勝田・かつまた氏の歴史(六)

                          「勝田・かつまた氏の歴史」の目次

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六 地名「勝田」と「かつまた」

 

     西暦一九九〇年頃から二〇〇五年頃にかけての調査。傍線の有る地名等は調査時点に存在していないもの。( )内の地名の読み方は「現代日本地名よみかた大辞典」による。

 

青森県

 ☆青森市勝田                     (かつた)

   勝田一丁目に勝田稲荷神社(正一位勝田稲荷大明神)がある〇勝田村は大阪落城による落人の工藤半三郎が開墾した新田に始まるという(青森市史)。

 ☆東津軽郡平内町の勝田                〔   〕

   小湊村の支村。新撰陸奥国誌に小湊について「南部往還に在て…家数百九十三軒、これも勝田を併せて二百軒。…河原町より勝田に通ず」と。

 ☆西津軽郡稲垣村大字千年字勝田            〔   〕

   稲垣村字千年はかつて勝田村と云い、千年村に改称、さらに稲垣村に合併。今はつがる市の内。

岩手県

 ☆奥州市水沢区斉勝田                 〔   〕

秋田県

 ☆秋田市豊岩豊巻字小勝田               〔   〕

 ☆湯沢市字雄勝田                   〔   〕

 ☆仙北市角館町小勝田                 〔おがた、こがった〕

   天文年間、小勝田村に小勝田伝兵衛が居住(新撰陸奥国誌)〇小勝田を流れる玉川の下流、雄物川との合流点手前約四キロの所(大仙市四ツ屋)に勝田橋が掛かっている。

宮城県

 ☆刈田(かつた)郡の勝田               〔かつた・かった〕

   江戸時代初期の「寛文版行程図」に「白石より子方勝田へ一里、勝田より寅方仙台へ十三里」と〇勝田は当時の「駅」名で現在の蔵王町大字宮に所在と見られる蔵王町大字宮の刈田峯神社は勝田宮とも呼ばれた(奥羽永慶軍記)〇寛政重修諸家譜に記載の勝田兵大夫の「家伝に、信夫庄司佐藤元が四男豊前守信、陸奥国勝田庄に住せしにより、家號とすといふ」のはこの地か〇「信夫庄」は現在の福島市の地域。

福島県

 ☆郡山市湖南町福良上勝田内、下勝田内         (かつたうち)

 ☆郡山市安積町長久保五丁目の西勝田公園        〔   〕

 ☆二本松市西勝田                   〔さいかちだ〕

 ☆白河市白坂勝多石(勝田石とも)           〔かつた〕

茨城県

 ☆勝田市                       (かつた)

   町村合併により明治期に発生した合成の新地名(自治体名)。平成年間の合併でひたちなか市に。市内に勝田泉町など勝田を冠した四町名は存続。

 ☆鉾田市徳宿字勝田                  〔   〕

 ☆久慈郡大子町初原勝田                〔   〕

   「勝田遺跡」が在る。

埼玉県

 ☆比企郡嵐山町勝田                  (かちだ)

   吾妻鑑の建久四年三月の条に「武蔵、泉・勝田」とあるのはこの地。

東京都

 ☆足立区栗原三丁目の勝田堀公園            〔   〕

   昭和六十年頃の区画整理にあたり水路「勝田堀」を廃止、堀の際に勝田堀公園を開設した〇勝田堀は勝田氏開発の水路か。嘉永六年関東御代官衆勝田次郎がこの地の水利問題に関わった(足立風土記稿)。

千葉県

 ☆佐倉市上勝田、下勝田                〔かつまたかつた〕

   建久八年(一一九七)の文書(鎌倉遺文第二巻)に「白井庄加納勝田」、鎌倉初期の順徳天皇撰の「八雲御抄」に「下総の名所に勝間田池あり。佐倉の町屋より一里東の方なり…」と記されているのはこの地と見られる〇松戸市所在の日蓮宗本土寺の「本土寺過去帳」に「カツタ」「勝田村」「下総上勝田村妙勝寺」と記載される。妙勝寺は上勝田に現存〇始めは「勝田」と記して「かつまた」と云い、後に「かつた」と云ったものと見られる〇白井庄は鹿島川中上流弥富川流域の佐倉市南端部及びその周辺〇上勝田に城跡、下勝田に勝間田池が有る〇天文の頃千葉氏の正胤が勝間田邑の勝間田城に住んで初めて勝間田(勝又)土佐守と号したという(勝間田一族の系譜)。

 ☆八千代市勝田、同勝田台               (かつた)

   この地に勝田川、勝田山円福寺が有る。「勝田の獅子舞」は「犢橋の寺が焼けたその夜三匹の竜が勝田の寺に飛んできて舞が始まった」と伝えられる。

 ☆船橋市西船五丁目の勝間田池             〔かつまた〕

   国道十四号線の為に埋め立てられて今は勝間田公園と云う。「本郷の溜池」とも云われたが、文化年間の房総叢書巻六の葛飾誌略に、この池は「下り所の池」と云われた鎌倉期からの船着場で、中山法華経寺との関係が深かったと云う。隣接の岡の上に葛飾神社が祀られている。

 ☆千葉市稲毛区園生町(字勝田田)           〔かつた〕

   園生町長者山に「勝田台古墳群」、園生町四九一―一他に「勝田田遺跡」が有る。いずれも台地の上。かつて勝田氏が居住か。

神奈川県

 ☆横浜市都筑区勝田町                 (かつだ)

   承元三年(一二〇九)の「某家政所下文」に「久良郡勝田」と(鎌倉遺文第三巻)。天正十八年の秀吉禁制に「都築こつくへ之庄の内」「かちた」と(神奈川県史3)。

 ☆川崎市高津区久末勝田屋敷              〔   〕

   武蔵国橘樹郡久末村の小字名。勝田氏居住により発生か。(新編武蔵風土記稿)

静岡県

 ☆榛原郡榛原町勝田・勝間田・勝俣           (かつた。かつまた)

   承平年間(九三一〜九三八)成立の和名抄に「榛原郡勝田(かつまた)」と。「勝田郷」は当時の行政単位の名称。美作国の勝田(かつまた)と同様、和銅六年(七一三年)の二字好字改変前は「勝間田」と記していたと推測される治承三年に「勝田山」の記録(平安遺文)〇町内に勝間田川、大字の「勝間」、大字外ノ久保に字「勝田七郎坪」〇今は「勝田」は「かつた」と云う〇この地の「勝田庄」は保延五年(一一三九)崇徳天皇の御願寺として創建された京都成勝寺領だったので、その成立は保延五年に遡るかもしれない〇この地は文明八年の敗北まで勝田(かつまた)氏一族の本拠地であったから勝田城跡、寺院、墓石など勝田氏の史跡多数が現存。ただし、勝田氏初期(鎌倉中期以前)の墓所・墓石は発見されていない〇合併で牧之原市に。(勝田氏物語、補注・遠江国勝田庄)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

長野県

 ☆下伊那郡大鹿村の渓流勝田沢(小渋川の支流)。沢41702018 〔  〕

新潟県

 ☆南蒲原郡栄町・見附市の鞘勝田            〔   〕

   大日本古文書家分け第一二上杉家文書(二二六頁)収録永正一六年の山吉政久安堵状に「大面荘見付条鞘勝田、同屋敷」と。大面荘はおおよそ現在の見附市・栄町に当たる。

 ☆柏崎市高柳町門出字勝田               〔   〕

石川県

 ☆輪島市門前町勝田                  (かつた)

   この地に「勝田寺」が有ったという(能登志徴)〇この地に「的場」など武士が居住していたと見られる地名が残っている。南北朝初期の武士勝田左衛門五郎が居住したとの説有り(能登志徴、門前町教育委員会「門前町の城館跡」)〇門前町道下元町の「鉄川の護麻堂(宝泉寺)」付近に「勝田の聖地」と呼ぶ修験者の道場跡があるという(中谷喜太郎著「能登門前」)〇この地は鎌倉時代に勝田氏が開発・居住か。(補注・能登の勝田氏)

岐阜県

 ☆下呂市金山町大字福来字勝田洞            〔かつた〕

   金山町乙原現住勝田氏(所有の山林一〇〇町歩を大洞(おおぼら)と云う)に関係か。

愛知県

 ☆西尾市上永良町勝田池                (かつだいけ)

   永良村は大永の頃中島(現岡崎市)城主由良氏領、弘治二年深溝城(現幸田町)主松平好景領、その後本多広隆(徳川家康家臣)領〇勝田氏が池の築造に関与か。現在、池は無い。

 ☆海部郡蟹江町大字蟹江新田字勝田場          (かつたんば)

   蟹江新田は寛永十三年の開拓。勝田氏が開拓に関与か。

三重県

 ☆度合郡玉城町勝田                  (かつた)

   久寿元年の光明寺文書と至徳二年の神宮引付に「狩田」と記され、嘉吉二年(一四四三)の氏経神事記に「苅田」と記されたが、文明十八年(一四八六)に「勝田」に変更されたと見られる〇勝田神社(八柱神社)、勝田大池が有る〇勝田に住んだ呪師・猿楽の座(勝田座)構成員は名字「勝田」を名乗った〇勝田(かつまた)氏の一族か、勝田氏発生か。(補注・伊勢の勝田氏)

 ☆伊賀市下友生・生琉里の勝田谷大池(今は金善池)   〔   〕

   明治三十二年に「勝田谷」に築造された池で、長楽池とも云った(田中善助伝記)。

京都府

 ☆京丹後市網野町勝田                 〔   〕

   網野町俵野に勝田池が現存。京都加茂神社領木津庄内の村名。「下加茂神戸記(広島県史古代中世資料編一)」の文永十年(一二七三)の丹後国木津庄に関する文書中に「勝田分」と。

大阪府

 ☆大阪市住吉区苅田(勝田)              〔かつた〕

   旧くは勝田と記すことも有った。細川両家記に「住吉。吾孫子。勝田。遠里。小野。築嶋さうの口。境南日々取出取合なり)と)〇真継家文書「河内国鋳物師長中連署座法掟(宝徳三年正月一一日付)」に「かつた村 一七人、代国次」と有る。「かつた村」は興福寺領河内国日置庄内に有ったが、この地か〇鋳物師国次の子孫という鋳物師の弥惣兵衛及びその子孫は勝田氏を称した(勝田太郎家文書他)。

奈良県

 ☆奈良市の勝間田の池(勝田池とも)          〔かつまた〕

   万葉集に「新田部親王に献ずる歌一首」として「勝間田の 池は我知る 蓮なし 然言ふ君がひげなきごとし」と。万葉集は西暦四百年代から七五九年までの歌を編集。新田部親王は七三五年死去〇池の所在地は奈良市の薬師寺西南約四百メートルに現存の「大池」説もあるが、池が新田部親王住居の「堵裏」に在ったことから見て親王住居跡地の現唐招醍寺域のようである(雑誌「万葉」一号)〇万葉集「尼崎本」等は「左注」で「勝田池」と記す〇山辺郡の山添村勝原の薬師寺東に勝間田池が有るというが、未調査。

 ☆山辺郡庵治村字カツマタ               〔かつまた〕

   文永十年七月付け僧実操の東大寺への寄進状に「(大和国山辺郡の)庵治村 字カツマタ」と(大日本古文書・東大寺文書)〇現在の天理市庵治町に有った地名と見られる。

和歌山県

 ☆和歌山市井ノ口字勝田                〔   〕

兵庫県

 ☆神戸市西区押部谷町木津字勝田(押部谷町字勝田とも) 〔   〕

岡山県

 ☆勝田郡勝田町、同郡勝央町勝間田           (かつた。かつまた)

   藤原宮(六九四年から七一〇年までの宮都)出土の木簡に「備道前国勝間田郡」「備前国勝間田郡荒木田里」と記されているから、「勝田」郡はかつて「勝間田」郡と記されていたのが判る〇和銅六年(七一三)に備前国から美作国が分国し、同年に地名の「二字好字改変」により「美作国勝田郡」と表記変更されたが、引き続き「かつまた」と読まれた(和名抄)〇今は「勝田」は「かつた」と云う〇宝亀八年(七七七)朝廷は河内国石川郡春日村妙見寺に美作国勝田郡の戸五〇烟を寄進(續日本紀)〇貞応二年(一二二三)京都東寺の前大僧正長厳は「那智山領」勝田庄の預所職を道厳に譲り、宝治二年(一二四八)道明に譲られた(東寺百合文書)〇観応三年(一三五二)勝田庄内の陶方地頭職に佐々木京極秀綱が元のとおり補任された(足利義詮下文・佐々木文書)〇今の勝央町勝間田に勝田郡の役所(郡衙)が有ったと見られている。勝田(かつまだ)神社有り〇平安末期から鎌倉期にかけてこの地で勝田焼(勝間田焼)が盛んだった「玉葉」治承二年三月二十三日の「勝間田湯」は現在の湯郷の事と見られる○「熊野那智大社文書」中の永正六年米良文書に「美作国勝田庄」「みまさかの国かつまたのしやう」と〇平安時代後期に「勝田郡」より勝田(かつまた)氏が発生した(補注@A)。

☆津山市勝間田町                   〔かつまた〕

   津山藩主「森家先代実禄」の慶長八年の条に、城下で最初に成立の町と云う。初め城下東端、出雲往来両側に所在。

 ☆久米郡久米南町別所の勝田坂池            〔   〕

広島県

 ☆福山市加茂町上加茂・芦原付近の勝田庄        〔かつた〕

   寛治四年(一〇九〇年)、白河院の命で「備後国勝田庄田地四十町」が加茂社に寄進された。(福山市史上巻八九頁・賀茂社古代庄園御厨)〇「親長卿記文明一五年五月二〇日・長享二年三月一八日)にも鴨(加茂)社領「備後国勝田本荘」とある(荘園志料下巻一六六八頁)〇勝田の地名は現存しないが、この地に在ったと推定されている。

 ☆安芸高田市八千代町勝田               (かつた)

   和名抄に安芸国高宮郡(現在高田郡)刈田郷あり。刈田(苅田)が勝田に転じたと見られる。

 三次市吉舎町の勝田池

   同地の横路山麓に勝田(かつた)池が有るという(吉舎町史)。

鳥取県

 ☆米子市勝田町(勝田庄)               (かんだ)

   江戸時代中期享保十九年の「伯耆誌」に「勝田ノ庄十六ケ村」と記す。〇「勝田ノ庄」は、米子域に既存の「神田庄」と弓ヶ浜半島部分(濱ノ目)を統合して成立。この際に、濱ノ目に鎮座した勝田明神を新庄の惣氏神として迎えたために庄名を「勝田」とし、呼び方は「神田」の「かんだ」のままにした。成立は天文二十二年か〇現在の勝田町の前身「勝田(かんだ)村」の発生は江戸中期以後で、この地に勝田神社(旧称勝田明神)が既に鎮座していた為に新村名と成った〇浜ノ目時代の勝田明神は「かつた」か「かった」と見られる。(補注)

 ☆東伯郡琴浦町大字勝田                (かつた)

   「経光卿記」天福元年(一二三三)五月巻(自筆本)紙背文書中の年月日未詳氏名未詳書状(断簡)に「抑伯州勝田庄、雖為六代相伝之地…去年地頭新補之上」と有る「勝田庄」はこの地か。六代にわたって親子相続したのであれば荘園成立は西暦一〇七〇年以前と云うことになる〇この「勝田庄」の領家を那智山とする説(国史大辞典)は間違い。「那智山領勝田庄」は美作国のものである〇この「勝田庄」を會見郡勝田庄とする説は疑問あり〇勝田川、勝田ケ山あり。

島根県

 ☆隠岐郡海士町大字海士字苅田(勝田)         〔かつた〕

   「吾妻鏡」の承久三年の条に「苅田郷」と。この年幕府は後鳥羽上皇をここに配流。上皇の読んだと伝えられる歌の中に「勝田池」「勝田の山」有り〇上皇在所にあてられた苅田山苅田寺轉法輪院はこの際に勝田山源福寺隠岐院と名付けられたと云う。

 ☆松江市大井町勝田谷

   「勝田谷窯跡」が在る。

 ☆雲南市大東町上佐世勝田迫

   「勝田迫横穴群」が在る。

香川県

 ☆三豊市豊中町の勝田池                〔   〕

   丸亀京極藩の郡奉行勝田五郎兵衛が旧平屋池を拡張・改修工事。寛文六年(一六六六)に完成。これにより、この溜池の名を勝田池と改名した(讃岐のため池誌・「勝田池出来の次第」)。

福岡県

 ☆粕屋郡宇美町の勝田                 〔かつた〕

   永和三年(一三七七)の文書(南北朝遺文中国四国編五)に記す「筑前国糟谷郡勝田」はこの地と見られる〇昭和期まで勝田線筑前勝田駅、勝田炭鉱が有った。

 ☆北九州市八幡東区の勝田               〔かつた〕

   勝田橋、勝田公園あり。勝山勝田神社あり。かつて勝田の地名が有ったか。或いは神社名より勝田の地名が発生か。

大分県

 ☆宇佐市大字岩崎字御勝田               〔   〕

佐賀県

伊万里市東山代町長浜字勝田             〔   〕

 

 

 

……和歌における勝間田の池、かつまたの里、かつまたの使用例……

 

(万葉集) 

新田部親王に献ずる歌一首                        親王七三五年死去

勝間田の 池は我知る 蓮なし 然言ふ君がひげなきごとし

(良玉集)

       初瀬へ参りけるに、勝間田の池を見て                    奈良県桜井市初瀬 

   朽ちにたるくゐなかりせば勝間田の昔の池とたれかみてまし    道済

(千載)

   池もふり堤くづれて水もなしむべ勝間田に鳥も居ざらん 二条太皇太后宮肥後

(後拾遺)

   鳥も居て幾世経ぬらん勝間田の池にはいひの跡だにもなし     範永

(新拾遺)

   かつまたの池の心のむなしくて氷も水も名のみなりけり      寂然

(哥枕)

   年を経て何頼みけん勝間田の池に生ふてふつれなしの花   よみ人しらず

(家集)

   かつまたの池にはいかに杜若水なしとてやにほはざるらん     慈鎮

(家集)

   勝間田の池に浮寝の床絶えてよそにぞすぐる鴨の群鳥       慈鎮

(家集)

   下はよも氷もあらじ降りつもる雪のみ深きかつまたの池      家隆

(家集)

   水なしと聞きてふりにし勝間田の池あらたむる五月雨の頃     西行

(新撰六帖)

   かつまたの池には何ぞつれなしの草のさてしもおひにける身よ   知家

(夫木)

長久二年の祐子内親王家名所歌合                        一〇四一年

苗代の水くみにこしけふよりは、早苗とるらむかつまたの里   読人知らず

(夫木)

   勝間田の池の氷もとけしよりやすの浦とぞ鳰鳥もなく       好忠

(夫木)

   かつまたの池も緑にみゆるかな岸の柳の色に任せて        顕仲

(夫木)

   霜がれの芦ばかりこそかつまたの池のしるしに立ち残りけれ    大弐

(夫木)

      かつまたのさと                  参議為相卿

いとふなよきくかは渡る道をよきて とはんと思ふかつまたの里         遠江榛原郡の勝田庄

(夫木)

      永仁二年春藤原長清家にて名所花を        前参議為相卿

   たつねきてかつみるからにかつまたの花の陰こそ立ちうかりけれ         遠江榛原郡の勝田庄

 

(注)「夫木」は「かつまたの里」の住人勝田長清編纂の歌集「夫木抄・夫木和歌抄」のこと。