勝田・かつまた氏の歴史(五の三)

                           (注)「勝田・かつまた氏の歴史」目次

                       http://www7b.biglobe.ne.jp/~katumatagorou/index.html

 

 

…… 近畿地方 ……

 

   〔山城・大和・和泉・河内・摂津・丹波・丹後・但馬・近江〕

この地域の地名「勝田」は大和国に勝間田池(勝田池とも)丹後国に勝田(勝田池)がある。が、そこから勝田氏発生の伝承等はない。勝田氏の初見は承久の乱後間もない嘉禄三年(一二二七)の勝田兵庫助で、遠江国を本拠とする勝田(かつまた)氏である、この勝田氏は承久の乱の際の勲功によりこの地域の何箇所かに地頭職等を与えられ一族の者が転入・居住を始めたのではなかろうか。転入したのは遠江国居住者とは限らず、名字地美作国勝田郡に残留・居住の同族勝田(かつまた)氏の転入も有ったかもしれない。

 

【大和国の勝田兵庫助】

@大和春日神社文書・平重康解状(鎌倉遺文第6巻)より

「平重康言上

  欲且任度々長者宣・寺家下知、且依関東御教書状、被行狼藉人於所当罪令安堵代官光重、大和国豊國庄地頭軄事、

 右、当庄地頭軄者、前下司刑部丞行季、依京方科、重康為勲功賞、拝領之後、領知之處、去四月十九日入部之處、悪党三百人許、打囲宿所、懸火焼払数宇之間、匪只此一所、件日勝田兵庫助給所知同焼払之、…、欲令安堵代官、仍言上如件

嘉禄三年八月 日                平重康上                 」

筆者解説@勝田兵庫助は遠江国を本拠とする頼朝御家人。承久の乱の際の勲功により地頭に任じられて入部していたと見られる。

A焼き払われた給所知(領地)は興福寺大乗院領豊国庄(奈良県の新庄町笛堂・高田市奥田・御所市出屋敷あたり)周辺と見られるが、特定できていない。大和国在地勝田(かつまた)氏が発生かどうかは不詳(斑鳩町に勝田氏九世帯現住、未調査)。

 

【丹後国の地頭代勝田次郎兵衛尉】

 @六波羅下知状(慶応義塾図書館所蔵文書)

「   久美孫三郎行親代行信申、丹後国佐野郷

    吉岡保内買得田事

 右、如行信申状者、吉岡保一分地頭次郎入道円阿・七郎入道静円・同子息利氏等知行分田畠者、去嘉元四年九月日以降、令沽却之間、行親買得之、預関東安堵御下文、知行無相違之処、吉岡次郎太郎跡地頭代勝田次郎兵衛尉濫妨下地云々、就之、去元享四年九月十二日・正中に年四月十八日・今年二月二十七日雖下召文、無音之間、同三月二十七日、付佐貫彦太郎忠広・山田四郎利直、重触遣之処、如去五月二十五日忠広・利直等請文者、任被仰下之旨、雖相触之、不及散状云々者、吉岡次郎太郎跡地頭代背度々

召文、不参之条、無理之所致歟、然則可令停止濫妨之状、下知如件、

   嘉暦四年七月二十三日           越後守平朝臣(花押)

                        武蔵守平朝臣(花押)            」

筆者解説@嘉元四年(一三〇六)頃に久美孫三郎が買い取った吉岡保内の土地の下地(所有権)を濫妨した勝田氏は吉岡保近辺に住んで吉岡次郎太郎所有だった土地の地頭代を勤めていた者と見られ、久美が買得した土地にかねてから利害関係を有していたものであろう。

A佐野郷は京丹後市久美浜町佐野と思われる。佐野郷吉岡保内の土地を買得した久美孫三郎はこの地の者と見られる。

B後の観応元年(一三五〇)に隣接の但馬国太田庄(兵庫県出石郡但東町太田か)で勝田繁三郎が活動している事からも鎌倉期からこの地辺り(丹後・但馬・丹波)に居住していたのは確実である。承久の乱の際の勲功により地頭職等を得て勝田(かつまた)氏が進出か。

C佐野の北方約十五キロの網野町(久美浜町と隣接)に勝田池が現存(この勝田の地名は文永十年(一二七三)の文書に載っている)する事、丹波国の天田郡(三和町加用)に勝田神社が現存する事、勝田氏が氷上郡(丹波市)の内尾神社に関係し同地の成松に居住している事は鎌倉期からの勝田氏居住に関係するのではなかろうか。

 

【勝田左衛門尉直幸】

@南朝太平記、続本朝通鑑、他

 元弘元年(一三三一) 九月楠木正成ら反鎌倉幕府の挙兵。直幸は正成の重臣。和田新五郎宗景・生地兵衛尉・田原次郎正忠と共に河内国赤坂城を守る

〇続本朝通鑑は「勝多直幸」と記す〇一〇月二一日赤坂城落城、正成・直幸等遁走。後に(一三三三)辺栗城を守る。

  (注)この勝田氏は河内国・和泉国辺りに在地と思われるが、子孫と見られる勝田氏の伝承によれば越前国の出身とも思われる(編年名簿の慶長年中

参照)。この事は和泉国勝田氏と越前国勝田氏との関係を示唆している。即ち両者は同系であるが、勝田左衛門尉直幸は楠正成に従い赤坂城に

立てこもり、勝田孫(彦)太郎入道は足利尊氏に従って赤坂城を攻めたのである。

 

【幕府遵行使・和泉国地頭の勝田孫太郎入道】

 @東寺百合文書(大日本史料)

「武家御教書案

 金頂寺雑掌頼英申、山城国九條散在田貮町余事、先度有其沙汰、雖被打渡干東寺雑掌頼英、就申子細所

評議也、所詮於本理非者、両方已仰聖断之上者不及子細、至下地者大内豊前権守相共莅彼所、厳密沙汰付于頼英、載起請之詞、可注申子細、使節緩怠者可有其咎之状、依仰執達如件、

    暦応四年閏四月二九日        修理権大夫(貞家)在判 

   勝田孫太郎入道殿                                      」

(注)修理権大夫は幕府引付頭人吉良貞家。勝田は大内豊前権守と共に幕府から直に遵行使(両使)に任命されている。

「勝田請文案

金頂寺雑掌頼英申、山城国九條散在田貳町余事、去閏四月二九日御奉書謹拝見仕候畢、抑任被仰下之旨大内豊前守相共莅彼所、沙汰付雑掌於下地候畢、仍請取進上之候、此條若偽申候者、八幡大菩薩御罰於可罷蒙候、以此旨可有御披露候、恐惶謹言、

暦応四年五月二十三日       沙彌浄熙(請文裏判)                  」

(注)沙彌浄熙は勝田孫太郎入道と同一人。

A御挙状等執筆引付(大日本史料)

福寺領和泉国谷川庄、同国地頭勝田孫太郎道浄照押領等事、給主範舜法眼状(副雑掌申状)如此、

子細見状候歟、如申状者以外之次第候歟厳密可令尋下知給候哉之由、別当前大僧正御房御消息所候也、

恐々謹言、

九月十日               法印懐雅

謹上 畠山左近大夫将監殿                                   」

(注)この文書は観応元年(一三五〇)のものと見られている(佐藤進一著「室町幕府守護制度の研究」)。

(注)地頭職を得ていた和泉国の場所未特定。

筆者解説@「孫」は「ひこ」とも読むし、暦応四年(一三四一)と足利尊氏に従って勝間田彦太郎入道が楠正成の赤坂城を攻めた元弘元年(一三三一)とは時期もほぼ一致しているので、この勝田孫太郎入道と勝間田彦太郎入道は同一人と見られる。

A細川氏は和泉国との関係が深い。和泉国勝田孫太郎入道の子孫は細川氏の被官化か。

 

【幕府遵行使の勝田繁三郎(孫三郎か)】

@但馬国守護今川頼貞遵行状案(兵庫県史史料編中世7)

「但馬国太田庄内坂本村事者、昨月二五日御寄進状・同日施行如此、案文遣之、早任被仰下之旨、沙汰付下地於臨川寺三会院雑掌候、以起請之詞可被註申之状如件、

観応元年十一月十四日        今川駿州(頼貞)在判

勝田繁三郎殿                

野呂三良殿                                         」

A藤原信貞・平貞景連署請文案

「但馬国太田庄内坂本村事、任御寄進状并御施行之旨、沙汰付下地於臨川寺三会院雑掌候、此条、偽申候者、八幡大菩薩御罰於可罷蒙候、以此旨可有御披露候、恐惶謹言

    観応元年十一月十四日       藤原信貞在判

                     平 貞景同前                      」

 (注)勝田と野呂は但馬国守護を通じて幕府の遵行使(両使)に任命されている。

(注)勝田繁三郎と藤原信貞とは同一人。

(注)大日本史料は「繁三郎」を「孫三郎」と記す。

(注)太田庄内坂本村は豊岡市但東町太田の内に所在か。

筆者解説@遵行使に任じられた勝田は幕府御家人武士であり今川頼貞の家人ではなかろうが、実名に「貞」を使っているので守護今川頼貞の被官人と見られる。但馬国に地頭職を得ていたのではなかろうか。

    A勝田が「藤原」を称し実名に「信」を使用していることに留意しておきたい。

 

【丹波国内尾神社の頭役勝田氏】

@内尾神社御頭帳(赤対家所蔵文書コピーより勝田氏の部分を抜粋)

「守安名永享十一年 上頭ハ給人勝田新左衛門殿

 下頭者明道名本願寺

「氏里名 宝徳三年 上頭者勝田殿名代大西殿

「友恒名 文明元年 上頭勝田殿

「守清名 明応元年 上頭者勝田豊後殿

「武里名 明応三年 上頭勝田左兵衛殿名代

「光宗名 明応六年 上頭者足阿弥分御安堵付勝田豊後殿

「友吉名 文亀元年 上頭者長尾上殿給人勝田左衛門尉殿…」

(注)内尾神社は兵庫県丹波市氷上町三原に所在。同神社神主赤対家所蔵文書は成松町誌、丹波の荘園などに一部分が紹介されている。御頭帳は応永十七年から永正十年(一五一三)までの記録。

 (注)内尾神社は上成松など十八村を氏子とする葛野荘の総社。上頭を勤めた勝田氏(殿)は士分である。守安名など七箇所に権益を持っていたのであろう。

 (注)明応四年典厩家三代細川右馬之助政賢が内尾神社に禁制を出している(兵庫県史史料編中世三)。この地が典厩家支配だった可能性がある

 

【摂津国西成郡守護細川典厩家の被官勝田氏】

@康富記(増補史料大成)康正元年(一四五五)十月十二日の項に。

「後聞、今日梶井新門主北野経御聴聞之處、細川右馬頭入道被官人勝田子狼藉之間、喧嘩出来、勝田子矢庭死去云々、其外手負死人両方在之、當座之儀為持之間、無力無沙汰歟云々、」

A帥郷記の康正元年の十月十二日の項に。

「是細川右馬頭(持賢)入道家人スク田子云々、彼スク田ハ典厩の一人也、

(注)帥郷記のスク田(スグタ)は康富記の勝田の事。

 (注)細川右馬頭入道は細川典厩家の初代持賢(応仁二年死去)。三代政賢(永正八年死去)。典厩家は摂津国西成郡(北中島郡等で構成)の守護。

BHP武将系譜辞典・細川家人名録の「和泉国衆」より。

「勝田彦太郎入道元弘頃 勝田直幸仕楠正成 勝田浄照孫太郎入道観応頃 勝田賢正北中島郡小守護代仕細川持賢 勝田彦四郎北中島郡代仕細川持賢 勝田左兵衛仕細川政賢永正頃 勝田新三郎勝間田          

 (注)この資料の出典は不明である。浄照までの三名が賢正以下と同系か否かは未確定勝田彦太郎入道は「光明寺残篇」に「勝間田」と記されている。

筆者解説@明応三年内尾神社上頭を勤めた勝田左兵衛と永正頃細川政賢に仕えたという勝田左兵衛とは同一人と見られる。であれば、内尾神社上頭勝田氏と典厩被官勝田氏とは同系である。

A葛野庄における勝田氏の権益は勝田新左衛門の時の永享十一年以前からのものだが、これが細川氏から与えられた(扶持された)ものなのか、それ以前に幕府から与えられたものかは不明。

    Aこの勝田氏は勝田(かつまた)氏の可能性が高い。応仁の乱以前に細川氏の被官人化し、惣領家からの独立性を強めたのではなかろうか。細川氏は和泉国守護を勤めているので、細川・勝田の関係は或いは観応元年和泉国地頭勝田孫太郎入道の頃に始まったのかもしれない。

 

【丹波国の勝田惣兵衛・同宗兵衛】

@中沢賢基書状(兵庫県史史料編中世3)

「当郡之儀、任当知行之旨、被仰付候、如前々寺役等可有其答候、郡内之儀、諸色勝田惣兵衛方申合候、

若於難渋者、堅可有成敗候、恐々謹言

                  中沢新三良

   三月三日                賢基(花押)

     和田寺

     年行事御坊                                   」

 (注)和田寺は丹波国多紀郡(篠山市今田町下小野原)所在。

 (注)この文書は

A永禄九年の円通寺段銭米納帳(兵庫県史史料編3)より

「成松高縄坪

壱段     慶泰禅定尼、勝田宗兵衛方妹也 六斗折飯延テ定米七斗八升也 」

 (注)永谷山円通寺は氷上町御油に所在。天皇の勅命により永徳二年(一三八二)に将軍足利義満が創建の曹洞宗中本山の名刹。開山は足利尊氏の第四子と言われる。氷上町成松の北方約四キロ。

筆者解説@「当郡」とは多紀郡と見られ、「郡内の儀」を任された勝田惣兵衛は郡代に相当か。

Aこの勝田氏は成松居住か。次項参照。

 

【丹波国成松の勝田勘八郎】

 @法眼寺由緒(成松町誌より)

「右当寺之儀寛永拾七己年建立也寺中頃大破ニ及申処ニ中興開基幻錠首座本寺円通寺時之御給人織田上野様件之出家再建仕候其時ヨリ当年五拾弐年ニ罷成候法眼寺一度大破ニ及申事ハ以前ハ当所ニハ勝田勘八郎と申而平地ニ屋形城御座候処明智日向守殿と勝田勘八郎殿取合軍御座候処勘八郎殿多勢ニ無勢事つひには討死有之候其節ニ法眼寺大破ニ及申候由当所古来之者ども申伝ニ而御座候法眼寺古来屋敷ニべんざい天有之由申伝も御座候が只今印之松古木ニ成有之勝田勘八郎殿討死以後ハ村人又ハ牛馬ニ付たたり有之故若宮祠有之候右建立より以来禅宗曹洞派ニ而同郡円通寺直末寺紛無御座候    以上 」

(注)本文書は元禄五年六月に、上成松法眼寺が領主稲垣氏の奉行所に提出した「差上申寺御改一札之事」に添えられたものと見られる。

 (注)成松に勝田氏が現住しているが、勘八郎との関係は不明。

 

【日吉町鋳物師勝田弥惣兵衛】

@家業相伝許可状(勝田太郎家文書)

「丹波国舟井郡胡麻新町村鋳物師弥惣兵衛先規之通家職相勤之処神妙也抑鋳物師所職永繁栄可為其家再興

仍任先例状如件

禁裏諸司従五位上蔵人方御蔵真継刑部少輔

                  珍弘 花押

正徳四甲午年十一月二日           

     丹波国舟井郡胡麻新町村                     

                  鋳物弥惣兵衛                     」

(注)勝田太郎家には鋳物職や大工職免許に関する多数の文書があるが、この文書が最古。この他の文書中に寛政六年勝田弥惣兵衛、享保十八年弥三兵衛、文化五年勝田儀助、安政三年勝田儀兵衛の名がある。これらの文書は日吉町史に収録されている。

A船井郡瑞穂町西方寺梵鐘銘文より(日吉町史)

「維時天明癸卯年十月二十二日

  現住 二世全孝氏

同州同郡胡麻荘新町

  鋳物師

  大工職 勝田弥惣衛

藤原国清 作    」

 

【勝田大明神】

丹波国天田郡三和町加用宮ノ谷勝田神社がある。かつては勝田大明神(カツタ大明神)と言った。この地に勝田の地名は無いので勝田氏が神社創建に関わった可能性が有る。(七、寺院と神社を参照)

 

  

 

〔伊勢〕

 

【勝田座勝田氏】

@勝田氏の由緒書(能勢朝次著「能楽源流考」記載の幕屋甚平氏所蔵文書(旧勝田家文書)より。

           下段に荒木田楠千代著「伊勢三座考」記載の同文書との相違部分を記す。)

 

「日本武尊苗裔

納菌  神功皇后三漢供奉。                       任三漢

弟 

納富  弘富      納薗至二澤振一迄数代不レ詳

二郎 

     三郎            

澤振  弘仁三壬辰年伊勢両宮翁方堅目ノ神事執行

     鶴雄  鶴並                          鶴雄 鶴並 鶴主

鶴主

 安女                                  安女 従先祖

鶴音亦鶴乙  従二先祖納薗一至二鶴主一五代之先蹤、鑑記レ文、而延喜

年中撰二集壽長巻一者也。                                                                                         

龍久  天暦二年五月十一日夜猿楽之時、顯二納薗仙神一、鶴翔二于天一、   時所 仙神仙鶴

従レ地出二現霊亀一、而青赤白得二三寶珠一、甚希玉也。鶴之舞祝   地

而鳥翔、祝レ亀曰二岡走一。

 味長  佐永  豊岡                                      

 豊長  泰長

 泰延  秋延  康延                                                    

 能延  能泰

 正勝  至二建長七年季夏一、書二注味長以来俳優書及國中風流式五巻一、   五巻五番

正勝記ト云。            

 能足  久留女氏春滿養而為レ子、到二於小川一、而號二小川小三郎一

 伊足  正應三年書二記鶴于十福辨一。

 伊賢  暦應元年夏四月、於二于紀州牟漏郡新宮一、得二春日靈告一、而

参二吉野一。于レ時北畠大納言殿被レ及二聞食一、直忝被レ免二面    直忝直参

謁一、大納言殿為レ慰二軍衆之勞一、催二風流之楽一、則命レ予令レ                

勤レ之。官軍大勸矣。依レ是叡慮最甚、命二近臣一賜二楠遺愛之面、

並藤原姓一者、書二謹之一。

     其後北畠顯能卿移二多気邑一領二當國一、婁被レ召二御所一、恩渥   「移」なし

最厚、然處日前吉野榮幸偏依二神慮之加被一故也。於レ是、正   吉野之

平年中慎二思神徳一、春日社修二造靈鶴遺跡一、居常不レ怠二敬禮一、

可レ見二實篤一者也、                                              

                  勝田樂頭 藤原伊歳 ■□       ■は                                                

暦應元年天子使二伊勢國司北畠氏一賜二予先人一令以二老翁之面一

(黄石公之面ト云)。是非二希代之佳摸一邪。嘗聞、往昔漢張子   摸

房受二秘策於黄石公一。楠氏以三忠誠通二於天一、得二夢中之靈告一

而彫刻云々。實拝二宸賜之珍寶一、以可レ傳二萬世一、喜而有レ餘、  彫刻之

祝而可レ賀也。況降レ敕令レ授二予家號一、豈不レ喜乎        令命授予家以家號                

經歳  叙従五位上勝田肥後守                     「喜乎」「徑歳」が接

 桂木  應永元九月、従二国司満雅卿一、被レ寄二白銀鶴六箇一者也。     続し同行。 寄附

     明徳四年三月叙従五位上

喧土                                          

 興元  應永三十三年八月三日卒 七十九歳                三十二

蒸金

 政興  政胤震金

震金

 政固     政信

  金詛ノロフ 僧金

        信藤

鈿火

藤延

 

昆木也

吉村 

藤満断火也

 成安━━政永━━政房次郎

後藤政ト改

政康 七兵衛

政藤 七兵衛  政明

茂ト改     元禄甲十一月十一日出生

藤政七兵衛━━君音━━文恭加太夫行年七十一              」 

(注)天理図書館蔵「御広間雑記(慶安三年)」に「太夫勝田七兵衛」の名がある。

 

A勝田氏の由緒書・他(伊勢市保存の未刊行文書「濱郷村誌」より)

「                                 小林家文書

    勝田畧系図

竹内宿祢血脈ト傳

鶴世―鶴友―鶴生―鶴洲―鶴勢―鶴深―鶴久―鶴岸―鶴渕―鶴廣―鶴國―鶴味―鶴長―鶴澤―鶴信―

鶴静―鶴能―鶴平―鶴只―鶴顯―鶴岡―鶴弘―鶴是―鶴房―鶴明―鶴連―鶴壽―鶴瀧―鶴実―鶴幸―

鶴崎―鶴光―鶴種―鶴義―鶴朝―鶴成―鶴秀―鶴清―鶴文―鶴重―鶴盛―鶴測―鶴門―鶴龍―鶴親―

鶴宗―鶴秦―鶴高―鶴寛―鶴説―鶴次―鶴琴―鶴経―鶴住―鶴榮―鶴學―鶴道―鶴治―鶴美―鶴雪―

鶴氏―鶴照―鶴湖―鶴富(阿濃津一厨御事翁御神楽式祭典御神事承知元年二月朔日初メ相勤ム)―

鶴奥―鶴谷―鶴元―鶴直―鶴勝―鶴賢―鶴足―鶴虎―鶴昌―鶴満―鶴兼―鶴増―鶴家―鶴徳―鶴村―

鶴巻―鶴茂―鶴藤―鶴政―鶴吉―鶴泰―鶴周―鶴濟―鶴玉―鶴芦―鶴重―鶴鈴―鶴楠―鶴尾―鶴若―

鶴傳―鶴曜―鶴池―鶴沼―鶴菅―鶴雨―鶴野―鶴春―鶴星―鶴君―鶴居―鶴沖

                          百七代目

                             勝田鶴貞            」

 

「                                 小林家文書

    勝田畧由緒書

人王五十代神功皇后三漢御出陣ノ御時旗本御役供奉ト申傳ふ

 竹内宿祢血脈ト申傳ふ

 元祖勝田鶴世

右帝三漢御出陣に至り九州四王子峯に於て一七日御神拝御祭禮式有之竹内宿祢大臣天ノ岩戸之嘉例を移し榊葉の神歌を唱え歌舞之曲ヲ奏ス元祖鶴世諸共に歌舞之曲を立舞給ふ

帝叡歡甚敷 御出陣を祝ひ給ふ御事也

  歸朝後三漢御出陣御時九州四王寺峯に於て竹内舞曲奏し給ふ依て翁御神楽式と帝称し給ふ伊勢宮御祭禮式に翁御神楽式を奏べしと勅命に依て先祖鶴世伊勢宮翁御神楽式を奏し奉仕事年久し

其後元應年中後醍醐帝先祖八十一代目鶴茂勅命蒙吉野え被召寄せ軍中勝利之御祈祷被仰付翁御神楽式奏し御祈念奉る北畠親房殿官軍之心中をやすめんが為鶴茂ニ軍中於て能楽を相勤む由被任付数日能楽相勤む帝叡慮大歡官軍大悦之余り是より軍中勝利を得る

後醍醐帝乃御代となれり夫より帝を初め北畠殿深く思召合是有り依て勅命名字勝田下し給ふ叙従五位上勝田肥後守藤原姓度會郡勝田村千五百余有下給ふ

夫より年久し北畠殿に相仕御所恩蒙事丈厚し私家元之名字神田元之村名は狩田村申候是より勝田村と称し申傳ふ由夫より北畠殿年久敷相仕へ候へ共多気国司十三代目織田家之為落城す天正年中織田信長に地領御所揚被相成り旧好を以て度會郡通村引移り往古より無滞伊勢宮翁神楽式奏す明治四年迄相勤め来り候伊勢国洞津(内宮)一御厨御神御神事之儀者承知(承和)元年より毎年二月朔日六十四代目

鶴富初めて相勤む夫より打ち続き数代明治四年迄無滞相勤め来り候

凡一千余年に及べり年久敷事故御城主も時々相かはり候得共種々御城主御助け有りて且又藤堂高虎殿より翁神楽式能楽御祭礼出勤料として玄米拾二石を下し給ふ其外種々御助有之候へ共明治五年より御祭礼翁御神楽式能楽廃止に相成り藤堂殿親子供に東京被罷越御暇下し被置歎かしき次第に有之候處右旧記に相知レ候分御尋に付き此の段上申仕候也

                    伊勢国度會郡通村十八番地

                            川端長八同居

       明治二十一年四月 日       百七代目

                            勝田治八

                 右内務所より御尋に付差出し也              」

 

「   奉恐申上候

 通村勝田大夫奉申上候私家従往古

 両宮大神宮翁神楽奉奏相仕候伴弘仁三壬辰年より一千余年

 及候得共式年無怠事相勤候従往古尉斗目帯刀仕来候此度

 御尋ニ付此段乍恐奉申上候以上

                             勝田大夫(印)

   慶應四戊辰年

   八月  日                       季傳(書判)」

 

【勝田武右衛門】

芸藩輯要第四編・藩士家系録より

「   勝田武右衛門吉久(生国伊勢)

             現主 勝田寅二(惇)

 姓は藤原氏家紋は三ッ鱗を用ゆ 武右衛門(初正三郎、又仁左衛門と称す)吉久は福島左衛門大夫に仕へ廣島に於て知行二百五十石所領せしが福島氏転退後浪居せしを長晟公御入国の翌年召抱へられ禄二百六十石を給せらるる 光晟公御代大御小姓、御鎗奉行たり 御加増を得て都合三百石となる 明暦三年病死す二代庄左衛門吉次正保三年御切米三十石にて召出され後父の跡目知行二百石御馬廻被仰付弟太郎左衛門吉高吉田流弓術を以て召出され後新知百五十石別家を立てられ代々弓道を勤む又庄左衛門長男新平吉忠も別に一家を立てられ武右衛門の系三家となる…(以下省略)」

  (注)豊臣秀吉の旧臣福島左衛門太夫正則家康に加担して慶長五年広島城主。元和五年浅野長晟広島城主となり明治に至る。勝田氏代々浅野家臣。子孫広島に現住と見られる。墓は妙頂寺。

 

【鈴鹿市甲斐の勝田氏】

〇鈴鹿市に十七世帯。うち甲斐に十世帯現住。「かつだ」と云う。家紋タチバナ。

〇勝田正次氏(甲斐町一一八四番地所在の夜夫多神社の宮司)提供の系図。

「飯野郡和屋村勝田村トテ 此ノ村ニ大神宮楽人アリ

 太夫トイフハ勝田バカリニテ 何時頃ヨリカ不知

 毎正月三日ヨリ六日マデ式例ニテ 神前ニオイテ三番叟ノ舞楽

 舞楽勤メトスルナリ

 右ノ内一人当村来住ス

              ┏吉兵衛 ―十兵衛 ―松三郎―(株絶)

              ┣嘉平  ―嘉助  ―嘉兵衛 ―嘉十郎―実 ―神能

         ┏久左衛門┻武兵  ―久左衛門―久左衛門―紋治郎―勝治―早苗

         ┃              ┏源左衛門―治良八―仁郎―仁

         ┃    ┏庄太夫 ―源助  ┻庄平  ―正作(横浜へ)

         ┃    ┣金兵衛 ―弥助  ―乙五郎 ―弥作 ―三郎―俊一

         ┃    ┃         ┏庄八郎 ―兵作 ―正次―真人

 勝田庄七┳庄七┻庄七  ┻庄平  ―庄七  ┻庄之助 ―平太郎―平男―靖

     ┣久七 ―孫三郎 ―久五郎 ―孫七  ―久七  ―伝之助―勝 ―正秋

     ┗藤兵衛―藤右衛門―武右衛門┳藤左衛門―藤藏  ―亥藏 ┳岩藤―章

                   ┃             ┗仁平―藤太郎

                   ┗文右衛門―藤治郎 ―利輔 ―三郎―肇―正也

               弘化四年五月 戸長薮田源藏 記写ス         」

〇夜夫多神社の棟札三点に記載の勝田氏

 1 宝暦十三年四月       2 文化四年三月    3 弘化二年二月

  夜夫多氏子中 願主 庄七    年行司勝田孫三郎    当番勝田久右衛門

         世話人久七    当番 勝田庄平       勝田嘉助

(注)系図上の初代庄七は西暦一七一〇年(宝永七年)頃の人と推定される。

 

【美杉村下之川の勝田氏】

○下之川に勝田氏現住。造園業などを営む。

○勝田辰嗣家の記録に元禄十五年(一七〇二)死去の人物法名吽岳重阿信士以後の名が記されている。

法名吽岳重阿信士與兵衛浅右衛門文治重助多三郎辰五郎利男辰嗣━利求━辰幸

(注)文治は、寛政四年大和国柳本藩用人の勝田文治か。

 

【小俣の勝田氏】

(小俣町史より)

正徳四年(一七一四)度会郡新村検地帳記載の勝田茂左衛門。

○弘化四年新村庄屋兼帯小俣村茂左衛門。                                        

〇天保年苗字帯刀人の勝田茂左衛門と、安政年苗字帯刀人で慶応年地士の勝田摸助。

嘉永六年の勝田直次郎。

昭和十九年離宮前部落会長勝田貢。

 

【関町小野の勝田氏】

〇関町に十世帯。うち小野に十世帯が現住。

〇勝田家過去帳に明和九年(一七七二)死去の伝兵衛以後の人物が記されている。家紋井桁にもっこう。

 伝兵衛―伝四郎―文七―市蔵―音吉┳伊三郎―察―文司(妻久子)―文朝

                 ┗文七 ―釉一―昇(妻ミツ)―文生

 

【松阪市茅原町の勝田氏】

〇松阪市に二十五世帯。うち茅原町に八世帯現住。「かつた」と云う。家紋丸に蔦。墓所三照寺。氏神八雲八柱神社。

〇勝田家文書茅原町現住勝田恒氏所有。

「   由緒書

     三重縣飯南郡茅廣江村大字茅原三十三番屋敷平民

      旧和歌山藩地士勝田儀右衛門孫相續人

       族籍変更請人          勝田義衛門

勝田氏元久保氏ト称シ其先ハ宇多源氏ニ出デ世々武臣タリ高祖敦實親王第十四代ノ後胤三郎源氏持始メテ久保氏号ス後八代ヲ経テ久保彦五郎経基伊勢国司北畠家連枝左中将木造具康卿ニ仕エテ家臣トナル其子久保四郎五郎経之文明六年ヲ以出デ北畠国司家ニ仕事シ馬廻役ヲ拝シ之ヨリ子孫亦相次テ同家ニ仕ヘ漸ク登用ヲ蒙リテ重臣ノ烈ニ入リ永祿末年主家織田氏ト難ヲ構フルニ久保三河守五郎太夫経弘所々ニ勇戦シ忠烈衆ニ抽ンデタリト雖モ不幸ニシテ主家遂ニ滅亡ニ皈シタルヲ以テ旧領地飯高郡廣瀬村ニ土着シ農ヲ営ミ後二君ヲ求ズ下テ五郎太夫孫久保彦太夫経雄ニ至リ國主紀伊公元和年間御入國ノ節謁見ヲ賜ヒ地士被仰付之ヨリ子孫同地ニ在テ地士ヲ継承スル者十代曽祖父儀左衛門経武故アリテ文政十一年居ヲ隣村上茅原田村ニ移シ氏ヲ勝田ト改称セリ次テ新政御施行ニ際シ地士ノ称廃滅セラル茲ニ於テ祖宗二百五拾余年世襲ノ栄格空シク相成爾来平民ニ編籍ス

 右之通相違無之候

           右

  明治三十二年               勝田義衛門                 」                                       

 

「    勝田氏家系 (筆者勝田義衛門)

  (敦実親王から経正まで省略)

 ―経世(久保伴右衛門 地士)―経武(久保儀左衛門 后勝田改)―経重(勝田義右衛門 嘉永二年松坂領蒲備御組立ニ付大砲方被申付)―経郷(勝田徳次郎 文久三年大和五條騒乱ニ付高見峠浩 相勤)―勝田義衛門(旧名熊之蒸)」 

義衛門の後は、勝田右平―勝田恒―勝田篤司―勝田剛司(昭和五十一年生)と続く。

 (注)先祖勝田義衛門が族籍変更申請の際に作成の文書。勝田氏が和歌山藩の「地士」だった事を証明した茅廣江村長発行文書等も保存されている

〇和歌山県文書館蔵「紀州家中系譜並親類書上」より

文化八年に和歌山藩の「御賄人」勝田儀左衛門純が藩に提出した「系譜」に「源姓、勝田氏(家紋蔦、替紋三階松)、初代勝田儀左衛門純(本国紀伊、生国紀伊)」、「親類書」に儀左衛門は医師勝田元寿の子十右衛門の子と。

 (注)系譜は初代純のみの記録。は勝か。

〇「南紀徳川史第十一冊」より

和歌山藩領の「地士」抜粋

 「松阪領 上茅原田村 勝田儀右衛門」 「田丸領 小俣村 勝田模助。 勝田村 久留喜内」

筆者解説@勝田座勝田氏は勝田(かつまた)の系統の人々かもしれない。筆者論考を参照。

A伊勢生まれで明暦三年(一六五七)に死去した勝田武右衛門が伊勢から転出したのは天正四年(一五七六)の北畠氏滅亡の後であろう。勝田座勝田氏の出かもしれない。

B茅原勝田氏は、文政十一年、地士身分の久保氏が和歌山藩士勝田氏の名を継いだものと見られる。 

 

筆者論考

「勝田座勝田氏」は「かつまた系勝田氏」か

一、勝田座勝田氏

 三重県現住の勝田氏約一八〇世帯の中に勝田座系とも云うべき勝田氏が居る。

 呪師の系譜を引く猿楽の集団勝田座(以下「座」)は、伊勢国国司北畠氏に支援され、伊勢神宮への奉納の特権を得た事で栄えた。

 慶安三年(一六五〇)に太夫勝田七兵衛(天理図書館吉田文庫蔵「御広間雑記」)、寛政十年に勝田嘉大夫(通町公民館蔵「寛政十年宮建方堅目記録」)、文化四年に「座」の一人の子孫勝田孫三郎(鈴鹿市甲斐の夜夫多神社の棟札)、文政二年(一八一九)に勝田泰三郎(神宮文庫蔵「長官経陰家牒」)等が確認されるから、近世初期には「座」の構成員が「勝田」を名字として使用していたのは疑いない。問題はいつから勝田を名字にしたのかである。

 二種発見されている勝田氏の由緒書(全文後記)は、北畠親房軍戦勝の為の祈祷などを行い、功績により後醍醐天皇から藤原姓と名字(家号とも)「勝田」を与えられて勝田肥後守を名乗ったとする点で共通している。事実ならこの勝田氏は南北朝初期から始まったことになる。

二、風姿花伝の中の勝田座

観世流二世世阿弥(能役者・能作者、嘉吉三年・一四四三年死去)は著書「風姿花伝」の「第四神儀」の項に当時名の知られた申楽(猿楽)や主司(しゅし=呪師の当て字)の十二座名を記したが、この中に「勝田」が有る。風姿花伝の伝本の中には「伊勢、主司、二座。」とのみ記して座名を記さないものも有るが、七世の観世宗節(天正十一年死去)自筆の写本等は「伊勢、主司二座、和屋、勝田」と記しているから二座の一つが勝田(座)なのは疑いない。

 次項で明らかにするごとく、「座の」人々が住んだ「勝田」の地名が発生するのは世阿弥死後のことである。しからば、風姿花伝中の「勝田」は地名でなく人名・名字であろう。これは「由緒書」の云うのと合致する。

 しかし、「第四神儀」部分の世阿弥自筆本は現存しないうえ、「風姿花伝」は後年に増補された場合が有り、世阿弥自身が座名を「勝田」と記していたと断定は出来ない。「狩田」や「苅田」と記していた可能性もある。

三、地名「勝田」の発生は文明十八年

 「座」の人々が住んだ勝田の地(玉城町勝田)は北畠氏が延元元年(建武三年・一三三六)に築城した田丸(玉丸)城から一キロメートルほどの近所に在る。

 この勝田はかつて狩田と記されていた。康永三年(一三四四)に「狩田村」(法楽寺文書紛失記)、永享十一年(一四三九)に「狩田郷」(道後政所職事)と記されている。

 この狩田がその後に苅田と記された。「氏経神事記」(伊勢神宮内宮禰宜荒木田氏経の記録。大神宮叢書に所収)の嘉吉二年(一四四二)九月に「懸税役田大概在苅田邊」、同三年十二月に「原、山神、野篠、苅田邊被焼」と記されている。

 従って、「氏経神事記」の嘉吉三年四月の「苅田大夫自道御共仕」と文明十八年正月の「四日呪師参和屋 五日苅田 七日今呪師」の「苅田」は、居住地名で座の人々を呼んだものである。

 さらに、この地名苅田が勝田に変更され(地名勝田の発生)て今日に至っている。

 地名勝田の初見は荒木田氏経自筆と見られる次の文書中である(三重県史資料編中世一収録文書及び「解説と史料解題」)。

「  内宮祢宜職田注文

 一、皇 太神宮祢宜職田在所

   一祢宜守房 下田壱町余

   二――永清 勝田三段 八野 六百也

   三――氏興 勝田同前 八野同前 山神 弐石余

   四――経見 勝田同  八野同 佐田四斗一升二合

   五――正棟 勝田同  八野同 宇仁白米一斗

   六――経久 北方小山田二石 土羽同坂壱段半 御門半

   七――氏経 二見内斎領壱町七段余 久留半

   八――氏久 勝田同前   北方墨辺二畔

   九――守吉 佐田同

  (  欠  )勝田同  八野同(   欠     )

         久留壱段見門半              」

 文明十八年(一四八六)正月「氏経神事記」に「苅田」と記した氏経が、翌年十九年一月十二日の死去の時までに「勝田」と表記を変更した。恐らく十八年中の事だろう。地名勝田の発生である。

 「座」の人々がこの地名勝田を名字にしたのならば、それは文明十八年以後、と云うことになる。

 が、「由緒書」は、暦応元年(一三三八)に後醍醐天皇から名字勝田を与えられて名乗った、すなわち地名勝田を名乗ったのではないと云っている。従ってここは由緒書にそって考察を進めるべきだろう。となれば、@与えられた名字が何故勝田なのか、A地名勝田が発生したのは何故か等が解明されなくてはならない。

四、後醍醐天皇・南朝近くには勝田氏が居た

 「勝田」と記す名字の一族は鎌倉初期から遠江国榛原郡勝田庄を本拠地にして文武両面で活躍していた将軍御家人の一族であって、「勝田」と記すが当時は「かつまた」と云い、「勝間田」とも記録されている。鎌倉期に於いてこの系統以外の勝田氏発生は確認されていない。

 この勝田氏は、嘉禄三年(一二二七)大和国内に「給所」を得ていた勝田兵庫助の如く、鎌倉幕府から地頭職等を得て一族の者が各地に進出していた。

 鎌倉末期から南北朝期にかけて、勝田一族の大方は足利尊氏に従い北朝方だったが、後醍醐天皇・南朝方の者も居た。元弘元年(一三三一)に河内国赤坂城の戦いに加わった楠木正成の重臣勝田左衛門尉直幸、元弘三年に船上山の後醍醐天皇の元に馳せ参じた勝間田氏、延元元年(一三三六)に京都で後醍醐天皇に従った勝間田新蔵人義仁、延元二年に北畠軍に加わった勝田氏、が確認されている。

 当時の武士逹は自分の名字に強い独占意識を持っていたし、後醍醐天皇や北畠氏は勝田一族の存在を十分承知していたのであるから、この時期(由緒書によれば暦応元年)に勝田一族を差し置いて猿楽の「座」の者に「勝田」の名字を与えることは、まず有り得ない。

 従ってこれは、勝田一族の中の南朝加担者が天皇又は北畠氏から「座」の長(おさ)「楽頭」の地位を得たと考えるべきだろう。即ちこの勝田氏は「座」の支配・保護を委ねられたのだが、「座」の人々からすれば勝田の名字を与えられた事になる。以後、楽頭勝田肥後守と「座」の人々は伊勢の狩田(後に苅田)に知行地を得て在地し、武士・猿楽集団として南朝・北畠氏に仕えていたと見るのである。

 であれば、文明十八年に至って地名苅田が勝田に改められたのは、思い付きや当て字によるものでなく、勝田氏が苅田に在地していたことに関係あるはずである。ただ、地名は支配・所有地の特定に関する重要事項であるから変更には具体的な理由・契機が有ると思われる。

五、文明十八年の動乱と大空和尚・広泰寺

 この文明十八年、宇治・内宮勢と結んで山田・外宮勢を攻めていた北畠氏は十一月に外宮焼失という大事件を引き起こした。前記「内宮祢宜職田注文」を見ると北畠氏に協力した内宮祢宜逹はこの際に勝田内の職田(合計で勝田全体の三パーセント程度)を確保したようだが、この頃に勝田の土地の多くが北畠氏一門と勝田氏等北畠被官人の支配・所有に移った可能性が、まず、高い。氏経が「注文」を書いた(書き改めた)のはこの変動が有った為と思われる。

 注目すべきは、この時期(文明十八年等と云われる)に、北畠氏が遠江国勝田(かつまた)氏開基の寺石雲院(榛原町坂口所在)の大空和尚を招いて勝田近く(玉城町宮子字慶昌庵)に神照山広泰寺の基(草庵)を開いた事である。勝田の地には広泰寺の末寺と見られる神照山円満寺が現存するから、勝田内にも広泰寺領が設けられた可能性は高く、或いはこの寺領設定に当って勝田氏や大空和尚らの要望で地名苅田が勝田氏の名字「勝田」に変更されたのかもしれない。

 伊勢国における神宮勢力に対処するために曹洞宗の教線展開=神人授戒を望んだ戦国大名北畠氏の強い要望で大空和尚は招かれたのだが、この時期の和尚は石雲院開基の一族勝田氏を支援・救済すべき立場にあった。すなわち、勝田氏の一族は文明八年に本拠地遠江国勝田庄(榛原町)を駿河国の今川義忠に急襲されて大敗北し、一族存亡の難局にあったのだった。この時期に苅田に移った一族残党が居たかは不明だが、大空和尚が勝田氏支援・救済に努力した事は確実と思われる。

 以上、「座」の人々が勝田を名字にしたのが地名勝田発生の文明十八年以後の可能性が皆無とまでは云えないが、勝田座勝田氏が遠江国勝田(かつまた)氏に連なる人々である可能性はかなり高い。

 (注)@「勢陽五鈴遺響」は地名「勝田」につき「旧記ニ狩田ト載ス、加理太ノ訓ナリ、今加津田ト称ス」と。勝田(かつた)は狩田・苅田(かりた)の当て字とは云えない。

    A「のしめ」着用と帯刀を許された(後記資料)勝田氏は武士身分を持っていたのだろう。

    B伊勢神宮の「神郡」渡会郡内の苅田には祢宜職田・懸税等の神宮役田や荒木田氏の田宮寺領が集中していたが、田宮寺領は応仁の乱前から既に北畠氏等によって押領されていた。

    C大空和尚は勝田氏開基の寺石雲院の開山崇芝和尚の第一法嗣。大空玄虎、勅特賜濶通佛性禅師とも呼ばれる。永正元年死去、墓所広泰寺。和尚は文明十年に正法山浄眼寺(松坂市)を開いていた。広泰寺の寺記に依れば広泰寺は文明十八年開創と云う。この年に草庵を建て、後に諸堂を建てて広泰寺と号したもののようである。浄牧院史料では伊勢国山田の生まれ。

六、「座」と勝田氏の行方

 永禄十年織田信長は伊勢侵攻を開始、天正四年北畠氏は滅亡。「座」と勝田氏は北畠氏から与えられていた土地(「由緒書」によれば「千五百余有」)等を失って経済的基盤が著しく弱体化、勝田から通村(現伊勢市通町)に移転。以後も伊勢神宮への毎年正月の「神楽翁ノ舞」奉納、通村周辺の神社や勝田村の勝田神社(八柱神社)神事等への奉納、京都や尾張国・三河国での演能活動を続けたが、明治四年の「神宮大改正」で伊勢神宮への奉納が廃止され、明治年間に「座」は廃絶に至った。

 北畠氏滅亡後、勝田座勝田氏の中には伊勢国各地で帰農したり、戦国大名家臣に成って他国に移動した者も居ただろう。伊勢国生まれの勝田武右衛門は福島正則の家臣に成った。

 鈴鹿市甲斐の夜夫多神社宮司や奈良県宇陀郡室生村(旧北畠支配)の海神社(能舞台有り)神主に今でも勝田氏が居るのは、「座」が神事や演能を通じて神社と関わった事によるものと見られる。

 なお、三重県には、文政十一年に久保氏を改名した松阪市茅原町の勝田氏など、勝田座系以外の勝田氏も居る。又、勝又等の「かつまた」氏が三十世帯余り現住しているが未調査である。

 (注)@千五百余有の「有」は反か、石か。「慶安郷帳」では勝田村の村高千弐百弐拾石余。

    A木造軍記に「能太夫は勝田村ヨリ来タル」と。愛知県南知多町羽豆神社社伝に「勢州神宮ノ太夫和勝田両役者隔年ニ渡海シ神事能ヲ執行…」、文禄年間の駒井日記(尾張国)に「猿楽」の「勝田」と。近世勝田座については平成七年天野文雄著「翁猿楽研究」に詳しい。

    B京都野村美術館に「座」の翁面と父尉面が保存されている。三重県史に「座」の延命冠者面記載。

    C永禄二年北条氏康近臣で「猿楽八右衛門」と呼ばれた勝田八右衛門は勝田座勝田氏の出か。

    D江戸初期に相模国箱根芦の湯の宿「伊勢屋」を営んだ勝間田清左衛門は伊勢松阪の出。

    E天正十年、家康の伊賀越えに従った「伊賀者」勝田文太夫らは勝田座勝田氏関係者か。

    F「勝田流(通り能)」は昭和三十三年伊勢市無形文化財に指定され、平成十八年現在七七才の勝田流家元八田英巳氏を要にして活動を続けている。

 

(参考書籍)「日本思想大系二四『世阿弥禅竹』」「風姿花伝詳解」「三重県史資料編」「浜郷村誌(未刊行)」「皇学の『伊勢三座考』」「能楽源流考」「翁猿楽研究」「神都百物語」「宇治山田市史」「玉城町史」「三重県玉城町史」「小俣町史」「宗学研究二九号の『大空玄虎と勢南の曹洞宗』」「東久留米市史・浄牧院史料」「勢陽雑記」

 

 

 

…… 中国地方 ……

中国地方には美作国の勝田や勝間田の他にも地名勝田(鳥取県米子市、同東伯郡琴浦町、島根県松江市、同雲南市、同隠岐郡海士町、広島県福山市、同安芸高田市など…「地名勝田とかつまた」参照)が多い。が、美作の勝田郡以外から勝田氏が発生したとの伝承等は無い。

 

 

〔美作〕

【勝間田左衛門五郎頼貞】

長門国勝間田氏の系譜(萩藩閥閲録)より抜粋

「清和天皇四代八幡太郎義家之次男足利河内判官頼忠二男、美作国英田・勝田之両郡為知行、号勝間田左衛門五郎頼貞

嫡子 勝間田兵庫頭長保 備前国岡山城住ス

(以下略)                                        」(注)系譜の続きは補注@参照

 

【勝田五郎源成信】

常陸国本木勝田氏の系譜より抜粋

「  勝田氏(源姓 本国美作 家ノ紋蛇目替紋蔦)作州勝田郡姓 

勝田五郎源成信後胤

  八幡太郎義家公幕下ニテ奥州安倍ノ逆徒征伐シテ後勝田郡ハ本領ナレハ相イ続テ拝領ス

  成信祖ハ奥州国主ノタメ下ル依之同国ニ勝田明神ト祭リ其所ヲ勝田宿ト云

勝田能登守助清十五代孫

(以下略)                                 」

  (注)系譜の冒頭部分。続きは補注「常陸」参照。

(注)系譜に、天文年頃常陸国真壁氏の家臣に成った勝田能登守信近のときまで美作国の「勝田領」に関わったという。真壁氏先祖はこの勝田領に居候した事があるという。

 

【岩槻勝田氏の先祖】

勝田家由緒書(岩槻市史)より抜粋

 「  由緒書井上十太自作相違共有之也

      由緒書

  勝田氏(姓藤原 実名通字武 定紋万字 替紋五三ノ桐)

   元来大内之官人ニ而有之勝田ト相名乗候義は天武天皇白鳳年中大友皇子ト御合戦ノ時美作国ニ於

テ天武天皇より勝田ノ氏ヲ給ハリ此節ヨリ所ノ名モ勝田郡勝田村ト名付今ニ於テ美作国ノ在名ナ

リ武家ニ至り候義は永禄ノ比ヨリ始テ北条之麾下ニ属シ代々家系如左

  一勝田佐渡守武窮

   (以下略)                                      」

(注)由緒書の続きは補注「武蔵」参照勝田の氏を給わった時期についてはなお検討を要する。

 

【勝田小次郎太夫】

薩摩国入来の勝田氏の墓碑、入来村誌より

美作国の勝田庄を苗字にし、宝治元年に薩摩国に移動。

(注)名簿の宝治元年(一二四七)、補注「薩摩」参照。

 

【勝田四郎二郎】

@正長二年の美作国一宮文書(太田亮著「姓氏家系大辞典」)より

A一宮神社の伝承

(注)名簿の正長二年(一四二九)参照。

筆者解説@美作国の勝田郡は勝田(かつまた)氏発生の地で、勝間田五郎(正確には勝田五郎)が勝田氏の元祖の人と見られる。保安元年に石見国司(大目)に任官したと見られる勝田宿祢兼清(〔石見〕参照)は勝田五郎自身か又はその一族と思われる。(論考@A、「概要」、石見参照)

A小次郎太夫・四郎二郎の名が確認されるが、中世の美作国に勝田氏の顕著な活動や存在は認められないのは平安末期の勝間田五郎(勝田五郎)の時に活動拠点を遠江国に移した為と思われる。

Bしかし、小規模ながら勝田郡中の領地を「名字地」として大切にしていたのだろう。常陸国本木の勝田能登守信近のときまで維持したという美作国「勝田領」がそれと思われる。この勝田領に真壁氏が一時期居候(領有または居住)し、勝田能登守が旭日観音を勧請したと伝える。美作市の旧勝田町域には真加部(「真加部」は「真壁」とも記した)の地名があり、真加部に「旭」「観音山」の地名があるので、勝田領とはこの辺りなのかもしれないが、未調査。

 

(備忘メモ)

  源氏は美作国を知行する事が多かったと云われる。義家時代に美作国に関係か

  美作国の足利領(倉持文書・足利氏所領奉行人交名)

   大原保 垪和西郡 田邑郷 讃甘荘 稲岡南荘 垪和東郷 宇甘郷 新野郷 田中郷

   備中国 宇甘郷。一二二四年足利正義(義氏)勝田郡新野保等を得る

 

 

 

〔石見〕

 

【石見国司勝田宿祢兼清】

○京官除目三省奏(史料拾遺第八巻・魚魯愚鈔)より

「一京官除目三省奏

 三省史生

  三省状

 式部省

    (中略)

 兵部省

  請被因准先例、以史生従七位勝田宿祢兼清、拝石見国大目状、

 右謹検案内、為当省史生之者、以挙奏、被遷任諸国目、古今之例也、望請 天恩、因准先例、以件兼清、

 被遷任件国大目闕者、■令知奉公之貴、仍勒在状、謹請 處分、

     保安元年十二月 日

           正六位上行少丞藤原朝臣忠光

              大少輔有障丞一人加暑不可為例之由官雑抄注之、

 民部省

    (以下略)                                      」

(注)保安元年(一一二〇)当時の石見国の役所(国府)は浜田市の上府・下府域に在ったと見られる。

 

【浜田の勝田氏】

@浜田市の上府に九世帯、佐野に七世帯、他に十七世帯が現住。

A「石見家系録」(大正七年刊行、国会図書館蔵)より抜粋

「本姓秦。祖勝田祐清足利直義に属し其命によりて藤原姓を称ふ。紋丸に蔦。上府勝田家、永禄十一年岡本大蔵大夫の味方に焼かる。後裔世々庄屋を勤む。勝田新之丞上下十二人、亀井侯に随て大坂冬役に出陣。勝田新之丞同新兵衛、寛永十四津和野検地役。勝田新作、浜田人『名月の型の如に出でにけり』。勝田襄、津和野生濱田死、墓銘『克勤克儉、群兒秀榮、是此楽土、鏡山月清』」と。

  (注)「本姓秦…紋丸に蔦」の部分は寛政重修諸家譜からの引用なので、浜田勝田氏に関係あるかは疑問。亀井家臣勝田新之丞らが浜田勝田氏出身かは不明。「上府勝田氏…後裔世々庄屋」の部分は上府勝田氏自身の伝承であろう。石見国の岡本大蔵太輔春徳は永禄十二年毛利軍に加わって九州に出兵した人物(島根県史)。上府(かみこう)勝田氏は尼子方に属していて家を焼かれたのであろう。

B「浜石武鑑」(「新修島根県史資料篇」収録)より

延享四年(一七四七)の浜田藩士に「八石二人 外に二石四斗小もの給 御用部屋書役 勝田幾右衛門」と。

C平成八年浜田市上府町七九九番地現住の勝田氏によれば、先祖勝田幾右衛門は延享二年京都より北野天満宮を同地の「天神」に勧請。先祖は同地の庄屋を勤めたと云う。この地の勝田氏は「かつた」と云い、使用家紋は「茶の実」。氏の本家の子孫(娘)は伊豆熱海でホテルを経営していたが二十年前に絶え、この家に有った系図も行方不明で、上府の墓も整理した。

D平成八年六月浜田市佐野町四五九番地現住の勝田氏によれば、上府町三宅の家号「原」と云う大家(本家)勝田家から上府町天神部落に家号「空上」の勝田家が分家、この空上勝田家から佐野町田原部落に家号「込山」の勝田家が分家。込山勝田家初代は俗名孫平で、享保十八葵五月死去して戒名相應禅定門。孫平の後は伊右衛門・孫次・瀧之助・林市・豊と続いた。家紋に丸に茶の実(葉は無し)を使用。

 

【勝間田源四郎】

天文九年津和野城主吉見頼勝の家臣

  (注)補注@参照。吉見頼勝は周防・長門等の守護大内義隆の娘を妻にし、大内氏配下であった。勝間田源四郎は大内家臣にいた勝間田氏一族即ち勝田(かつまた)氏一族の者と見られる。

 

【勝田新之丞、他】

寛永十三年津和野城主亀井氏の家臣勝田新之丞、同七之助、同与三右衛門

  (注)元和三年に因幡国鹿野城主亀井氏に従って津和野に移動の者。亀井氏津和野にて明治に至る。

筆者解説@兼清は勝間田(勝田)左衛門五郎と同一人又は同族ではなかろうか。(論考@、「概要」参照)

A兼清は下級国司(大目)であるから、現地赴任して一時期にせよ居住したであろう。在任中に私有地を得て兼清(又は同族の者)以後の勝田氏が石見・上府との関係を続けた可能性が有る。

B兼清赴任時の石見守は誰か。実名に「兼」の字使用の人か。永久二年(一一一四)に藤原国兼は石見国司と成り、国司解任後も上府に住んで(国兼・兼実・兼栄三代の墓が上府町安国寺に在ると云う)「御神本」を名乗り、源平の争乱の際には兼栄・兼高が源氏に加担して功績を上げ、益田に本拠を移して「益田」を名乗った。

C確証はないが、浜田上府勝田氏が勝田兼清又はその一族の子孫である可能性はかなり高い。

 

 

 

〔備前〕

 

【岡山城の勝間田兵庫頭長保】

勝間田左衛門五郎頼貞の子勝間田兵庫頭長保が平安末期から鎌倉初期の頃備前国「岡山城」に住んだという(長門国勝間田氏の系譜)。

(注)補注@照。この時代の「岡山城」の実態は未解明。岡山は備前国府所在地だった。

 

【備前住人勝間田備前守忠保】

勝間田兵庫頭長保から数えて四〜五代目の子孫勝間田備前守忠保は鎌倉末期に備前国に住んだという(長門国勝間田氏の系譜)

(注)補注@参照。

 

【官軍勝田氏】

〇嘉吉元年として備前国松田氏と共に赤松満祐を攻めた備前国勝田氏

(注)後記論文参照。

 

【赤松氏被官人勝田氏】

〇文安五年赤松被官勝田備後

 

【松田勝田氏】

〇延徳三年備前国の勝田(松田勝田とも)氏。

(注)後記論文参照。

【備前市穂浪の勝田氏】

〇備前市穂浪に二十三世帯の勝田氏現住。家紋丸にかたばみ。

 

【岡山藩士勝田恒左衛門】

〇明和四年岡山藩士勝田恒左衛門。

筆者解説@長保忠保らの勝間田氏は遠江で栄えた勝田(かつまた)氏の一族で後に長門国で活躍した。鎌倉末期の元弘三年(一三三三)に後醍醐天皇の下に駆けつけた備中国勝間田氏が確認される事からも、平安末期から鎌倉期末期にかけて備前国に勝間田氏が住んだことは疑えない。その権益所在地・居住地は明確でないが、国府・守護所の在った岡山(現岡山市)或いは勝田氏多数が現住する備前市穂浪であったのかもしれない。(岡山と穂浪の勝田氏未調査)。しかし、以後百年余りは空白である。勝間田氏は備前の権益を失って長門に移ったのかもしれない。

筆者論考〔メモ〕 

松田勝田」氏は備前国鹿田(かた)庄から発生の松田氏の一族か

     嘉吉元年(一四四一)に至り備前国で再び勝田氏が確認されるが、この勝田氏は勝田(かつまた)氏ではなく、松田氏一族の者かもしれない。相模国松田等を本領とした松田氏は鎌倉時代に一族のものが備前国に入り、貞治三年(一三六四)頃に赤松氏に守護職を奪われた後も同国で有力で、多くの者が足利将軍の奉公衆・奉行・右筆等として活躍した。

     そこで、以下備前国と将軍周辺での松田氏と勝田氏の活動を年代順に見る。

松田左近将監らの松田氏が備前国鹿田(かた)庄を侵していた。永享十二年(一四四〇)将軍周辺に鹿田を領していたと見られる「松田鹿田次郎左衛門尉朝郷」が居た(内閣文庫本松田家記)。

嘉吉元年備前・美作・播磨三国守護赤松満祐が将軍殺害の際「備前国松田並びに勝田、各々官軍なり」が赤松氏追討(建内記)。

文安五年(一四四八)九月頃、赤松被官で細川氏に支援された「勝田備後」が、赤松氏跡の備前・播磨・美作の三国を拝領(経覚私要鈔)。

応仁の乱(一四六七〜)の記録「応仁記」に東軍・細川党に属し京都で戦った「備前ノ勝田ノ次郎左衛門尉」と。群書類従本応仁記はこれを「備前の松田次郎左衛門尉」と記す。

文明十一年、出雲国居住と見られる「勝田次郎左衛門尉秀忠」が日野富子の呼び掛けに応じて、京都清水寺再興の為に寄付(成就院文書)。

文明十二年(一四八〇)前将軍義政の妻日野冨子の供をした「松田勝田殿」(蜷川家文書)と。

文明十三年十二月「(鹿田庄の件で)松田備前守」「鹿田庄ハ松田惣領又次郎請口也…」、文明十四年十月「備前国鹿田庄代官松田ハ公方近習者也、兼ハ細川加扶持者也、以細川之号、對赤松色々緩怠押領子細在之…」と(大乗院寺社雑寺記)。

文明十八年七月二十九衛府侍十人の一人「松田次良左衛門尉尚郷」(親長卿記、大乗院寺社雑事記)

長享元年(一四八七)七月将軍義尚のお伴侍に「松田勝田」と(蔭涼軒日録)。

延徳二年(一四九〇)九月「備前 菅 松田 勝田」と。(多聞院日記)

延徳三年備前国播多郷の年貢取立て契約をした「松田勝田」(単に「勝田」とも)(蔭涼軒日録)

(結論)

備前国松田氏の一族で将軍奉公衆の松田次郎左衛門尉は鹿田庄を領して勝田(かた)を称していたが、奉公衆には勝田(かつまた)氏が居たので混同を避けるため奉公衆名簿等では本来の名字松田と記されたが、文明八年の勝田氏敗北(滅亡)後は公に「松田勝田」又は「勝田」と呼ばれた。

(参考)

将軍義満の頃ではあるが、勝田(かつまた)三河守の子か孫に義満の当参奉公人(後の奉公衆)の勝田次郎左衛門尉が居て、ここから「次郎左衛門家」と云うべき系統が成立していた節もあり、これが備前国系勝田氏の可能性は残る。

美作国の地名鹿田は「かつた」と読む。備前国の鹿田も「かつた」とも言ったか。

 

 

 

〔備中〕

【勝間田氏】

〇元弘三年(一三三三)後醍醐天皇が船上山にたてこもった際に駆けつけた諸国軍勢の中に備中国の「勝間田」氏が居た。

 

【鴨方町の勝田氏】

〇広島県浅口郡鴨方町地頭上と宮ノ脇に計十七世帯の勝田氏現住。家紋下り藤。墓所は鴨山城主細川氏の菩提寺清滝山長川寺。元家(本家は)絶えた。元家の資産を引き継いだ勝田氏同地に現住、先祖についての書付所持、藤原姓と云うが詳細は未調査。

筆者解説@元弘三年の勝間田氏は遠江国の勝田(かつまた)氏の同族で備前国にも権益を持っていた勝田(かつまた)氏の一族と思われる。鎌倉期を通じて勝田(かつまた)氏の一族の者が備前・備中両国に関係を続けたと見てよいだろう。(補注@参照)

A鎌倉期からの備中国に於ける拠点は勝田氏多数が現住する鴨方町地頭上・宮の脇か

 

 

〔長門・周防〕

下小川の勝馬田氏

〇応安元年長門国下小川居住の勝馬田某

 

【長門小守護代家勝間田氏】

〇応永二七年長門国の小守護代勝間田左近将監盛実

〇明応六年長門国の小守護代勝間田左近将監

〇天文二十三年陶軍に属して吉見氏を攻撃した大内氏家臣勝間田備前守盛治

〇永禄十二年毛利氏家臣の勝間田土佐守他

筆者解説@補注@A参照。

A長門国の勝間田氏は美作国勝田郡などを領した勝間田(勝田)左衛門五郎の子孫で、平安末期から遠江国を本拠にして繁栄した勝田(かつまた)氏の一族。

B恐らく勝田氏一族総領の代官として備前国に住んでいたのであろう勝間田備前守忠保とその子忠盛(内藤氏の子。養子)は足利幕府創設(一三三六)に率先参加、勝田一族総領と共に当参奉公人(将軍直臣)に成った。将軍尊氏と足利直義・直冬(直冬党という)が争った際は直冬党大内氏の下で長門国で活動。応安元年(一三六八)に「勝馬田某」が長門国阿武郡下小川に勝馬田八幡宮を建立したと伝えられているから、この際に長門国に権益と拠点を得ていたのであろう。応永二七年(一四二〇)忠盛の孫勝間田盛実(左近将監・備前守)が長門国小守護代になって守護所の所在地長府に入った。盛実の子盛兼とその子矩益は上京して将軍奉公衆を勤めた。

    応仁・文明の大乱後の明応二年(一四九三)に将軍奉公衆が解体されたため同六年に矩益は守護大内氏支配下の長門国に戻って小守護代に「復帰」した。ここから勝間田氏は戦国大名大内氏の家臣化していった。山口県に子孫が現住している。

 

 

 

〔安芸〕

【広島藩士勝田武右衛門】

〇伊勢の生まれ。慶長五年広島藩主に成った福島正則家臣。元和六年広島藩主浅野氏家臣。

(注)〔伊勢〕【勝田武右衛門】参照。

(注)安芸国域の広島市に七十、沖見町に十、五日市町に十一世帯の勝田氏が現住だが、未調査。

 

 

 

〔出雲〕

【勝田次郎左衛門尉秀忠】

 @成就院文書の奉加帳(大日本史料八の十一)より

 「(前略)

 文明十一秊三月 日

清水寺再興奉加帳

    柱

  (中略)

一本二十貫、 出雲国勝田次郎左衛門尉秀忠

(後略)                 」

 (注)京都清水寺成就院の僧願阿が応仁の乱の際に焼けた清水寺再建のため募金応募者名簿。将軍義政の妻日野富子、伊勢貞宗、朝倉孝景・氏景ら百六十三名(出雲国は尼子經久ら十二名)の名がある。

 

【田儀の勝田椋之丞】

@多伎町の口田儀に六世帯、奥田儀に五世帯、他に三世帯の勝田氏が現住。

A平成五年出雲市多伎町教育委員会発行の「未来への伝承多伎町の文化財」より

「原の古墳 奥田儀 元亀三年(一五七二)、才坂勝手要害山の城主竹下和泉守の臣であった勝田椋之丞は尼子氏の滅亡をはかなんで入定した。その石室を原の古墳と言う」

B「多伎藝神社誌」に勝田椋之丞家は代々に椋之丞を名乗り、この地の庄屋であったと記す。

C平成八年同町奥田儀九〇番地現住の勝田貞喜氏によれば先祖は太田市富山町の城(要害山)の城主竹下氏の家老だったと云う。貞喜氏は十一代目。本家

は同町竹の上現住で家号「川上」の勝田氏という。当地の勝田氏は「かつた」と云い、使用の家紋は下がり藤。

 

【勝田作十郎・勝田十太夫】

@松江藩主京極忠高家臣。「京極忠高給帳」に「馬廻組勝田作十郎一七〇石。京方ニ、京の用人勝田十太夫二〇〇石」と。

 (注)補注・京極家臣参照。

 

【勝田五太夫】

@出雲市の園に十世帯、多久谷に六世帯の勝田氏が現住。「かった」と云う。家紋は「丸に剣カタバミ」。

A平成八年三月に平田市園町一五〇番地現住で園町及び多久谷町勝田氏の総本家(屋号は山根)十二代目勝田幹夫氏より提供の系譜より。(冒頭より二代目までの部分は系譜のまま。三代目以下は要約)

「元来勝田之本苗意宇郡来海村ヨリ出ル由申傳エナリ然處中古秋鹿郡大野村ニ居住シ元祖五太夫ト申ス大野村ニテ出生ス若年ニシテ両親ニ別レ十七才之時松江表え出百人者奉公仕居ル處丈ケ六尺斗リノ大男ニテ因州相模守ヨリ御所望ニテ彼表御足軽奉公仕夫ヨリ御晦ヲ願松江ヘ帰リ鍛治町ニ居住ス年号不分明楯縫郡園村ニ居住ス       嫡子七郎右衛門鳥取ニテ出生

                   二男六郎兵衛松江鍛町ニテ出生

    元祖ヨリ代々禅宗起雲山大龍寺旦那

元祖 勝田五太夫 法名雪堂自白信士享保四年十一月二十九日死去 同年ヨリ嘉永六丑年マデ年数百三十五年ニナル

     妻   因州鳥取之人。法名歓室妙喜信女 宝永三戊二月二日

二代 七郎右衛門 法名大道玄機信士(轉法院大道玄機居士)。享保一九寅六月二十七日

     妻   園村布嵜坂本惣左衛門妹。法名春林自永信女。享保六丑二月二十五日

     後妻  一峯恵心信女 宝暦七  十一月二十七日(傳吉の母)

   二男六郎兵衛 多久谷村エ別宅園屋元祖ナリ

         天和元酉年生 宝暦二申年七十二歳死去

         宝永二酉年園村ヨリ多久谷村エ新宅 追々繁昌シ高二十八石取致し船を…

三代 傳吉    明和六年六月三日死。

   二男又次  別宅。行き先不明

四代 七郎右衛門 寛政元年三月六日死。戒名宏濟院棹岸慈航居士。運送業。

   三男茂吉  別宅。屋号本屋敷。本屋敷分家は中出及び坂本屋

五代 柳藏    天保十五年二月六日死。

   二男政十  別宅。屋号酢屋。

六代 理右衛門  文久元年十二月十四日死。

七代 柳藏    慶応四年五月三十日死。

八代 利右衛門  明治五年三月二十一日死。

九代 軍太郎   大正六年九月十四日死。旦那寺大龍寺を再建立。功績により総て院号となる。

一〇代勝三郎   昭和二十七年十月二十一日死。東村村長、農協組合長

十一代光夫    昭和五十三年十一月十四日死。出雲市立今市小学校長

十二代幹夫                                       」

 (注)@「因州相模守」は因幡国・伯耆国支配の鳥取藩主池田光仲A平田市園町の大龍寺は、宝暦年間に当地の勝田氏等の支援で臨済宗の寺にしたものB「意宇郡来海村」とは現在の宍道町来待の地域で、勝田氏が現住C過去帳に記されている高真院殿・宝山院殿・隆光院殿は松江藩主松平氏三代の戒名。

 

【宍道湖周辺の勝田氏】

 以下は何れも平成年間の調査による。使用家紋が同じで同族と見られるのでここに一括した。

〇松江市宍道町(東来待に五世帯)

 宍道町来待六三八番地現住の勝田久雄氏によれば、久雄家が同地勝田氏の本家で十一代目。初代は吉左衛門で享保十一年六月一〇日死去。寺は弘長寺。「かった」と云い、使用家紋は「丸にもっこう」。家号は「山崎」。江戸期は代々「お帳付け役」を勤めた。

〇松江市玉湯町(五世帯)

 玉湯町林八五一番地現住の勝田達雄氏によれば、勝田家はこの集落(字別所)で一番古い家だが昭和二八年の火災で資料等を消失、寺も焼けてしまった。先祖が神社に奉納した「村正の刀」は、現在県博物館に納められている。使用家紋は「丸にもっこう」。

〇松江市西津田(八世帯)

 西津田現住の勝田登氏によれば、同家は宝暦三年以前から同地に住み、本家は玉湯町の勝田家(現当主達雄氏)と云う。使用家紋は「もっこう」。

〇木次町(里方に五世帯、他二世帯)

 木次町里方現住の勝田宏氏の母によれば同家は木次町勝田氏の総本家で、現当主で十三代目。使用家紋は「丸にもっこう」。

〇横田町(四世帯)

 横田町中村八番地現住の勝田稔氏によれば、中村勝田氏は二百年ほど前に宍道町来待からの移動。

 

【勝田喜左衛門】

@貞享二年松江藩士勝田喜左衛門、後年の藩士に勝田為三郎、同源重、同恭捕。何れも出雲国の出身。

 筆者解説@勝田次郎左衛門秀忠が松田氏の一族「松田勝田」氏である可能性はかなり有る(備前参照)。

秀忠は尼子経久の復活と出雲支配の文明十八年頃までは出雲国に権益を維持していたと思われるが、尼子氏の家臣団名簿等に勝田氏の名は見えないから、勝田氏は当時出雲国で有力だった松田備前守ら尼子氏に対抗する勢力に属していたようである。本拠地が備前国の松田一族と見られるこの松田氏は、伯耆・石見の山名勢や周防・長門・石見の大内勢と結んでいた。

    A秀忠から約百年後の勝田椋之丞が秀忠系の勝田氏かどうかは未解明。石見国浜田の勝田氏との関係も検討すべきだろう(椋之丞の墓は「原の古墳」。浜田勝田氏本家の屋号は「原」)。

B勝田十太夫は京極忠高の若狭国小浜時代からの家臣で忠高に従い若狭から松江に移動したが、「京の用人」と云うから自身は在京したようで、寛永十七年死去。

C忠高の松江藩主時代の寛永十一年(一六三四)から同十四年にかけての京極氏の家臣には勝田十太夫や同作十郎らの勝田氏が居た。勝田五太夫はこの頃の出生であるからこの勝田氏と何等かの関係(親子か)がありそうである。京極家は減封(松江二十六万石→竜野六万石)での移動だから、家臣の松江残留・土着も多かったはずで、幼い五太夫らは残留したのではなかろうか。

D来待(来海)など宍道湖周辺の勝田氏は勝田五太夫の同族と見られる。世代数(十二〜十三)から見て、いずれの勝田氏も江戸期寛永年後からの居住と思われる。

 

 

 

〔伯耆〕

浜の目の勝田氏】

@    浜の目に勝田氏及び勝田神社に関する伝承がある。

筆者論考 

浜の目勝田氏と勝田庄 

勝田氏は「かんだ」氏ではない 

一、勝田氏の活動

 伝承であるが、勝田氏が弓ヶ浜半島北部の浜の目(現在の鳥取県境港市域)に居住して活動、浜の目住民のために悪賊と戦って死去し、浜田氏らの住民によって勝田明神に祀られたと云う。

 この地区に「勝田」の地名は無いから勝田明神の「勝田」は祭神名と見られるが、神社創建者名かもしれない。どちらにせよ人名であって、勝田氏縁の神社である。

 その他、地区に残る勝田氏に関する伝承や白尾神社等の遺跡及び米子市博労町に移転した勝田明神(今は勝田神社)の存在から見ても、勝田氏の居住・実在は否定できない。

 その活動時期は鎌倉期(承久三年、正応・永仁とも)との言い伝えが有る。平安末期に美作国勝田郡等を知行した勝田(かつまた)氏が鎌倉期に入って将軍の御家人・地頭として各地に移動しているし、同じ平安期の保安元年に勝田氏が石見国司に赴任したと見られるから、この勝田氏が鎌倉期から浜の目に関係した可能性は大いに有る。

 ただ、その頃の浜の目は、半島南部の未開湿地によって、米子側とは地理的に分断された「島」の様な辺鄙な場所であったから、この土地自体が争奪の対象となることはまずなかったろうし、住民たちがかつて経験したことの無いような戦乱や事件がここで発生したとも思えない。

 しかし戦国時代ともなれば様相は異なる。浜の目は、日本海から中海を経て出雲国深く進入する航路の入り口(境水道)に位置し、対岸には出雲国の重要港湾美保関が在ったから、いざ出雲国側と伯耆国側との戦いとなれば、伯耆国側からこれらに攻撃を加え得る重要な場所となる。現に、ここは幾度も戦場になった。

 勝田氏らが浜の目で戦ったとすれば、応仁二年(一四六八)から始まった、尼子・京極氏と松田・山名氏との間の美保関・美保郷争奪戦に関わっていたとまず考えるべきだろう。文明三年(一四七一)には弓ヶ浜半島で激戦があった。現地においても勝田氏等の戦いは「応仁の乱後」というのが伝承の一つ(荒尾氏記事)である。住民を苦しめた「悪賊」とは尼子氏の勢力と考えるのである。

 勝田氏は戦闘で死去と云われるが、退去者も居たかもしれない。いずれにせよ尼子氏の伯耆国支配・弓ヶ浜支配の成った大永四年(一五二五)の「五月崩れ」の頃までのことと思われる。

 良く知られているのが、応仁の乱(一四六七〜)から約百年後の永禄六年(一五六三)の浜の目を舞台にした毛利軍と尼子軍の戦いであるが、次項で見るようにこの時すでに勝田明神は米子方に移転済みと見られるから、もちろん勝田氏も浜の目には居なかったはずである。

 以上は浜の目勝田氏の活動時期についての推測である。

 勝田氏無きあと浜田氏ら浜の目の人々よって勝田明神が祀られつづけたのは、勝田明神が浜の目住民による自治(一揆)の象徴であり、氏子組織がその後も続いた戦乱に共同して対処する拠りどころだったからであろう。

 (注)美作国の勝田(かつまた)郡等を知行した勝田左衛門五郎の子孫は鎌倉初期に本拠地を遠江国に移した。「勝田」と記すが「かつまた」と云う。戦国時代に入ってからは「かつた・かつだ・かった」と云うようになった。(「勝田・かつまた氏の研究」の備考@を参照)

 (注)文明十一年出雲国には勝田次郎左衛門尉秀忠が居た。浜の目勝田氏と同系かは不明。

 (注)永禄十一年の浜田と元亀三年の多伎(島根県)に尼子方と見られる勝田氏が確認され、亀井氏(慶長十九年)や京極氏(寛永十一年)の家臣に勝田氏が多いのを見れば、尼子側に属していた様に見える。が、在地勝田氏の尼子氏への臣従は尼子氏の覇権確立後ではなかろうか。 

(注)勝田氏自身が浜の目に常住したとも限らない。代官の常住かもしれない。

 

二、勝田明神の米子移転と勝田庄の成立

 浜の目に鎮座していた勝田明神は米子側に移転され、浜の目域と米子域で構成する勝田庄の惣氏神に成った。現在米子市博労町に鎮座する勝田神社(初め「勝田之宮」、「勝田大明神」。明治維新の際に「勝田神社」となった)がそれである。勝田神社の祭神に関しては神社側と浜の目住民の間に見解の相違が有るが、以上の事は疑問の余地が無い。

【浜の目勝田明神は神田庄に移された】

 今日の米子勝田神社が「かんだ神社」とか「かんだ様」と呼ばれているのはなぜだろう。

 勝田を「かんだ」と読むのはいかにも無理が有るし、こんな例は他にない。特別な理由が有ると見るべきだろう。

 理由は、浜の目勝田明神が移されて鎮座した場所がその頃は「かんだ」と呼ばれていたためと見るべきだろう。神社を、祀られた場所で呼ぶのは珍しくない。

 次ぎの点からも、米子域がかつて神田(かんだ)と云う土地であったのは間違い無さそうである。

 第一に、@天正八年前編纂の「雲陽軍実記」の「浜の目合戦」に記述される「神田浜」が富田城から浜の目に至る途上の米子域の土地と見られる事、A寛文年間の「米子町・会見郡諸社寺取調帳」では「勝田之宮」を「神田之宮」とも記している事、又B幕末編纂の「伯耆志」が、博労町に移転前の勝田大明神が鎮座した場所(今の米子市本勝田)を「本神田」と記している事、がある。

 第二に、文和三年(一三五四)足利尊氏が佐々木秀綱の遺族に与えたという「伯耆国神田庄」がある。他に該当地も無いから、「神田(かんだ)」と呼ばれた米子域の土地こそがこの神田庄であろう。 やはり、勝田明神は神田(かんだ)庄の地に移されたがゆえに「かんだ」大明神と呼ばれた、と見るべきなのである。

 なお、勝田明神が神田(庄)の地に移された際に神社名「勝田」の表記も変更して「神田」大明神としてもよさそうに思える。だがそうしなかったのは、勝田明神の「勝田」が地名ではなく固有の社名或いは祭神名と認識されてそれが尊重されたからに他ならない。

 (注)神田庄の範囲は、伯耆志に記す米子町・下福・米原・三ツ柳・河崎であろうか。

 (注)「米子」の地名の初見は「家久君上京日記(鹿児島県史料拾遺五)」の天正三年六月二十一日の「二十一日打立、…大仙へ参、其より行て緒高といへる城有、其町を打過よなこ(米子)といへる町に着、豫三郎といへるものの所に一泊」である。翌二十二日「明かたに船いたし行に、出雲乃馬かたといへる村にて…」とあるから、この頃の米子は、城と云うほどのものの無い、宿場と港を兼ねた小さな町であったようだ。なお緒高は尾高、馬かたは馬潟。

 (注)「神田庄は勝田庄で北弓浜のもの」との見解があるが、庄名「神田」が「勝田」に変更された理由説明を欠いている。単なる当て字とするのは無理が有る。

 (注)経光卿記紙背文書中天福元年の「伯州勝田庄」は赤碕町勝田(かった)のもの(角川地名)。

【神田庄と濱の目域の統合で勝田庄が成立】

 勝田明神を濱の目から米子域(神田庄)に移転して勝田庄の惣氏神としたのは何故だろうか。

 そもそも、この神社移転は米子域(神田庄)と浜の目との統合を目的として為されたものと見るべきである。すなわち、両地域が一体ではなかったのは勝田庄を構成する村落を示したいくつかの文書(【資料二】のCD)に於いて両地域が明確に区分されていることでも明らかだが、米子の権力者(領有者)は浜の目住民の拠りどころたる勝田明神を米子傘下に収める事で、浜の目を統合し支配を強めようとしたのである。当然、浜の目住民の抵抗はあったろうから、勝田明神を濱の目と米子域領域を統合した新しい庄の惣氏神に祭り上げ、又その庄名の表記を、社号により、「勝田庄」として浜の目の人々と勝田明神を慰撫したのだと思われる。

 (注)浜の目域が勝田庄成立前から神田庄に含まれていた可能性が全く無い訳ではない。

 (注)伯耆志も「勝田庄は社号に因れる名なり」としている。

 (注)米子勝田大明神の社(祠)の鍵は、後に神職佐々木氏に譲るまでは、濱の目の浜田氏が持っていたという(伯耆志、外江村郷土研究調書)。江戸末期まで、浜の目住民が勝田大明神に対して特別な立場を維持していたのは明らかである。(【資料二】E)

【勝田明神移転と勝田庄成立は天文二十二年か】

 従って、勝田明神移転時期は勝田庄成立と一致すると見られる。その時期は、浜の目の外江村補岩寺蔵の阿弥陀如来座像胎内の永禄十年十一月日付け墨書銘「伯州相見郡勝田庄外江村於建徳山長福寺阿弥陀如来」で勝田庄が初めて確認できる永禄十年(一五六七)以前である。となれば、白尾神社及び勝田神社の社伝の云う天文二十二年(一五五三)の事ではなかろうか。

 即ちこの統合劇は大永四年(一五二五)伯耆国を制圧し天文二十一年守護に成った尼子氏の統治・行政活動によるものとも考えられるのである。

 (注)外江村勝田明神の旧地に祭られた白尾神社(始め伊勢宮)神主の系譜に、初代の濱田百太夫は天文弘治永禄の頃の人と云う。即ちこの人の時(天文年間)に勝田明神が移転しその跡に伊勢宮(後の白尾神社)が創立されたと云う事からも、天文二十二年の移転と見た。

 (注)勝田神社社伝の「天文二十二年」は、本勝田(本神田)から現在地への移転の年ではある。

 

三、勝田氏は「かんだ」氏ではない。

 以上、「勝田」を「かんだ」と読ませる“不自然”には特別な理由が有ったのだった。従って、勝田四郎・勝田五郎や米子に移転する前の勝田明神の「勝田」は「かんだ」ではなく、「かつた(だ)」「かった」或いは「かつまた」であろう。勝田・かつまた氏の研究にとってはこれが重要である。

 

四、浜の目勝田氏は勝田(かつまた)氏の出身か。

 @承久三年八月に幕府は承久の乱に加担した公卿・武士の所領を没収して幕府方の武士に付与しているから、「白尾神社由緒」が云う「承久三年の記録」が事実なら、将軍御家人勝田(かつまた)氏が浜の目を得て入部したと見るべきである。当時の勝田(かつまた)氏本拠は遠江国に移っていたから、恐らく美作国勝田郡(又は石見国国府域の浜田市上府・下府)に住んでいた勝田一族の者が現地に赴いたであろう。それが勝田四郎かもしれない。(勝田四郎に従った浜田氏は島根県浜田(市)の出身か。浜田市下府の三宅に勝田氏の本家が有った)

 A応仁の乱後に石見国の津和野から出雲国本庄経由で浜の目に入ったと伝えられている勝田五郎(荒尾氏記事)と勝田四郎とは別人と見ておくべきだろう。

 応仁二年から東軍側尼子氏と美保関・美保郷争奪戦を演じた松田氏(安木の十神山城)の背後には西軍側の山名氏や大内氏がいた。大内氏の家臣や大内配下の津和野吉見氏の家臣の中に勝田(かつまた・勝間田とも)氏が居たし、浜田には勝田氏が住んでいたと見られるから、この勝田氏が大内氏や山名氏の支援を得て浜の目に入った(戻った)可能性が有る。

 (注)文明十一年出雲国に居た勝田次郎左衛門尉秀忠は備前国松田氏の一族の松田次郎左衛門(将軍奉公衆)である可能性が有る。

 

 

【資料一】勝田氏伝承、勝田明神、勝田神社、白尾神社

@荒尾氏記事

「応仁の乱後新屋村字鬼ケ澤周囲は沼澤にて要害の宜しきを以て凶悪無頼の徒も集りて據って巣をつくり四隣の民財を掠して暴行を極め民ども往来に苦めり、

 適々石見国津和野の郷士勝田五郎といふもの臣僕を率いて出雲国本庄村に来れり、弱きを扶け強きを挫くの侠気あり、民依って鬼ケ澤の賊を討たんことを請ふ、

 五郎諾して衆を率いて外江村に至り地形を察して新屋村に軍営を張り□□して矢を放ちて戦を挑む賊も亦これに應じ奮戦数刻の中五郎の僕鹿之介狼之介戦死す、賊の勢やや靡く、五郎鞍壷に跨り大いに呼ばはりて衆を麾き敵営を衝く、馬流矢に中りて五郎馬より落つ遂に賊のために獲らる

 残卒尚健闘進んで大篠津村の西南隅に進み遂に之を討滅

す、外江篠津の民等侠義に感じ祠を外江村鬼ケ澤の傍に建てて五郎を祀り死者の亡骸を納めて樹を植えて標とす、高松村五輪松是なり、        」

 (注)この資料は寛永九年米子に入った鳥取藩の家老荒尾氏による記録とされている。原典未確認。

 (注)「応仁の乱後」「津和野の郷士」「勝田五郎」「出雲国本庄村」の初出。

A米子神社由来記(新修米子市史資料編近世二)

「(前略)一、勝田大明神ハ祭る神正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊なり、前の両社左り天津大明神ハ天照皇大御神、右は国津大明神大己貴命なり、石壇下左りハ松尾大明神、祭る神大山咋神、右ハ若山咋神、相殿に木花開耶姫命を祭る、(中略)、社領高七石五斗壱升元和四戊午の年より御寄進なり、(中略)、例年御祭例三月十六日・九月十六日、(中略)、当社は往古浜の目外江村に有りしに、六百年余遥の以前にして、年代祥ならす、同所新屋村に遷座し給ふ、(中略)其後正応・永仁の 頃当社地の四五丁東の方本勝田に遷座し給ふ、其後人皇九十五代後醍醐天皇元弘弐壬申のとし隠岐国へ移し奉りし時、当国に遷幸ましまして当社へ御幸なし給ふなり、(中略)天文二十二癸丑の年今の社地に御遷座し給ふ、(中略)、当社は金城鬼門鎮護の社なり、勝田一庄の大社にして市中近在・浜の目の産社なり、(以下略)」

 (注)この由来記は安政七年に田守静六が記した。同人が記した「米府神社由来記」も同内容。

 (注)「正哉吾勝勝速日天穂忍耳」「正応・永仁」「天文二十二年」の初出。

 (注)境港市域に御醍醐天皇が立ち寄ったと云う伝承が有る。天皇が立ち寄ったのは浜の目時代の勝田明神だったのだろう。

B伯耆志

「博労町の東際了春寺の地に連りて其地東西二十八間南面の社なり、是を近郷の総産土神とす。祭神は天忍穂耳命と称すれども信じ難し。往古は西外江村に在て今舊地あり。後新屋村に移し、またこの地に移すといへり。民間伝へて曰く、昔修験の奉仕なりしが、故有て米子に移し祭祀を佐々木氏に譲る、又勝田上総介といふ人の臣濱田五郎丸といふ者浜中の猛士なりしが、其剣を当社に納むと云ひ、又当社は即上総介の霊神なりと云へり。故に浜田某数代社の鍵を管せしが煩はしさに堪えずして又佐々木氏に譲とも云ひ、一伝には正応永仁の頃彼の新屋より此地の東、本神田と呼ぶ地に移し、天文中今の地に移すと云へり。然らば勝田氏の霊なるや否や(西外江の下見合すべし)。勝田庄は社号に因れる名なり。…」

 (注)伯耆志は境港市中野の景山粛が幕末に編纂の西伯・日野の地誌。

 (注)「本神田」は今は「本勝田(かんだ)」と記される。

 (注)勝田「上総介」「濱田五郎丸」の初出。

C神社御改帳(新修米子市史資料編近世二)

「(表紙) 神社御改帳  大宮司佐々木出羽守

       勝田庄米子御鎮座

     勝田庄米子拾八町在二拾八ケ村大社

   惣氏神 祭日(三月十五日、九月十五日) 勘請年記不分明

 一勝田大明神社(七尺八寸間弐間三間 柿 明神造四方高袖唐搏風附)

   祭神 正哉吾勝々速日天忍穂耳命

         瑞垣三方 折廻 二拾九間

     (中略)

   氏下米子 博労町 糀町 道笑町 日野町 茶町 塩町 大工町 法勝寺町 紺屋町 四日市町

        東倉吉町 西倉吉町 尾高町 岩倉町 立町 灘町 内町 方原町

   氏下 在 勝田村 東福原村 西福原村 米原村 上三柳村 下三柳村 河崎村 上後藤村 粟島村

        後藤村 夜見村 富益村 和田村 大篠津村 佐斐神村 小篠津村 新屋村 竹内村

        福定村 中野村 上り道村 境村 東外江村 西外江村 盛岡村 渡村 葭津村 大崎村

     (後略…東外江村庄屋伴吉 東外江村年寄秀三郎 西外江村庄屋新右衛門

         西外江村年寄久兵衛など各町村の庄屋・年寄の名)            」

 (注)勝田神社蔵、嘉永年中のものと云う。

 (注)勝田庄の中に勝田村(今の米子市勝田町)が発生しているのが判る。

 (注)同日に書写された勝田神社蔵「祭神由緒記(明治九年十一月書上)」の「勝田神社祭神」の項は何故か空白である。神社御改帳と共に原本の調査が必要。

D勝田神社由緒(昭和九年刊鳥取県神社誌)

「 郷社 勝田神社   米子市大字博勞町二丁目字勝田社付鎮座

 祭神 正哉吾勝勝速日天忍穂耳命 天照大神 素盞嗚尊

 由緒 往古は弓ケ濱外江村に鎮座(當時吉祥院といふ別當ありしと云へり)其後貞治より文安の頃

    までは新屋村に鎮座、其の後又勝田山に奉遷、又天文二十二癸丑年今の地へ奉遷すと云ふ、

    領主中村伯耆守より社領の寄進あり(慶長六年十月の證文あり)其の後加藤候池田候よりも

    社領寄附故の如し(中略)元勝田大明神と稱へしを明治維新の際今の社號に改称(中略)

 例祭日 四月十五日 (以下略) 」

 (注)「吉祥院」「貞治より文安」初出。

E白尾神社由緒(昭和九年刊鳥取県神社誌)

「 村社 白尾神社 西伯郡外江村大字東外江字長寝鎮座

 祭神 天照大神 豊受姫神 素盞嗚命 菅原道真 事代主命 市杵島姫命 岩長姫命

 由緒 創立年代不詳、傳ふる所によれば九十二代伏見天皇正應年間外江村僅かに七戸ありし時勝田上総介五郎浜田五郎丸を伴ひ此地に来る、其頃此地方悪賊住して耕耘を妨害し田畑為に荒蕪、土民之を憂う、折しも勝田五郎勇猛の士なるを以て之に請ひ遂に誅除するを得たり、其功徳顕著なるを以て没後勝田命と稱へ、廟祠を白尾の地營み勝田明神と尊奉、一郷の氏神とせしものの如し、然るを天文年中米子築城に際し武神なるを以て時の領主鬼門鎭護の為勸請米子に遷座す、今の勝田神社是なりと謂う、因て外江村には更に伊勢神宮より勸請伊勢の宮と稱す、爾来人口増殖寶暦年間本村を東西両村に分ちしが明治五年神社整理の際一村一社の制に依り西外江村氏神と定められ今の社號に改稱、(中略)、例祭日十月二十一日、(以下略)    

F白尾神社由緒(「神社明細書」より由緒部分のみ。昭和三十一年六月登記)

「創立年代不詳、傳うる所八十五代仲恭天皇承久年間外江村僅かに七戸ありし頃勝田上総介四郎浜田 五郎丸を伴い、(以下略)」

 (注)白尾神社神主による由緒書。

 (注)「承久年間」初出。

G白尾神社由緒

「  白尾神社 外江町二〇六八番地(長寝)鎮座

 境外攝社 剣御崎勝田神社

      御祭神 勝田上総介四郎命 浜田五郎丸命

 由 緒  創立年代は不詳なれど社伝によると承久年間にこの地方の悪賊を退治したるその功徳顕著なるを以って没後勝田四郎命の霊を白尾の地に祀り勝田神社と称し一郷の氏神と崇敬される。承久三年(一二二一年)と記録有り。(以下略)

 (注)白尾神社神主による由緒書。

 (注)「承久三年」の初出。文中の「承久三年の記録」は未確認。

H白尾神社神主の系譜(勝田四郎の伝説収録の「鬼ケ沢と勝田神社」より)

  天文弘治永禄の頃 神主初代 濱田百太夫

  元亀三年相続   神主二代 濱田千日

  文禄二年相続   神主三代 濱田要太夫

  四代濱田豊後守 五代遠藤河内守以下遠藤家今に至る。(現神主遠藤政人氏)

 

【資料二】神田浜、勝田庄

@雲陽軍実記(島根郷土資料刊行会本)

「伯州浜目合戦 並因但之兵粮船大江奪取事」の項に「出雲国内も最早八郡毛利方へ切取て、富田近辺は二季に麦を薙ぎ、稲を薙ぎに雑兵を出し、富田を疲らかし玉ふ而己か、四民飢えに及び、適々月山に志を通ずる者有と云へども、敵に兵糧を被差留ける故、城中以の外精力尽き、此上は但因の味方より、兵粮を被寸志候へと、使者度々重りけるに付、小船数艘に積て、十神山、福良山の両城へ繰入る由荒隈へ漏聞へければ、児玉、飯田、香川、山県等に軍兵を差添、馬潟、大江、戸の井、三保関を警固させ、陸路には福原、飛落等に鉄砲を三百挺為持、浜の目へ陣取らせければ、但因の船ども中々弓ヶ浜へは着事不叶、此旨富田へ聞へければ先浜目の福原を夜討に打破り、兵粮を引て城に入よとて、十一月二十七日宵闇に、千余騎究竟の者を選んで押寄させ玉ふ、福原も無油断待設たる事なれば、陣所より鉄砲三百挺打掛て防戦し、池田、力石、相良等命を不惜、戦ける故、合戦互角にして、一引曳いて休みける所に、弓ヶ浜に合戦有と聞て、警固の軍兵小船に取乗て漕付て、一人も不逃と後を取巻ける処に、神田浜へ富田より伏勢を被出て、熊谷新右衛門、横道兵庫助、宇山大八、河添小平太、目黒大学等蟄龍に陣取て居けるが、船手より後巻掛るを見て、渚に添て打向ければ、船手の勢岸にも不得上、唯但因の兵粮船を奪取て、大江へ引ければ、伏兵は味方の敗軍を助引入けり、福原も不案内の場所なれば跡をも不追、元の出張へ引返す、双方死人百余人、手負は不知其数とぞ、」

 (注)雲陽軍実記は尼子旧臣が天正八年までに記したもの。

 (注)「浜目合戦」は永禄六年と見られる。

 (注)「神田浜」は富田城から陸路浜の目に至る途上の地(浜)と読める。弓ヶ浜の南東部分(米子に近い部分)を当時は「神田浜」と云ったのだろう。

A境港市外江町の補岩寺に在る阿弥陀如来座像の胎内銘(永禄十年)に「伯州相見郡勝田庄外江村於建徳山長福寺阿弥陀如来」と。

 (注)伯耆誌に「建徳山補岩寺 曹洞 米子総泉寺末 本尊釈迦牟尼 開基は竹法梅園和尚なり元禄七年寂す  辻堂」と云うから、江戸期に入って旧長福寺が再建されて補岩寺に成った様である。長福寺は元永二年(一一一九)に再建(創建か)と云う。0859423586

B境港市中野町の正福寺に有った鐘の銘に「伯耆国会見郡勝田庄中野村巨岳山正福寺」と。

 (注)年号は不詳。0859423834

C「伯耆誌」(享保十九年の鈴木孫三郎の手記)

「  勝田ノ庄十六ケ村

 米子町 下福 米原 三ツ柳(上下) 河崎(自是濱ノ目) 佐斐ノ神 小篠津 大篠津 新屋

 竹ノ内 曲リ松 中野 上リ道 境邑 外江 渡リ村(夜見)               」

D「伯耆民諺記」(寛保二年編纂)

「  勝田ノ庄 十六ケ村(阿島より以下渡村迄十二ケ村を濱の目と云ふ)

 米子 下福原 米原 三柳 阿島 曲松 大篠津 小篠津 才神 新屋 

 竹ノ内 中野 上り道 境目 外江 渡利             」

E勝田庄について【資料一】のC参照

 

【資料三】遺跡等

(境港市域)

〇地名( )〇白尾神社(外江小学校敷地の道路をへだてた北隣)〇剣御崎神社(外江小学校敷地に接した北隣)〇勝田四郎の屋敷跡(外江小学校校庭部分)〇勝田四郎の古墳(外江小学校校庭中央の瓢箪山と呼ばれた砂山…前方後円墳か、双円墳か)〇榎の古木(瓢箪山の瓢口部分、「えのみや(榎宮)さん」と崇められた。樹齢二百年以上。古墳が畑地にされて平坦化した為か根上がりとなり、昭和三十五年移植後に樹勢衰え、平成五年枯死)〇勝田さんの井戸(外江小学校西、五郎丸の井戸とも云われる)〇四郎の足洗い石(五郎丸の住んでいたところに在ったとも云われる)

(米子市域)

 勝田神社

 本勝田(本神田)

 

【参考書籍等】

 「勝田四郎の伝説(資料集成と教材化)」平成五年刊 境港市立外江小学校教員の山本美千枝氏

 「鬼ケ澤と勝田神社」(明治年間か)村上龍氏の史談会における公演原稿(上道尋常高等小学校)

 「弓浜民談抄」一九七三年佐々木謙著

 「境港市史」一九八六年

 「外江百話」一九九六年 外江町史編集委員会

 「米子市史」

 「米子市実態調査」

 「外江村郷土研究調書」

 

(要調査)

〇浜の目の建徳山長福寺と静岡県榛原町の建徳山長興寺

〇明治初期の神社明細帳

(備考)

〇室町期の記録大山寺(鳥取県大山町)縁起に「当国髮太の浦人の中に…」と記されている「髮太(かみた)」は、髪挿(簪)を「かんざし」と云う如く、「かんだ」ともよめるから、これも神田か。〇浜の目勝田氏が天忍穂耳を祭っていた可能性はある。それが勝田明神の前身かもしれない。

 

 

 

〔因幡〕

【勝田新之丞他七名】

@慶長十九年鹿野城主亀井氏の家臣勝田新之丞一八〇石・同市郎右衛門一〇〇石・同又左衛門二〇石

  (注)亀井氏は天正九年頃からの城主。元和三年石見国津和野に移動し、勝田氏これに従う。

 

【紙屋の勝田氏】

@気高郡青谷町の紙屋に十一世帯、他に三世帯の勝田氏現住。「かった」と云う。

A平成八年三月に青谷町在地本家の勝田梅聟氏から寄せられた先祖についての言い伝え。

「〇先祖は亀井氏に『勝田』の名字をもらった。これは亀井氏が豊臣秀吉の朝鮮征伐に従軍して『かった』ことに因んだものと云う。なお、亀井氏の『三百年祭』には招待状をいただいた。しかし、その頃は生活が苦しかったために着て行くものも無くて参加できなかった。〇先祖勝田茂左衛門が天保十四年(当時六十一才)に書いた暦が残っている。茂左衛門の前は勝田五郎左衛門といった。五郎左衛門が何代続いたかは判らない。五郎左衛門の前は判らない。〇屋敷地内に先祖の墓石が約六十基残っている。五輪塔が三基在る。御寺は天台宗のみろく寺である。〇先祖は下の部落に在る『八幡様』に刀などを奉納した。スサノヲを祀る『氏神様』の石段両脇の大木(胴廻り一丈七尺)は先祖が植えたものである。〇何のご恩か判らないが殿様に『氏神様の奥の土地を遣る(与える)』と云われたとき、『雨が降ると返れなくなるので谷筋の片側に道を付けてください』と申し上げた。〇かつて屋敷は今の住居の前の谷中(今は田になっている)に在った。これを『三番屋敷』と云った。屋号は『背戸山』と云った。家紋は『二重六角影の蔦』。〇家財道具を三度にわたって人手に渡す等困窮した時代が有った。二百年程前には火事で家財を焼き、長男(二十五才)が子供二人を残して病死するなどという事件も有った。」

筆者解説@青谷は天正九年年頃から元和三年まで因幡国鹿野城主だった亀井氏領であった。青谷勝田氏は亀井氏の家臣勝田新之丞らの一族と見られる。

 

【鳥取藩士勝田村男】

@    鳥取県立博物館「平成二年度資料調査報告書第十九集」の勝田村男家資料に、鳥取藩(藩主池田氏)支藩(西分知家)の家臣。明治維新の際に屯田兵として北海道に移転。勝田氏は中老村尾から始まり安太夫・純蔵・村男・と続いたが後に家名断絶。

A勝田村男家資料、「中老村尾」は未調査。出雲国の勝田五太夫は江戸初期の一時期に鳥取藩で勤めた。関係あるか。

 

 

     

(未検討資料)

岡山県久米郡久米南町羽出木勝田氏提供の系譜

 源正教  延文三年(一三五八)正三位  男子二人、源正隣と源正鎌

  正隣  延文五年(一三六〇)正四位上、後に正三位  妻石田殿

 勝田正長 暦仁元年(一二三八)美濃守従四位上、 妻楢都青山殿 男子勝田酒造輔正家

      暦応元年(一三三八)か

   正家 永和三年(一三七七)   正義、安芸守 妻原殿

   正信 正二年         正四位、備後守 妻

   正光 永           従四位上、出羽守 妻大臣定光妹

   正勝 享禄四年(一五三一)   従四位上、常陸守 妻

   正穐 治元甲戊年       正四位、大膳大夫 妻

 勝見正時 弘治 年(一五五五)   従四位上、勝見豊後守 妻肥後国稲荷山城主佐藤佐渡守

                   備後御調郡矢中村茶宇須城主 権二百五石

   正織 永享十年(一四三八)   従四位上、勝見豊後介 妻    権二百五石

 勝田正平 永享十二年        従三位下、豊前守

   正富 天正十六年(一五八八)  従三位下、右膳佐 妻堀河殿

   正友

   正重 元和三年

   正吉 元和六年

   慶正 天和四年

   正

   正鴨

   正義

   正家

   正丘                   光左衛門

   正縄

 

 

 

 

…… 四国地方 ……

 

〔讃岐〕 

【善通寺市中村の勝田氏】

@善通寺市中村に勝田氏六世帯が現住。子持ち亀甲頭合わせの三羽烏(「烏」と云うが実物は「雁金」に見える)、子持ち亀甲尻合わせ三羽烏、花菱、織田もっこうの紋を伝えている。丸亀市今津に中村から移転の勝田氏現住。

A中村勝田氏の系譜

勝田善太郎 父不明。戸籍簿に記載。位牌有り。

  妻主賀  善太郎の弟善之助及び善七。

勝田千代松 善太郎の長男。天保一二年二月五日生。明治三六年死去。

  妻マツ  千代松の本籍香川県仲多度郡筆岡村大字中村三九五番地。

勝田長八  悦博とも云う。千代松の長男。明治六年六月三〇日生。昭和二四年二月一二日死去。

  妻トク  長八の弟岩八。岩八の子英夫。英夫の子英樹。

勝田康雄  長八の長男。明治三六年七月二六日生。平成四年三月二八日死去。写真家。

  妻房子  康雄の弟悦夫。悦夫の子睦洲。睦洲の子龍太郎。

勝田康成  康雄の長男。昭和一九年六月九日生。姓氏家紋研究者、「勝田・かつまた氏の歴史」研究に貢献。平成十五年神奈川県藤沢市で交通事故死、墓は富士霊園。子無し。妹に勝田優子。

B勝田大明神・柴田大明神

中村の木熊野神社境内に在る石の祠(高さ約一.六メートル、軒下に左卍紋を刻む。台座に明治二十一と

記す)に勝田大明神が祀られている。祠の前に「勝田大明神 榎田長井氏子中 世話人大西鳩居 大正八

年四月」と記す石灯篭が有る。勝田大明神はかつて長井中村にあったのをここに移転したという。神社の

玉垣に「古勝田 千代松 長八」と記す。同地勝田(かつた)氏の言い伝えでは、同地勝田氏は柴田勝家

一族の余類が逃れ来て住みついたのに始まり、かつては「柴田大明神」を祀っていたが明治初期頃に「勝

田大明神」と改めたものと云う。

 

【丸亀藩士勝田氏】

@丸亀市に勝田氏九世帯が現住。多くは丸亀藩士勝田氏の子孫と見られる。

A京極氏の家臣に勝田十太夫らの勝田氏が多数。

(注)この勝田氏の初見は京極氏の若狭時代の家臣勝田十太夫なので、〔若狭〕を参照。

 

筆者論考

 柴田勝家は勝田氏の出身か

一、柴田勝家一族の末裔であると伝える善通寺中村の勝田氏が、名字柴田を勝田に改め、柴田大明神を勝田大明神に改めた理由は判らない。名字柴田を棄てる必要が有ったとも思えない。

 ただし、この勝田氏は一時期に柴田を称していたが、本来の名字は勝田であると伝承していて、明治維新の際に氏神を含めて元の名字勝田に戻した、事が考えられる。明治維新の際に勝田(かつまた)氏出身の戸塚氏が勝間田に名字を戻した例なども有り、珍しい事では無い。

 そこで、この勝田氏が柴田勝家一族の末裔であるとすれば、柴田勝家の元の名字も又「勝田」ではなかったのか、と考えられなくも無い。

 勝家は初め織田信長の弟に従っていたが、弘治三年(一五五七)に信長に従った。当初から信長に重用され筆頭家老として特に軍事面で功績が多く、天正三年に越前国を与えられて北陸進出の大将だった。が、天正十年(一五八二)信長死去の際に羽柴秀吉と覇権を争って敗北。天正十一年居城北ノ庄城落城の際、妻お市の方(信長の妹)と共に自害した。

 著名人物なのに、勝家の系譜は良く判っていない。勝家の養子柴田勝政の子孫で徳川幕臣に成った柴田氏が「始祖修理太夫義勝、斯波の支族にして越後国柴田城に住せしにより家号とすといふ」(寛政重修諸家譜の清和源氏支流柴田より)が、越後国新発田城の新発田氏は佐々木氏の系統で清和源氏の斯波氏とは別系である。又、勝家は尾張国愛知郡上社村(現名古屋市名東区)の出身とも云われているが、尾張国に柴田一族の確たる活動は認められていない。勝家の本姓を調べる意味は有りそうである。

二、いくつかの状況証拠

@遠江の守護(越前・尾張兼任)斯波氏に加担した遠江国勝田(かつまた)一族は、文明八年(一四七六)から明応年間にかけて、駿河国の今川義忠・伊勢新九郎に敗北して城主勝田修理亮ら多数が死去した。この際、一族残党が尾張国に逃げ込んで斯波氏(守護代織田氏)の被官・家臣になった可能性はかなり高い。後の天正四年頃の織田信長家臣(弓大将)に勝田水右衛門が居る。

A敗北後、勝田(かつまた)一族の中に改名した者が多い(戸塚・内田・小畠・南嶋)が、柴田勝家の「柴田」も勝田からの改名かもしれない。柴田としたのは、守護「斯波」氏の「しば・柴」と「勝田」の「田」とを合成したもので、実名に「勝」を使ったのは勝田の「勝」を残したもの、と考えられる。勝家周辺の柴田氏の多くが実名に「勝」を使っているは勝の字を残すことが重要だったのであろう。秀吉が丹田を合成して「羽柴」と名乗った如く、名字を造ることは、当時珍しくは無かった。

B勝家の縁者と思われる柴田勝全の「かつまた」は勝田(かつまた)の事とも思える。

C勝家の称した「修理亮」は遠江国勝田氏の総領家筋の者が永和元年(一三七五)頃から度々使用していた官名で、文明八年の敗北の際の勝田城主も勝田修理亮だった。

D徳川幕臣となった越前出身の勝田氏は勝家と同じ「二つ雁金紋」も使用している(大武鑑)。

三、勝家は遠江国勝田城主勝田修理亮義範の孫か…東金勝田氏の系譜から

 東金勝田氏の系譜によると、落城時の遠江国勝田城主勝田義範の子は義勝(天文十二年死去、八十六歳)と云う。義勝の嫡子義治は大永四年(一五二四)生まれである。柴田勝家の正確な生年は不明だが、天正十年死去時に六十一歳とすると大永二年生まれなので、勝家と義治とは同世代である。(系譜に勝家の記載は無い)

 ここで、前記寛政重修諸家譜が勝家の「始祖」と云う「修理太夫義勝」が勝家の「父」であるとすれば(義勝と勝家の間に人名が無いからこの可能性は高い)、勝家の父「義勝」と義治の父「義勝」は同一人と考えうる。勝家が「権六(後に修理亮)」を称し、義治が「権三郎(後に太郎右衛門)」を称した事も補強材料と云えよう。なお、東金勝田氏系譜の義勝は「左衛門佐」だが、父の義範は「修理亮」であるから、義勝も左衛門佐任官前に修理亮(修理太夫)だった可能性は十分に有る。

 義勝の嫡子義治は土気城主酒井胤治の娘を妻にしていたが、永禄十年に酒井氏が北条氏に寝返った際に妻を離縁して酒井氏と決別、剃髪して隠棲した。勝田氏には北条氏や今川氏に対する深い怨念が有ったのである。

 勝田城主の遺子義勝が、勝田氏再興のために、子の一人を尾張の反今川勢力である斯波・織田家に送り込んだとしても不思議は無い。それが柴田勝家ではなかろうか。

 以上は憶測の域を出ないが、善通寺市中村勝田氏の伝承も有るので、後考の為にこれを記した。

 【追記】@勝田義勝(法名顕勝院普勇日俊)は熱心な日蓮宗の宗徒、代々の菩堤寺は東金市の本漸寺(妙満寺派・顕本法華宗、開基酒井定隆)。福井市の妙満寺派の妙経寺や妙正寺は勝家と関係した(北ノ庄城落城のとき城内から逃げた毘沙門天が寺に伝わっている)が、勝家自身は禅宗徒と云う(フロイスの日本史)A勝家妻お市の娘(京極高次の妻常高院)の側近に勝田十太夫が居たB柴田勝家はききょう紋使用とも言われる。

 

筆者論考メモ

 柴田源左衛門勝定と柴田源左衛門勝全

… 柴田勝家が勝田氏であるならば、勝家周辺の柴田氏も検討の要がある 

【柴田源左衛門(尉)勝定】

@島村沖島共有文書(織田信長家臣人名辞典、近江八幡市・原本未確認)

 柴田勝家の臣柴田源左衛門尉、元亀四年六月十二日佐久間勝政とともに琵琶湖沖島に礼銭を徴収。同月十八日下京より放火を免れた礼銭二百十五匁を受ける(朝河文書)。

A坂井市三国町黒目の弥名寺蔵文書

 天正三年十月十八日付け弥名寺宛感状の発給者は「柴田源左衛門勝定」。柴田勝家の臣。

B明智軍記(要約)

 (天正五年の頃か)勝家の一族の「柴田源左衛門勝定」は、光秀の従弟明智左馬助の妹聟に成る。天正七年二月、元柴田勝家の臣(越前安居ノ住士)柴田源左衛門勝定は百余騎を率いて近江の坂本に至り、妻(明智左馬助の妹)の親戚明智長閑斎・同十郎左衛門光近親子を頼み明智光秀の臣となり、柏原城主。天正十年山崎の合戦に従軍(生死不明)。

(注)明智左馬助=明智秀満=三宅氏の子、光秀の重臣。

(注)安居は福井市金屋町。勝家滅亡後に秀吉の臣戸田武蔵守が一万石で安居を領した。

 (注)柏原城は兵庫県丹波市柏原

C東大史料編纂所蔵「明智氏一族宮城家相伝系図書」HP

 「柴田源左衛門尉源勝定」は柴田勝家の従弟。丹波柏原城主。天正十年六月十六日死去、四十四才。妻は光秀の従兄弟の妹。                     

 

【柴田源左衛門勝全】

@加賀藩史料第一編・村井重頼覚書

 柴田勝家との戦い(天正十一年・柳ケ瀬)の際に、豊臣秀吉方の堀秀政に属していた「柴田源左衛門」は前田利家の重臣村井豊後の窮地を救った。源左衛門と村井とは旧知の仲だったが、これで二人は特別の親友に成った。源左衛門の子柴田久太夫は村井の仲介で利家の小姓(五百石)に成り利家の死(慶長四年)後に金沢で死去した。

 (注)源左衛門が堀氏に属したのが天正十一年四月以前だったことが判る。

 (注)堀秀政は信長直臣。本能寺の変後に秀吉の家臣に成り、山崎の合戦に参陣。幾多の軍功により天正十三年越前北庄城で十八万石を得た。

A寛政重修諸家譜(未確認)

天正十八年太閤秀吉の小田原北條攻めに際して、「太閤備定の令を下し、一番、村上周防守義明、柴田源左衛門尉勝全、二番、溝口伯耆守秀勝、堀監物直政、神子田八右衛門某、この二備隔日交代で一番手に備ふべし、三番丹羽五郎左衛門長重を右備の大将とし、秀政を左備の大将とし」と。

B史籍雑纂・家傳史料巻一・蜷川家古文書

 福島大夫殿家来「柴田源左衛門」の妻は斉藤内蔵助(利三)の長女。長女死去後に次女「じゆいん」を妻とした。三女は慶長九年家康に呼ばれて家光の乳母に成ったお福(=春日の局)

 (注)斉藤利三は明智光秀の重臣。山崎の合戦後捕らわれて死去。

C新潟県史近世一

 慶長三年堀秀政の子秀治越前から越後に転封。慶長三年卯月二日羽柴秀吉発行の「越後国知行方目録」に「柴田越後守一万三千石」と。蒲原郡渡部城。この際、越後守と称していた源左衛門は佐渡守に改めた(加賀藩史料第一編・陳善録)。秀治与力の溝口・村上氏も越後に転じた。慶長五年の越後一揆平定後、堀氏は柴田勝全を上杉氏と通謀の嫌疑により追放(県史)。

 (注)勝全の娘は堀直政の四男直之の妻(直景の母) HP

D続群書類従・福島正則家中分限帳

 正則の家臣「柴田源左衛門」三千石。

E史籍集覧第十八冊・福島太夫殿御事

 元和五年広島藩主福島正則転減封の際に家臣の「柴田源左衛門加藤肥後守殿へ有付」と。この加藤氏は熊本藩主。

 (注)熊本藩加藤家分限帳に柴田半左衛門(一五〇八石)柴田半十郎(一〇〇〇石)の名。柴田源左衛門は死去か、隠居か。墓は熊本か。寛永十年忠広は改易され出羽丸岡で一万石。

 (注)江戸末期、幕府御書院番六番組頭に柴田能登守勝全(富沢政恕著「旅硯九重日記」、大武鑑)。小普請組柴田能登守と同一人と見られる。柴田源左衛門勝全子孫ではなかろうか。

(結論)

以下の点から勝全と勝定は同一人か兄弟の可能性が高い。

@姓名の類似(柴田、源左衛門、勝)A活動時期が重ならず且つ連続的(明智堀)B明智氏と関係(妻)C行動態様の類似(主君に従属的でない武将・客将)D「定」は「また」とも読む

以下の点を考慮すれば、兄弟または親子か。勝定死去により源左衛門を襲名か。

@妻が異なるA花押が異なる(織田信長家臣人名辞典)B勝定は天正十年六月十六日に死去したことになっている。

同一人または兄弟・親子、いずれにせよ柴田勝家の縁者ではあろう。

 

(メモ)

【柴田源六勝重】(平凡社の地名より)

@神蔵寺(名古屋市名東区一社三丁目、曹洞宗、観世音菩薩)

寺伝に、創建は足利義尚の臣柴田源六勝重が雲伷麟棟を招請して開基したという。

A一色城(名東区猪高町一社)

「徇行記」に「一色城府志曰、土人曰柴田勘六居之、今間雑民家、不知遺趾」と。「尾張志」は里人の言として城主は柴田源六であり、勘六誤りとし、「一色村の中村といふ地にあり、旧址すべて陸田にて四面に堭の跡なし、此地を城山と云府」と。城は現在の神蔵寺付近の高台にあったと考えられる。柴田源六は、神蔵寺書上げにある同寺の創建者で、過去帳に「文亀三年癸亥七月二日卒 法名霊源院殿天信了雲大居士」と記される人物。尾張守護斯波氏の命により東部の守りを固めた。

 (注)文亀三年(一五〇三)は柴田勝家誕生(大永二年頃)の約十九年前なので勝家の父ではありえない。勝家の祖父の年代(文明八年前後に活動)の人である。

B明徳寺(名東区猪高町一社)

 寺伝よれば明徳二年の建立。慶長元年に斯波義統の子千歳丸天台宗から真宗に改宗。境内に下社城跡が有る。「徇行記」「土人曰柴田源六居之、按人物志略曰、柴田修理亮者下社村人也、修理亮小名権六、然則恐是土人訛之也」と記し、城主を柴田勝家とし、境内に柴田勝家出生地碑が立てられている。

 

【柴田弥五左衛門】

@秀吉馬廻、文禄元年朝鮮の役に肥前名古屋城に駐屯(吉川弘文館戦国人名辞典より)。

 

 

 

…… 九州地方 ……

九州には勝田の地名が有るものの、その地からの勝田氏発生の伝承は無いので、九州における勝田氏の発生はまず考えられない。

 

〔薩摩〕

【勝田小次郎太夫】

@    入来村史(昭和五年発行)

「     二 勝田家

 入来院定心薩州就封の時勝田小次郎太夫従ひて下向す。其の孫信時より、累代浦之名の地頭職たり。伊集院幸侃の兵と、郡山笹の段に戦ひ功あり。其の子孫信勝は、文録二年癸巳正月四日入来院重時より、采地三十石を賜はる。慶長五年八月朔日、伏見城攻に参加して功あり。仝九月十五日重時関ヶ原の戦ひ利あらざるを察し、重代の太刀及ひ金子二枚、銀子六百目余を信勝に托して曰く、汝此の急場を逃れ国に下り於屋地(略)へ形見として進すべき旨を命す。信勝命を奉し、涕泣して主人に分れ、帰国の途に上る。(中略)其の子縫殿信秀七歳にして本村諏訪祭の頭殿たり。爾来子孫連綿以て明治維新に至れり。現住勝田信彦は実に其の裔孫なり。左は重時公夫人に形見の覚書なり。

   銀子覚

一、            三百七十目 数二十    一、八十六匁三分 数百六ツ

   (中略)

請 取 申 候

十月二十八日           原田拾郎左衛門

     参                 善 介

      勝田弥次右衛門尉殿                              」

  (注)小次郎太夫が従った入来院(渋谷氏)定心が美作から薩摩に移動したのは宝治元年(一二四七)。昭和三十年刊「入来文書」によれば定心に従ったのは種田・勝田・大山・木場の各氏と云う。

  (注)「銀子覚」は、「入来文書」中に「入来院重時遺托銀子等請取状」とされて収録されている。

  (注)図にすると、小次郎太夫( )信時……信勝信秀……信彦兼義末弘 となる。

 

【勝田対馬守】

@    入来文書中の「薩摩入来院本村諏訪座敷定日記(明応七年七月二十八日)」に勝田対馬守」の名。

 

【勝田源左衛門尉】

@    入来文書の「入来院重時知行充行状」

「今度安藤二介殿筭用、以上三十石可遣候

   天正二十一

正月四日   重時(花押)

   勝田源左衛門尉とのへ  」

  (注)源左衛門尉は信勝の父か。

 

【勝田宮内左衛門】

@    姓氏歴史人物辞典に、慶長二年薩摩島津氏の家臣。朝鮮出兵で戦士。

 

【勝田平左衛門・他】

@    入来文書に、勝田平左衛門尉・かつ田平左衛門尉、勝田九郎、勝田弥左衛門、勝田弥二右衛門の名。

A    「近世入来文書」の天保二年「入来院氏家中知行高帳」に勝田氏十家記載。幕末の清色城下に勝田氏六家の屋敷有り。藤右衛門家子孫は先祖が日向から背負ってきたという地蔵を保持。

B勝田氏十三世帯が鹿児島県入来町に、十七世帯が串木野市に、二十八世帯が鹿児島市に現住。鹿児島県には勝田氏が一二七世帯現住している。

入来町現住の子孫勝田能在家は墓誌に「先祖ノ起源詳ナラザルモ美作国勝田庄ニ住セシヲ以テ氏トナス(中略)薩摩に下降ノ時入来院家ニ従属入居シ副田ニ住セシガ領主ノ信任厚ク兄弟揃ヒテ清色城下ニ移封サレ吾家ハ其ノ弟分タリ(以下略)」と伝える。

筆者論考メモ勝田(かつまた)氏の同族か

@    入来勝田氏は美作国の勝田庄名を氏名として発生して入来へ移動と伝えるが、この勝田氏は、美作国勝田郡名を名字にした後に遠江国を本拠にして栄えた勝田(かつまた)氏の同族だろうか。

A    小次郎太夫は、美作国勝田郡等を知行していた勝田(かつまた)氏の元祖勝間田五郎のわずか百年ほど後の人物であること㋺勝間田五郎は保元の乱前に遠江に移動したが、常陸国本木の勝田氏が美作「勝田領」を戦国期まで保持して一族の者が居住していたと伝えること㋩本木の勝田氏は勝田(かつまた)氏の一族で、元祖は勝田五郎源成信と云い、代々実名通字に「信」使用していることを見れば入来勝田氏は勝田(かつまた)氏の一族即ち勝間田五郎(勝田五郎)または其の一族の子孫と考えるべきだろう。

 

 

 

 

……名字を替えた勝田(かつまた)氏……

榛原郡の勝田庄を本拠にした勝田(かつまた)氏の一族は文明八年に駿河の今川氏に急襲されて敗北、一族中核部分は壊滅又は他国に逃げ延びた。これらの人々の大方は勝田や「かつまた」を名乗り続けた。

経緯は不明だが一族の中で本拠地または掛川などの周辺地に残留した者もいたようで、これらの人々は名字を変更している。又、遠江の縁辺部及び三河・甲斐などの周辺国に逃げ延びてその地の大名の家臣化した者の中にも名字を変更したものがいる。いずれも今川氏をはばかったものであろう。中には名字を替えて今川家臣となった者もいた。

 

戸塚氏@

@彦根藩史料叢書「侍中由緒帳」の戸塚氏の項に

「一右拙者曽祖父左太夫儀、遠州榛原郡の内勝間田之庄戸塚ニ而代々出生仕候、駿州今川氏真へ少之内奉公仕罷在候内、御旗本戸塚作右衛門殿ヨリ被申越候様子御座候ニ付、氏真エ暇申請、大阪へ罷越候所ニ早速 権現様江被召出御礼申上候、其刻大阪ニ二・三ケ月被成御座、関東エ御帰国之節直政様エ御預ケ被遊、此節ヨリ御家エ御奉公仕候上意之御指図ニ而御知行六百石従 直政様被下置并御足軽弐拾人組被 仰付候、右御足軽割御判之御証文尓今所持仕候 直政様上州箕輪御所替ニ而御入部被遊候節、関ヶ原御陣之節 直政様御供仕候、此節働之儀者書印不申候、御帰陣被遊御加増四百石拝領仕候、其後江州佐和山エ御所替被遊候、以後右近様御代御替地被下置、此節本御知行御加増地御書分ケ都合千石之御証文右近様御直判ニ而被下置、尓今所持仕申候、右曽祖父佐太夫儀慶長八癸卯年、七拾三歳彦根ニ而病死仕候

 一祖父左太夫儀、慶長癸卯年実父家督并御足軽共ニ従右近様不相替被仰付候、大阪冬・夏共ニ直孝様御陣御供仕候、冬之御陣之刻城之土囲ニ而手負申候、夏御陣之前御足軽五人御増、都合四拾人組ニ被仰付候、

  (中略)

一明治元年十二月十四日、戸塚左太夫儀、勝間田晋ト姓名相改申候

(以下省略)                                     」

「戸塚左太夫家系図

 ━@左太夫正次━A左太夫正長━B左太夫正鐘…(中略)…I左太夫正紹━J正礼(勝間田晋) 」

 (注)安政二年に上針村(掛川市上張)の戸塚市衛門家系を写したという「戸塚家由緒」(勝田氏物語)によれば戸塚市衛門先祖戸塚七郎正重は勝田平三郎の子で戸塚七郷を領したと云う。この由緒は彦根竜潭寺に有った彦根家中の戸塚太夫の系図を参考に作製されたものの様である。

筆者解説@明治元年に姓を戸塚から勝間田に改めたのは、かつまた(勝田又は勝間田)が本来の姓であると伝承があったためと見られる。先祖が「かつまた」を隠して「戸塚」を名乗ったのは文明八年から明応年にかけて勝田(かつまた)氏が今川氏に敗北した際ではなかろうか。であれば、「曽祖父左太夫」(戸塚正次戸塚左太夫家系図による)は大永二年(一五二二)生まれなので正次の祖父または曾祖父の時の事である。「勝間田之庄戸塚」はこの戸塚氏(旧かつまた氏)の本領地・名字地だったのである。牧の原市の旧勝田庄域内の勝俣に戸塚の地名(戸塚橋)が残存している。

 

【戸塚氏A】

@寛政重修諸家譜の戸塚の項に

「  戸塚

    今の呈譜に、先祖は清和源氏為義の流にして遠江国戸塚に住せるにより、         

家号とすといふ。

忠春━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓

    四郎五郎 五郎大夫                         

  萬松院義晴につかふ。のち遠江国にかへり、大森に住す。                       

   寛永系図、忠春一代を脱す。今西郷系図等に左証あるをもつてこれを補ふ。 

   妻は西郷弾正左衛門正勝が女。                     

 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

忠家━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓

  四郎左衛門 母は某氏                        

 はじめ今川義元に属し、のち三河国にあり。かつて台徳院殿御母堂の親族た          

┃ るをもつてめし出され東照宮に拝謁し、仰せにより薩摩守忠吉卿に付属せら 

┃ れ、のち忍の城代をつとめ、文禄四年八月五日死す。年六十。法名覚応。牛 

┃ 込の天龍寺に葬る。のちこの寺を四谷にうつされ、之末がときにいたるまで 

┃ 葬地とス。妻は小野吉兵衛某が女。                   

                                    

心翁                                  

 はじめ遠江国瀧谷村法泉寺の住職たり。東照宮関東御入国のとき江戸にめさ 

┃ れ、牛込にをいて方八町の地をたまひ、旧地天龍の河邊にあるをもつて天龍 

┃ 寺と号す。のちにこの寺を四谷にうつさる。               

女子 母は正勝の女。はじめ蓑傘之助正尚に養はれ、のち西郷左衛門尉清員が 

養女となり、(詳なる事は西郷の譜に見えたり)東照宮につかへたてまつり、 

西郷局とめさる。台徳院をよび薩摩守忠吉卿の御母堂たり。        

                                    

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

忠之━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓

   田宮 作右衛門 今の呈譜、忠元或忠之に作る。母は吉兵衛某が女。  

   (中略)                             

  寛永元年(今の呈譜元和九年十一月七日)死す。年四十九。法名浄勢。  

   (中略)                             

    家紋 丸に舞鶴 鷹羽打違                    ┃ 

(注)「侍中由緒帳」によれば、旗本戸塚作右衛門はこの忠之。

(注)「旧地天龍の川辺にあるをもって」と云うが、瀧谷法泉寺は天竜川川辺ではないので、法泉寺の旧地が天竜川川辺にあったのかもしれない。江戸の天竜寺は曹洞宗。

筆者解説@遠江出身であること、勝田氏敗北頃からの系譜であること、将軍奉公衆のごとき行動をしていること等から、勝田(かつまた・勝間田)の出身と思われる。戸塚左太夫は同族(かつまた系戸塚氏)の誼から、家康に仕えるよう誘ったものか。

A義晴は天文十五年までの将軍だから戸塚五郎太夫忠春が義晴に仕えたのは天文十五年以前のこと。「遠江国にかへり」住んだという大森城の所在地は湖西市新所大森か。この地に戸塚氏は居住していないから一時的な居住であろう。

B「遠江国戸塚」とはどこか、「勝間田之庄戸塚」なのかは不明。忠春の当初の菩提寺は忠春の子心翁が住職を勤めた滝谷村の法泉寺であり、同地(掛川市上西郷滝谷)に戸塚氏多数が現住しているから、忠春先祖かつまた系戸塚氏の一族の主な領地はこの西郷(上西郷、下西郷、南西郷)一帯に所在したのではなかろうか。掛川市下西郷に「戸塚橋」が現存しているが、戸塚氏領有の名残か。

C徳川家康は忠春に対して特別の思いを持っていた様である。高柳金芳の研究「徳川妻妾記」(二〇〇三年発行)によれば、永禄五年忠春戦死の際に家康は陣中にては忠春「西月友船大禅定門」の位牌(「鉈削り位牌」という)を自ら彫って作製、忠春の娘を妾(お愛の方、西郷局、二代将軍秀忠の生母、天正十七年五月死去二十八歳、墓は静岡市常磐町の宝台院、寺内に巨大な墓碑現存)として迎え、天正十八年牛込に方八町の土地を僧心翁に与えて忠春の菩提寺天龍寺を開創させた(今は新宿区新宿四丁目に現存、「鉈削り位牌」と西郷局の位牌あり。滝谷に法泉寺現存)。家康は戸塚氏(かつまた一族)について熟知していたに違いない。

なお、忠春が死去したのは天文二十三年駿河刈屋川の合戦の時との伝承・説がある。死去が天文二十三年だと娘西郷局はまだ生まれていないことになる。忠春の死去年・西郷局の死去時の年齢についてはなお調査を要する。

 

【内田氏】

@武徳編年集成巻一の天文十一年の条に

「是年、勝間田新六政行(本国遠江ノ産)広忠君ニ仕フ、是人幼稚ヨリ清康君ニ仕ヘ当時参州寶飯郡牛窪ニ寓居スル所ナリ(政行天文十八巳酉ヨリ今川家ニ属シ遠州の内田・久良美駿州ノ瀬名ヲ領シ内田近江ト改称ス、今川氏真亡国後神君ニ仕フ)」

A「寛永諸家譜」「寛政重修諸家譜」に「政行」は「正之」と記され、正之の父正利の代まで累世遠江国勝間田に居住し将軍義輝に使えた後に今川義元に属し武田信玄との合戦の際に死去、正之は永禄十一年(一五六八)浜松で徳川家康に拝謁し天正四年六十二歳で死去。

筆者解説@天正四年六十二歳で死去の正之は永正十二年の生まれなので正之の父正利が勝田(かつまた)氏敗北の文明八年から明応年の間まで榛原郡の勝間田(勝田)に居住したことは疑いない。今川の追及を恐れて三河の松平氏を頼ったものと見られる。

A義輝は天文十五年から永禄八年の将軍なので、正利が義元に属したのは天文十五年後となる。恐らく天文十八年に親子で義元に属したのであろう。

B清康は三河を統一したが天文四年死去。広忠は天文十一年今川氏の助力で岡崎城主に返り咲き、今川氏に竹千代(後の家康)を人質に差し出す。

    C通字「正」の共通と領地の隣接(掛川市の西郷と内田)から見て戸塚氏は勝間田正利を同祖としている可能性が高い。両者とも先祖かつまた氏の旧地を回復したのではなかろうか。

 

【今村氏】

@彦根城博物館蔵「貞享異譜」に

 今村源右衛門家の初代正実(藤七郎)は遠州勝俣の城主今村肥後守正弘の子で、伊井直政が井伊谷

の龍潭寺に居た頃から仕えこの年天正 三年二百石を得たという。

A「勝間田氏と其の史蹟」に

藤七郎某の時今川氏の目を避けて伊井の谷の伊井氏に仕え(かつまたを)今村に改姓と云う。

筆者解説@井伊直政は永禄四年(一五六一)井伊谷の生まれなので正実が井伊氏に仕えたのはこの頃か。正弘は城主時代勝田肥後守を称していたと見られる。

A天正三年家康の助力で井伊谷の領地を回復。この際に二百石を得たものと見られる。

    B今村氏・戸塚氏・内田氏は同系か。

 

【水垂次郎右衛門】

@尾張国乾坤院文書「血脈衆」に(禅宗地方展開史の研究)

文明十六年に「水垂二郎右衛門」が乾坤院二世逆翁宗順から授戒し戒名を「道観」とした。

(注)逆翁は大洞院(静岡県森町)系の僧侶。「水垂」は静岡県掛川市に大字水垂。

筆者解説@水垂は勝田氏一族の者の支配だった可能性が高い。文明十六年は文明八年の敗北間もない時期で、勝田一族の勢力が残存していた時期。水垂に居住した勝田氏が今川氏をはばかって名字を替えたのではなかろうか。

A〔越後〕勝田源左衛門を参照

 

【勝屋・勝矢氏】

@寛政重修諸家譜

源為義流 桔梗紋使用

 

【柴田氏】 

@丸亀市中村勝田氏の伝承勝田氏は柴田勝家(一族の)の子孫と云う。〔讃岐〕参照。