勝田・かつまた氏の歴史(五の二)
「勝田・かつまた氏の歴史」の目次
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〔越後〕
【勝田外記】
@「上杉年譜」(越佐史料)より
○ 永禄十一年八月の部分に「…上田口市川新田ニハ、真田源太左衛門・同兵部、其外信州ノ兵士攻入ノ由聞ヘケレハ、新地ノ守兵ニ、本田右近・勝田外記・岩舟藤左衛門等ニ、数百騎ノ甲士ヲ相副ヘ守ラシム」と。
【勝田与太郎・勝俣与七郎・同源六・同新右衛門・同八右衛門】
@「文禄三年定納員数目録」(新編信濃史料叢書第一二巻、新潟県史)より。
○「越後侍中定納一紙」の項に
「 百十五人 後出奔
都合千九百十三石八升二合 勝田与太郎分 」
〇「上州惣社衆」の項に
「 六拾七人役
千百十七石五斗 長尾平太
勝田与太郎弟長尾右門子、天正十八年長尾前平太
跡被下候、慶長元年此平太死、名字なし、 」
〇「庄内大宝寺」の項に
「 三十一人半
五百二十五石三斗三升 元来関東衆 長尾右門 」
〇「坂戸衆」の「手明衆」の項に
「二石一斗八升 勝俣与七郎
右信州泉家中 」
〇「御手明衆 一番」の項に
「十八石 勝俣源六
右信州泉家中 」
〇「上田庄奈良沢・野口・八日市」の「奈良沢同心」の項に
「十壱石八斗 野口之内 勝俣新右衛門
右主計トモ聞及、斎トモ有之 此者父カ 」
(注)文禄三年定納員数目録は文禄三年の九月に作成された。
(注)惣社長尾氏(国会図書館蔵マイクロフィルムの上杉家の諸文書より)
〇関東幕注文 惣社衆 長尾能登守 〇上州総社代 長尾能登 〇上州総社 長尾右門 〇関東総社 長尾平三、平五郎、平太
〇長尾平太 信長越中攻めの際、宮崎城(現富山県朝日町)守りの将
(注)「奈良沢」は信濃国飯山(現飯山市)の奈良沢か。「野口」は上田庄の内の地か。
A『上田士籍』(新潟県史別編三)より
○「勝俣源六(元信州白鳥ノ者、弟ハ八右衛門ト云)」
(注)「上田士籍」は「五十騎衆」を構成する上田の武士二百七十名を記す。「白鳥」は現栄村大字豊栄の白鳥。
B「越後国郡絵図」(東京大学出版会刊)より
〇「津有郷」に
「 上市野江村 下 (上越市市野江)
安田上総分 勝田与太郎分
本納 弐拾九石三斗九升
縄ノ高 百七石九升三合
家三間 拾五人男女 」
〇「美守郷」に
「 片津村 下 (頸城村片津)
勝田与太郎分 此外五方分
本納 九拾七石六斗九升八合
縄ノ高 百三拾三石七升弐合
家八間 二十五人
花か崎町 (頸城村花ケ崎)
勝田与太郎分 曾山分
本納 百八拾五石壱斗弐升
縄ノ高 百八拾三石六斗七升
家二十四間 九拾人 」
(注)この絵図は文禄四年実施の検地にもとづいて作成された。絵図は瀬波郡(現在の村上市周辺)と頸城郡の部分のみ残存している。瀬波郡部分には勝田なし。
【小幡下野守(実は勝股氏)】
@「古代士籍」(新潟県史別編三人物編)より
○「信州 実勝股氏 幡本 蓮蔵寺開基 小幡下野守」
A「文禄三年定納員数目録」の越後侍中の部分より
○「二十人 三百四十二石 (元信州衆、若名山城守ト云)小幡下野守」
(注)この勝股氏(葛股とも)は遠江国勝田(かつまた)氏の出身で、勝田一族敗北後に甲斐武田家臣に成った際に名字を小幡に改めていた。〔富士箱根〕参照
【南魚沼郡のかつまた氏】
@南魚沼郡六日町に大多数が現住(京岡に勝又二十一世帯、勝俣五世帯。中川に勝又二十一世帯。美差島に勝又三十一世帯。)し、周辺の塩沢町・長岡市・小千谷市などに少し拡がっている。
この他、上越市稲に勝俣氏八世帯が現住。
A六日町京岡の勝俣氏は京都から逃れてこの地に入ったもので、京岡の地名はこれに因むものと伝える。
【南魚沼郡の勝田氏】
@ 六日町に勝田十世帯が現住。勝田氏は六日町に人家六〇世帯の頃から住んだと伝える。
筆者解説
@勝田氏及び勝俣・勝又氏は外来者
越後国には「勝田」や「かつまた」の地名は無いから、越後国に居る勝田氏や「かつまた(勝俣・勝又)」氏は外来者である。
勝田氏やかつまた(勝俣・勝又)氏が住んでいるのは、越後と関東(上野国)との境界域の越後側六日町域で、しかも坂戸城の山裾に近接した集落である。ここは戦国時代に入ってからの軍事的な要衝地であった。
勝田氏とかつまた氏の両者は遠江国榛原郡勝田を拠点として栄えた勝田(かつまた)氏の子孫である可能性は高いが、具体的に見ると、勝田氏とかつまた氏は同一集落に混住はしていないし、各々別の経緯・経路で越後国に入って、六日町で「合流した」ようである。ただし、勝俣氏と勝又氏は京岡で混住しているし勝俣氏の名が現れるのが先だから、六日町において勝俣氏から勝又氏が分岐したように思われる。
A勝田氏は関東から入った
上杉謙信時代の名簿類(天正三年の「上杉家軍役帳」、天正五年の「上杉家中名字尽」など)には勝田氏の名は発見されない。しかし、永禄十一年(一五六九)に既に勝田外記が確認される。この外記が越後国における勝田氏の名の初見である。
謙信配下の外記が永禄十一年に配置に就いた「上田口市川新田」は場所がはっきりしない。が、「上田口」で上野国からの武田軍・真田軍の侵入に備えたのだから、現在の塩沢町の内ではなかろうか。ここに坂戸城(上田城とも。六日町に在る)の出城とも云うべき砦が有ったのだろう。
上田(現在の塩沢町や六日町域)は当時謙信配下の上田長尾氏の守備範囲・領域であったから、外記は謙信の直臣と云うよりは、上田長尾氏配下の武士か外来の武士だったのだろう。謙信時代の上杉家臣団名簿等に外記ら勝田氏の名が無いのはそのためと見てよいと思われる。
外記が越後国に現れる前、関東各地で勝田氏が既に活動していた。特に、永禄元年から五年にかけて上野国の箕輪城主長野氏の配下に勝田蔵(藤)右衛門・同文右衛門・同大喜・同次右衛門が、武蔵国岩槻城主太田三楽斎の家臣で謙信に従って岩槻を去った勝田佐渡守が居たことは注目される。当時、長野氏と太田三楽斎は謙信と連携して北条氏や武田氏と戦っていた。(補注「関東の勝田氏」)
〇永禄二年北条氏康の直臣に勝田八右衛門が居た。八右衛門は永禄十二年(一五六九)氏康の使者の随員として上杉謙信の越後国に行き、元亀元年に越相同盟の成立を氏康に報告している。
〇群馬県沼田市に勝又氏十三世帯現住。渋川市に勝田氏二十二世帯現住。
B勝田与太郎は上野国の出身
上杉景勝時代の家臣団名簿「文禄三年(一五九四)定納員数目録」(以下「目録」という)の冒頭部分「越後侍中」の一四三名には越後以外の出身の侍が多く含まれているが、与太郎はここに分類されている。
○同じ「越後侍中」の元信州衆小幡下野守が景勝に属したのは武田滅亡の天正一〇年(一五八二)後である。
「目録」の長尾平太の項に「勝田与太郎弟長尾右門」と記されているから、与太郎は長尾右門の兄で二人は兄弟である。この長尾右門や長尾平太らの総社長尾氏は現在の群馬県前橋市総社を本拠地にして有力な一族だったから、総社長尾氏の子である与太郎が勝田氏の養子に入って勝田与太郎と名乗ったと見られる。(右門が、勝田氏の子で、長尾氏の養子に成ったとは考えにくい)
恐らく与太郎は上野国勝田氏一族総領の地位を嗣いだものだろう。これによって、長尾氏は勝田氏の一族を傘下に納め、勝田氏としても長尾氏との関係を強めることで立場の安定化・向上を計ったものと見られる。勝田氏も又、当時それなりに有力な一族だったのである。
長尾氏と勝田氏がこのような関係を結んだのは、双方が上野国で健在だった永禄九年以前の事と思われる。永禄九年の武田軍の上野国侵攻で箕輪城が落城して、総社長尾氏や白井長尾氏は越後国に追い込まれて上杉氏を頼ったが、与太郎らの勝田氏が越後に入ったのもこの時期のことであろう。永禄十一年に上田に現れる勝田外記は或いは与太郎の養父なのかもしれない。
与太郎が大名上杉氏の直臣(それも比較的大身の)に成った理由は、与太郎らの勝田氏が長尾景勝に従っていたからであろう。すなわち、上杉謙信死去に際して上田長尾氏出身の景勝と北条氏出身の景虎とが後継を争った(御館の乱と云う。天正六年から三年間続いた国内騒乱)時に、景勝に加担して、上杉景勝政権創設に功績が有ったと考えられる。景勝政権は上田樋口氏の出身の重臣直江兼続や「五十騎衆」「上田衆」を越後支配の基盤としたのであった。
与太郎らの勝田氏は、外来の武士ではあるが、勝田外記同様に上田に居住していた為に景勝に組することになったと見られるのである。
与太郎は「目録」が作成された文禄三年から慶長三年の間に景勝の下から「出奔」した。与太郎と同一人と見られる「勝田因幡守」の子が総社藩主秋元氏の家臣に成っているし、子孫勝田氏が上野国に住んでいるから、出奔先は出身地である上野国と見られる。当時既に上野国は徳川諸大名(白井は本多氏↓戸田氏、総社は諏訪氏↓秋元氏、沼田は真田氏)支配下にあったが、与太郎らはこれらの大名を頼みにして勝田氏の旧支配地回復を目指したのであろう。(以後については補注「関東の勝田氏」に記す)
六日町現住の勝田氏はこの際に残留した勝田氏の子孫と見られる。越後国上田に居た勝田氏は与太郎だけではなかったのであり、与太郎配下(軍役負担百十五人)には何人かの同族勝田氏が居たはずである。
なお、慶長三年に村上で村上周防守から四百石を得た勝田弥五介が与太郎一族の者の可能性も有るが、未解明である。
C勝俣氏は信濃国から入った
「坂戸衆」の勝俣与七郎、「御手明衆」で「上田士」の勝俣源六、「奈良沢同心」で「上田庄野口之内」の勝俣新右衛門は何れも上田(現新潟県六日町から塩沢町にかけての地)居住者と見られる。与七郎と源六は「信州泉家中」で源六は「元信州白鳥ノ者」だから、三名とも信濃国の出身である。信濃国の白鳥(現長野県栄村白鳥)かもしれない。(「野口」は上田庄の何所なのか未解明)
「目録」の中で「信州泉家中」「泉衆」等と記される勝俣氏を含めて二十名ほどの人々は、天正十年、武田氏が滅亡して川中島四郡(更科・埴科・水内・高井が)が上杉景勝支配になるまでは武田配下の泉氏に属していたと見られる。
泉氏がいつ飯山に入ったかははっきりしないが、飯山市の市ノ口には泉氏(泉弥七郎重歳。娘は越後国上田の樋口伊予守の妻)の開基と伝える英岩寺が現存するし、尾崎之庄等の「泉殿領」を支配していた(飯山市史)。飯山に近い白鳥も泉氏の支配だったのかもしれない。(この泉氏の全体像についてはまだ解明されていない。が、武田氏健在の当時の泉氏の本拠地は信州の小泉庄(現長野県上田市。大字小泉・小泉城跡あり)との説が有力なようである)
勝俣氏は泉氏が飯山に入る前からその配下にいた可能性が有る。というのは、上田近くの臼田には天文二十二年頃から武田家臣の勝俣氏が居住していたからである。勝俣氏は、信濃国において、この臼田の地以外には拠点(領地・居住地)が無かったようだし、現在でも多くの勝俣氏がここに住んでいる(佐久市に十八世帯。臼田町に十世帯)。
詳細は補注「甲斐・信濃の勝田・かつまた氏」に譲るが、臼田勝俣氏は遠江国榛原郡勝田庄の勝俣村の発生と伝えており、勝田庄を本拠地としていた勝田(かつまた)一族の出である。
以上を概略すると、勝俣氏は文明八年の勝田氏敗北の際に武田氏を頼って甲斐国に移り、武田支配となった信濃国臼田に天文年間から居住していたが、その一部が武田配下の武将泉氏に属して飯山に移り、天正十年後に越後国の上田に移ったものと見てよいだろう。
慶長三年(一五九八)一月に上杉氏は会津移封となり、景勝は三月会津若松城に入った。上杉家奉公人身分の者は越後残留を許されなかったから、「目録」記載の勝俣三氏も又会津に移ったのではなかろうか(勝俣源六の弟勝俣八右衛門は会津に移ったのが確認されている)。それ以外の勝俣・勝又氏は農民身分として残留することになったのである。
なお、上越市稻の勝俣氏も又、未調査ではあるが、信濃国から入ったものと思われる。
(参考メモ)
〇長野氏は上野国における上杉方の筆頭武将で、総社長尾氏や白井長尾氏を配下にしていた。
〇与太郎の仕官先として考えられるのは@天正十八年から白井城・渋川支配の本多広孝・康重、総社藩主諏訪氏や秋元氏など関東の徳川方大名A沼田支配の真田信幸(之)が有る。因幡守を名乗ったのはこの際のことかもしれない。
〇与太郎子孫は北条氏政(氏康の子)からの感状を持っていたから、越相同盟成立の際に上野国に戻って上野国に居た武田軍追放に動いたのであろう。しかしこの同盟は間もなく破れ、北条氏に追われて再び越後国に入ったものと思われる。
〇総社藩主諏訪氏は信濃国諏訪の高島藩主になり明治に至った。諏訪市等に勝田氏約十世帯現住。〇白井藩主本多氏は信濃国飯山藩主として明治に至った。飯山市に勝田氏は現住しない。
【村上の勝田弥五介】
@新潟県史・村上市史に所収の勝田源左衛門家史料より
慶長三年に村上の城主となった村上周防守の家臣。四百石、村上城の二の丸に居住。
筆者論考
勝田源左衛門 …… 遠江国勝田(かつまた)氏一族の子孫 ……
一、資料とその概要
@勝田源左衛門の子孫勝田庸典が所持している文書類。( )内は文書所載の刊行物等
〇「領知方」 慶長三年村上周防守頼勝から勝田弥五介へ四百石 (村上市史)
〇「領知方」 元和二年村上周防守忠勝から勝田弥兵衛へ四百石 (新潟県史、村上市史)
〇「村上周防守忠勝公家中知行高之覚」 忠勝時期の家臣分限帳 ( 〃 〃 )
〇「知行所相渡目録」 元和五年堀丹後守から勝田弥兵衛へ四百石 ( 〃 〃 )
〇「出身 勝田氏」 明治維新の際に松本藩が勝田源左衛門に給付 (松本城資料室に原本)
〇その他、過去帳 大阪陣絵図 真田家分限帳 「甲胄注文」等
A家史の概要
慶長三年、勝田弥五介(庸吉と見られる)は越後国村上にて城主村上周防守より知行地四百石分を得た。勝田弥兵衛と改めた庸吉は村上城の二の丸に居住。元和四年に村上周防守廃絶のため、元和五年、庸吉は新領主堀丹後守より四百石を得て村上に残留。この後村上を離れた庸吉は寛永五年に信濃国松本にて戸田丹波守の家臣となり二百石。庸吉は「弥兵衛」を「源左衛門」に改めて、以後代々の当主は「勝田源左衛門」と名乗った。勝田源左衛門家は戸田氏の移封に従って播磨国明石、美濃国加納、山城国淀、志摩国鳥羽、再び信濃国松本に移転して、経義の時に明治維新となった。男子は代々実名に「庸・経(つね)」の字を使用。家紋は「剣かたばみ」、女紋「三つ割ききょう」。
B系譜の概要(「出身 勝田氏」及び過去帳等による)
弥五介(実名不明)―庸吉(弥五介と同一人か、母は不明。始め弥兵衛、後に源左衛門を名乗る。萬治三年五月二四日死去八三歳、法名鶴齡院松州浄雲居士)―時庸(中村武左衛門の子、初名中村小学。母は石黒源五左衛門の娘。庸吉の養子となる)―庸任(時庸の子、初名四方之助・市野右衛門。母は庸吉の娘)―庸隆(庸任の子、初名東馬。母は友成新右衛門の娘。妻は多湖岸右衛門の娘)―経宅(庸任の子、初名斎宮。母は友成新右衛門の娘)―庸政(経宅の子、初名万弥・源太郎。母は星山直右衛門の娘)―庸規(庸政の子、初名源太郎。母は西郷宇右衛門の娘)―経明(庸規の子、初名水垂之助。母は野々山九兵衛の娘)―経義(経明の子、初名萬代之助。母は野間権之進の娘きく)
二、遠江国勝田(かつまた)氏一族の子孫と推定される。
江戸期において当家の者は初名等に「四方之助・市野右衛門」「東馬」「斎宮」「万弥」「源太郎」「水垂之助」「萬代之助」を名乗った。四方・万弥・萬代は好字(めでたい字…注A)として使用したものであろうし、源は源左衛門の源であるが、市野・斎宮・水垂は地名と見られる。
全国に、市野は五ヵ所、斎宮は三ヵ所、水垂は八ヵ所ほど有る(注@)が、勝田氏が関係した可能性が有るのは以下である。(尾張国織田氏の支配域に「東馬」の地名も有るが、勝田氏が関係した様子は確認出来ていない。地名ではないのかもしれない)
「市野」は、静岡県浜松市に市野町(旧市野庄・市野郷)が有る。勝田(かつまた)氏は享徳二年(一四五三)に隣接地中田郷(現中田町)を支配(地行)していたから、勝田氏敗北の文明八年(一四七六)頃まで、この市野をも支配していた可能性が有る。(補注Aを参照)
「斎宮」は、三重県明和町に大字斎宮が有る。この斎宮に隣接している玉城町の大字勝田(文明十八年に苅田を勝田に変更したもの)は伊勢勝田氏の居住地であった。勝田には勝田(かつまた)氏開基の寺石雲院(静岡県榛原町)の末寺であったと見られる神照山円満寺が有るから、伊勢勝田氏は勝田(かつまた)氏に属する人々である可能性は有る。(補注・伊勢を参照)
「水垂」は、静岡県掛川市に大字水垂が有る。勝田(かつまた)氏一族の本拠地榛原郡勝田庄から十五キロ程の近所である。水垂は中世において冷泉氏の荘園「小高下御厨」に属していたと見られる(注B)が、文和四年(一三五五)頃に「勝田参河守并一族以下輩」がこの荘園を「濫妨」して冷泉為秀と争っているから、水垂がこの頃に勝田氏一族の者の支配になった可能性は高い(注C)。
これらの他の市野・斎宮・水垂の地には勝田氏が関係した様子が見られないから、当家の先祖が初名に使用したのはこれらの地名であろう。「勝田」を名字にしたのと同様に、これらの土地が先祖縁の土地(支配地)であった為と見られる(江戸期まで当家に記録が残されていたのではなかろうか)。しからば、当家の先祖は遠江国を本拠地とした勝田(かつまた)氏一族に属していたと判断される。勝田(かつまた)氏とは別系の勝田氏がこれら一連の土地に関係する事は全く考えられない。
なお、勝田(かつまた)氏は源氏(清和源氏・河内源氏)の出身である。当家の代々当主が「源左衛門」を公称したのはここに根拠が有ったと見てよいだろう。
文明八年(一四七六)、勝田(かつまた)氏一族は駿河国守護大名今川義忠軍に敗北して勝田城は落城、総領など一族中核部分が滅亡した。残党は足利将軍権力崩壊(将軍奉公衆解体)直後の明応三年(一四九四)から開始された今川・伊勢新九郎の遠江国侵略・支配によって遠江国から駆逐された。この間に、当家の先祖も勝田庄内の土地や水垂・市野等を失って浪人化し、途中経過は未解明だが、子孫勝田弥五介の時に村上周防守(織田信長配下、後に豊臣秀吉配下)の家臣に成ったのである。
文明八年から弥五介が村上に移った慶長三年(一五九八)までは一二二年間であるから、文明八年当時の当主から数えて弥五介まではおおよそ五代である。
注@地名市野・斎宮・水垂・東馬…「現代日本地名よみかた大辞典」より
〔市野〕◎静岡県浜松市市野町(いちの)〇千葉県勝浦市市野郷(いちの)〇宮城県白石市越河字市野(いちの)〇福島県大野郡会津高田町大字旭市川字市野(いちの)〇京都府船井郡日吉町字保野田小字市野(いちの)。
〔斎宮〕◎三重県多気郡明和町大字斉宮(さいくう)〇福島県南会津郡伊南村大字多々石字斉宮(いずき)〇京都市右京区竜安寺斉宮町(さいぐう)〇他、斉宮寺等「斉宮」の付く地名六ヵ所。
〔水垂〕◎静岡県掛川市水垂(みずたり)〇青森県三戸郡福地村大字小泉字水垂(すいたれ)〇青森県三戸郡福地村大字苫米地字水垂(すいたれ)〇愛知県蒲郡市西浦町水垂(みずたり)〇秋田県秋田市下浜羽川字水垂(みずたれ)〇京都府船井郡八木町字青戸小字水垂(みずたれ)〇京都市伏見区淀水垂町(みずたれ)〇長崎県平戸市水垂町(みずたり)。
〔東馬〕〇愛知県海部郡佐織町大字町方新田字東馬(とうま。隣接地に「西馬」)〇秋田県横手市大字睦成字東馬河原(とうま)。
〔四方〕〇京都府長岡京市浄土谷四方町(よも)〇京都府船井郡和知町字西河内小字四方(しかた)〇富山県富山市四方(よかた)〇他に、四方浄など「四方」の付く地名多数。
注A四方(しほう)は「東西南北」「天下」、万弥(まん)の万は「数の大変多いこと」で、弥は「数の多いこと、幾重にも重なる」、萬代(よろずよ)は「限りなく久しく続く世、万年」、の意。
注B遠江国小高郷・水垂と冷泉氏
冷泉為和著「為和集」(昭和四十八年稲田浩子著「中世歌書翻刻」)の天文二年八月の部分に
「愚知分遠州ニハ小高郷・高部郷・相良庄、駿州小柳津…」、天文四年二月の部分に「…今河代々 別而当家扶助之処ニ愚にもてあつかハれけれハかくなん彼分国に愚知行数ケ所侍り、当今河親氏親 之代には何も何も知行可相渡由被申候、先遠州小高郷駿州小柳津此両所ハ可渡相、残分遠州相良庄 同国高部郷(但是ハ替地ヲ為和に可渡由被申了)同国菅谷・水垂・御園何も何も当給人に替地ヲ出 可返由被申侍る…」と。
○「愚」は為和。「当今河」は駿河・遠江等を支配の大名今川氏輝。
○水垂は小高郷の近隣である。為和が水垂の返還を氏輝に要求したのは、かつて水垂が冷泉氏領小高下御厨に属していた為であろう。即ち小高下御厨は、「和与」によって、冷泉氏領(国衙領)小高郷と勝田氏領水垂に分解していたのではなかろうか。
注C水垂と勝田(かつまた)氏との関係を直接示すものではないが、後考のために記すと
〇「吾妻鏡」に暦仁元年勝田氏の盟友横地氏が水垂の御所河原に将軍上洛の際の御所を造営。
〇尾張国乾坤院文書「血脈衆」に文明十六年「水垂二郎右衛門」が乾坤院二世逆翁宗順から授戒し戒名を「道観」とする(禅宗地方展開史の研究)。逆翁は大洞院(静岡県森町)系の僧侶。
〇大洞院末寺の永江院九世が、戦国期に焼けていた水垂の馬頭観音堂・真昌寺を寛永三年に再興。
〇水垂を領した勝田氏が、一時期「水垂」を名乗った可能性も有る。建武三年(一三三六)に勝田(かつまた)氏は足利尊氏に従って九州に下ったことが有るが、建武五年十月の筑後国生葉庄の菊池攻めの際に幕府軍搦手大将であった「水垂殿」(福田文書…中世九州社会史の研究)とは勝田氏かもしれない。
注D勝田氏と国衙領
〇康安元年(一三六一)頃の遠江国衙領郷保目録(熊野速玉大社古文書古記録)記載三十三郷の中に、宇苅郷・小高郷・市野郷・中田郷の名。この内、宇苅郷と中田郷は勝田(かつまた)氏が領有したことが既に判明している。
〇康正三年頃に市野を支配していたと見られる「市野殿」(東大寺文書)とは勝田氏か。
注E市野庄
〇貞観十四年(八七二)三月九日の貞観寺田地目録に「市野庄 地百六十七町(在長上郡)熟田九十五町一段六十四歩 未開地七十一町八段九十六歩」と。貞観寺は藤原良房が外孫清和天皇の為に京都伏見区に建てた寺。後に廃絶。
〔越中〕
【小出の勝田氏】
@
天正十年八月、上杉景勝、越中小出の内の勝田某の知行地三十俵を越中の安辺入道に与える(越佐史料巻六)。
【朝日町の勝田氏】
@
下新川郡朝日町笹川・桜を中心に勝田氏一九世帯が現住。同町笹川の本家勝田市左衛門氏によれば、同町の勝田一族は能登から移転(年代不詳)して、同地を勝田氏ら七人が支配したと云う。
A
下新川郡史稿に江戸期「其比奉公せし若黨に勝田村右衛門と云者、後三十人組小頭に被召抱」、後の明治十四年頃笹川村勝田忠平が境村の大用水開通工事に参加したと記す。
【婦中町の勝田氏】
@婦負郡婦中町笹倉に勝田氏七世帯現住。勝田氏は現在地に来てから四〜五代。前は高岡住。勝田姓は寺からもらったもので、それまでは大沢だったと言う。
〔能登〕
【門前町の地名勝田】
@森田平次(柿園)著「能登志徴」に「勝田寺跡 勝田村。郷村名義抄に、此村昔年勝田寺と申寺御座候に付、村名に成候由申傳候」と。勝田寺は勝田の字「鳴小谷」に有ったという。
A門前町教育委員会刊「門前町の城館跡」は「勝田部落に的場、鳥の舞、外ノ口、定谷、野打場、角ノ口等の地名があり、…外ノ口にある俵正次氏の宅地あたりに館(勝田左衛門五郎館)があった」「勝田は、戸数一八戸の小集落だが、隣接の道下部落(戸数約三百戸)の祭は、勝田からゴンベ、タロベ両名がでてこなければ始まらなかったという言い伝えがあり、かって勝田の権力はかなり強かった」「勝田内の俗称『宮のカゲ』地内に在った(現在地は字定谷)神社は海に対面していて、しばしば航行する舟を止めた」と。
B昭和五三年発行「諸岡村史」は「道下の鉄川(かながわ)宮は古来より八ケ郷の惣社として尊崇を集めてきた。…その別当寺であった鉄川寺は七坊(宝泉寺など)を有し、…祭礼には舞童や春秋三度の流鏑馬、それに毎年三〇回もの法会等多くの行事が繰り広げられた。…祭礼の際は勝田村から鉾を持ち出したと云い、鉾太郎兵衛という者の子孫が今に残っている」と。
B
昭和四八年発行中谷喜太郎著「能登門前」は道下の宝泉寺の「付近に勝田の聖地と呼ぶ所があるが、ここは当時参集した修験者達の道場跡だと伝えられている」と。
【勝田左衛門五郎】
南北朝初期、将軍足利尊氏が弟足利直義と争った際の観応二年(一三五一)、能登国の前守護の吉見三河守氏頼は将軍尊氏方として直義方の越中国の桃井刑部大輔と能登の三引保赤蔵寺(田鶴浜町三引保)で戦った。この時勝田左衛門五郎は吉見氏頼方の軍忠見知人であった。左記は吉見氏の下で戦った能登の武士徳江氏の伝える軍忠状(石川県史・徳江文書)。
「徳江石王丸代、長野彦三郎家光申軍忠事
右今年八月十八日、吉見三河守、當國(能州)三引保赤藏寺被楯籠間、桃井刑部大輔直信以下凶徒、押寄當陣終日戰也。凡及御方難儀之間、為後攻於将軍家御方、九月十六日、同國自大津長左衛門尉秀信打出間、屬于家光彼手、取三引保内曲松要害之處、凶徒等寄来當陣、日々合戦、致無貮軍忠訖。一、同十九日、於三引南山、寄来御敵等之間、抽合戦忠節訖。
一、同二十日、於三引山、寄来御敵山小田遠江掃部助之間、不惜身命致戦功訖。
一、同二十一日、押寄三引御敵城、捨壹命致散々合戦、追越凶徒等越中国之刻、家光被疵(頸骨射疵)訖。
此等次第、同所合戦之間、勝田左衛門五郎所令見知也。且被經御注進、且賜御判形、為備後證言上如件。
観應二年九月 日
承 了 在判(吉見氏頼) 」
(注)吉見氏頼は文和元年には守護に復活。
(注)吉見氏は源範頼の子孫。鎌倉期より能登国に地頭職等を得ていたと見られる。建武三年(一三三六)頃より明徳二年(一三九一)頃まで吉見氏の、宗寂(頼為?)、頼顕、頼隆、氏頼が守護を勤めた(佐藤進一著「室町幕府守護制度の研究」)。一族の吉見円忠は嘉暦四年(一三二九)羽咋郡の志々見保内に田畠を持っていた(永光寺文書)。
【四町の勝田氏】
@羽咋市二八世帯うち四町に勝田氏五世帯が現住。家紋もっこう。部落内の観音堂は勝田の守り神と云う。本家は史料を持って金沢市の長土塀に移転。
A羽咋市発行「羽咋市史」に「明治十三年の神社明細帳によれば、元仁度(一二二四〜五)に勧請したという伝承を記しているがその由来については明らかでない。古来、四町の産土神と仰がれてきた。本地仏の十一面観音などは明治の神仏分離のとき部落中央に観音堂を立てて奉遷し、今も神職によって祀られている。四町は古村で、近世は幕府領(後、御預領)・土方領入会地だった。庄屋として知られたのが勝田氏で後に小原氏もつとめた。…本社は勝田氏との所縁が深く同氏の信奉をうけた」と。
【四町の勝田永三】
永正年間以前から、守護大名畠山氏支配下の能登国羽咋郡四町(しちょう)に有力な郷士「永三」が居た。永三は通称・屋号。百姓身分のため名乗っていないが、永三の名字は「勝田」である。
@気多大宮寺文書の永正五年(一五〇八)二月日「友永職職段米注文」に年貢負担者「四丁 ゑいさん」の名。
A「勝田氏と小原氏」収録「一宮気多神社蔵大永六年(一五二六年)一〇月一宮社務職年貢納帳」に
「志雄羽喰吉野屋邑智分
番匠かはら 二百刈 段別四百六十文 升定 又三郎今ハ永三
松 田 百刈 段別二百三十文 一石 升定 千代町六郎二郎今ハ永三 」
B「能登志徴」収録「享禄四年(一五三一年)七月一宮惣分目録帳」に
「一段一石八斗 四町永三」などあり。
C左記は永三の子孫勝田氏が伝え持っていたと見られる文書。
1「 返々令披見悦喜之至候。
村井かた江折紙令披見候。■爰許ニ珍敷薯蕷一五也如書
中到来、祝着此事候。次其表用心巳下、各申合專用候。
猶村井左近進可申候。謹言。
五月二九日 (長)續連 在判
四丁
永 参 」
(注)「加能古文書」収録の「北徴遺文」。畠山氏家臣長續連は天正五年死去のためこの文書発給は天正五年以前、畠山氏滅亡前と見られる。能登志徴は村井左近を村井左京とする。
2「従先年至此度迄此方へ見付馳走之段神妙候。然者大あら
之内を以二十俵令扶持候。弥別而可抽忠節事干用候。穴
賢々々。
天正八年六月塑日 (温井備中守)景際 在判
(三宅備後守)長盛 在判
四町永三 」
(注)「能登志徴」に収録。越後の上杉謙信の手で畠山氏が滅亡した後の文書。畠山旧臣の温井・三宅氏は越後上杉氏に従っていた。
3「去月二十四日於菅原谷首一討取候。神妙被思食候。依之
自分百人夫、永代御免除旨被仰出者也。
十月三日 總榮 在判
續好 在判
(温井下総守)光宗 在判
兼親 在判
(遊佐豊後守)秀頼 在判
永三弥四郎どのへ 」
(注)「加能古文書」収録の「四町村文書」。天正九年に織田信長家臣前田利家が羽咋郡菅原(谷)に進出して来た時のもので、この文書発給者たちは上杉氏に従っていたと見られる。
4「俄ニ秀吉様よりむかひニ被下候條、明日上申候。其方は
七尾番之由候。大儀ながら、我々下候まで七尾に居候て
尤候。諸事無油斷、番等可申付候。謹言。
(天正十三年)五月十八日 利家 在判
富田與六郎どのへ
永 参どのへ 」
(注)「加能古文書」収録の「勝田文書」。信長死去(天正十年)後、秀吉に従って能登国領有を安堵された前田利家が発給。この時既に、越後上杉(景勝)軍は能登国から退出している〇能登志徴はこの「富田與六郎」を「富田與右衛門」と記す。
5「當村之内年貢米余分四百俵可有之候。早々可沙汰。
於延引者可催促遣者也。
十月十五日 利家御印
四町村 尾長村 千田村百姓中 」
(注)「能登志徴」の「四町村」の項に収録。四町村が土方氏領(慶長十一年から貞享元年まで)になる前に、前田利家より勝田氏などに発給と見られる。
D「勝田氏と小原氏」に、土方領と前田領の境界を示す延宝三年(一六七五)の「堀替新村、白石村絵図」の土方領の欄に「十村 四町村 永三(花押)」と記していると云う。四町村は慶長十一年頃以後土方領となり、勝田氏は十村(大庄屋に相当)となった。
E「勝田氏と小原氏」(昭和三〇年酒井正善著、邑知町教育委員会発行)に記載の勝田永三家の元菩提寺曹洞宗長松寺(羽咋市飯山町。四町の東一・五キロの所)の過去帳より。
「清渕宝玉居士 文化十酉二月三日 金沢桝形 勝田屋和兵衛■
宗殿寺号山号額施主ナリ、■分骨モ致■ 取置ハ永福寺ニテ仕舞■
勝亭妙寿信女 天保十一年二月
金沢今町ニテ 勝田屋和右衛門
勝山仁和居士 弘化二巳星七月
金沢今町 勝田屋数右衛門
F寛政十年(一七九八)松田恭義著「能登名跡志」に「中にも太田村、四町村は江戸土方某どのの領地也。四町村の庄屋に勝田永三と云あり。四町村勝田永三は退役して平百姓也。此者先祖は畠山家より二百石給はり有りしが天正年中畠山亡びし後百姓に成る。于今墨付等持伝へる。菅原合戦の時の感状などあり」と。
G「能登志徴」の「勝田永三」の項に「能登誌に、四町村に古き百姓あり。むかし畠山家領地の時分、扶持賜はりし者の子孫にて、畠山家臣温井氏等連判、宛所勝田永三殿。と有る扶持状等数通今に所持す」、「勝田屋和右衛門伝記に先祖勝田永三儀、能州羽咋郡四町村住居之郷士にて、御元祖様御懇之御意被遊、七尾在番等被仰付。四町村等御年貢米取立方被仰付。且守護之観世音拝領仕旨、先代より聞傳所持罷在申候云々。御書等之冩。但此子孫金沢へ出で町人と相成、勝田屋何某と称す」と。
H四町には「永三たんぼ」と云われる田が現存。
【四町の勝田弥右衛門、弥兵衛】
@「勝田氏と小原氏」に収録の長松寺過去帳に左記の大卓裏銘が記されている。
「鹿島郡曹洞宗古本山永光寺開山堂
伝灯院礼拝堂大卓裏銘
能州羽咋郡四町村勝田氏弥右エ門施捨浄財命千工造営箇之机一脚奉安置洞谷山最勝殿本尊前
荘厳両親茂庵永昌居士本宝是法大姉之報地者也是以記写両亡者之法名於当山之祠堂牒畢自今
以住正忌月忌茶湯回向不可懈怠者也並施主夫妻之法名記之弥兵衛法名日松岩操柏居士其妻女
法名日月江妙照大姉也
于■宝永四丁亥暦二月十五日現住天澤代誌 」
(注)永光寺は羽咋市酒井町現存。曹洞宗の古寺で、けい山・峨山両禅師が総持寺を創設する際の拠点とした寺。開山堂を伝燈(灯)院と云う。洞谷山最勝殿は本堂(法堂)を、祀堂は伝燈院の一部を指す。「天澤」は宝永(一七〇四〜一一)の頃の永光寺第四八四代の住職。
(注)長松寺は永光寺の末寺で現在も檀家に飯山勝田氏が居る。長松寺は平成十二年十一月火事、過去帳類焼失。
A「勝田氏と小原氏」に、永光寺の開山塚「天童山五老峯」前面石燈篭に宝永六年(一七〇九)十月弥右衛門寄進の旨の銘が有るという。
筆者論考 能登の勝田氏
…遠江国勝田(かつまた)氏の一族か…
一、勝田氏居住により地名勝田が発生か
北陸の中で「勝田」の地名が有るのは能登国の門前町勝田のみである。
勝田対岸の道下(とうげ。中世は川尻と云った)の集落は八ケ川河口に位置して八ケ川流域と海路とを結ぶ港町(石瀬湊と云った)だった。ここには八ケ川流域(「八ケ(郷)」百余村)の総社「鉄川宮」や七坊を有した鉄川寺も在ったし、流域に保元年中(一一五六〜五九)成立した大神宮(伊勢神宮)領櫛比御厨(神宮雑書・建久三年八月文書)の要衝地であったのだろう。
坪野山を北に背負って目前に八ケ川が流れる勝田からは、約五百メートル下流対岸の道下の集落を見渡すことができるし河口を出入りする舟を監視することもできる。勝田の地は鎌倉時代の外来の武士(地頭など)にとって、道下の支配即ち八ケ川流域・櫛比御厨支配を目的として「館」を構えるのには格好の場所であった。
勝田に残る「的場」等の小字名や、勝田居住者による祭礼や舟の航行に対する権力行使の痕跡(伝承)等から見ても、ここに地頭級の武士が居住した事は疑い無い。
ただ、ここに勝田氏が居住したのかどうかについては、勝田左衛門五郎が居住したとの説も有るが、確証が有る訳ではない。又、勝田氏以外の何者かがここの地名勝田を名乗ったというのも疑わしい。
二、勝田(かつまた)氏の一族の可能性が高い。
以下の諸点を勘案すると、能登の勝田氏は源頼朝御家人・足利将軍奉公衆として遠江国榛原郡勝田庄を本拠地に栄えた勝田(かつまた)氏の一族と見るべきだろう。
@観応二年に現われた能登の勝田左衛門五郎が、勝田(かつまた)氏一族元祖の勝田左衛門五郎頼貞と同じ、「左衛門五郎」を称している事。これは偶然とも思えない。
A能登の勝田左衛門五郎は能登国守護吉見氏の軍忠見知人として吉見氏に近い関係にある事。勝田氏の元祖勝田左衛門五郎頼貞は吉見氏の先祖源範頼を支援した関係にあった。(補注@勝田・かつまた氏の元祖は勝田左衛門五郎頼貞)
B勝田(かつまた)氏の一族が足利尊氏に呼応して各地に名を現わしたのと同じ時期に、能登の勝田左衛門五郎も名を現わした事。勝田一族の者として勝田氏総領の統制に従い行動したと考えることが出来る。
C足利幕府発足直後から、勝田(かつまた)氏の佐長や助清が「能登守」に任官した事。これは勝田(かつまた)氏一族が能登国にも何らかの権益(地頭職など)を持っていた為であろう。
D勝田氏の居住により始まったと見られる羽咋郡四町集落の内の白山神社勧請年が元仁年間(一二二四〜五)である事。すなわち、承久の乱(一二二一年)後の幕府は各地に一斉に新補地頭を配置したが、頼朝御家人勝田氏がこの際に地頭として四町に入り神社を勧請したと考えられる。
以上、勝田(かつまた)氏は、吉見氏や長氏と同じく鎌倉期に能登国に地頭職を獲得し、一族の者が代官(地頭代)として能登国に住みついたと見るのである。
能登勝田氏の本拠地(領地)は、永正五年(一五〇八)からではあるが勝田氏の居住が確認されている羽咋郡四町の可能性が高いというべきで、恐らく勝田左衛門五郎も四町の人である。羽咋郡は「守護所」が在った場所で幕府による能登支配の拠点であった。
以上の如くであれば、門前町「勝田」の地名は、勝田左衛門五郎の時かどうかは別として、勝田氏が道下支配の為に対岸の地を開発して一時期に居住した事で発生した、と見ておくのが妥当のようである。何者かが勝田に住み着いて勝田と名乗ったと見るべきではない。
三、戦国初期に郷士化した能登勝田氏
勝田(かつまた)氏一族はいち早く足利尊氏の挙兵に従って幕府創設(一三三六)に貢献し貞和四年(一三四八)には、勝田能登守佐長・勝田治部丞長直らが将軍尊氏直属・側近の武士として在京。 将軍義教の永享初年(一四三一年〜)に奉公衆(番衆とも云う。将軍直轄の常備軍・直臣)体制になると、勝田氏の一族三〜四名の者(勝田能登入道、勝田弥五郎、勝田左近将監、勝田兵庫助)が奉公衆として在京していた。勝田氏は将軍直属の一族であり続けたのである。
南北朝・室町期において能登勝田氏が守護畠山氏の家臣化することがなかったのは、能登勝田氏が奉公衆勝田氏一族に属していた(能登勝田氏自身が奉公衆として在京したかもしれない)為に、守護の権力が及ばなかった為と見るべきだろう。
畠山氏支配下の能登において勝田氏がさしたる発展を見なかったのは、一族の本拠地が遠隔の遠江国だった事と、能登在地者が少数だったためと見られる。この点は、同じ将軍奉公衆でも能登を本拠地にして畠山氏と結んだ長氏の一族とは事情が異なっていた。
こんな立場の能登勝田氏にとって応仁の乱後の文明八年(一四七六)の遠江国勝田城落城・勝田氏惣領家の滅亡と、それに続く将軍権力の崩壊・奉公衆解散(明応二年・一四九三)は痛手だったはずである。能登勝田氏は、戦国時代の始めにして後ろ盾を失い孤立したのである。
永正五年(一五〇八)に四町の永三が勝田の名字を使用していない(武士身分に扱われていない)事等から考えても、能登勝田氏が郷士(土豪)化したのは文明八年以後、明応年間の頃であろう。なお、郷士身分になってから勝田氏が畠山氏から扶持(言い伝えでは二百石)を受けていたことは有りうる事であるが、それまでの権益は削減されただろうし、従って浪人化した者も出たと見られる。
永三は天正五年(一五七七)畠山氏滅亡後に上杉景勝派の畠山氏旧家臣に協力して天正九年能登羽咋郡菅原に入って館を構えた前田利家と戦ったが、景勝の能登・加賀退出後には前田利家に協力し、更に江戸時代に入って四町が土方領、後に幕府領となってからも十村・肝煎(庄屋)として四町に存続し、子孫勝田氏五世帯が今も居住している。金沢市現住の約七十世帯の勝田氏中には先祖が四町出身の者がかなり居ると思われる。
(備忘メモ)
@総持寺への寄進文書等に勝田氏の名は確認されていない。が、四町勝田氏は総持寺創建の際の拠点とされた永光寺の旧い壇徒だったようだから、勝田氏が総持寺創設には関わった可能性は有る。
C
勝田には古い墓がない。道下の宝泉寺域にある墓地には五輪塔や宝筐印塔など古い墓石類が沢山あるというから、この中に勝田氏のものも有るか。
〔加賀〕
【勝田彦次右衛門】
@金沢市に勝田彦次右衛門の子孫勝田氏現住。
A「町人由緒帳其の三」(金沢市立図書館蔵)からの抜粋。
「一 元祖 (本国御国・生国御国) 勝田彦次右衛門
此者富樫家の流にて滅亡の後、由縁の者これ有り、御当国と越中の境北村と申在所へ引籠浪人仕居、男子弐人御座候処、親子申合、天正年中、御城下へ引越、町人ニ罷成、家名北村屋と相名乗、下堤町居住仕、薬種商売罷在、其後名跡嫡子彦右衛門に相譲、再北村に隠居仕罷在、文禄三年二月十日病死仕候、
一 二代 喜多村屋彦右衛門
此者彦次右衛門嫡子ニ御座候処名跡相続仕… 」
以下要約すると、二代彦右衛門は前田利家・利長に御目見し、懇命により喜多村屋を名乗って金沢の「町年寄」を勤め勤めたが、徳川家康の要望で天正二十年江戸に赴き江戸「町年寄」となった。このため彦右衛門の弟次郎兵衛が町年寄喜多村屋を継いで、この後は彦左衛門―弥三右衛門―三郎兵衛―三郎右衛門―三郎兵衛―彦左衛門―彦左衛門―吉次郎―彦左衛門―彦左衛門(十三代)と続き、嘉永七年に至る。
(注)この由緒帳は嘉永七年に喜多村彦左衛門が加賀藩に提出したもの。
B「喜多村屋由緒写」(谷氏蔵)のからの抜粋。
「一 元祖 勝田彦次右衛門
永正十年出生 文禄三年二月十日死去 享年八拾貮才 法名釈浄峯
子貮人 嫡子彦右衛門 二男次郎兵衛
此者加賀国之郷士富樫氏之一族ニテ政親ニ相隋罷在申処富樫滅亡之後由縁之者有之当国与越中之境七黒谷北村与申所江引篭仕居 男子両人有之 兄弘治三年出生ニ而彦右衛門 二男元亀二年出生ニテ次郎兵衛 此者共町人相望候ニ付天正十五年之春金城え引越町人ニ相成家名北村屋と名乗薬種商売為致 彦治右衛門義ハ北村ニ罷在 文禄三年二月十日彼地おいて相果申候 法名浄峯 一向宗寺石川郡四十万村善性寺 尤兄弟之者彦次右衛門在命中より彼地え罷越看病仕候 病死ニ付葬礼等之営相仕舞 彼地ニ墓を建置 同所ニ市良右衛門与申懇意之者有之ニ付 彼者え以後墓所取締等之儀相頼 彦次右衛門居屋敷相たたみ 兄弟之者如歳両度墓所え参詣いたし、勝田家彦次右衛門迄之家系図は別冊ニ相記事
一 二代 浄峯嫡子 彦右衛門
弘治三年出生 慶長之末に江戸え行
此者彦次右衛門与同北村ニ罷在候所…」
以下要約すると、慶長之末江戸に移動して喜多村屋彦右衛門と名乗る。彦次右衛門二男次郎兵衛は元亀二年に出生、正徳元年死去享年七拾四才、法名浄味。次郎兵衛の子八人(女子妙慶、伊右衛門、弥三右衛門、彦左衛門、三郎兵衛、次郎右衛門、女子伊貞、彦七郎)。使用家紋は元来は「丁字車」、町人に成ってから「丸の内に『い』の字」使用。
(注)ここに記した両由緒帳は金沢市現住の勝田芳夫・數子夫妻共著昭和六四年発行「喜多村屋由緒帳…勝田家の歴史…」に収録されている。この本によれば十三代彦左衛門の時に明治に至り、名字を勝田に戻し、十四代勝田市郎右衛門―永三郎―茂三―數子と続き金沢市内に現住。現在は「丸ノ内にカタバミ」紋使用〇北村(石川県津幡町山北)にも勝田氏現住。
(注)谷氏蔵の由緒(写)は三代勝田次郎兵衛の娘が谷氏の先祖に嫁した際に持参したものと見られ、次郎兵衛とその子たちまでの記録である。次郎兵衛の死去(正保元年・一六四四)や延享年(一七四四〜)に言及しているので追記した部分も有ろうが、二代彦右衛門が江戸に出た年等については二百年ほど後の嘉永七年提出の由緒帳よりも正確な点が有ろう。
(注)正徳は正保の間違い。
(注)江戸に出た彦右衛門は喜多村弥兵衛(文五郎とも。家康関東入りに際して遠州より御供して、天正二十年に江戸町年寄三人の内の一人に任じられた)の聟に成り二代目江戸町年寄、喜多村彦右衛門と称す。(補注「武蔵」参照)
【勝田九左衛門長吉】
@「先祖由緒一類附帳」(金沢市立玉川図書館蔵)より。
「一、元祖父勝田九左衛門(長吉) 九左衛門儀御旗本勝田先伯耆五男に御座候處浪人仕罷在元和五年御国え罷越同六年五月死去仕候 一、元祖母 江戸町医師多丸道斎娘 右九左衛門御国許え罷越候節召連申候処明暦元年死去仕候 一、六世之祖父 勝田嘉兵衛 曽源院様御代万治三年十月被召抱御知行五拾石拝領被仰付御用人役相勤(中略)元禄十六年十二月死去仕候」。
以下要約すると、助七長時―嘉兵衛長政―三郎右衛門長澄―同長宗―十左衛門長遐―貫兵衛長汎―助七(稲生藤原長久)と続いた。本国武蔵国。定紋クワノ内にアゲ羽蝶。長遐の子勝田直衡藤原長倍が分家。
A墓所 妙慶寺(金沢市野町)
(注)由緒帳は明治二年二月勝田貫兵衛が加賀藩に提出。( )内の実名は明治六年勝田長久提出分から。
(注)旗本に勝田伯耆(守)は確認できていないが、家康に拝謁した岩槻の勝田九左衛門及び慶長年間に伏見で久松家臣に成った勝田九左衛門が居る。
【勝田市郎左衛門清崇】
@補注〔武蔵〕参照。
(要約)勝田能登守祐清の子孫と云う勝田市郎左衛門清崇は前田利常に仕えた。その子玄哲は慶安元年に加賀で生まれ、佐藤治部左衛門と称して加賀藩鑓指南役。理由は不明だが親子は前田家を離れて浅草の真宗寺唯念寺の世話になった。玄哲の子お喜世は元禄二年(一六八九)に生まれ、宝永六年(一七〇九)に六代将軍家宣の子(七代将軍家継)を生んだ。玄哲は正徳二年召し出されて二百石、同四年六十七歳で死去。家紋丸の内に蔦。
A林柔寺の寺伝によれば清崇は「善長」とも云い、寛文七年(一六六七)江戸日本橋辺に草庵を立て林昌軒と称す。
(注)利常は慶長十五年(一六一〇)加賀藩主になり、万治元年(一六五八)死去の人。
(注)金沢藩士の「先祖由緒…」に勝田市郎左衛門や佐藤治部左衛門の名は確認できない。
(注)家紋は「丸に二つ雁(糸輪に陰丸)」とも云う(大武鑑)。
【金沢藩士勝田源四郎】
@「先祖由緒一類附帳」中の、明治六年十二月勝田助三郎提出分の要約。
金沢藩小者勝田源四郎(安永年間死去)―七左衛門―傳三郎―又吉郎―幹一―助三郎
A墓所 日蓮宗妙正寺
【金沢藩士勝田清大夫】
@「先祖由緒一類附」中の、明治三年勝田春吉提出分の要約。
清大夫(元文五年死去)―儀太夫篤衡―宇左衛門重衡―清大夫重致―宇左衛門知致―春吉(平知貞) 家紋丸の内に橘
A墓所 高岸寺
(注)清大夫家は伊勢猿楽勝田氏の出か(太夫と橘紋の一致から)
【妙法寺墓所の勝田氏】
@金沢市東山勝田圀雄(桐紋) 分家能登勝田氏(陰の蔦紋)
A金沢市寺町妙法寺墓所(未調査)。
【西福寺墓所の勝田氏】
@蔦紋
A金沢市本町西福寺に三家の墓(未調査)。
【羽咋郡四町出身勝田氏】
@補注〔能登〕参照。
A墓所寺町永福寺か。文化十年の勝田屋和兵衛ら。(補注・能登参照)
筆者解説@金澤には多数(約七十世帯)の勝田氏が現住しているが、加賀国内に鎌倉期からの勝田氏居住の形跡や伝承は確認されない。隣の能登国羽咋郡四町には鎌倉期から勝田氏が住んだと見られるから、ここから富樫氏支配時期、一向宗徒支配時期や前田支配時期の金沢への転入が当然あっただろう。しかし、それだけではない。
A長享二年(一四八八)一向宗門徒の攻撃で高尾城(金沢)が落城して加賀半国守護富樫政親が死去した際に政親に従っていたのは勝田彦次右衛門の祖父の代と見られる。この他に加賀国から逃れて大永元年(一五二二)に美濃国で死去した勝田某(法名釈義敬)も確認されているから、長享年間以前から加賀国に勝田氏が居たことは疑い無い。
彦次右衛門先祖は「富樫家の流れ」「富樫氏の一族」と云うが、加賀国に「勝田」の地名はないので、富樫氏の者が勝田を名乗ったのではなく、富樫氏と勝田氏が姻戚関係にあった事をさしていると見るべきであろう。よって、古くから勝田氏が住んでいたと見られる能登国(羽咋郡四町)や越前・遠江・京都との関係が解明されるべきである。
B清崇(善長)は元和六年(一六二〇)死去の勝田九左衛門長吉の子か。九左衛門には嘉兵衛以外に子が居たかもしれない。金沢に蔦紋使用の勝田氏が現住しているが、未調査。
(備忘メモ)
○天正十三年(八年とも)から南加賀の小松城主になった村上周防守の家臣に勝田弥五介(後に弥兵衛、源左衛門、カタバミ紋・三つ割桔梗紋)が居たと見られる。補注〔越後〕参照。
○金沢市の観音堂や窪などに勝田氏が多い。朝日牧の勝田氏は寺の住職で古い武具を伝え持つ。
〔越前〕
【勝田九郎左衛門】
○ 松山藩士勝田金兵衛子孫の家伝に「先祖、勝田九郎左衛門直弘、生国越前、楠木正成に仕え、備前兼光を賜る」と。金兵衛の子孫代々実名に「直」の字使用。家紋五七の桐。
【勝田九左衛門】
○ 松山藩(久松氏)史料に「拾代百五十石勝田金兵衛…初代九左衛門 越前浪人 慶長年中於伏見被召出百十石馬廻」と。
【勝田与右衛門】
○嘉永五年の福井藩の給帳に「三人扶持 切米拾八石 勝田与右衛門 荒子頭」と。
○福井藩士辞典に「十八石三人 勝田与右衛門 滝ケ鼻」と。
【勝田九左衛門】
○福井市下河北現住勝田氏四世帯の中に代々勝田九左衛門と名乗っていた家が有る。
筆者論考メモ
@福井県現住の勝田氏は少ないが、勝田(かつまた)一族の総領長清(鎌倉後期)や之長
(応仁乱当時)が越前守に任官しているから、勝田氏(かつまた)が鎌倉期越前国に権益(地頭職など)を獲得して一族の者が住んだ可能性を秘めている。
A元弘元年の勝田左衛門尉直幸が楠正成に加担している(編年名簿参照)。鎌倉末期には越前国に「勝田九(九郎)左衛門家」とも言うべき家が成立し、皇室・南朝寄りの活動をしたと見られる。延元元年後醍醐天皇の側には勝間田(勝田)新蔵人義仁が居たが、勝田九左衛門を名乗る岩附勝田氏の先祖も大内(皇居)官人と伝えている。これも越前勝田氏の系統と思われる。この越前勝田氏の拠点(領地・居住地)が下河北かもしれない。(勝田氏は河北荘(河会荘とも云う。禁裏御料所、建久三年仁和寺領)の地頭か)
B兄足利尊氏と不和になって南朝方になった足利忠義に属した勝田能登守助清。この子孫と云う勝田氏は越前出身と伝えているから、助清は越前勝田氏の可能性が在る。
C南朝方が衰退し南北両朝の合一成立の際に越前勝田氏は幕府に帰参したのではなかろうか。将軍奉公衆四番所属の勝田能登入道と勝田弥五郎は越前勝田氏の系統と思われる。
四番所属の勝田左近将監や勝田兵庫助など勝田氏総領家からの独立が達成されたと見られる。しかし、明応二年の「明応の政変(細川勝元らによる将軍追放クーデター)」の際の奉公衆解体後は細川氏や山名氏などの大名に依存・従属・家臣化せざるをえなかったであろう。越前勝田氏の分解である。
D越前に在地した勝田氏は戦国大名朝倉氏又は甲斐氏、天正元年(一五七三)朝倉氏滅亡後には織田信長勢(柴田勝家、前田利家・丹羽長秀ら)に従ったのであろう。
E幕府旗本勝田伯耆の子勝田九左衛門長吉が元和五年に江戸から金沢に至りその子が加賀藩士になったが、勝田伯耆はそもそも越前勝田氏出身の一人なのかもしれない。
F前田利常に仕えた後に江戸に出てその子らが幕臣と成った勝田市郎左衛門清宗の先祖が越前発祥なら、この勝田氏も又下河北出身かもしれない。
〔若狭〕
【京極家臣勝田十太夫】
@常高院の遺書の抜粋(小浜図書館発行「常高院殿」より)
「常高院様御書置之写
本紙は龍野ニ有
かきおきの事
一 我々果て申候わば 幸い若狭に寺を建て置き候まま 後の取置きの事は如何様にも 若狭の守殿へまかせ申候
一 若狭常高寺の事くれぐれ頼み申候 自然国替え御入候とも寺の続き申候やうに御心添へ候て給り候べく候
一 常高寺長老に今まで目をかけきたり候まヽ 即ち常高寺と申候寺からハ我々戒名の名にて御入候まヽ御目かけ候て給り候へく候 頼み申候
一 小少将 多芸 新太夫 こさい将 志毛 知世保には我々居申さず候とも扶持方御やり候て合力似合いに御やり候て せいうん山の寺の下に町屋のごとくに一所に家をも御建て候て御置き候て給り候べく候
自然国替え候て何方へ御替わり候とも堪忍もなり候やうに御見つき候て給候べく候年寄供の内にて下は子も持ち申候ものにて候まま 若狭に居申さず候わば扶持方まで御やり候て
給り候べく候 又若狭に居申候わばこさい将と同じ並に合力をも少しずつ御やり候て給候べく候
一 此の年寄供に即ち十太夫御つけ候て この者どもの事肝煎り候やうに良く仰せ付け候て 十太夫にもぬし身上の続き申候程に合力をもめされ候て給候べく候
(以下四項目省略)
寛永十年七月二十一日
若狭守殿 下る 常 高 院 」
(注)右記は若狭国小浜藩主京極忠高に充てた遺書の解読文。
(注)「十太夫」とは勝田十太夫のこと。「小少将」は勝田氏の者。十太夫の妻か。
(注)常高院(初、藤子)は織田信長の妹お市の娘で、父は浅井長政。母お市が柴田勝家と再婚したため、天正十年から同十一年四月の落城まで越前国北庄城で過ごした。天正十五年京極高次と婚姻。高次は近江大津(六万石)の後、関ヶ原の戦で徳川方に応じ慶長五年に若狭小浜(八万石余)に移り慶長十四年死去。京極家は寛永十一年出雲国松江に転封。
常高院は大阪の陣に際し家康の命で和議に勤めた。寛永七年に常高寺(福井県小浜市浅間一番地所在)を開創して居住。寛永十年八月二十七日死去。
A常高寺の墓石
小浜常高寺の常高院(寛永十年八月二十七日死去、常高寺殿松岩榮昌大姉)の墓の周囲に寛永年間から明治期までの間に常高寺に勤めた尼及び世話人(士分)の墓石計四八基が現存する。
(尼四十四名の内の勝田氏関係者)
世代 戒名 没年 通称 出身等
一 桂久院榮珊寿盛大姉 万治三年六月二日 小少将 勝田氏 三好三盛女
二 清光院上月永寿大姉 延寶四年 月 日 小少将 勝田氏 尚征妻
三 桂久院 享保八年十一月二十三日 勝田氏 正信女
四 桂久院 寛保一年四月十七日 勝田氏 良世猶子
五 桂久院 寛政三年九月二十日 勝田氏 良寛二女
六 桂久院 文化十年九月六日 勝田氏 良延養女
七 桂久院 弘化三年四月二日 中氏 勝田九蔵養女
八 桂久院 文政七年六月二十日 (記載なし)
九 桂久院 天保七年六月二十四日 猪尾 本庄氏 勝田十郎養女
十 ( 不明 )
十一桂久院 (記載なし) 大岡氏 勝田精兵衛妻
(士四名)
〇 春江浄心禅定門 寛永十七年一月五日 勝田十太夫
〇 寛文一年八月四日 永井四郎左衛門
〇 延寶五年十二月五日 勝田次郎兵衛
〇 享保二年十二月五日 勝田儀右衛門宣正
(注)平成十四年七月小浜市文化課の墓石調査による。
(注)数字は桂久院の尼の世代。勝田氏出身の尼たちは常高寺付属の「桂久院」に居住していた。
(注)京都常高寺(伏見区下鳥羽長田町二十九)に常高院の木像有り。関係者の無縁墓石有り。古文書類無し。梵鐘に記録有り。
B常高寺縁起(小浜市史収録の常高寺文書より)
正保三年頃に記された「常高寺縁起」中の「當寺寄進」者五名の中に御朱印箱を寄進した勝田次郎兵衛・勝田弥二兵衛及び黄金貳枚を寄進した榮珊壽盛大姉(小少将・勝田氏)の名。
C長源寺文書(小浜市長源寺刊行の「長源寺史」)
慶安四年に常高寺の尼の新太夫が結んだ契約書「賣渡申田地作式之事」中に、立会い人と見られる「勝田次良兵衛様」の名。
D本承寺の勝田氏墓
小浜市の本承寺には勝田氏の墓が在った。平成五年頃、小浜市白髭現住の勝田氏はこの墓を同市内本鏡寺へ移転、寛永年間からの過去帳を所持。
E京極家家臣の分限帳類
〇京極忠高給帳(京極家の出雲国松江藩時代。新修島根県史史料編二)
「馬廻組 勝田作十郎百七〇石。京方ニ、京の用人勝田十太夫二〇〇石」
〇雲州侍高(大和高田市の武田新太郎氏蔵、コピー香川県丸亀市立資料館)
「百五十石 勝田作十良」「二百石 勝田十太夫」
〇若狭・龍野分限帳(坂出市村松泰氏蔵、コピー香川県史編纂室蔵)
「播磨国龍野給人帳」の部分に「御倉切米百俵 勝田弥次兵衛。百二十石 勝田作兵衛」
(注)「若狭にての侍帳」と見られる部分には勝田なし。なお若狭時代、越前国にも京極領が在ったもよう。
〇嘉永年間分限帳(京極家の伊予国丸亀藩時代。丸亀市史資料編)
「大目付 百三拾俵 勝田九蔵」「作事奉行普請奉行兼帯 八拾俵 勝田甚内」「御刀番 弐百俵 勝田真理」「御記録方 六拾俵 勝田武太夫」「銀奉行 拾六俵 勝田六左衛門」「御番頭 百拾俵 勝田藤左衛門」「御番頭 百参拾俵 勝田十太夫」「町奉行 弐百俵 勝田精兵衛」「御次小姓 六拾俵 勝田九郎助」「運上場目付 拾六俵勝田彦九郎」
〇新編丸亀市史
寛文三年、丸亀藩郡奉行勝田五郎兵衛が平屋池を拡張し勝田池と改名。延宝四年善通寺村倹地。
F丹後国田辺京極家の家臣勝田氏
寛永十七年の分限帳に勝田左治右衛門。田辺京極家は元和八年に丹後国宮津京極家(高次の弟の系統。寛文六年除封・廃藩)から分家したもの。
筆者論考メモ
京極氏の家臣勝田十太夫の出身について
一、勝田十太夫の特徴
@他国者
若狭における勝田氏の初見は寛永十年の小浜の勝田十太夫である。若狭国に勝田氏の拠点(居住地・領地)と見られる場所は確認されないので、十太夫は他国からの転入と見られる。
A常高院側近の中心
十太夫は常高院側近中の唯一の男性(士分)であり、妻(小少将)は侍女の筆頭だった。ともども常高院死後も小浜に残留して菩提寺常高寺や小浜本承寺の世話を担当した事などを見ると、勝田氏と常高院とは何か特別の関係にあったと思われる。
加えて、(イ)「若狭にての侍帳」以前の京極家臣に勝田氏の名が無い事、(ロ)遺書の中で常高院は十太夫を名字で呼んでいない事、及び(ハ)常高院が死去を前にして十太夫の「ぬし身上の続く」ことを藩主京極氏に頼んでいる事を見ると、常高院死去前の十太夫は藩士(京極直臣)ではなく常高院扶持の者に思える。小浜入りは常高院所縁によるものかもしれない。
B在京有力者
京極氏が出雲国松江に移動した後「京の用人(二百石)」として在京して若狭常高院の尼たちの世話などをした勝田十太夫は京の事情にも通じたかなり有能な人物であったと見られる。
二、越前国勝田氏の出身か。
〇勝田十太夫の戒名春江浄心禅定門の「春江」は越前国の春江(坂井市春江町)とも考えられる。
〇越前国には勝田九(九郎)左衛門家とも云うべき勝田氏が居た(福井市下河北か)と見られるが、十太夫はこの九左衛門家の関係者か(在京者かもしれない)。
〇幼少の頃の常高院は母(柴田勝家の妻お市の方)と共に越前国にいた。明智光秀に加担した京極高次は柴田勝家を頼って越前に逃げた(京極家譜)。関ヶ原の合戦の際も越前・若狭に逃げた。若狭時代の京極氏は越前国にも領地が有った。勝田氏と京極氏或いは常高院との関係は越前に由来するのかもしれない。
(参考)@伊勢猿楽勝田座勝田氏の出身か。神宮文庫蔵の「和谷式」に勝田十太夫の名(年代等未調査)。勝田座は京都でも活動していた。
A近江国・出雲国など京極氏の出身地・支配地の出身か。
B徳川家康によって常高院に附けられた者か。大阪の陣の際に、常高院は徳川寄りの仲介者として家康に重用された。家康の周辺には勝田氏が多い。
〔信濃〕
【佐久・臼田・上田の勝俣氏】
@長野県佐久市に十八世帯、臼田町に十世帯の勝俣氏が現住している。平成十五年に勝俣英夫執筆、勝俣健二・同サワ子・同俊弥の編集により「興亡のなかの勝俣一族史」刊行(国会図書館蔵)。
A系図(長野県上田市立図書館蔵「藩鑑略系譜」より)
「 勝俣 清和源姓 本国遠江
家紋澤瀉
八幡太郎鎮守府将軍陸奥守義家朝臣三代足利判官代義康三代
足利左馬頭義氏長男
長氏(吉良上総助 住三州西條吉良仍号西條吉良氏)━━満氏(左衛門尉)━━━━━━━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗経氏(左兵衛尉)━━貞氏(左京太夫)━━俊氏(左兵衛督)━━義尚(左衛門尉)━━━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗守氏(勝俣五郎 子孫称勝俣氏 母義尚之妾懐妊之時有故蒙義尚之勘気因遠江国旧地有之零
落テ彼国於榛原郡勝田庄勝俣邑生男子其子成人之後強勇絶倫而押領近隣始以勝俣為氏称
五郎守氏庭前池中繁茂澤瀉愛之則以之為家紋其逍遥之場後人称勝俣潤于今禁殺生云々)┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗常氏(勝俣縫殿右衛門 属武田家麾下 天文二十二年之頃始住信州佐久郡伴野庄堂之花)━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣某 (鶴寿丸 主税助 篭遠州高天神城 天正九年三月二十二日討死
┗守高(常陸介 久右衛門 初居信州佐久郡堂之花後弘治元年乙卯於同国臼田之西創一邑而移
之名其邑新町天正十一年癸未二月二十八日卒葬其邑之西後崇霊於大日如来一邑参詣祭日
二月二十八日)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣某 (内蔵丞 住臼田村東為別家)
┗守宗(縫殿右衛門 久右衛門 道無 寛永十九年壬午六月六日卒葬旧邸堂之花)━━━━━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗胤氏(若狭介 久右衛門 坂
室伴野家老臣佐久郡高坂城主並木筑前守女
寛永十六年己卯二月四日卒 六十八歳)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣永俊(…省略…)
┗守澄(権左衛門 母同上
室者柳八左衛門女 正保二年乙酉正月十五日卒四十一歳)━━━━━━━━━━━━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣守 (五左衛門 守澄配長女為別家…省略…)━━━━━━━━━━━━━━━
┗胤次(三右衛門 」
(注)この系図を伝えたのは三右衛門胤次の子孫で上田藩に仕官した勝俣氏の子孫。系図は博物館にも所蔵されていると云う。
(注)三河の吉良義尚は幕府内で重きをなした人で、応仁元年(一四六七)に五四才で死去。吉良氏(代官大河内氏)は享徳二年(一四五三)前に浜松・蒲御廚に進出し、この地に領地(中田郷など)を持っていた勝田(かつまた)氏らと対立していた(東大寺文書)。
守氏の母は恐らく勝田氏の娘で、対立以前に義尚に嫁していたが、対立の際に離縁され「旧地」(勝田庄)に戻ったのではなかろうか。なお、義尚には子が無かった。五郎と名乗ったのは、勝田氏一族の元祖が「五郎」であったのに因んだのかもしれない。
(注)五郎の誕生が享徳二年とすると勝田氏敗北の文明八年に二十才。天文二十二年(一五五三)に生存であれば百才である。ならばその子常氏は七十才位、その子守高(常陸介)は四十才位、その子守宗は十才程度となる。これでゆくと、寛永十九年死去の際守宗は九十九才の高齢となるが、父より前の寛永十六年六十八才で死去の胤氏は守宗二十八才のときに生まれた子となり、世代計算上の齟齬は生じない。
(注)榛原町(旧勝田庄)に地名「(大字)勝俣」残存。地名発生の時期は不明。
(注)伴野庄堂之花未調査。
(注)武徳編年集成と高天神城戦史で鶴寿丸は名字「栗田」を名乗っている。主税助は善光寺別当で武田軍大将の栗田鶴寿等と共に高天神城の戦いで死去した。
B勝俣守直の記した系図等(興亡のなかの勝俣氏一族史より)
〇系図表書き
「抑勝俣は本国遠江国也、則遠州に勝俣之郷有之、其外由緒数多有之由、其伝へいちじるし、
且源氏の流れ、家の紋丸に沢瀉、名葉之通り、字守之字也、其の先武門たりしかど、牢浪し
て中奥民間に落下り、終りに農家と成んぬ。
後代子孫に授与之謹而勿怠
勝俣守直法名鏡顔理照居士行年四拾七歳書 延享元年
宝暦五亥四月弐拾五日五拾八才卒す 」
〇系図(筆者勝田庸典が略記した)
若狭介守胤 寛永十六年没 男権左衛門守治家督
権左衛門守治 正保二年一月二十五日卒四十一才、男五左衛門守茂家督
五左衛門守茂 元禄五年卒五十八才、男五左衛門保清家督
五左衛門保清 享保十四年四月二十八日卒七十三才 男為右衛門守道家督
為右衛門守道 宝暦五年卒五十八才 男唯右衛門守往(五郎左衛門)家督
〇系図の添え書き
常陸之輔守親 民間ニ下リ早ク病死ス
勝俣縫右衛門 臼田村未家並ニ出来不申 前相沢出口岡前口ニ住居之由
勝俣若狭後に久右衛門と改、最初ハ上宿ニ居住せしが後には古屋敷にへ引移り、夫より新町を相立て申候
(注)実名(諱)が合わないが、若狭介━権左衛門━五左衛門は@の系図と一致している。若狭介が寛永十六年に(六十八才で)死去した人なのは間違いなかろう。
C古文書(佐久市大沢新田の勝俣健二氏所持…興亡のなかの勝俣一族史より)
〇文書包紙の表題
「臼田村 勝又長左衛門殿被書候書付」
〇長左衛門が記したと見られる文書
「勝又ひ左太郎/遠州勝又より参り候/内蔵之助久右衛門兄弟/久右衛門荒川出候与右衛門/佐礼出候内蔵助ハ/茂右衛門抱召候子与茂七/子久蔵千左忠/与平御屋敷居申候/備前おば与平母也/庄助落種也/八兵衛ハ俊甚之兄弟」
〇彦右衛門よる裏書
「此書付ハ勝又之先祖/出所之訳也/臼田村井出傳左衛門殿方/表書帳面ニ而有之/候所抜きもらい申候以上
文政三辰長月朔日之事也 彦右衛門(印)
外先祖之被書候印書壱本もらい持参仕候 」 (注)文中の/印は改行の意。
D墓碑(臼田町、明治元年九月建立…興亡の中の勝俣一族史より)
常陸之介義則 一山道武居士 大永七年九月十五日没
蔵之丞義正 陽山源貞居士 永禄十一年八月十七日没
平兵衛義治 潔山祥貞居士 慶長元年八月十日没
長左衛門知義 実山貞翁居士 承応三年三月十一日没
(注)この系統の勝俣氏の伝えた系図は未確認。
(注)大永七年と記されているのは勝俣五郎かもしれない。五郎が享徳二年生まれとすれば、大永七年に七十四才程である。
筆者解説@佐久勝俣氏は遠江国勝田(かつまた)一族に属した人々であり、勝田氏敗北の文明八年から明応年間にかけて勝田庄(郷)を離れ、(途中経過は不明だが)佐久に移転・定着したものである。
A「清和源姓」「源氏の流れ」と伝えている。五郎の父が吉良氏ゆえに源姓としているものも有るが、勝田(かつまた)氏支配地勝田庄において勝田一族以外の者が「かつまた」を名乗ることは出来なかったろうし、五郎の母は勝田氏の娘の可能性が高い。よって、勝田一族のゆえの源姓とするべきだろう。
B若狭介の子孫は常陸介━縫右衛門━若狭介を伝えているが、内蔵之丞の子孫は常陸介━内蔵之丞と伝え、縫右衛門の名を伝えていないので、内蔵之丞と縫殿右衛門とが兄弟と見るべきか(@の系図は縫殿右衛門が久右衛門とも名乗ったと記す)。なお、大永七年(一五二七)死去と云う内蔵之丞と寛永十六年(一六三九)年死去の若狭介とは世代が異なるので兄弟ではありえない。であれば、左記の如くに見るのが正しいかもしれない。
常陸介┳内蔵之丞
┗縫(殿)右衛門(久右衛門)━若狭介 寛永十六年死去(六十八才)
C武田氏滅亡後に越後上杉氏に従った信州「泉家中」勝俣氏及び武田配下小山田氏の下に居た甲斐(富士吉田)の勝俣氏は佐久勝俣氏一門か。
【下条家臣勝又氏】
@飯田市に勝又氏二十四世帯、勝間田氏三世帯が現住。下伊那郡阿南町(大下条、北条川田)に勝又氏六十二世帯、勝間田氏三世帯が現住〇同地勝又広明氏宅地裏山の祠には「上如序神」が祀られ、四月十日の祭りに飾る幡には「勝間田膳所神」と記されている。
A勝又和泉(角川 長野県姓氏家系大辞典、他)
応永初年遠江榛原郡勝又の勝間田城主勝又和泉が落城後川田村(阿南町)に住んで、下条氏に仕えた
と伝える〇「下条記」の「下条家百騎由来之下書」に「川田村には勝又五郎兵衛一代下条家の給人。是も父与左衛門、祖父は和泉と云遠州浪人の由、初は本名を引替南嶋を与左衛門迄名乗る」と。
【長野市の勝田氏】
@長野市に勝田氏三十世帯(うち、吉田に十七世帯)が現住。
A長野市吉田住の勝田禎明氏談
総本家は諏訪町に住む勝田岩雄(二十四代目)家。禎明家は三本家の一つ。同地の浄興寺(今は新潟県上越市に移転)の信徒。東本願寺初代から受領の阿弥陀如来を伝え持つ。墓所は全教寺。末寺信行寺檀家。使用家紋は抱き茗荷。
B長野市徳間住の勝田武氏談。
当家は徳間本家七代目。中興初代は勝田沖右衛門。墓所は全教寺。吉田勝田氏は当地からの移動。
(注)この一門は熱心な一向衆徒。越後上杉氏支配時代に加賀又は越前からこの地に移動か。
〔富士箱根〕
…山梨県富士吉田市・静岡県御廚地域・神奈川県箱根町を中心として…
【勝又駿河守】
勝間田二郎著「御殿場裾野小山郷土誌」に、裾野市久根勝又氏の先祖勝又駿河守則高は長元二年に源頼信の家臣と成り、子孫は今川氏の家臣に成ったと云う。
(注)根拠資料不明であり出典の確認が必要。勝田五郎を元祖とする「かつまた」氏は長元二年(一〇二九)には未発生である。よって、別系かつまた氏ということになるが、疑問。
【勝又兵部】
裾野市深良の赤児大明神(赤子神社)の祭文に建久元年(一一九〇)勝又兵部国元が記されているという。
(注)祭文未確認、神社未調査。建久年頃は勝田(かつまた)長保や成長の時代。実在の可能性はあるが祭文の鑑定が必要。
【中畑・萩原・小林の勝又氏】
御殿場市上小林出身の故勝又政美氏の研究によれば、足利尊氏が朝廷に反乱したとき、官軍の新田義貞・脇屋義助に組した勝又氏が竹之下の戦いに敗れ横走駅近くの萱野を開拓定着して、後に中畑・萩原・小林(何れも御殿場市)に拡がるという。中畑勝又氏の伝えでは竹之下合戦後隠れ住んだのは「勝又左近之助」。(勝田氏物語収録。裏付け資料等未確認、中畑勝又義顕氏子孫に連絡のこと)
(注)朝廷・新田軍に組した勝田(かつまた)氏が居たのは間違いないから、建武二年(一三三五)二月の竹之下(小山町)の戦いで新田軍に参加した勝田氏が居た可能性は高い。
(注)埼玉県狭山市に、先祖が新田義貞に従って鎌倉に走ったと伝える勝田氏が現住。
(注)永禄二年の上野国に、先祖が新田義貞に従ったと伝える勝田氏が居た。
【勝俣左京亮長生】
昭和五十三年日本系譜出版会刊「勝又一族の系譜」に「信濃に勝俣(勝間田)氏あり。この氏の出自は詳かではないが、南北朝のころ、勝俣氏は駿河の豪族にして浅間大社の大宮司富士氏と婚を結ぶ。『富士和邇部系図』に「浅間社大宮司義尊の女、勝俣左京亮長生の室」とある」と。
(注)『富士和邇部系図』所在不明。太田亮著の姓氏家系大辞典に義尊の記録があるが、勝俣無し。
(注)実名に「長」の字使用は遠江国勝田氏一族惣領家の特徴。勝田庄居住者か。
【箱根の勝俣氏】
@神奈川県箱根町(仙石原を中心に)に勝俣氏約三〇〇世帯勝又氏十三世帯勝亦氏六世帯が現住。
A勝俣太郎兵衛(昭和四十二年刊箱根町誌の年表より)
「延文元年(一三五六)十二月、勝俣太郎兵衛他十三名に依り姥子山長安寺が起立された」。
(注)根拠不明、姥子の金石文か。
(注)勝俣家文書「寛文拾弐年七月十七日、相州西郡西筋仙石原村村かがみ」(以下「村かがみ」と云う。箱根仙石原村史略収録)に、「此寺(龍虎山長安寺)拾五年以前戌の年(万治元年)当村に寺無御座候に付御訴訟申上げ取立申候」と。訴訟とあるが、姥子については記載がない。
(注)天保十二年完成幕府編纂「新編相模国風土記稿」足柄上郡の仙石原村の項に長安寺は「古は元箱根姥子の邊に在しと云、本寺所蔵の古記に據るに始彼地に起立せしは、延文元年なり、後一旦荒廃して、数年を歴しを明暦元年此に移して再興し…」と。農民太郎兵衛についても記載。寛永十二年寺院本末帳記載の香林寺末寺二十八カ寺中に長安寺は無い(箱根域にも無い)。
(注)宝永七年(一七一〇)に仙石原村名主太郎兵衛が確認される(勝俣家文書)が、延文元年に果たして勝俣氏が姥子・仙石原が居たかどうか疑問が残る。長安寺の「古記」調査のこと。
B総七郎・甚左衛門・惣左衛門・総左衛門・源左衛門(勝俣家文書より)
「千石原地詰之御帳之写、慶長拾六歳五月二十四日」にこの五名が仙石原に田畑を、源左衛門を除く四名が住居も所有と。
(注)何れも勝俣氏と見られる。慶長十六年以前からの箱根仙石原居住は疑い無い。
(注)「村かがみ」は村の歴代領主を北条氏直から書き起こしているが、この北条氏だけは「氏直」と呼び捨てなので、天正十八年北条氏滅亡後の入居か。
(注)先祖が富士吉田から転入との伝承、同地諏訪神社を勧請したのが勝俣氏と見られる事、名主家子孫勝俣氏が丸に花菱紋使用、等から甲斐との関係が窺える。
(注)勝俣家文書を所持の名主家子孫勝俣氏が仙石原に現住。
(注)江戸初期伊勢松坂の勝間田清左衛門が仙石原勝俣家に仮寓して芦の湯湿地を干拓。
C勝間田清左衛門(角川 神奈川県姓氏家系大辞典より)
伊勢国松坂の住人。江戸初期仙石原村の名主勝俣家に仮寓して箱根芦之湯村の湿原を干拓したといい、同地
に伊勢屋という湯宿を営んだ。
【葛俣(かつまた)盛次】
@系譜(「寛永諸家系図伝」の小幡の項)
「はじめは葛俣、後に小幡と改。
盛次 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
葛俣の主。生国遠江。剃髪して日浄と号す。駿州今川氏にしたかわずして浪人となり、┃
富士の下方の法花寺に居す。後に武田信縄のまねきに應じ、男子四人・女子三人をひき┃
ひて甲州に赴く。此のとき葛俣をあらためて小畠と称ず。武勇の譽あるによりて足輕大┃
將となり、信縄・信虎二代につかふ。 ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗虎盛 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
孫十郎 織部 山城 生国同前 ┃
明應九年、十歳にして父と共に甲州におもむく。(中略)。そののち信玄の命によりて┃
謙信を押へんかために、高坂弾正と共に信州川中嶋海津の城二曲輪にあり。 ┃
永祿四年六月に病死す。歳七十一。 ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗昌盛 ━━━━━━━━━━━━━━━━━(後の世代省略)
孫十郎 又兵衛 豊後守 生国甲斐
信玄、小幡上総介に命じて幕および名字を昌盛にゆづらしむ。爰にをひて小畠をあらた
めて小幡と称す。(後略) 」
A系譜(「寛政重修諸家譜」の小幡の項に)
「はじめ葛俣を称し、盛次が時、小畠にあらため、昌盛に至りて小幡上総介信眞が家號をうけ、小幡にあらたむ。藤五郎某がときにいたりて家たゆ。又三郎景明が呈譜に、源氏なりといへり。しかれども、昌盛がとき小幡信眞が家号をうけて、彼家の支庶となるといふときは、寛永系図に景明が家の下に附するもの是なり。今源氏とするは、其元の姓氏をいふなるべし。よりて舊にしたがふ。
盛次 (山城 剃髪號日浄) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
遠江国に住し、葛俣の主たり。今川家にしたがはずしてその地をさり、富士の下方法華寺に入┃
て僧となり、のち武田信縄のまねきに應じて、甲斐国にいたり、信縄及び信虎につかふ。 ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣虎盛 (孫十郎 織部 山城) ━━━━━━(後の世代省略)
┃ 武田信虎につかへ、しばしば戦功をあらはし、諱の字をうく。永禄四年六月死す。年七十一。
┣某 (惣七郎)
┃ 天文十年十月武田信玄上杉謙信と信濃国海野の戦ひに功をあらはし、創をかうぶる。其創癒ず
┃ して死す。
┣女子 大熊備前某が妻
┣女子 西條治部少輔某が妻
┣女子 海野中務某が妻
┣某 (弥三左衛門)
┗貞長 (初虎昌 弥左衛門 山城 下野)
信玄及び勝頼につかへ、騎馬の士十二騎足軽六十五人をあづかり、海津城の二の郭を守る。
武田家没落ののち、上杉景勝につかふ。 」
(注)小幡昌盛の子は徳川幕臣に成った。寛永諸家系図伝と寛政重修諸家譜は徳川幕府の編纂。
(注)「富士の下方の法花(華)寺」とは。
〇「下方」が長享元年(一四八七)に伊勢新九郎が今川氏から得た富士郡の下方(しもかた)ならば、この寺は沼津市平沼の法華寺(天台宗瑞林寺の名刹法蓮寺で、元亀二年日蓮宗身延派に改宗。新九郎の居城興国寺城から約三キロの間近)かも。
〇御殿場市所在の日蓮宗法泉寺(今は観音堂・法円寺という)との説(勝田氏物語収録)が在るが、根拠不明。
【富士吉田の勝俣氏】
@
富士吉田市に三六〇世帯(小明見に二二五世帯)の勝俣氏、十二世帯(小明見に十一世帯)の勝又氏、が現住○勝俣氏約三百家が小明見西方寺の檀家○使用家紋は揚羽蝶など○「さこん」と呼ばれる勝俣氏現住。
(注)西方寺は嘉禄二年(一二二六)に新田義重五男の耀(翫)月祖底が創建の臨済宗妙心寺の末寺(文禄元年浄土宗に)。
A勝俣佐近と勝俣善太夫(富士吉田市史史料編第二巻収録)
「元亀二年都留郡村々武田家組下小山田被官士地下控」に「小明見村住人、勝俣佐近、同善太夫」と。
【印野の勝間田氏】
@印野八郎
天正十八年文書(コピー有り、原本所在場所調査中。未解読のため左記は仮文)に
「當山開基大乗院殿建立地にて
横地勝又改名之上印野八郎と号し
持佛三躰ヲ以奉詔請本尊に候
其後當山及大彼御台勝又姓に為
再建罷俟候 依是本尊藤湯料
罷相納置候に付先亡代々諸霊之
回向朝暮に無怠納可為勤行
者也
駿河国駿河郡
天正十八寅年 仁杉村
十二月日 大乗寺(印)
勝又姓
長兵衛殿
太良左衛門殿 」
(注)仁杉大乗寺は印野勝間田八郎右衛門先祖伊野八郎の開基で文明年中開創(寺伝)。広智山仏心院と号す浄土宗寺院。旧寺地は御殿場市二の岡の「寺入」で、二岡七所大権現(市内東田中)の神宮寺梵筐寺の五庵の一つの真言寺であったと云う(伴野家文書「駿東郡旧記書上帳」)。文書に云う「建立地」とはこの「寺入」か。ならば、仁杉は再建地であろう。再建は天正十八年か。
(注)勝田(かつまた)氏は将軍奉公衆だったので、「御台」は将軍夫人か。であれば、勝田氏残党がこの地に入ったのは将軍の意向であった可能性が出てくる。
A勝間田八郎左衛門
○文久元年(一八六一)編「駿河志料」の駿東郡印野の部分に、御殿場市印野の勝間田氏について
「【旧家】勝間田氏 八郎左衛門、勝間田修理亮の子孫にて、文明年中、横地四郎兵衛と倶に謀反を起し討死し、横地が子息は甲斐に走り、勝間田氏族は富士野の林の内なる宮ケ尾とて人跡絶たる地に隠れしのび、昼は烟をあげず、夜に入飯を炊き、年久しくありて後、印野の地に出て、民の産業をなしけるとなり、此氏を称す三十戸許あり、里長中頃衰へ、火災にも罹り、古書を失ひ、事暦詳ならず」。
(注)勝間田八郎左衛門家は代々印野村の名主を勤め明治に至った。使用家紋は剣かたばみ。
(注)この記録は八郎左衛門等の伝承にも基づくのであろうが、「謀反」「横地四郎兵衛」の用語から見て、編集者が「今川記」等を参照して作文か。(名簿の文明七年の項参照)
(注)大正三年編「印野村誌」に「勝間田氏族は、伊野八郎なる者に率いられ、富士裾野の森の中なる宮ケ尾に遁れ入った」と。伊野八郎は大乗院開基の印野八郎であろう。
(注)「宮ケ尾」は印野地先の「宮塚」辺り(平成六年編「印野郷土誌」)。
○慶長四年文書(印野郷土誌より。駿河国領主中村氏の家老横田村詮が印野の名主八郎左衛門に発行)
「 以上
其方抱浅間宮修覆御供免として
丸尾山被遣候者也
仍而如件
内膳正
亥九月晦日
村詮 花押(印形)
印野 八郎左衛門 」
(注)慶安元年十月印野村鴇巣北畑荻原畑方野畑検地帳に、印野本村居住の名主に八郎左衛門、本百姓に八郎右衛門 四郎左衛門 久左衛門 介 佐右衛門 甚右衛門 仁左衛門の名。鴇巣・北畑・荻原は印野本村の枝村。延宝八年の印野村村鑑に「名主一軒本百姓三三軒無田三〇軒」と(枝村の百姓を含む)。(印野郷土誌)
(注)御殿場市印野と川島田(印野村北畑からの集団移転先)に勝間田氏計三百世帯が集中。
【須山の勝田氏】
裾野市須山(印野に隣接。深山とも記された)に江戸期に名主などを勤めた勝田氏が居る。この勝田家最古の墓碑に「寛文三寅壬四月十三日 勝俣嘉平次」と記されている(学会出版センター刊「癌細胞を撮る」の医師勝田甫氏に関する記事より)。須山勝田氏は今は「かつた」と云うが本来「かつまた」である事が判る。須山には勝又氏(二十四世帯)勝間田氏(三世帯)も現住。
(注)須山勝田氏は「かつまた」は「勝田」とも記す事を伝承していたのであろう。
(注)須山勝田氏の使用家紋は揚羽蝶。
(注)須山田向の十二神社参道傍らの石碑に「水登波乃売神 田向之里人此水頼資生千余歳 然土木未完 夏時冬日或不免為干涸氷結甕渇患ス 於此勝田宗次郎奮改良削高陵埋浅谿 数間月而初奏功伝々 于時 元治元年九月 世話人 勝又源次郎 氏子中」と。この勝田宗次郎の墓石に「勝田宗次郎之墓 翁諱宗次郎姓勝田氏 駿東郡須山人考諱茂右衛門以天保元年二月■一日生其家長男也(以下略)」と。(以上静岡県史民俗調査報告書第十五集「須山の民俗」)
【今里の勝間田氏】
大正五年刊「静岡県榛原郡誌」に「某古文書」にとして「甲州平野村出生兄弟今里へ居住、嫡子は甲州平野村に住し、次男三男は当村(今里)に居住し、四男は仙石原(箱根)に住す。依之、家の苗字を三段に分出す。即ち甲州平野村にては勝俣と云い、今里にては中男なれば勝間田と云ふ。仙石原は庶子なれば勝俣といふと。此事伊勢より年々の配符にて知るものなり」と。
(注)文面から、今里に住む勝間田氏の言説と見られる。仙石原勝俣氏に言及しているので、江戸初期以後の文書か。伊勢国に情報提供者が居たと見られる。
(注)平野村(山中湖村の平野)に勝俣氏は現住しないが、小明見の勝俣氏がそれか。箱根町に勝俣氏が現住。今里(裾野市今里)に勝間田氏は現住しないが(勝又氏約八十世帯現住)、今里出身の印野村北畑かつまた氏(北畑は今里の人の開発という)は「勝間田」である(明治四十五年に川島田に移転当時の北畑は勝間田氏三十九世帯、杉山氏二世帯)から、今里勝又氏はかつて勝間田と記したと見える。ならば文書は事実に合致するが、なお検討を要する。
(注)今里勝又氏の使用家紋は揚羽蝶(三つ柏紋使用例は)。墓石に勝俣と表記の例有り。須山勝田氏や平野(小明見)勝俣氏との関係が窺える。
【勝又五郎左衛門】
裾野市麦塚の東光寺に延宝二年勝又五郎左衛門銘の地蔵。
【勝俣直右衛門】
寛政九年伊豆国佐野村(三島市佐野)の名主。
【勝俣善四郎】
弘化二年相模国小田原宿山角町の名主、仙石屋と称す。
筆者論考メモ
(一)解明を要する点
山梨県富士吉田、静岡県御廚域(御殿場・裾野・小山)とその周辺域(富士・沼津・三島・清水・長泉)、神奈川県箱根、これら一団の地域に多数(約四五〇〇世帯)の「かつまた(勝田・勝間田・勝俣・勝又・勝亦)」氏が現住している。
地域内や近隣に地名「かつまた」が無い事や印野勝間田氏が勝間田修理亮の子孫であると伝えている事から見て、地域のかつまた氏はすべて遠江国榛原郡の勝田(かつまた)庄を本拠にして栄えていた勝田(かつまた)一族の子孫とその関係者と見てほぼ間違いない。
ただ、以下の点については解明されるべきだろう。
文明八年の戦いで勝田(かつまた)修理亮やその子ら多数が駿河国守護今川義忠に殺され、義忠は勝田氏等の残党に殺された。伝承等から見て修理亮の子等勝田氏残党が印野に入ったのは文明八年から間もない時期と思われるが、この時期何ゆえに大敵今川氏の駿河国に入ったのか。文明八年、修理亮の子の一人義勝は親戚の安房里見氏を頼って遁れていたのであった(東金勝田氏)。
地域の「かつまた」氏の数の著しい多さも問題である。推計(計算後記)すると江戸末期には六百世帯三千人程度が住んでいたと見られる。数字から見ると修理亮一行だけでは無く、同族ではあっても別系かつまた氏の転入・居住が考えられ、その転入経緯の解明も必要だろう。
加えて、これだけ多くの「かつまた」氏が住んでいたのに、その活動に関する中世資料が少ないのは何故なのか。
【計算】地域「かつまた」氏4500世帯、世帯構成人数三人、文明頃から江戸末期にかけての人口は現在の4分の1、として計算すると。4500×3÷4=3375人が推定人口となる。(世帯数としては六百世帯程度か。地域外流出者を考慮すればもっと多数になる)
(二)現段階での推測
前記疑問に答え、且つ既に解明されている史実とこの地域の「かつまた」氏に関する前記資料・伝承(勝又駿河守の話は別として)に大筋で沿った説明(推測を交えた)をするとすれば、とりあえず以下の如くになるだろう。
@南北朝初期の定住(先住「かつまた」氏)
勝田(かつまた)一族の一部が元弘三年に新田義貞の招集に応じて鎌倉攻めに参加。そのまま義貞の麾下に居たために勝田一族総領兵部丞などが属していた足利尊氏軍と箱根竹の下で戦う結果になった。敗軍側となった者は一族本拠地勝田庄に戻ることもならず、とりあえずこの地に居住する事にした。それを可能にしたのは@幕府から与えられた多少の権益(土地)が有ったA大森氏又は富士氏の協力が有った、かの何れかであろう。未開の土地を開墾すれば生活に必要な程度の土地は得られたから、結局これらの「かつまた」氏はこの地に定着した。
なお、勝田庄に居た総領家や、南朝方北畠氏配下の伊勢国等各地の勝田氏との関係・交流は続いたと思われる。
A文明の敗北後の転入
文明八年(一四七六)の敗北後、勝田(かつまた)氏一族残党は遠江国から駆逐され、尾張三河方面に移動の者も居たが、多数の者が甲斐武田氏やその一族の信濃国下条氏を頼って移動した。この「かつまた」氏は武田氏の力を借りて今川氏からの本領地の奪還を目指したであろうし、武田氏としても当然「かつまた」氏活用を図ったのであろう。対信濃国前線にも勝俣氏が配された(天文二十二年頃信州佐久に居住)が、大方の者が対駿河国(対今川・伊勢新九郎)の前線地域に配されたと見える。この配置は御廚域の先住かつまた氏との連携を見込んだのかも知れない。
後の元亀二年(一五七一)ことだが、武田配下の武士勝俣佐近・同善太夫が確認される甲斐国富士吉田の小明見は甲斐・駿河国境の篭坂峠後背地と云うべき場所である。「かつまた」氏はこの地を生活拠点として与えられ国境の配置(平野か)についた様に見える。(何時からここに住んだのかは不明でなお研究を要する)
修理亮の子(仮に「八郎」とする)等が篭坂峠から南約十六キロメートルの駿河国御廚域の地に入り込んだのは、武田氏の支援と戦略にそったものとしても、当時この地域を領していた大森氏(氏頼系)等の了解を得た平和的な転入と見るべきだろう(大森氏が呼び込んだか)。八郎が仁杉大乗寺の開基になったのもこの地に定住を予定したからに違いない。この際に名字を印野(或いは伊野)に替えたとすれば、それは今川氏との摩擦を避けたのであって、隠れ住んだ訳ではない。
即ち、八郎等の転入は今川・伊勢新九郎の支配がまだ御廚域に及んでいない時期のことであり、大乗寺創建と云う文明年中の事であるのは間違いなさそうである。かなりの人数の「かつまた」氏が転入した可能性がある。
B今川・伊勢新九郎の御廚地域支配
が、間もなく事情が変わった。長享元年(一四八七)に義忠の子(今川氏親。伊勢新九郎の甥)を今川家の当主に据えて富士郡下方十二郷と城(興国寺城か善得寺城か)を得た伊勢新九郎は伊豆・相模への侵攻を開始、明応四年(一四九五)に大森氏の本拠地相模国小田原城を奪った。これで御廚地域北部は伊勢新九郎(南部は以前より葛山氏)支配になったのである。
御廚「かつまた」氏はさしたる武力を持たなかったのであろう、北条支配下で肩身の狭い境遇となる。八郎等が山中の宮ケ尾に隠れ忍んだのはこの際の事と見るべきである。
明応九年に葛俣盛次が駿河から甲斐に移ったのもこの事件の為だろう。それに、甲斐(平野、小明見)「かつまた」氏はこの時に御廚域から転出した人々なのかも知れない。
大森支配時代の相模に移動した者や、小田原北条氏の家臣になったり北条支配の相模・武蔵に移った者も居たであろうが、大方の者はこの地で山野を開拓して在野に生きる道を進んだ。永禄十二年より天正十年までの武田支配下においても御廚「かつまた」氏の軍事的な活動は確認されない。
C今川氏と小田原北条氏の滅亡でかつまた氏復権
天正十年武田氏の滅亡で駿河は徳川支配となり、天正十八年北条氏が滅亡した。
今川・北条によって不当にも謀反人一族扱いされてきた勝田(かつまた)氏一族の御廚「かつまた」氏はここに「復権」したのではなかろうか。天正十八年の十二月、大乗寺が(再建され?)勝又氏先祖回向の約束したのはその象徴のように思われる。
以後、近世の富士山裾野域や箱根域・三島域等で、多くの「かつまた」氏が名主などとして頭角を現し地域開発等に指導的な役割を果たした。又、「かつまた」氏は徳川家康にも良く知られた一族であったから、駿河国生まれの勝田道順の如く、家康側近等に召し出された者が何人も居たのだった。
(注)@先住かつまた氏に関する信頼すべき資料が無ければ、その存在自体を否定すべきかもしれない。であれば、文明の敗北後の転入者が多かった事になる。
A永享十年九月、横地・勝田弾正を中核にした幕府軍が箱根水呑で小田原大森軍に大敗した(永享の乱)。この際、氏頼系大森氏や葛山氏は幕府方だった。
以上
(参考)「かつまた」の表記について
〇かつまた修理亮の正しい表記は「勝田」で、「勝間田」は後年の当て字。(「備考@勝田氏と勝間田・勝俣・勝又氏」を参照)
〇勝俣も当て字から始まった場合もあろうが、勝田(かつまた)庄内の地名勝俣を名乗ったと見られる例(勝俣五郎守氏)があり、全てが当て字とは云えない。
〇印野かつまた氏(現在大方は勝間田と表記)の先祖という大乗寺開基の印野八郎の旧姓は「勝又」と記されているし、江戸期に於いて印野勝間田氏自らが「勝又」と記す事も有った。勝又の地名は無いから勝又も当て字(簡便な為か)である。これは、印野郷土誌で確認できる。
@印野上合山神社鍵取役勝間田和明家の安政六年文書に「駿河国駿東郡印野村 山神鍵取勝又仁兵衛」と。明治六年八月の「熟談取替書」に「印野村役人総代勝間田仁兵衛」と。明治期や今は勝間 田だが先祖は勝又と表記されている。
A明治五年四月の印野村戸籍簿に「印野村 名主勝間田宗蔵 組頭勝間田仁平次」両人は明治五年九月の真光寺取調の「印野村組頭勝又仁平治 名主宗造」と同一人と見られる。即ち仁平次は勝間田とも勝又とも記された。明治六年九月の「威銃御免許願」に「印野村副戸長勝又仁平治」と。
B明治五年六月の「乍恐御書付願上候」の「印野村名主勝亦惣蔵」は前記の勝間田宗蔵と同一人と見られる。明治五年六月の「乍恐御書付願上候」には「印野村役人総代勝間田宗造」と。
〇印野郷土誌に確認される江戸期かつまた氏の表記例
神場村勝亦要七郎 永塚勝間田要左衛門母 仁杉村仏師勝俣谷右衛門 永塚村勝間田九左衛門
沼津屋太兵衛勝又林蔵 印野村勝又源兵衛
〔伊豆〕
【南伊豆町差田の勝田氏】
@差田に勝田氏十一世帯が現住○前畑系勝田氏と下組系勝田の二系統が有るという。家紋はいずれも丸にもっこう
A勝田新兵衛
静岡県南伊豆町入間字差田の勝田佳四郎氏(屋号は上斧師、十一代当主、前畑系)所持の過去帳(表題「上斧師の歩み」)に、初代の新兵衛は寛延四年(一七五一)正月八日死去し法名法岩浄相上座。新兵衛の妻は延享元年八月七日死去し法名日照秀顔信女〇佳四郎家は同地の若宮八幡社(享保十年創建)の「鍵とり役」〇差田は勝田氏の本拠地勝田庄(榛原町)の駿河湾対岸の地。
【下田市本郷・横川の勝田氏】
@横川の勝田氏は差田の出身と云う。
【下田市白浜の勝間田氏】
@白浜に勝間田氏十世帯が現住。伝承等は未調査。
〔駿河〕
○ 〔富士箱根〕を参照。
〔遠江〕
【春野町豊岡の勝田氏】
@ 浜松市天龍区春野町(豊岡に四世帯、野尻に三世帯、他)に十四世帯の勝田氏現住。家紋例、五三の桐。先祖の伝承不明。
〔三河〕
【吉田藩の勝田氏】
@ 吉田藩(豊橋市、藩主大河内氏)分限帳に、家老の勝田清左衛門(5百石役料二十人扶持)、使番の勝田半助(十人扶持)の名(豊橋市史)。
筆者解説@大河内氏の家臣勝田清左衛門先祖は相模国の出身と見られる。〔相模〕参照。
【豊田市の勝田氏】
@ 岡崎藩の万延元年「御用達名前記」に寄合格の碧海郡渡刈村(豊田市)の勝田十右衛門、地廻帯刀を許されていた同村の勝田兵左衛門の名(新編岡崎市史)。
A 豊田市に勝田氏七七世帯(うち渡刈上大新田に七世帯)現住。
【吉良町の勝田氏】
@吉良町宮迫堂に四世帯、宮迫向に三世帯の勝田氏現住。家紋横木瓜。先祖の伝承不明。
〔尾張〕
【小牧市の勝田氏】
@
小牧市市之久田に二十二世帯、同市常普請に五世帯、同市西に三世帯の勝田氏現住。家紋三階松。墓地常普請本光寺。
〔美濃〕
【金山町の勝田氏】
@
下呂市金山町乙原に勝田氏四世帯が現住。「かつだ」と云う。家紋丸に梅鉢。菩提寺は浄土真宗本願寺派東林寺。
A
金山町勝田氏過去帳「明治七戊年一月二十三日改メ
代々法号改覚記〔東乙原村 勝田又右衛門〕」に「大永元年二月二日釋義敬、大永三年正月二九日釋尼妙雲。右ハ加賀ノ落人ト云フ口傳タリ…」と〇金山町乙原に又右衛門子孫現住。「大洞」と呼ばれる裏山約一〇〇町歩を所有。
【瑞浪市の勝股氏】
@ 瑞浪市稲津萩原に四十三世帯、同市土岐二十一世帯の勝股氏現住。家紋丸に横木瓜。かつては勝俣と記していたという。遠江の榛原出身と伝える。
A 慶安元年十一月六日勝股長右衛門死去、戒名涼渓宗新。妻の戒名清畔妙浄。子孫も代々長右衛門を称す。
【飛騨市の勝田氏】
@ 神岡町に勝田氏四世帯現住。
○ 喜右衛門元禄十六年死去、戒名水翁宗滴。子孫も代々喜右衛門を称す。十一代目子孫同町寺林に現住。「かつだ」という。家紋丸に桔梗。
○ 別家勝田氏梨ケ根に現住。家紋剣かたばみ。