夫人、長女桜子の家族写真
右:吉田と2人の子供


若き日の吉田茂


吉田茂の生い立ち


焼け落ちた旧吉田邸


吉田茂葬送 吉田邸の門前の様子


吉田茂葬送の車列を見送る中学生など町民が国道に並ぶ


大磯・吉田邸から斎場迄のコース


吉田健一氏が所蔵していた創作こけし