勝田・かつまた氏の歴史(九)

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備考@ 勝田(かつまた)氏と勝間田・勝俣・勝又・勝亦・勝股氏

平安末期の勝田(かつまた)氏発生当時、地名「勝間田」の公式表記は既に「勝田」に変更されていたから、名字の表記も「勝田」であったと思われる。が、「勝田」の読み「かつまた」に合わせて「勝間田」と表記していた可能性は有る。ただし、有るとしても三代目の総領成長の時までである。

 「吾妻鏡」は成長の名字を当初「勝間田」と記しているが、文治二年(一一八六)四月以後成長の名字は全て「勝田」と記し、成長の子と見られる兵庫助(一二五〇)も「勝田」である。「正續院仏牙舎利略記」が中国の宋に渡った(一二一六)成長を「勝間田兵庫頭」と記したのは筆者の無知によるものか、読みに合わせて「勝間田」を使用したものと考えるべきだろう。この事は「勝田」と表記しても「かつまた」と読んでいた証拠でもある。

 室町期に入って、太平記等の軍記ものを別として、遠江国守護や幕府が出した公式文書類及び将軍奉公衆名簿は全て「勝田」である。即ち、少なくとも総領や将軍奉公衆などの一族中核部分は名字を「勝田」と表記したのが判る。

 明応二年(一四九三)の奉公衆名簿の「勝田越中守」に「カツマタ」と振り仮名をしているから、一族崩壊のころまでは「勝田」を「かつまた」と云っていたと見られる。

 勝田(かつまた)氏の中から「勝間田」と表記する者が出たのは長門国の小守護代になった勝間田氏の系譜から見ても間違い無い。この勝間田氏は鎌倉末期の勝間田備前守忠保(勝田備前入道)の時に分家した際に「勝間田」の表記を使い始めた様である。しかし、子孫は将軍奉公衆名簿に勝田左近将監と記されている。勝田氏の一族として、公式には「勝田」と記されたのである。

 「勝俣」氏や「勝又」氏の名が資料上で確認されるのは勝田(かつまた)氏一族崩壊後のことであるが、これ以前から勝田氏の中にこの表記をする者が居た可能性は高い。武田氏の支配下に移動した勝俣氏は先祖守氏が勝田庄勝俣村(榛原町に勝俣の地名が現在も残っている)で生まれて勝俣を名乗ったのに始まったと云うし、信濃国に移動して下条氏に従った勝又氏の先祖は遠州浪人勝又和泉であると云う。

 勝田(かつまた)氏健在時期の遠江国においては勝手に「かつまた」と称する事は許されなかったであろうから、この勝俣氏や勝又氏は勝田氏一族の者であろうし、勝間田氏と同様に分家した際に表記を変更したものと見られる。

 今日の「勝田」氏は「かつた・かつだ・かった」で、「かつまた」と云う者は居ない。が、勝田城主勝田(かつまた)修理亮の子孫や勝田(かつまた)播磨守の子孫(或いは親戚)の名字は今も「勝田」であるから、今日の勝田氏の中には「勝田」の「読み」の方を変更した勝田(かつまた)氏の子孫がかなり居ると見なくてはならない。これが今日の「かつまた系勝田氏」である。

 そもそも「勝田」を「かつまた」と読んでもらう事や「かつまた」を「勝田」と記してもらう事には無理が有ったし、一族崩壊後の移動で新たな環境に入ってからはなおさらである。「かつまた系勝田氏」が表記の方を変更しなかったのは、一族中核として使用してきた「勝田」に執着した為であろう。(所持していたであろう幕府発給文書の宛先も「勝田」と表記されていたはずである)

 (注)勝田(かつまた)氏とは全く別系の勝田氏も居るかも知れないが、勝田(かつまた)一族ではあるが一族崩壊前から「かつた」と称していた者がいる可能性が高い。

 (注)明治維新の時、地主勝又氏より勝又氏の屋号「勝田」をもらって名乗ったという勝田(かつた)氏がいる。この頃、勝間田を勝田に改めたという勝田(かつた)氏がいる。この頃、勝田庄内の地名「戸塚」を代々名乗っていた彦根藩士の戸塚氏は名字を勝間田に改めた。

 

備考A 「一代」は約三十三年間

「一代」とはおおよそ何年間か。これが判れば、例えば「初代から数えて一〇代目」と云う場合、初代から一〇代目の間はおおよそ何年間かを推定することが出来る。

○以下、清和源氏の場合で計算すると

 源満仲の死去は西暦九九七年で、この時八五歳。満仲から数えて九代目の頼家死去は一二〇四年で、この時二三歳。誤差を少なくするために、頼家も八五歳で死んだと仮定すると、満仲死去から頼家死去までは二六九年間である。 {一二〇四年+(八五才−二三才)}−九九七年=二六九年

 最初の満仲は死んでいるから、この間に生きたのは九代から一人差し引いた八代の人物である。

従って、一代当たりの年数は、二六九年を八代で割った年数、すなわち三三.六二年となる。

○勝田源左衛門家の場合で、同様に計算すると

 初代庸吉の死去は一六六〇年で、この時八三歳。一二代目庸典は二〇二三年に八三歳になる。同様の計算で勝田氏の場合は三三年となる。 (二〇二三年−一六六〇年)÷(一二代−一代)=三三年

○以上から「一代」の目安は約三三年間として大過ない。三三年は、親子間の年令差の平均でもある。○そこで、例えば初代から数えて一〇代目と云う場合、その間は約二九七年間となる。一〇代目の人が五〇歳なら二九七年前に初代の人も五〇歳である。 (一〇代−一代)×三三年=二九七年

○反対に、初代から現当主まで五〇〇年間経っているという場合は、初代から数えて現当主はおおよそ一六代目と推定できる。 五〇〇年÷三三年+一代=一六.一五代

○以上の計算は、親子で代々が引き継がれている場合である。

 

備考B 勝田・かつまた氏の任官

鎌倉時代から武家の朝廷官職(京官・地方官)任官は将軍の推挙で行われたが、室町幕府三代将軍義満以降は将軍が任官の権を握り、戦国期以後は諸大名が家臣に対して独自に官職名の授与を行った。鎌倉初期を別として実質の無い名目的な官職だったから、過分のものでなければ本人の希望も容れられた。このため@地頭職所有などで利害関係を持つ国の国司やA先祖と同じ官職に任官する例が多い。また、長門国小守護代を勤めた勝間田氏が代々に備前守と左近将監に任官した如く京官と地方官に併任する事も多い。応仁乱前の勝田氏の極官は京官が兵庫頭、地方官が越前守。左記は任官例。

       (京官)               (地方官)

 平安末期 左衛門尉 兵庫頭          石見大目

 鎌倉時代 玄蕃助 兵庫頭 兵庫助       越前守 備前守

      左近将監 左衛門尉 兵衛尉

 室町時代 新蔵人 兵部丞 治部丞 中務丞   肥後守 能登守 三河守 遠江守 備前守

      修理亮 左近将監 兵庫助 弾正   備後 越前守

      左衛門尉 左京亮 兵庫頭

 応仁乱後 兵庫助 左近将監 左衛門佐     播磨守 豊後守 対馬守 備前守 佐渡守

       (京官の下位の官職省略)     土佐守 能登守 伊豆守 伊予 越前 河内守

                        上総 越中守 因幡守 伯耆 伊賀守 備後守

                        山城守 安芸守 下野守 周防守 三河守

 

備考C 勝田・かつまた氏の実名

@遠江国勝田氏総領家(平安末期)     ( 長 )のぶ つね なが たけ ます ひさ 他

A薩摩国入木勝田氏本家(鎌倉末期)    ( 信 )のぶ とき とし さね ただ あき 他

B常陸国真壁勝田源兵衛家(戦国期)    ( 信 )のぶ 他                      〃             ( 重 )のぶ しげ あつ ふさ かず え

C勝田源左衛門家(江戸初期)       ( 庸 )のぶ つね もち 

       〃             ( 経 )のぶ つね ふる

D長門国小守護代勝間田家(室町初期)   ( 盛 )もり しげ

E楠木正成家臣勝田直幸の子孫勝田九左衛門家( 直 )なお

 

 ○( )の内はこの頃からの使用が確認されているの意。

 〇勝田氏諸家では、「のぶ」と読める文字を実名に使用している家が多い。これから見ると、勝田氏宗家の二代目長保は「のぶやす」、三代目成長は「しげのぶ」と読んだ可能性も有る。

 〇長門勝間田氏の「盛」使用は内藤氏(代々「盛」を使用)の子が養子に入ったのに始まる。

 〇勝田氏の元祖頼貞のごとく、「頼」は清和源氏の者が好んで使った通字である。しかし頼貞の子長保以後の通字は「長」となった。この理由は@源氏総領家に遠慮して「頼」や「義」の使用をやめたか、或いはA頼貞の子(長保)が烏帽子親の実名の一字「長」をもらって実名にしたたことに始まったのではなかろうか。長保が生まれたころの実力者に藤原頼長が居る。

 

備考D 勝田(かつまた)氏の姓           

一、勝田(かつまた)氏の「本姓」は「源」

 平安後期に源義家の子頼忠(義忠と見られる…補注@参照)の子頼貞が勝間田左衛門五郎と名乗ったのから始まったとする長門国勝間田氏の系譜(及びこれを補完する常陸国本木の勝田氏の系譜)によれば、遠江国を本拠地にして活躍した勝田(かつまた)氏の本姓(本来の姓)は「源」である。

 ならば、頼貞が左衛門尉に、その子長保が兵庫頭に任官の際には源姓(源朝臣)を使ったと思われる。が、この事は史料で確認出来ていない。

 頼貞の時代の保安元年(一一二〇)に石見国大目任官を申請した「勝田宿祢兼清」が頼貞自身又は一族の者であるなら、勝田(かつまた)氏の本姓が源姓である事に疑問も出てくる。が、義家の跡継ぎ義忠が源氏の内紛で暗殺されて間もない時期の事なので、或いは清和源氏から「放氏」されたために、天皇から新たに姓「勝田宿祢」を与えられたのかもしれない。

 二十七歳で死去した義忠は平忠盛(尊卑分脉。正盛の間違いか)の娘を妻としていた。義忠の遺児は平氏(正盛ー忠盛ー清盛)に養われたという。長保の子勝田成長が若年のとき「平三(平三郎)」を称したのはこの事に関係すると思われる。平氏滅亡後は単に「三郎」と称した。

 鎌倉期、将軍源頼朝は源姓公称を一部の御家人にしか許さなかった(弟の義経にも)し、任官も頼朝の推薦が必要になった。御家人に成った勝田氏も源姓公称を許されなかっただろう。

 鎌倉後期の勝田(かつまた)長清が藤原姓を称したのは任官(左近将監、越前守)等の際の便宜上からであろう。この時期でも源姓の公称は困難だったと見える。

 勝田(かつまた)氏一族は足利尊氏の挙兵や政権創設に率先参加して政権中枢に進出した。しかし、権力を確立した後の足利氏とその一門としては身近の勝田氏が源姓を公称するのは不都合だったであろう。将軍尊氏の頃、長門国系勝田(かつまた)氏の勝間田忠盛がそれまでの源姓を藤原姓に改め、尊氏の弟足利直義に従っていた勝田能登守助清は直義の命で秦姓から藤原姓に改めたと伝えているから、或いは勝田氏の一族は総べて藤原姓に改めさせられたのかもしれない。

 藤原姓であると云う勝田氏やかつまた氏の伝承の大方が肝心な発生経緯が具体的でなく、具体的なものであっても年代等の点で検討に耐え得るものが無い。それはこの改姓の為と思われる。

 以上のような困難な状況が続いたのだが、長門国勝間田氏・常陸国本木勝田氏・武田家臣に成った葛俣氏らの如く勝田(かつまた)氏一族中核に近い者の子孫は本来の姓「源」を伝えていたのだった。 以上、確定的とはいえないが、勝田(かつまた)氏の本姓に関する現段階での結論である。

二、系譜等で姓を伝える勝田・かつまた氏

【源姓と云うもの】

〇長門国の勝間田氏

 源義家の孫勝間田左衛門五郎頼貞が元祖で、子孫忠盛の時に源姓を藤原姓に改めたと云う。

〇常陸国本木の勝田氏 (補注・常陸参照)

 勝田五郎源成信の後胤、勝田能登守助清の子孫と云う。勝田(勝間田)氏の一族と見られる。

〇下総国東金の勝田氏 (補注・下総参照)

 源義家子孫里見義連の子義隆が榛原郡勝田城主に成り勝田を名乗ると云う。ただし、義隆は勝田(かつまた)氏の元祖ではありえないので、勝田(かつまた)氏の養子に入ったものか。

〇遠江国榛原町の戸塚家由緒、他 (勝田氏物語@)

 勝田(かつまた)氏は源義家の子横地氏の子が榛原郡の勝田を領したのに始まると云う。横地氏と勝田氏は保元の乱から文明八年の敗北まで行動を共にしている。

〇幕臣小幡氏の先祖葛俣盛次 (補注・富士箱根のかつまた氏参照)

 盛次子孫は名字を「小幡」に改めていた為、「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」で「平氏」に分類されたが、系譜提出者である小幡氏自身は「源氏」と主張した。

〇信濃国佐久の勝俣氏 (興亡のなかの勝俣一族史)

 遠江国勝俣郷(勝田庄)からの移住で、「源氏の流れ」と伝える。吉良義尚の子孫とも云う。

〇和歌山藩士勝田儀左衛門

 医師勝田元寿の孫。

【藤原姓と云うもの】

〇伊勢国勝田座勝田氏 (補注・伊勢参照)

 伊勢猿楽座の者が後醍醐天皇から藤原姓と名字勝田を与えられたと云う。

〇観応元年の但馬国守護今川頼貞の被官勝田繁三郎

 藤原信貞と称す。「貞」は今川頼貞の貞と見られる

○永和元年の勝田詮季

 大嘗会行列前陣に「藤原詮季(勝田)」の名。別の史料に左衛門府「武家、藤原(勝田)倫(詮)秀」と。

応永二十二年の勝田定長(勝田太郎左衛門定長)

大嘗会御禊前後陣供奉人左衛門府の「尉」に「(勝田)藤原定長(蘇芳袍)」と。

〇福島正則家臣勝田武右衛門 (補注・伊勢参照)

 先祖不明。伊勢国の生まれと云うから、勝田座勝田氏の出か。

〇徳川家康家臣勝田道順 (補注・江戸幕臣参照)

 先祖不明。三河国生まれと云うから勝田(かつまた)氏の可能性が高い。

〇徳川家康家臣(旗本)勝田伯耆 (補注・加賀参照)

 先祖不明。子孫金沢藩士。

〇徳川幕臣勝田元哲著邑、勝田典愛 (補注・江戸幕臣参照)

 先祖勝田能登守祐清は足利直義の命により秦姓を藤原姓に改めた。

〇徳川家康家臣内田氏の先祖と云う勝間田氏

 「寛政重修諸家譜」の「藤原氏支流内田」の冒頭部分に「(二階堂)行久嗣なきにより工藤次郎左衛門尉高景を養ひて子とす。これより七代遠江守行政足利家につかへ遠江国勝間田の郷を領するにより、(勝間田を)称号す」と。しかし、勝田(かつまた)氏は鎌倉初期から遠江国勝田庄を本拠地として活動している一族であるから、元弘(一三三一〜三三)の頃の人物(参考太平記・毛利家 天正本、光明寺残篇)高景や、高景より七代の行政も勝田(かつまた)氏の元祖ではありえない。

〇新篇武蔵風土記稿多摩郡記載の丸山氏先祖勝間(勝間田とも)氏

 藤原魚名の嫡子重郎光氏が遠江国榛原郡勝田に居城して勝間(勝間田)を称したという。しかし、年代等が全く合わず、勝田(かつまた)氏の元祖たりえない。勝田氏物語@に詳しい。

【平姓と云うもの】

〇金沢藩士勝田清大夫 (補注・加賀参照)

 先祖不明。

 

備考E 勝田・かつまた氏の惣領家と分家  ……一族中核部分の構成……    

倒幕と足利政権確立過程で足利尊氏と行動を共にした勝田(かつまた)氏一族の惣領家は将軍直臣(後に将軍奉公衆)の立場を確立、一族「長」の地位と平安後期から鎌倉期を通じて築いた一族の権益を安堵された。新たな権益も得たであろう。

 惣領は遠江国榛原郡の勝田庄の大方と元祖勝田五郎の墳墓地でもある飯田館(浜松市内)等を所有し、一族先祖の祭祀を主催した。一族の者の叙位任官に際しても惣領家の意向が尊重されたと思われる。

 二代長保三代成長が任官した京官の「兵庫頭」と長清が任官した地方官「越前守」は勝田氏にとっての極官であるから、兵庫頭に昇る可能性の有る兵庫も含めてこれらは惣領家の独占であった。即ち奉公衆の兵庫助(頭)は惣領家の者と見られる。「長門家」に譲った左近将監や左衛門尉など低位のものは別として修理亮等の「京官」任官者も惣領家の者と見てよいだろう。

 惣領とは別に将軍の直臣・奉公衆の地位を得た一族の者が、惣領からの独立性の強い分家に成ったと見える。以下は推定による主な分家。

 @勝田備前守忠保の養子勝間田彦太郎入道が足利尊氏に従って活躍、主として長門国に経済基盤を持つ「長門家」と云うべきもの。左近将監任官を引継ぎ、又代々備前守にも任官した。奉公衆としては兵庫助(頭)と共に一番に属した。奉公衆解体で京都から退散して大内氏支配の長門国に定着、大内氏滅亡後は毛利氏家臣。源義家の孫「勝間田左衛門五郎」から始まる系譜を伝承した。

 A足利尊氏軍の先頭で活躍した勝田三河守の時に分家した「三河守家」と言うべきもの。子や孫が三河太郎、三河弥太郎、三河次郎左衛門尉等と呼ばれた。本領地勝田庄の内の他に周辺の水垂(掛川市水垂)や飯田館(浜松市飯田)近くの中田等に領地を得たと見られる。この他にも「家の子」として勝田庄に続いた家はいくつか有ったのだろう。

 B美作国勝田郡・越前国・能登国・和泉国に散在した勝田(かつまた)氏の権益を基盤にして成立した「能登守家」とも云うべきもので、鎌倉末期に勝田左衛門尉直幸が楠木正成配下で活躍、勝間田新蔵人義仁が後醍醐天皇に従い、足利尊氏直義兄弟が争った際に勝田能登守助清は直義に付いた。北畠氏に従った伊勢の勝田肥後守もこの系統か。南朝方が幕府に帰参後は奉公衆(四番)に勝田能登入道、同弥五郎を出した。丹波国成松の内尾神社頭人や摂津国分郡小守護代等を勤めて細川典厩家から扶持された新左衛門・豊後などの勝田氏や「勝田五郎源成信後胤、勝田能登守助清十五代孫…」と伝承する常陸国勝田氏はこの系統か。奉公衆解体や細川氏衰退で京都や丹波・摂津から退散した。

【参考】

〇南北朝期に南朝方に加わり、結果として一族から疎遠になったと思われる人々

 @富士山裾野域と箱根域の勝又・勝俣・勝亦氏ら

 A下総中山周辺域、後に陸奥国に移動の勝田(後に勝間田・勝又・勝股・勝亦・勝馬田)氏

〇一族の出と見られるが、一族崩壊以前に他氏の被官・家臣化している者

 @勝田小次郎太夫・対馬守  渋谷被官  美作勝田庄→薩摩入木院

 A勝田繁三郎信貞      今川被官  但馬

〇遠江国の旧勝田庄内に残る地名(小字)の「三河田」や二カ所の「越前」は分家に分与の土地か。