勝田・かつまた氏の歴史(四)

                   「勝田・かつまた氏の歴史」の目次

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四 勝田・かつまた氏発生経緯についての論考

 

論考@ 勝田宿祢兼清と勝間田五郎

信頼の置ける史料での勝田氏(姓)の初見は保安元年(一一二〇)の勝田宿祢兼清である。次に確認されるのが源義朝に従って保元の乱(一一五六)に参戦した遠江国勝田(かつまた)氏である。この遠江国勝田氏が勝間田五郎(またはその子)であり、勝田一族の元祖の人であることは論考AとBでほぼ解明されている。ここでの問題は兼清と五郎両者の関係で、或いは同一人かもしれないということにある。

 

一、勝田宿祢兼清…魚魯愚鈔(史料拾遺第八巻)より

「一京官除目三省奏

 三省史生

  三省状

 式部省

  請被因准先例、以史生従七位上藤井宿祢千利、拝任諸国闕状、

 右得千利款偁、為當省史生之者、依年労恪勤、遷任諸國目、是承前之例也、省加覆審、所申有實、望請、因准先例、以件千利、被任件目闕者、■知奉行之貴矣、仍勒在状、謹請 処分、

    保安元年十二月 日

          権少輔従五位下行兼中宮少進能登守藤原朝臣

          正五位下行少輔兼阿波介藤原朝臣

          従四位上行大輔兼文章博士菅原朝臣

 兵部省

  請被因准先例、以史生従七位勝田宿祢兼清、拝石見国大目状、

 右謹検案内、為当省史生之者、以挙奏、被遷任諸国目、古今之例也、望請 天恩、因准先例、以件兼清、被遷任件国大目闕者、■令知奉公之貴、仍勒在状、謹請 處分、

     保安元年十二月 日

           正六位上行少丞藤原朝臣忠光

              大少輔有障丞一人加暑不可為例之由官雑抄注之、

 民部省

    (以下略)                                     」

魚魯愚抄は洞院公賢著の徐目についての儀式書、この中で「京官徐目三省奏」は史料(任官例)として引用されている。公賢晩年(一三六〇死去)の成

立。任官例として記された兼清に関する事項は信頼性が高い。

勝田宿祢兼清の実在は間違いなかろう。勝田氏の初見である。この文書及び当時の状況から次のことが言えよう。

@勝田氏の発生は平安期の保安元年(一一二〇)以前である。

A姓「勝田宿祢」は天皇から与えられたもの。「勝田」は源・平・橘・藤井の類の「氏名(うじな氏の名)」。「宿祢」は真人・朝臣・忌寸の類の「姓(かばね称号)」。兼清は公家である。

B「勝田」は初見であるから、姓「勝田宿祢」は兼清のときに初めて与えられた(発生した)可能性がある。公家身分の者が改姓した可能性もある。

C氏名「勝田」が「かつまた」かどうかは不明だが、「勝田」は地名と見られる(それ以外には考えられない)。当時において氏名(うじな)にするのに相応しい「勝田」は、郡名か郷名であろう。具体的には和名抄に記載の美作国の勝田郡と勝田郡中の勝田郷および遠江国榛原郡の勝田郷の可能性が高い。であれば、氏名の「勝田」は「かつまた」である。

D保安元年当時に兵部省に属する史生(書記)ということは、武人系の公家である事を推測させる。

E従七位は下級公家に属するが、若年であったり武人系であれば、普通のことと思われる。

F石見国司の目(さかん)は現地赴任したと思われる。石見国の役所(国府)が在った島根県浜田市の上府・下府域に勝田氏多数が現住している(石見参照)が、これは任官・現地赴任と関係あるかもしれない。

 

二、勝間田五郎(勝田五郎)「鎌倉実記」に引用されている「伊豆日記」より

「鎌倉実記巻之七

   蒲生冠者範頼九郎義経之事

 (中略)

伊豆日記曰のりよりは此ころをはりの国より。とをつあふみにゆかんとて。なるみのうへのに在よし。右は督殿(カウノトノ)平治のみたれに。たへまの五郎さたとしへ。たのみおかれしか貞稔みかわの目(サクハン)となりて下る。のまのうつみにうたれ玉ひし。督殿のために。不忠不義のおさたをたすけて壱岐守(イキノカミ)に成りたることをもいとはす。平判官康頼か所地するころまて。うつみに在けるみはかへもまいらす。あつたよりも心寄さりしは時の権威(ケンイ)をおそれたるか。なさけをわきまへさるか。のりよりも六はらの聞へをはばかるによつて。とをつあふみかはのみくりや福祭領貞稔か親前ノ勘解由丞季成に。あつけ置しを。長寛の年一条中納言の室(シツ)より橘太郎左衛門勝間田(カツマタ)五郎むかへに来りて母子共に京へのほりしか仁安二年のりより十四さいにて。又ははとともにかばのみくりやへ下るのよし。大学助かもとより告しらす 」

(注)変体仮名は現代平仮名に変更した○( )内は原文右側に添えられた振り仮名。

(注)長寛一年(一一六三)、仁安二年(一一六七)

(注)「のりより」は源義朝の子「範頼」「とをつあふみ」は「遠江」「なるみのうへの」は「鳴海の上野」で名古屋市緑区鳴海町○「平治のみたれ」は「平治の乱」○「たへま」は「当麻」○「さたとし」は「貞稔」で熱田の住人○「のまのうつみ」は「野間の内海」で、愛知県知多郡美浜町(野間)と、隣接の南知多町(内海)○「おさた」は「長田」で義朝を殺した人物○「みはか」は「御墓」○「あつた」は「熱田(神宮)」で、義朝の妻(頼朝の母)の実家○「六はら」は「六波羅」探題○「一条中納言の室」は義朝の娘で頼朝の同母姉妹「督殿」は義朝「かばのみくりや(蒲の厨))は浜松市内の天竜川に接する地域で、ここの龍泉寺境内に勝間田五郎の遺跡・遺品が現存(論考B)。

(注)「遠江国風土記伝」は鎌倉実記から伊豆日記を引用している。異なるのは、「勝間田五郎迎に参りて」「蒲のみくりやへ下るよし、大学助か罷登てよし告しらす」の部分。 

「鎌倉実記」は三河国の医師・俳人加藤鎌斎(洛下隠士と称す)著、享保二年刊の、源平期に関する研究書(東京都文京区の国立国会図書館支所「東洋文庫」蔵)。この鎌倉実記の説明によれば、「伊豆日記」は源頼朝(前の武衛)の命で藤原広有が記した日記である。広有は頼朝の祐筆藤原広綱の弟。吾妻鏡(養和二年五月十一日)に拠れば広綱は遠江掛川の住人だから、広有も遠江の事情に通じた人物と思われる。

日記は鎌倉実記の中に断片的に引用されている。永暦元年(一一六〇)三月二十日に流人頼朝が京都を出発する際の記述、同四月十一日から日記形態の記述が始まり、長寛二年六月の部分、嘉応元年五月の部分、安元元年十二月の部分、承安二年正月の部分まで。範頼や勝間田五郎に関する前記の記述は仁安二年以後の日記に記されていると見られるが、日付は不明。日記の日付直前の事実を記したものではなく過去(長寛〜仁安頃)の事件についての伝聞を日記の中に記したものと見られる。

日記自体の所在を今は確認できないが、それなりに信頼が置ける資料と思われる。

この勝間田五郎は論考ABの結論のごとく、長門国勝間田氏の系譜に記されている元祖勝間田左衛門五郎頼貞、保元の乱の際に源義朝に従った遠江の勝田(かつまた)及び浜松市の龍泉寺に遺跡・遺物を残す勝間田五郎と同一人であり、その実在は疑いない。

この日記及び論考ABから勝間田五郎に関して次のごとくの事が言えよう。

@ 頼貞の時、美作国勝田・英田両郡を知行し勝間田五郎(勝田五郎)と号した。頼貞は美作国司に任官したのかもしれない。

A両郡を知行した時期はおおよそ保安年から天承年のころと推定される。

B武人系の下級公家で、保元の乱前に遠江国司に遷任していたと見られる。

C左衛門尉に任官して京都で活動した時期があったが、長寛の年以前には退官した。

D源範頼支援等の行動からも、系譜の言うごとく河内源氏に属する人である可能性は否定できない。

E保元の乱の際に源為義でなくその子義朝に従ったのは為義と不和だった為なのかもしれない。

 

三、勝田宿祢兼清と勝間田五郎(勝田五郎)は同一人か

ここまでの検討により、両者が同じ「勝田」を号した事、活動時期が合致する事、及び武人系の下級公家である事、が判る。狭い京都の公家社会のことであるから、両者が無関係であると考えるべきではない。両者は同一人か、または兄弟・同族ではなかろうか。

この問題の解明には次の事柄を説明できることが必要である。

@河内源氏棟梁である源義家の孫で、義家死去後の棟梁源義忠の子五郎が何故に新しい姓「勝田宿祢」を名乗ったのか。その必要が有ったのだろうか。

A片や「兼清」、片や「頼貞」である事。

(注)この解明には長門国勝間田氏の系譜に依存せざるを得ない。系譜は頼貞は源義家の孫であり「源頼忠」の子であるというが、「尊卑文脈」に拠れば、頼忠(筆者の推測に拠れば、この頼忠とは義家の子「義忠」である(論考A参照))の子は経国・義高・忠宗・義清・義雄であり頼貞の名は無い。よって長門国勝間田氏の系譜をそのまま信じることはできないという問題がある。が、今はこれを手がかりとせざるを得ないし、常陸国本木勝田氏を初め多くの勝田・かつまた氏も「源姓」と伝えているので、今はこの系譜・伝承に沿って当時の状況を見ることにする。

五郎(頼貞)は源義家死去(一一〇六)の前後に生まれた。義家の死去三年後の天仁二年(一一〇九)に父義忠が二十六歳で死去した。義忠は叔父の源義光に暗殺されたのであった。棟梁の座を継いだといわれる源為義(五郎の従兄弟で、義忠の養子)は当時十四歳と幼少であった。

この時期、朝廷の策略や平氏の成長によって、河内源氏は苦境に追い込まれて内紛し、一挙に衰退したのであった。

義家は義忠の妻に平正盛の娘(尊卑文脈は平忠盛の女とする)を迎えていたが、河内源氏の中では妥協的態度として快く思われなかったようであり、朝命とはいえ、為義の父義親が前年(一一〇八)の一月に平正盛に討たれていたから、五郎ら義忠遺族と為義の間も微妙なものだったろう。

こんな事情もあってか、義忠死去によりその子ら(義清と義雄か)は平氏の世話になったという。(五郎の孫勝田成長が平三郎、平三を称したのはこれに由来するのかもしれない)

父義忠死去により五郎ら幼少の子が母と共に実家に戻ったり再嫁したとすれば、その子は「源」姓を失ったかもしれない。又、河内源氏の長である為義の許しを受けて源姓を回復するのも困難だったかもしれない。ここに「改姓」の契機が存在する。子らが成長して叙位任官する際に姓は不可欠であるから、新たな姓を設ける必要が生じるのである。

以下は両者を同一人とする仮説を記す。成り立ちうる仮説と思われる。今後の解明に参考になれば幸いである。

仮説

@義忠死後、義忠の五男である幼少の五郎は母(平正盛の娘)と共に平氏の世話になり、後援を得た。

A五郎は元服に際して烏帽子親(藤原氏か平氏か)から「兼」、「清」の字をもらった。 

B最初の地方官(美作国国司)任官に際して「勝田宿祢」の姓を天皇から与えられた。  

C五郎は後に「兼清」を「頼貞」に改めた。一時期に義清または義雄を称した。

 

 

                               

論考A   勝田(かつまた)氏の元祖は源義家の孫勝田左衛門五郎頼貞                        

                           … 長門国勝間田氏の系譜から …

 

 勝田(かつまた)氏は鎌倉初期から遠江国を本拠地にして栄えた一族だが、応仁の乱後の文明八年に遠江国守護今川義忠の急襲で勝田城(静岡県榛原郡榛原町)が落城、総領などが死去して一族は四散した。この際に系譜を失ったものか、研究者の検討・批判に耐えうる系譜、特に発生期・初期勝田氏の系譜はこれまで提示されなかった。

 「萩藩閥閲録」等に収録されている長門国勝間田氏の系譜(以下「系譜」と云う)はこの検討・批判に耐えうるものである。「系譜」を伝え持った勝間田氏は、勝田氏の庶流家(分家)の一つであるが、応永二十七年(一四二〇)から守護大内氏の下で六代にわたり長門国の小守護代を勤め、大内氏滅亡後は毛利氏(萩藩)の家臣として明治に至った。

 勝田氏に関するこれまでの調査研究の諸成果の上に立って「系譜」を検討すると、具体的な諸点で我々を納得させるし、勝田氏の一族が鎌倉幕府及び足利幕府創設に率先参画した事情等も良く理解することが出来る。

 始めに、長門国勝間田氏に関する資料の出典を示す。

 〇萩藩閥閲録   山口県文書館発行(一七二〇年頃萩藩編集の「閥閲録」その他で構成)

 〇譜録      山口県文書館所蔵(閥閲録より後年の編集。「萩藩諸家系譜」に概要)

 〇長門守護職次第 住吉神社文書 続群書類従に収録

 〇系図纂要    名著出版会刊行 一八五七年頃編集の系図集

 〇その他     長門国一ノ宮住吉神社史料、中世鋳物師史料

 

(資料)

一 萩藩閥閲録

@巻一七〇(四九四頁) 内藤小源太家来勝間田八郎左衛門の項の「補註」の抜粋

「清和天皇四代八幡太郎義家之次男足利河内判官頼忠二男、美作國英田・勝田之

 兩郡爲知行、號勝間田左衛門五郎頼貞

 嫡子

  勝間田兵庫頭長保

    備前國岡山城住ス

  勝間田平三長 後ニ玄蕃助 兵庫頭

  勝間田備前守忠保

    男子依無之、内藤肥後守内 養子聟ニ仕候

  勝間田肥後守盛信 初孫六 右馬允(左近将監忠盛)

    源氏を改號藤原と、内藤時信嫡子盛秀早世之後内藤家

    断絶、盛信歸て内藤家を相続 内藤肥後守盛信と号ス

  内藤肥後彦太郎盛世 後ニ遠江守(得増)                  (西暦)

    明徳二 二月八日卒                          一三九一

 盛世次男

  勝間田孫六盛實 内藤ヲ改勝間田左近将監ト號 後備前守

    長州小守護代、應永二八年二月十一日入府                一四二一

  勝間田備前守盛益(兼) 若名孫六 左近将監

    長州小守護代、正長二年八月二十二日入府                一四二九

  勝間田左近将監矩益 若名孫六 後改兵庫頭長保

    長州小守護代 明應三年十二月二十六日入府               一四九四

  (以下略)                             」

A巻九九ノ二(一六九頁) 内藤小源太の項(抜粋)

 「(前略)

  内藤肥後守時信(孫六郎 肥後守 法名生西)

  内藤弥六郎盛兼(肥後弥六郎 法名良覺)

    領周防国小周防

 (内藤肥後守盛秀)(得若丸 法名俊阿)

  内藤孫六盛信(始勝間田忠盛 左近将監 後肥後守 法名知覺)

    一旦繼勝間田家、後内藤家ニ歸ル

    貞和六年二月八日死                          一三五〇

  内藤遠江守盛世(徳益丸 法名智陽)

    明徳弐年二月八日死                          一三九一

  内藤肥後守盛貞

    是ヨリ大内盛見・持世ニ相従、入道シテ智得ト申候、

    智得戦功ノ覚書一冊今以所持候(永享十年四月十五日死、八十一歳)    一四三八

  (以下略)                             」

B巻九九ノ二(一六一頁) 内藤小源太の項(要約)

 天文十八年三月一五日に勝間田左近将監盛治が記した「系図・守護代記」。勝間田氏に関しては左近将監盛實より盛治までを記録。

 

二 系図纂要(四九五頁) 藤原氏(内藤)の項(要約)

 内藤時信の子盛信(彦太郎 孫六 肥後守)は備前住人勝間田備前守の養子となり、勝間田左近将監忠盛を称したが後に内藤家に帰宗。貞和六年三月死去。忠盛の子盛世も「彦太郎」を称す。盛世の子盛実は勝間田備前守・左近将監と云い、盛実の「本知」は「土居内」。

 

三 譜録の勝間田權右衛門の項(要約)

 六孫王経基の末葉頼忠の二男が備前国勝間田に住んで勝間田左衛門五郎と号し、それから五代目の備前守忠保と忠盛は将軍家に仕える。盛実は享徳三年(一四五四)死去。盛実以後江戸中期までの系図等を収録。

 

四 長門守護職次第(要約)

 応永二七年(一四二〇)に勝間田左近将監(後に備前守)盛実は長門国小守護代となる。その子勝間田孫六盛益は正長二年(一四二九)小守護代を相続、永享二年左近將監に任ず。その子(子孫)勝間田左近将監は明応六年(一四九七)小守護代として着府。

 

(考察)

一 萩藩閥閲録に記されている「系譜」に、その他の史料・家伝に記されている、該当者と見られる者を左( )内に添えると次のようになる。

 

  源義家―足利河内判官頼忠―勝間田左衛門五郎頼貞―勝間田兵庫頭長保―(左上に続く)

              (勝間田五郎@)

              (勝田五郎源成信A)

 

   ―勝間田平三長(玄蕃助・兵庫頭)―(以下後記)

   (勝間田平三成長(玄蕃助)B)

   (勝間田兵庫頭C)

 

 〔注〕 @龍泉寺寺伝、伊豆日記 A常陸国勝田氏の系図 B吾妻鏡 C正續院仏牙舎利略記

 

〇まず、「長」と「成長」の違いがある(は欠字)が、「長」の字と「平三」の使用及び「玄蕃助」任官の共通から見て、勝間田平三長と「吾妻鏡」記載の遠江国住人勝間田平三成長とは同一人と見て間違いない。(吾妻鏡は成長の名字を「勝田」とも記す。正しくは「勝田」と記し「かつまた」と云う…備考@を参照)

〇吾妻鏡によれば成長は源頼朝の挙兵に呼応した人物である。頼朝は源義家から数えて五代目にあたるが、「系譜」の成長もまさしく義家から五代目である。

 左に、保元の乱(一一五六)の頃から勝田(かつまた)氏と行動を共にすることが多かった遠江国横地氏のものも併せて、系図として記す。(横地氏系図は静岡県菊川町横地の藤谷神社蔵)

 

  (源氏嫡流) 義家―義親―為義―義朝―頼朝

  (勝 田 氏) 義家―頼忠―頼貞―長保―長(成長) (成長は頼朝に従う)

  (横 地 氏) 義家―家永―頼兼―長宗―長重     (長重は頼朝に従う)

 

〇「系譜」は成長が兵庫頭に任官したと記す。ここから、正續院仏牙舎利略記(善隣国宝記)に建保四年(一二一六)幕府の使節として宋に渡ったと記されている「勝間田兵庫頭」とは成長である事が判明した。建久六年に「失脚」した成長は将軍実朝の代までに「復活」して、兵庫頭に昇進していたわけである。

 成長は失脚前に玄蕃助に任官していたが、「玄蕃助」は外国使節の接待・送迎、仏寺や僧尼の名籍をつかさどる朝廷の役所「玄蕃寮」の次官だから、将軍実朝の命で宋の能仁寺に掛け合って仏舎利を得ようという遣宋使の任務に、まさしく、ふさわしい経歴だったのであろう。

 なお、成長が初めて吾妻鏡に登場する治承五年(一一八一)に二五才(頼朝は三五才)とすれば、渡宋時には六〇才だから、年令的にも齟齬はない。

〇これまでの研究で、成長を始めとして勝田(かつまた)氏嫡流が代々実名に「長」の字を使用する事はほぼ判っていたが、「系譜」によって、これが実は長保から始まったことが判明した。

〇以上、吾妻鏡の記述との合致に加えて我々を得心させる新たな諸事実を暴露した点から見て、「系譜」の成長の部分の信憑性は疑いえない。即ち、次項でさらに検討するが、「系譜」の「…八幡太郎義家之次男足利河内判官頼忠二男、美作国英田・勝田之両郡為知行、號勝間田左衛門五郎頼貞、嫡子勝間田兵庫頭長保…」の部分も又、信憑性が有ると云えよう。

 

二 以下、「系譜」について義家から成長に至るまでを考察する。

 「系譜」は始めに「清和天皇四代八幡太郎義家…」と記すが、これは間違っている。初めて源姓を賜った経基王の子源満仲から数えて四代目と云うことであろうか。次ぎに正しい清和源氏系図(頼信以下を河内源氏と云う)を示す。

 

  清和天皇―貞純親王―経基王(源姓を賜る)―満仲―頼信―頼義―義家

       義家には義親・義忠・義国・義時などの子が居た 

 

【義家】

 「系譜」は義家について何等の説明を付さないが、歴史上の著名人物である。

 河内源氏は頼信の時に河内国を拠点とした中級貴族だが、京都の警護や地方の反乱の鎮圧の役割を担う「武勇の家」として、特殊な発展をした。地方在地武士との関係を強めた。

 河内源氏三代目の義家は「天下第一武勇之士」「武士の長者」と評され畏敬されるに至ったが、これに脅威を感じた貴族社会・朝廷・白河院は義家が講立した荘園を停止する宣旨(天皇の命令)を出すなど義家を頭とする武家勢力の成長を阻止する策に出た。

 義家は嘉承元年(一一〇六)六八歳で死去。この時、義家の嫡男義親は西国で朝廷に反乱して追討を受ける身で、義親の嫡男為義は幼少(十一歳)で、河内源氏は低迷の時期を迎えていた。

 

【頼忠】

 「系譜」が「源義家の次男」とする「足利河内判官頼忠」は系図集「尊卑分脉」や「系図纂要」によっては存在を確認できない。

 しかし、この「頼忠」とは義家の子「義忠」の事と思われる。義忠は義家の死により源氏棟梁の座を継いだが、天仁二年(一一〇九)に暗殺されてしまった(行年二十六才と云う)人である。

 この義忠は河内守、検非遺使・左衛門尉に任官しているし、確かに「河内判官」とも呼ばれている(源平盛衰記、栃木県史・鹽谷系図)。

 義忠の同母兄弟義国(系図纂要)は下野国足利に住んで「足利式部大夫」と称したから義忠(頼忠)も「足利…」と称したとしても不思議は無い。義忠(頼忠)も若年時に足利で育ったのかもしれない。 なお、尊卑分脈は義国を次男としているが、実は義忠(頼忠)が次男である可能性が有る。源平盛衰記も嫡子義親・二男義忠・三男義国としている。

 以上から頼忠と義忠を同一人としても齟齬は生じない。すなわち頼忠を義忠に改めたものか、或いはその逆であろうと見ることが出来るのである。当時において実名を改める事は珍しい事ではなく、義親も頼仲を改めたものという(鹽谷系図)。

 

【頼貞】

〇「系譜」は、義忠(頼忠)の子頼貞の時に美作国の英田・勝田(かつまた)両郡を知行して「勝間田左衛門五郎」を称したと云う。勝田(かつまた)の名の資料上の初見は保元元年(一一五六)だが、頼貞はこの年に四十七才から五十七才である。よって、頼貞が両郡を得て勝田(かつまた=勝間田)を名乗ったのは保元元年前だったと解する事が可能である。

〇「系譜」は遠江国について記さないが、頼貞は遠江国住人の勝田成長の祖父であるから、頼貞が遠江国で活動することに不思議はない。よって、長寛の年(一一六三)に遠江国蒲御厨に居た源範頼支援(伊豆日記)し、蒲御厨内の龍泉寺(浜松市飯田)に遺跡や遺品を残した「勝間田五郎」(補注A・勝田左衛門五郎の遺跡)と頼貞とが同一人であることは確実である。保元の乱の際に源義朝軍に属した遠江国の「勝田(かつまた)」氏とは頼貞かその子長保であろう。

〇「系譜」は頼貞の任官を「左衛門」としている。父の義忠(頼忠)と同じ「左衛門」であろうが、源氏低迷の当時においてはこの程度までがふさわしかったのだろう。ただし、この時代の任官であるから、単なる名目でなく、朝廷の役人として実際に働いたはずである。伊豆日記が長寛の年(一一六三)の記録で、橘太郎左衛門尉と並んで「勝間田五郎」と記しその官職を記さないのは、すでに左衛門尉を退官していた為であろう。頼貞はこの時高齢のはずである。

〇保元の乱の勝田氏、長寛の年勝間田五郎、鎌倉初期からの勝田平三成長が遠江国で活動し、勝田(かつまた)氏一族が滅亡の時まで本拠としたのが遠江国榛原郡勝田(庄)であれば、発生地をこの勝田(かつまた)とするこれまでの説はごく必然ではあった。

 しかし、この説は「系譜」及びこれを補完する@美作国勝田郡を領した勝田五郎源成信に始まるとする常陸国真壁郡大和村の勝田氏の伝承、A美作国勝田庄で発生して勝田小次郎太夫の時の宝治元年(一二四七)に薩摩国の入来(院)に移動して地頭となったと云う入来町の勝田氏の伝承によって、はっきりと否定された。何れも勝間田氏と勝田氏自身の伝承であるからこれを重視すべきであろう。

〇しからば、美作国の勝田を名字にした勝田(かつまた)氏が遠江国の勝田にも関わった経緯が解明されるべきであろうが、この点で重要なのは、「系譜」が頼貞は源義家の子義忠の子で当時の鳥羽院政権力に接しうる中下級貴族・中央武士と云う立場であったことを明らかにした事である。ならば、保元の乱まで続いた鳥羽院政に奉仕する役人・武士として両国に赴任することにまず不思議は無い。

 頼貞の年令から考えて美作国の英田・勝田両郡を知行したのは保元の乱(一一五六)の二五〜三五年ほど前の事である。名字にしたからには勝田郡に多少なりとも私領を得て、保元の乱前に遠江国に転任して活動を始めたと見られる。

 頼貞は遠江国の役人として鳥羽院政のために働く中で榛原郡勝田に関わり、この頃に成勝寺領・皇室領と成った勝田庄の荘官職(地頭など)を望んでこれを得たのではなかろうか。既に勝田(かつまた)を名字にしていた頼貞と勝田一族は第二の名字地を得たのである。これは全くの推測であるが、成り立ちうる推測である。(補注B・成勝寺領勝田庄の成立時期と勝田氏)

 勝田氏が遠江国勝田庄を得たのが頼貞の時か或いはその後のことであれば、勝田庄の中に初期勝田(かつまた)氏の墓所等の遺跡が確認されず、頼貞(勝間田五郎)の活動舞台や遺跡所在が遠江国西部の蒲御厨であるのも不思議ではないと云えよう。

〇なお、「系譜」が勝間田氏の発生地を「勝間田」とせず「勝田」と記しているのは「系譜」に作為の無い証拠である。勝田と記すが「かつまた」と読むという事実を知っていたのである。

 

【長保】

〇頼貞の子長保は、保元・平治の乱から平氏の隆盛・滅亡を経て、頼朝の権力掌握の頃まで活動した人と考えられる。この人の名は他の資料で確認出来ていない。養子の可能性も有る。

 長保が任官したと云う兵庫頭とは朝廷の「兵庫(武器庫)」の兵器等を管理する役所の長官で、平家全盛時期における任官はかなり困難だったと思われる。兵庫頭には源頼政が保元の乱前年に任官し仁安元年(一一六六)藤原範保に交代、章綱・範綱・範保を経て文治二年(一一八六)十二月には藤原範綱が還任した(兵範記、山槐記)。

 従って、長保の任官は頼朝軍が入京した後の事であろうし、恐らく文治二年後の間もない時期と考えられる。(ただし、藤原氏の猶子となって藤原姓で任官した可能性も有る。範保は長保か)

 元暦元年(一一八四)源義経は左衛門少尉・検非違使に、文治二年長保の子成長は玄蕃助に任官したが、両者とも頼朝に無断での任官だったために頼朝の怒りを買った。長保もまた無断任官したのかもしれない。当時、後白河法皇は官位の授与で台頭急速な武士達を操ろうとしていたのだった。

〇長保は備前国の岡山城に住んだという。吾妻鏡には「兵庫頭」「長保」「岡山城」の名は現れないから、幕府の命によるものではなさそうである。

 西国に対しても幕府権力が確立されるのは承久の乱(一二二一)以後だから、この乱以前の時期に朝廷側の意向で備前国・山陽道の国衙領支配等なんらかの任務を負っていたのだろうか。或いは、父頼貞の代に備前国隣り美作国の勝田・英田両郡を知行していたことに関係有るかもしれない。

 

〇以上義家から成長の父長保までを考察するに、まず史実との間に齟齬は無い上に、勝間田五郎が勝田成長の祖父である事と成長が兵庫頭に任官した事が「系譜」によって暴露されて、事実として確認できたのはとりわけ重要である。これらは「系譜」の信憑性を極めて高くしている。

〇「系譜」が云うように勝間田五郎が義家の孫であれば、直接・独自の接触を院・朝廷・公家社会との間に維持していたであろうから、長保の兵庫頭任官や成長の頼朝に無断での玄蕃助任官及び一旦失脚後の兵庫頭任官という「一介の地方在地武士」らしからぬ行動や任官ぶりも得心できる。

〇「系譜」の云うように勝田氏が系譜上も河内源氏の嫡流に近い立場に在ればこそ、勝田氏が保元の乱で源義朝軍に加わり、源氏低迷期に勝間田五郎が源範頼を支援し、成長が源頼朝の挙兵に率先参加し、後に足利尊氏の挙兵に率先参加し将軍奉公衆に成った事情をより具体的に理解できるのである。

〇以上によって、「系譜」の成長までの部分が発生期勝田(かつまた)氏の系譜であるのは疑い無い。

 

三 次ぎに、「系譜」の忠保以後について考察する。

〇「系譜」では、勝間田備前守忠保は勝田(かつまた)成長の子の位置に在る。しかし、忠保の子(養子)の勝間田左近将監忠盛が貞和六年(一三五〇)に死去している事から見て、忠保は鎌倉時代末期、足利幕府創設(一三三六)期までの人と見られる。

 一代は約三十三年間と考えると、成長と忠保との間に二代ほどの人名が欠けているものと見られる。すなわち忠保は成長から数えて四代目ぐらいであろう。

 右の点を考慮して、「系譜」と勝間田盛治作成の「長門国守護代記」等によって系図を示す。

 

 ―成長―〇…〇―忠保―忠盛―盛世―盛実―盛兼―矩益―春運―盛家―盛治 (以後略)

 

〇鎌倉末期における勝田氏一族の本拠地は遠江国榛原郡の勝田庄で、成長の子孫で一族の惣領と見られる勝田長清が住んでいた。長清は越前守と左近将監(左近大夫)に任官した。貞和四年(一三四八)将軍尊氏に選ばれて諏訪神社笠懸の射手(尊氏ら八名)の栄誉を与えられた勝田能登守佐長・勝田治部丞長直は惣領家の人物と見られる。

〇忠保が任官したと云う「備前守」はもちろん名目的なものではあるが、「系図纂要」に忠保は「備前国住人」と記されている事からも、備前国に領地を持っていたことに関係があろう。先祖長保の時に備前国岡山城に住んだと云うし、室町幕府創設前の元弘三年(一三三三)に備中国勝間田氏が挙兵しているから、勝田氏は忠保以前から備前国や備中国にも地頭職などを維持していたと見て良い。

〇忠保の養子忠盛は「彦太郎」を通称にして(系図纂要)いるし、将軍に仕えている(譜録)から、元弘元年(一三三一)足利尊氏に従って楠木城を攻めた勝間田彦太郎入道とは忠盛のことで、後に左近将監に任官したわけである。

〇忠盛の父忠保(勝間田備前守)は勝田長清とほぼ同世代と見られるから、勝田長清の編纂した和歌集「夫木抄」の「正本(勝田備前入道本)」を所持していた「勝田備前入道」とは忠保ではなかろうか。忠保は長清の夫木抄編纂に関わったのかも知れない。

 忠保は遠江国勝田氏の一族(庶子、家子)の者であるが、養子忠盛と共に足利尊氏の身辺に従って室町幕府創設に功績を上げ、勝間田氏が将軍直参の武士(後に奉公衆)の家として続く基礎を築いたのである。

〇忠盛は実家内藤家の後継ぎ死去のため、内藤姓に戻ったと云う。事実、忠盛は貞和六年(一三五〇)死去の際に「盛信」と名乗っていたし、子の盛世は「内藤徳益丸」と称していた(萩藩閥閲録)。

 が、忠盛は勝間田氏の名を棄てたわけでは無さそうである。この貞和六年頃、将軍尊氏と弟足利直義・直冬とが争い、忠盛(盛信)・盛世親子は尊氏党の厚東氏(長門国守護)と争う直冬党の大内氏(周防国守護)配下に居たが、厚東氏の四王寺城を攻めた者に勝間田左近太夫が見える(防長戦略誌)からである。

 厚東氏に勝利した大内氏は長門国守護職をも認められて、貞治二年(一三六三)に幕府に帰順した。盛世も又この時に帰順したであろうし、なんらかの権益を長門国に得たかもしれない。

〇盛世の次男盛実が勝間田を称することになったと云う。盛実のことは「長門守護職次第」、「住吉神社文書」(長門国一ノ宮住吉神社史料)でも確認できる。

 父盛世とは異なり、盛実は左近将監に任官しているから、在京していたのだろう。応永二八年(一四二〇)に小守護代として長門国に「着府」した。

 なお、この時の長門国守護代は盛実の実兄で勝間白石などの地頭職を相続していた内藤肥後守盛貞であった。盛貞は在京のため、子の盛賀が現地赴任している。

 幕府によるこの人事は、「応永の乱(一三九九)」を引き起こして敗北した後も周防国・長門国等で独自の繁栄を誇っていた大内氏監視の役割を「直参」の盛実に期待したのかもしれない。この任に耐え得る内藤・勝間田は当時の長門国において既に有力だったと見るべきだろう。

〇系図纂要に盛実の「本知」は「土居内」と記す。「本知」とは知行地・本領地のことと見られる。「土居」とは本来在地領主の屋敷地(耕作地を含む)を指すが、この場合は長門国守護所の在った長府(現在の下関市内)に地名として現存の「土居の内」だろう。

〇盛実の子盛兼(盛益)は小守護代職を相続したが、すぐに京都に出て将軍の周辺で働いたようである。「文安年中御番帳」等に記載の奉公衆(番衆)勝田左近将監は盛兼とその子矩益と見られる。

 応仁・文明の大乱の際か或いは将軍権力崩壊・奉公衆解体(明応の政変)の際に、恐らく大内氏に招かれて、矩益は京都を離れて以後代々長門国の小守護代となり、大内氏の家臣化していった。

〇盛治(左近将監・備前守)のことは天文十八年の「長門国守護代内藤氏奉行人連署施行状案」(「中世鋳物師史料」所収の真継家文書)でも確認できる。

 盛治の時の弘治三年(一五五七)、大内氏は毛利氏の手で滅亡。この時盛治及びその子等は戦死か他国へ移動と見られる(豊臣秀吉家臣勝間田左近太郎は盛治の子か)。同族の勝間田氏は内藤氏の下で代々毛利氏の家臣として明治に至った。「系譜」を伝えたのはこの勝間田氏である。

 

〇以上、忠保以後の「系譜」は多くの点で史実に合致し、疑うべき点は特に存在しない。

 勝間田氏が足利将軍の直臣(奉公衆)の地位・家格を保持しえたのは、忠保・忠盛の活躍もあろうが、勝田氏が将軍家と同じく河内源氏に連なる一族だった事もあると見るべきだろう。

 成長と忠保の間の二代ほどの人名が欠落しているのは、恐らく盛実の頃に、他家勝田氏(総領家か)から情報を得て系譜を作成したためではなかろうか。

 長門国系勝田氏が「勝間田」と記すようになったのは盛実の時からかもしれない。が、勝田(かつまた)氏の一族であるから、幕府文書など公式文書では、やはり「勝田」と記されて「かつまた」と呼ばれていたのである。

 

 

 

論考B 勝間田五郎の遺跡

               …… 浜松稲荷山龍泉寺の勝田塚は「勝間田五郎」の墓 ……

 

 勝間田五郎(長門国勝間田氏の系譜には勝間田左衛門五郎頼貞と記されている。「勝間田」は正しくは「勝田」だが、ここでは勝間田と記す)は源義家の孫で、後に遠江国榛原郡の勝田庄(かつまたのしょう。牧之原市の旧榛原町域)を本拠にして栄えた勝田(かつまた)氏一族の元祖の人であるから、特別に重要な人物として子孫から祀られたはずである。しかし文明八年(一四七六)に駿河国守護大名今川氏に急襲されて勝田氏一族の中核部分が壊滅し、生き残った者の大方は他国に移動したためであろう、子孫に勝間田五郎の墓などの所在は伝わらなかった。ここに、元祖勝間田五郎の墓を推定する。

 長門国勝間田氏の伝えた系譜等で推計すると、勝間田五郎は治承四年(一一八〇)の源頼朝挙兵の時に存命ならば八十〜八十五才ほどである。

 

一、榛原町域に墓は有るか

 文明八年の敗北まで勝田氏一族の本拠地であった榛原町域には、勝田城等の城址、石雲院等勝田氏開基の寺院や勝田氏一族のものと云われる墓石群など多数の遺跡が現存する。

 道場の清浄寺(勝田氏開基の寺)裏山に勝田氏のものと云われる墓石群(三群合計約三十基)が現存する。何れも鎌倉時代後期以後の形式と云う(勝田氏物語)。山本石峰氏は著書「石雲院開基考(注@)」で、この中の「建武貳年」と記す一基を勝間田五郎のものと云うが、根拠は不明である。建武貳年であるから、例え勝間田五郎のものとしても、子孫が室町期に建てた慰霊碑である。

 そもそも勝間田五郎の墓(埋葬地)は榛原町域に有るはずなのだろうか。勝田氏が榛原町域・勝田(かつまた)郷に発生し成長した一族であれば(遠方の出先で死去したなど特別な事情の場合を除き)そう考えるのが自然だろう。

 しかし、長門国勝間田氏の系譜等によれば、元祖勝間田五郎が名字として名乗った「勝田」とは美作国の勝田(かつまた)郡であった。その勝間田五郎(及び一族の者)が保元の乱(一一五六)前に遠江国に入ったものと見られるのである(補注@参照)。確かに遠江国に入ったのではあるが、そこが榛原郡の勝田郷とは限らない。即ち、勝間田五郎の墓(埋葬地)が榛原町域に有るはずとはならない。

 

二、勝間田五郎の活動地「蒲の御厨(かばのみくりや)」

 「伊豆日記(注B)」に勝間田五郎が長寛の年(一一六三〜六五)に京都の公家と連携して「蒲の御厨福祭領」に居た幼少範頼とその母を支援したと記されている。勝間田五郎はまさしくこの時代の人物なのであり、河内源氏の出身で範頼に近い立場(範頼は従兄弟源為義の孫)なのだからごく自然な行動をしているのであって、日記の記述内容は疑い得ない。

 平治の乱(一一五九)、平氏に敗れて父源義朝を失った嫡男頼朝は伊豆に流され、弟範頼は「蒲の御厨(浜松市の西部)」の内でひそかに養育されていた(範頼は蒲の御厨で育ったために「蒲冠者」とも呼ばれた)。河内源氏は解体同然であったから、長寛の頃六〇才ほどの熟年に達していた河内源氏の生き残り勝間田五郎の役割はかなり重要だったに違いない。

 勝間田五郎の孫勝田成長は源頼朝挙兵の治承四年(一一八〇)の翌年二月に頼朝軍に加わっている(吾妻鏡)が、勝田(かつまた)氏一族の行動はまさに河内源氏の一員としてのものといえよう。

 高齢の勝間田五郎は範頼支援のうちに死去したと見られる。従って、蒲の御厨は勝間田五郎が埋葬されている可能性の高い場所なのである。

 

三、龍泉寺境内の遺跡

 浜松市飯田町の禅宗の寺稲荷山龍泉寺の境内に、源範頼の遺跡と共に、勝間田五郎の遺跡が現存する。この地はかつての蒲の御厨の内の飯田郷である。

【源範頼の遺跡】

 龍泉寺域は範頼の別荘地だったと伝えられている。寺の境内に範頼の勧請と伝える稲荷神社(茶枳尼天)、墓域に範頼のものと云う高さ二メートルほどで「源公大居士」と記す五輪塔がある。「遠江国風土記伝」の龍泉寺の項に「範頼塚」と記されているのがこれであろう。寺の敷地の五十メートルほど南には殺された範頼の首をくわえて帰ってきたという範頼愛馬の塚「駒塚」もある。

 龍泉寺は享徳三年(一四五四)の創建だから、建久四年(一一九三)に兄頼朝に殺された範頼と直接の関係はないが、範頼の遺跡地に開創されたということで範頼を寺の開基としている。

【勝間田五郎の遺品と墓】

 「遠江国風土記伝」の龍泉寺の項に「【勝田塚】重道曰ふ、勝田塚は龍泉寺にあり、郷人曰く、勝田某此所に於て討死す、當寺の摩利支天は是人の守本尊なり、住僧の勤むる無し、事ふれば即ち必ず夭死す、昔日陰雨天黒き時、夜中征馬の鞍轡の音を聞くと」(注C)と記されている。「摩利支天」像は龍泉寺境内に今も祀られている。

 この像が勝間田五郎の遺品である。龍泉寺の伝承によれば、この像は源範頼の近臣勝間田五郎の甲冑(鎧兜)の守り本尊で、勝間田五郎が兜の内に納めて身に付けていたという。高さ三センチメートル余の木製の三面六臂像は、いのししの背に乗って弓をきりりと引き絞った繊細で美しいお姿である。像は二重の厨子に納められて、龍泉寺歴代の御住職によって今日に至るまで大切に守られてきたのだった。

 遠江国風土記伝と寺伝を併せ考えれば明白である。摩利支天の持ち主勝田某とは勝間田五郎のことであって、「勝田塚」は勝間田五郎の塚(墓)と云うことになる。もちろん、「勝田」は「かつまた」と読むのが正しい読み方である。

 勝間田五郎の遺品摩利支天像は境内北西部の高さ二メートル直径六メートルほどの、一見して塚と見える土盛り頂上の小さなお堂(注D)に祀られている。この土盛りがまさしく遠江風土記伝に記す「勝田塚」と見られる。

以上から、龍泉寺境内のこの勝田塚が勝田氏の元祖勝間田五郎(勝田五郎)の墓(埋葬地)であると判断して良いと思われる(注E)。勝間田五郎は範頼支援のうちに蒲の御厨で討死したのであった。

中世武士は摩利支天に護身・隠身・勝利を祈ったが、この摩利支天が墓上に祀られたのも戦乱などで勝間田五郎の墓が荒らされる事の無いようにとの子孫の願いが込められたのだろう。

 

四、墓が存続しえた理由@ …「飯田館」を考える

勝間田五郎の墓は龍泉寺境内にあるが、龍泉寺の開創は勝間田五郎死去より約二七〇年後の享徳三年の事である。墓は龍泉寺開創前から同地に存在していたと見られる。

勝田氏にとっては、単に一族の元祖と云うにとどまらず、時の権力・将軍家との結び付きを象徴する存在である勝間田五郎の祭祀は一族(特に惣領)にとって重大事であったから、この二七〇年間、墓や摩利支天像は勝田氏自身によって守られていたと見られる。

勝田氏は勝間田五郎死去の後(鎌倉初期勝田成長の頃か)に蒲の御厨東方約五十キロメートルの榛原郡の勝田郷(庄)を本拠地と定めた。祭祀するには不便な遠方と思われるが、勝間田五郎の墓と遺品・摩利支天像は本拠地に移転されることも無く、享徳三年までの二七〇年の永きにわたって蒲の御厨飯田郷において護られた。それは何故なのだろうか。

それは、勝田氏が墓を含む周辺の土地を所有・維持し、そこに勝田氏の者が居住を続けたからと考えるべきだろう。これが仮称「飯田館」の存在を推定する理由である。

勝間田五郎が埋葬された当時の埋葬地が勝田氏の私有地だったかどうかは不明だが、勝間田五郎や勝田成長の功績は頼朝が天下を取るに至って必ずや恩賞されただろうから、墓地及び周辺地が勝田氏に与えられたか或いは安堵されたと考えられる。それが「飯田館」である。なお、この地は源範頼の別荘地だったとの伝承があるので、範頼自身か或いは範頼死去後に将軍から勝田氏に預け置かれたのかも知れない。

この「飯田館」を知る史料は存在しないが、現在の龍泉寺や隣の飯田小学校を含む龍泉寺旧敷地域がおおよその範囲と思われる。

龍泉寺に関する記録は残っている。浜名郡誌は龍泉寺の旧敷地について、「外囲四面の堀あり、其の巾一丈余、境内坪数一万六千百八十坪」と云う(注F)。堀や土塁の築かれた時期は不明だが隣接地に「的場(まとば・弓の練習場所)」の地名も残っているから、ここは寺の敷地になる前は地頭級の武士の館(居住地。屋敷と田畑を含む一段の土地。堀の内・土居とも呼ばれる)だったことが判る(注G)。今はこれを「飯田館」と推定しておく。

勝田氏が「飯田館」や隣接の直営地(的場や駒塚など)以外にどれほどの周辺土地を支配していたか等も未解明だが、「東大寺文書」によって享徳二年(一四五三)頃に中田郷(現在の浜松市中田町)を勝田氏が支配していたことが判っている(注H)。勝田郷(庄)を本拠にした後も、この地域との関係が続いていたのは確かである。

 

五、墓が存続しえた理由A 龍泉寺の開創

享徳三年(一四五四)、「飯田館」の地に龍泉寺が開創された。勝田氏の文明八年の敗北の二十二年前の事で、一族は健在だったから、勝田氏は寺の開創に関わったに違いない。「飯田館」が勝田氏の所有ならば、寺地を寄進したのは勝田氏である。勝田氏は熱心な仏教徒で、本拠地勝田郷(庄)の清浄寺・長興寺・石雲院などの開基であるから、龍泉寺の開創に協力するのは何も不思議はない。

それにしてもこの時期に、勝間田五郎の墓を含むこの地を手放す必要はあったのだろうか。

実はこの頃、勝田氏は将軍権力の著しい衰退に起因する困難な問題に直面していた。勝田氏は将軍権力を構成し又それに依存する奉公衆(将軍直臣)であったから、将軍権力の衰退に直接に影響された。

まず幕府管領細川勝元の増長である。享徳二年、原因は不明だが、勝田氏の兄弟争いが発生した。奉公衆に関する事は将軍専権事項だが、勝元が将軍義政の意向を聞かずに裁断した。おまけに弟に加担したと言う。兄弟争いの結果も不明だが、勝元の介入行為は奉公衆・勝田氏一族を弱体化するものである。

次に吉良氏勢の中田郷侵入があった。享徳二年頃、勝田氏支配の中田郷は隣接地浜松庄引間を支配する三河吉良氏の勢力に侵入されたのだった。東大寺文書に「隣郷勝田殿知行分中田郷と申在所に悪党現候て」と記されている。「悪党(吉良勢)」が中田郷に侵入した理由は不明だが(水利をめぐる争いか)、将軍奉公衆の領地は守護も立ち入れない土地(守護不入地)だったから、勝田氏にとっては衝撃的な事件だったろう。

この事件は中田郷に隣接した蒲の御厨における事態と関連していた。

当時の蒲の御厨は、吉良氏(代官大河内氏)に従う勢力「西方(渡瀬・蒲氏ら)」と、遠江守護斯波氏(守護代甲斐氏)に従う勢力「東方(飯田郷の多母木氏ら)」に別れて対立していた。後の寛正五年(一四六四)には大河内軍が飯田郷を襲撃して放火する事態に発展している。

勝田氏は守護斯波氏の側だったようで、吉良氏との関係は悪化していたものと見られる。(当主吉良義尚は妾としていた勝田氏の女を離縁したという)

他方、勝田氏一族の本拠地勝田郷(庄)は東遠州のはずれに位置して今川氏の駿河と接しており、これへの備えも緊要であったから、本拠地から遠い西遠州の地での紛争は手に余るものとなるかもしれない。特に「足利一門」の中でも将軍に近い吉良氏との対立・衝突は避けたかったに違いない。

こんな時期に龍泉寺が開創されたのだった。

龍泉寺の開山能満禅師天礀義倫和尚は吉良義尚の寺普済寺(浜松市広沢)出身の人であるので、開創は吉良氏の意向が働いているとの見方もできるが、享徳三年時に吉良氏の支配は飯田に及んでいなかったと見られるし、勝間田五郎の墓と遺品摩利支天像が龍泉寺に引き継がれて大切に祭祀されたのであるから、勝田氏と寺との平和的合意が有ったはずである。

かくして勝間田五郎の墓と摩利支天像は龍泉寺によって護られることとなった。

開創の二十二年年後の文明八年勝田氏一族は駿河の今川義忠の急襲によって敗北、総領家は滅亡し一族は四散、間も無く遠江国は戦国大名今川の支配となった。勝田氏は文明八年の戦いで義忠を討ち取っていたから勝田氏残党に対する今川氏の追及は厳しかったはずで、勝間田五郎の墓は龍泉寺の管轄下に在ったとはいえ存亡の危機にあったと思われる。

前記した遠江国風土記伝が「(勝田塚や摩利支天に対して)住僧の勤むる無し、事ふれば即ち必ず夭死す、昔日陰雨天黒き時、夜中征馬の鞍轡の音を聞くと」記すのは、今川軍の追及の脅威にさらされた住僧が勝間田五郎に対するお勤めを公然と行うのを控えたことを示している(注C)。現に、今日に至るまで摩利支天像は秘仏として扱われ、拝観は龍泉寺御住職に限られ、公開されることが無かったという。なお、勝田塚は「築山」とも呼ばれていたそうだが、墓地であることを秘匿するのに始まったものと思われる。

 

五、墓と遺品の保存について

 今の場所が築造当所からの勝田塚の場所なのか、「飯田館」の所有者・龍泉寺開基が勝田氏だったのか等はなお今後の研究課題としても、私としては「勝田塚」は勝間田五郎の墓(埋葬地)であると確信している。

 現存する恐らく唯一のものであろう勝間田五郎の遺跡・遺品が、遠江国勝田氏一族滅亡と今川支配下の困難の中で約五五〇年の長き年月をくぐり抜けて奇跡的に存続しえたのは、龍泉寺歴代御住職並びに関係の方々のお陰であり、まさしく守り本尊摩利支天のお陰と思われる。

 勝間田五郎(勝田五郎)の子孫である全国の勝田・かつまた氏としては、深くこれに感謝して、かけがえの無いこの遺跡・遺品の保存に尽くすべきであろうと思う。

以上

 

注@石雲院開基考は太平洋戦争前の著作。桐田榮著「勝田氏物語その二」に概要収録。著者が勝間田五郎の墓石と具体的に指摘したのには何か根拠・情報が有ったはずだが、不明。

注A遠江国風土記伝は江戸時代の寛政元年内山真龍著。本書では昭和四十四年歴史図書社発行の訳本を使用。

注B「伊豆日記」は所在を確認できていないが「鎌倉実記」に引用されている(論考@参照)。

遠江国風土記伝も鎌倉実記の伊豆日記を引用している。参考のためその部分の全文を左記する。

 「範頼はこの頃をはりの國より遠江にゆかむとて、なるみのうへのに在よし、右は督殿平治の乱にたへまの五郎さたとしへたのみおかれしか、貞稔三河の目となりて下る、のまのうつみにうたれ給ひし督殿のために、不忠不義のをさたをたすけて、壱岐守になりたることをもいとはす、平判官康頼か所地するころまてうつみに有ける、みはかへも参らず熱田よりも心寄ざりしは時の権威をおそれたるか、なさけをわきまへさるか、範頼も六はらの聞へをはばかるによって、とほつあふみかばのみくりや福祭領、貞稔が親前勘解由丞季成にあつけ置きしを、長寛の年一條中納言の室より、橘太郎左衛門勝間田五郎迎に参りて母子共に京へのほりしが、仁安二年、範頼十四さいにて、又ははと共に蒲のみくりやへ下るよし、大学助か罷登てよし告しらす」 

注C引用の遠江国風土記伝は訳本なので、原文を記す。

 「勝田塚 在竜泉寺 郷人曰、勝田某於此処討死、当寺摩利支天是人守本尊也、住僧無勤事則夭死、昔日陰雨天黒時、夜中聞征馬鞍轡響音」。村田春渓著「勝間田氏と其の史跡」による訳文は「勝田塚に就て俚人の伝うる所によると、往昔勝田某が此所で討死したのを葬った所で、又寺に安置してある摩利支天の像は其の守本尊であった。古来此の塚に対して住僧はお勤めを行わない事になって居る。それは若し行うと必ず夭死すると云う事である。昔、天苦闇く陰雨降りこめた夜中に、折々征馬の鞍の音や轡の響きが聞こえたという」。

注D「郡誌編纂資料」の「曹洞宗龍泉寺調書」に「摩利支天堂 四尺四面 創立年代不詳中世享徳三年建立安政四年再建ス」と。寺の創建享徳三年より前に摩利支天堂は創立されていたのである。

  郡誌編纂資料は大正初年頃飯田尋常小学校から提出されたもの。静岡県中央図書館蔵。                    

注E河内国(現羽曳野市通法寺)に在る源頼信・頼義・義家三代の墓のうち頼信と義家の墓の規模は、勝間田五郎のものよりかなり大きいが、共に円墳。恐らく原型は円墳と見られる勝田塚は規模から言っても平安時代末期の武士勝間田五郎の墓と云うにふさわしい。

注F大正十五年静岡県浜名郡役所発行「静岡県浜名郡誌」。

注G堀の一部は今も残っている。地図や土地の公図を照らし合わせると、堀の位置などが正確にわかる。

注H東大寺文書の「享徳二年十二月二十日付け『蒲御厨東方諸公文等目安』」(静岡県史史料編収録)

「右之子細者、綿瀬太郎左衛門生涯之事、既ニ悪党露顕之上者、帯御奉書御代菅様相供ニ任国大法致其沙汰候も、御領存無為致忠節申候之処ニ、結句緩怠之由、従年預様度々蒙仰候、迷惑之次第候。

一、隣郷勝田殿知行分中田郷と申在所ニ悪党現候て、自国方、以大勢被成敗候、是者代々守護不入在所にて候へ共、如此子細にて候間、太郎左衛門も不致其沙汰者定可為同篇候を存末台道安注進申候上ハ更々非緩怠之儀候歟」

 

(追記)

@平成十二年十月五日、稲荷山龍泉寺開山能満禅師の法要の際、住職白井全龍氏の御英断で、勝間田五郎の遺品である摩利支天像が檀家の方々に公開され、筆者もこれを拝観した。勝田氏の滅亡から五百年余りを経た今日まで恐らく公然とは慰霊されることが無かったであろう勝間田五郎にも、今光が当てられようとしている。

@    龍泉寺の現敷地や飯田小学校を含む五〜六町歩の区域が中世の城館跡であることはほぼ明らかだが、これまでのところ総合的な学術調査はなされていないようである。小学校建設等で旧状が失われつつあるが、今のうちなら調査で城館や堀の構築時期なども判るはずである。貴重な中世遺跡であるので、公的機関による調査が期待される。

 

 

 

 

論考C 成勝寺領勝田庄の成立時期と勝田氏

                       …… 勝田氏は遠江国勝田庄の成立に関与か ……

 

 遠江国榛原郡の荘園勝田庄は文明八年まで勝田(かつまた)氏一族の本拠地だった。が、勝田氏はこの勝田庄ではなく美作国の勝田(郡)を名字にして発生したようである(補注A)。ならば、勝田氏は勝田庄の成立に関係しなかったのか。勝田庄の成立経緯などからこの問題を考える。

 

(資料)

@日記「東進記」(国立公文書館内閣文庫蔵本)の建仁元(一二〇一)年五月二九日の条より

「二十九戊寅東鳥羽殿次弁内侍奏条々東宮御相折事成勝寺領勝田庄事東宮馬長辞退輩事野依保事東宮能登御封事東宮所衣所金輩事」

 〇東鳥羽殿は後鳥羽上皇の居住した御所。東宮は後の順徳天皇で、承久の乱を起した中心人物の一人。「東進記」筆者藤原(三条)長兼は東宮担当の「権大進」であるため、職掌により東宮に関わる諸事を内侍を通じて後鳥羽上皇に上奏したものと見られる

〇同じく長兼の日記「三長記」(史料大成二五巻)の建仁元年の部分に、崇徳の命日八月二十六日を結願日として「粟田宮成勝寺」「粟田宮并成勝寺」が崇徳の怨霊を慰める法華講を連日実施、長兼がこれに馳せ参じたと記す。これも長兼の職掌からのものだろう。長兼は九条兼実の家司を勤めた。

 

A「華頂要略」の巻八十三・附属諸寺社一より

 「  粟田宮

    崇徳院御影堂

  在愛宕郡粟田郷、

  本尊阿弥陀、脇士毘沙門・地蔵・不動・馬頭、

  長寛二年、甲申、八月二六日、廢帝崩於讃岐國、

  治承四年、庚子、建立、本願阿波内侍(號烏丸、法名佛種、知足院入道公種女)・大納言局(法名観如、佛種ノ姪也、両人崇徳帝御在位奉公之人也)、始東山雙林寺邊構草庵(半丈六阿弥陀造立、奉懸御影図書)、其後為後白河院御願寺、治承四年四月十五日、右大将頼朝為造營御堂建立、安置件阿弥陀佛並御影等、念佛三昧、先院御菩提訪申、仍五箇庄被申寄、但馬国片野庄(號熊田)・讃岐国北山本新庄並福江・越後国大槻庄・遠江国勝田庄・能登国大屋十箇村云々、文治元年乙巳八月二十六日御国忌始被備御供、承久元年己卯五月一日始常燈、承元元年丁卯正月十七日夜焼失、同十八日未火消始作事造立(于時検校慈円僧正)、其後数十年ヲ経テ坊舎荒廃零落云々、応永八辛巳年頃定行事良観当寺移住坊舎起立(于時検校尊道親王)、元弘三年癸酉十二月二十三日以大法師良信補崇徳院御影堂禅衆職(于時検校青蓮院別当法印権大僧都)

  当御影堂検校職

    開祖 仏種尼

     当代構別庵号光明院 御影堂置六禅衆

      ―――年八月九日遷化

    第二 観如尼

      ―――年五月九日遷化

    第三 慈円大僧都

   此後代々青蓮院門首為当院検校、以遠江国勝田庄為検校職分御知行被付青蓮院門跡云々、

  門葉記曰

    御影堂領

   一、但馬国片野庄(號熊田)請口百二拾一貫文

   一、讃岐国北山本新庄福江村年貢五十五貫文内半分倹校尊道親王御知行半分別当法輪院御恩拝領鹽濱鹽五石(自當永享十年定之京着)鯛四十喉(同上)此庄根本號山本庄嘉暦年中退地頭文治年中號山本庄後年分二號本庄新庄(本庄者八幡知行新庄者御影堂領)

   一、越後国大槻庄(此庄本成勝寺領也、而彼寺炎上以後当寺被申寄)本九十貫文近年減少六十貫文其後又減貮十貫文従畠山右馬頭運上

   一、能登国大屋庄十个村、三井保(十貫文)・穴水村(十貫文)・山田村(十貫文)・光浦(十貫文)・深見保(十二貫文)・内浦(六貫文)・鳳至院(拾八貫文法輪院納、貳貫文寺用)・西保號河原田(四十貫文法輪院納、七貫文寺用)・東保(不知行)・南志見村(不知行、相國寺大徳院知行云々)

   一、遠江国勝田庄(元成勝寺領也)弐百貫文(検校宮御知行之)                」 

〇巻八十三は未刊行につき右記は東大史料編纂所蔵の華頂要略より。華頂要略は門葉記を基礎史料に享和三年(一八〇三)頃に成立の京都粟田口青蓮院に関する記録。

 〇慈円は九条兼実の弟で愚管抄著者。源頼朝と親交〇法輪院は粟田宮の別当寺。

 

B洞院摂政記の天福元年(一二三三)七月二十五日の条

「崇徳院御領遠江国勝田庄事。可成宣旨之由、仰兼高了」

 〇「洞院摂政記」は九条兼実の曾孫教実(左大臣・関白・氏の長者)の日記。天福元年部分はお茶の水図書館成簣堂文庫蔵大乗院文書に含まれている。

 

C華頂要略の巻第五十五上より建長八年(一二五六)文書

「 崇徳院御影堂目録

   〇良禪僧正自筆目録在之。彼状云

 一、粟田宮社領

   遠江国勝田庄上下村(本家職)、 筑前国原田庄、 石見国長野庄、

   越前国榎富庄、         攝津国濱田庄

 一、御影堂領

   遠江国勝田庄上下村(領家職)、 但馬国片野庄、 越後国大槻庄

   讃岐国山本庄、         能登国大屋庄(寄進所)

    建長八年九月二十九日                   判 」

 

D村田春渓著「勝間田氏と其の遺蹟」に、勝田庄につき「康元元年八月二十九日粟田宮ニ寄進サル。建武三年十二月十八日ノ院宣、勝田庄安堵」との史料を記す。

 〇この史料の出典は未確認〇康元元年と建長八年とは同年(一二五六)だから、前項の「崇徳院御影堂目録」は寄進の一カ月後に作成された事になる。

 

(考察)

一、遠江国勝田庄は成勝寺領・皇室領だった

 「華頂要略」引用されている「門葉記」の記述「遠江国勝田庄(元成勝寺領也)」によって、「東進記に記載の「成勝寺領勝田庄」とは遠江国の荘園勝田庄(注1@)であることが判る。

 華頂要略と門葉記は共に青蓮院の記録で、青蓮院は遠江国勝田庄を領有していた粟田宮と崇徳院御影堂を支配する当事者であるから、この記録に間違はない。

 これによって、遠江国勝田庄の資料上の「初見」は、日記「東進記」の記録日である建仁元年(一二〇一)五月二十九日ということになり、勝田庄成立がこの年以前であることは確実となった。

 これまで粟田宮領と崇徳院御影堂領として成立したと推定されていた勝田庄が、粟田宮及び崇徳院御影堂の所有となる前に成勝寺所有の荘園だった事がこれで判明したのだが、加えて東進記において勝田庄が東宮に関する事項として「野衣保事」「能登御封事」等と並んで扱われていることから推定すると、勝田庄は建仁元年当時に東宮(皇太弟)に充てがわれていたとみられるのである。

 すなわち建仁元年のころ、勝田庄は成勝寺領であると同時に皇室領でもあったと推定される。この所有形態「成勝寺領・皇室領」が、勝田庄の注目すべき特徴である。

 

二、勝田庄の成立は崇徳健在のときか

 平安末期の院政期に京都に創建された皇室の私的な寺「六勝寺(法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺)」は、院政期(白河―鳥羽―後白河)を象徴する寺であった。この内の成勝寺は鳥羽院政下の崇徳天皇の発意によって保延五年(一一三九)に創建された。(注2@)

 院政権力は六勝寺建造の費用を、国司(地方官)等への「重任」などを見返りとして、受領層(中下級貴族、武士)に負担させた(すなわち「売官」である)が、六勝寺領荘園の多くも院政権力と結んだこれらの受領たちの協力(寄進)で成立したものだろう。(注2A)

 六勝寺領荘園の多くの場合、領家職を寺が所有し本家職は皇室が所有したが、このような特徴は開発領主の自主的な寄進を受け入れることで荘園が成立したと云うよりは、院政権力を行使して現地赴任した受領たちを使って公領(国衙領など)を荘園化した結果と思われる。すなわち寺への寄進は名目であって、実態は皇室領化であった。(注2B)

 勝田庄の所有形態「成勝寺領・皇室領」は、まさしく院政期成立の六勝寺荘園群の特徴と合致している。なお、確認できる成勝寺領荘園十七庄の内、勝田庄等八庄は寄進時期不明だが、九庄が鳥羽院政下の崇徳健在時期(保元の乱の前)の寄進である。(注2C)

 次ぎに成勝寺領荘園と崇徳の関係であるが、崇徳は成勝寺領近江伊庭荘を保元の乱(一一五六)直前に源為義に与えたという(保元物語)から、成勝寺領荘園は崇徳個人の権益とみなされていたようである。鳥羽院政下の崇徳の立場からしてその全てかどうかは別として本家職は崇徳が所有していたのであろうし、領家職をも管領(支配)していたのではなかろうか

 中でも、勝田庄が成勝寺所有から離れた後も祟徳を祀る粟田宮及び祟徳院御影堂領にされた数少ない荘園である事を見ると、天皇在位中の崇徳自身の勅免による成立であったとか生前の崇徳に充てがわれていた中核的荘園であったとか、崇徳と勝田庄との間に何か特別な関係があったように思われる。 今のところ、勝田庄の成立・寄進の時期についての推定材料は、勝田庄が院政期に成立の六勝寺の荘園所有形態に合致する事と、崇徳死後に続いた特別な関係、のみである。

 従って確定的とは云えないものの、勝田庄が崇徳天皇在位中か或いは崇徳が保元の乱で没落する以前に成勝寺領として初めて成立した可能性はかなり高いと云える。早ければ成勝寺創建の保延五年に遡るできごとである。

 であれば、崇徳に充てがわれていた勝田庄の本家職は、保元の乱の際に没収されて(領家職は成勝寺所有のまま)、東進記の記すごとく東宮などの皇室関係者に充てがわれていたのである。(注2E) なお、崇徳は保元の乱(一一五六)で後白河天皇方に敗れて讃岐国に配流され、長寛二年に死去し、安元三年(一一七七)の名誉回復がなされるまでは罪人であったから、この間、崇徳と関係の深い成勝寺に対しての荘園寄進はまず無かったと思われる。

 

三、崇徳名誉回復後成立の可能性について

 崇徳を不幸な死に追い遣った後白河上皇や公家たちは、保元の乱以後の争乱と武家の台頭、相次いだ皇族の死去や京都の大火災さえも崇徳の怨霊の仕業と恐れた。

 安元三年七月に崇徳の院号「讃岐院」を「崇徳院」と改めてその名誉回復をはかり、八月には菩提成勝寺において法華八講を始めて崇徳の菩提を弔う処置をとったのだが、その後の平清盛による院政の実力停止、源頼政・源頼朝の挙兵、源義仲軍の入京、寿永三年(一一八四)一月頼朝軍の入京と争乱はさらに激化、平家滅亡により頼朝を頭とする武家支配も又決定的になって来た。一連の事態になす術も無い京都の人々は崇徳怨霊の恐怖に取り付かれて、崇徳を「神」にまで祀りあげてこれを鎮めようとしたのであった。

 以下、この時期における成勝寺・粟田宮・御影堂をめぐる主な動きを拾う。

 @寿永二年(一一八三)八月十五日に成勝寺内に崇徳の「神祠」を建立すべきとの院宣が有り(玉葉)、寿永三年四月十五日に神祠・崇徳院廟を保元合戦の御所跡・春日河原に造立・遷宮(粟田廟とも云い、建久三年粟田宮と名称変更)、同年八月二十六日(崇徳の命日)に後白河院は院宣により自領の越前国榎富荘・丹波国栗村庄(注3@)・美作国江見荘・紀伊国高家庄を寄進(後白河上皇院宣写)

 A元暦二年(一一八五)四月二十九日、頼朝は崇徳院法華堂(注3A)に備中国妹尾郷を、後の文治四年備前国福岡庄を寄進(吾妻鑑)。

 B文治二年(一一八六)六月二十九日、頼朝は「成勝寺修造」を後白河院に要請(吾妻鑑)。

 C文治五年、崇徳院御影堂領の能登国大屋庄が成立(華頂要略)。

 頼朝の場合は父義朝が崇徳破滅に加担している(祖父為義は崇徳に味方して死去)こともあってか、崇徳の怨霊を慰め鎮める事にかなり熱心のようで、近臣の一品坊昌寛(注3B)を成勝寺執行(執事)に据えている事などから考えると、頼朝の意向もあって勝田庄が成立し成勝寺に寄進された可能性が無いわけではない。

 しかしこの時期の成立・寄進であれば、公家・武家何れの側によるものせよ、崇徳の怨霊を慰める行為として注目されて記録に残りそうなものだが、それが無い。

 ただし、勝田庄(の領家職)がこの時期前から既に成勝寺所有であったのならば、この事は何等の不思議は無い事なのである。

(参考文献 「崇徳院怨霊の研究」、雑誌幸若舞曲研究八の「崇徳怨霊と源頼朝」)

 

四、成勝寺領勝田庄の御影堂領と粟田宮領への移転

 建仁元年(一二〇一)から建長八年(一二五六)の間に勝田庄の本家職の所有は皇室から粟田宮へ、領家職は成勝寺から崇徳院御影堂に移った。これは間違いない。鎌倉幕府成立後のできごとである。

 この移動は承久三年(一二二一)の承久の乱(後鳥羽上皇・順徳らの反幕府挙兵。失敗)の結果であろう。幕府は挙兵に加担した公家らの領地を没収したが、その一環として六勝寺領も一旦幕府に没収されたから、この際に成勝寺から御影堂に移動したのではなかろうか。ただし、承久元年(一二〇七)に成勝寺は焼失していたから、このことも関係しているかもしれない。(注4@)

 洞院摂政記の云う「崇徳院御領勝田庄」とは勝田庄の本家職か領家職か、或いはその両方かは不明だが、天福元年(一二三三)頃には勝田庄帰属先に未確定部分(恐らく本家職)が有ったのだろう。

 本家職が粟田宮に寄進された時期であるが、康元元年(一二五六)八月粟田宮に災があったので幣をささげて謝す(京華要志・山城名勝志・神祇志料)と云うし、「勝間田氏と其の史蹟」に記す出典不明史料に勝田庄が「康元元年八月二十九日粟田宮ニ寄進サル」との記述も有るから、皇室に留保されていた本家職がこの時に粟田宮に寄進されたものと見られる。

 この移動が有ったので、一ヵ月後の九月二十九日に青蓮院の僧良禅は、改めて、粟田宮領と御影堂領の目録(前記資料C)を作成したものと推定される。この目録により、青蓮院が粟田宮領・御影堂領とも支配(管領)していることが判る。

 勝田庄の領家職は崇徳縁の成勝寺から離れても崇徳院御影堂所有に留まったし、勝田庄の本家職も皇室から崇徳を祀る粟田宮の所有に移った。この本家職は祟徳に返されたと云って良いのだろう。

 すなわち、勝田庄は不幸な死を遂げた崇徳院慰霊のための不可侵の荘園「崇徳院御領」として確立したのである。(ただし、勝田庄は青蓮院門首が知行したから実質は皇室領に近かった)

 次に、勝田庄が鳥羽院政期成立とした場合の、本家職と領家職の所有の変遷を図示する。

 

       鳥羽院政期   保元の乱   承久の乱   建長八年

 (本家職)  皇室(崇徳――――…順徳―――……………)粟田宮―

 (領家職)  成勝寺―――――――――――――御影堂――――――――

 

五、勝田左衛門五郎(源頼貞)が勝田庄成立に関与か

 勝田庄成立時期に関する前三項までの検討、及び長門国勝間田氏が伝え持った勝田(かつまた)の「系譜」によって、勝田庄が勝間田川流域に住む勝田(かつまた)氏が開発・支配した土地を勝田成長の時に寄進したことで成立したとの説、は再考を要することになった。

 以下の考察は、「系譜」によって明らかになった成果@勝田(かつまた)氏の元祖勝田左衛門五郎頼貞は河内源氏源義家の孫である事A頼貞が左衛門尉に任官し恐らく国司か郡司として美作国に赴いた事、及びB頼貞が遠江国で活動した勝間田五郎と同一人である事、を前提に進めることにする。(「勝田かつまた氏の研究」の補注@「勝田氏の元祖は源義家の孫勝田左衛門五郎頼貞」とA「勝田左衛門五郎頼貞の遺跡」を参照)

 「系譜」等から、頼貞の年齢は鳥羽上皇が院政を開始した大治四年(一一二九)頃に二十才ほどであると推定されるから、頼貞はまさしくこの鳥羽院政期に生きた人であった。

 当時において左衛門尉に任官し美作国に赴任した頼貞は地方在地の武士と云うより「中央武士」の部類に入れるべき人物で、祖父義家や父頼忠(義忠と推定)程ではないにせよ、朝廷貴族や皇室・院と接触を持ち得る位置にあったと見るべきである。

 この頼貞の父頼忠は義家の死で源氏嫡流を継いだが天仁二年(一一〇九)二十六才で暗殺された。その跡は頼貞の従兄弟の為義が継いだし、経緯は不明だが河内国の遺領は頼忠の異母弟義時が手に入れたから、幼少の頼貞には遺産(遺領)と云うべきものが無かったのではなかろうか。幼い頼貞がだれに養育されたか(母方か。叔父〔父頼忠の同母弟〕の源義国か。或いは平家の人物か)不明だが、将来が保証された立場ではなかったはずである。それに河内源氏嫡流を継いだ従兄弟為義も低迷していたから棟梁と仰ぐに足りたかどうか、心もとない状況だったはずである。

 このような境遇に置かれた青年頼貞が、鳥羽院政に奉仕することで活路を見出そうとしたとしても不思議はないし、当然の成り行きとも云える。

 では、頼貞が勝田庄成立に関わったとすれば、その経緯はどのようなものか。成り立ちうる仮説を後考の為に記す。

 

 (仮説)

@頼貞は鳥羽上皇と私的主従関係を結んで扶持された。すなわち、身辺警護の武士(「院北面」など。従兄弟の足利義康は院北面であった)或いは判官代等の院司として院に奉仕した。

A鳥羽上皇の後援で左衛門尉に任官。後に美作国国司或いは郡司に任官、現地赴任して勝田・英田両郡を知行。この時から名字に勝田(かつまた)を使用、勝田五郎と名乗った。

B続いて保延年間(一一三五〜一一四〇)頃に遠江国国司或いは郡司に任官、現地(国衙。現在の磐田市に在った)赴任して、国務や勝田郷の成勝寺荘園化(皇室領化)作業などに実績をあげた。(蒲御厨の成立にも関係か)

Cその際の恩賞として自分の名字「勝田(かつまた)」と同名の勝田(かつまた)庄の荘官職を望んでこれを得、後に勝田氏がこの地を拠点にする手がかりを得た。(蒲御厨飯田にも私領を得た)

D保元の乱発生当時(一一五六)には引き続き遠江国の国衙に居て国務等にたずさわっていたが、崇徳に組せず、後白河天皇に組して源義朝軍に加わった。保元物語に記されている「遠江国の勝田(かつまた)」とは頼貞かその子長保である。

E平治の乱(一一五九)で義朝が敗北して平家全盛を迎えた中で、高齢の頼貞は蒲御厨の飯田を拠点にして源範頼を支援するなど源氏再興のための活動をしていたが、孫の勝田成長が源頼朝軍の挙兵に率先参加、頼朝御家人に成って遠江国における地歩を固めた。

 

【注1】

@勝田庄

榛原町に勝田・勝間・勝俣の地名が残っている。何れも勝間田川の流域にある。和名抄に記載されている「榛原郡勝田郷」は行政単位の名称。和名抄には勝田郷隣接の細江・船木・神戸・相良・大江などの郷村名も記されているから、勝田郷の範囲はほぼ勝間田川流域と見られる。河口から約五キロの大字「中」には条里制の遺構も有るから、平安の初期までには「中」から始まって人が居住し開発されて、国衙よって管理されていたのだろう。勝間田川流域に別の荘園が成立した形跡は無いから、「勝田庄」はこの勝間田川流域を丸ごと荘園に転換したものの様である。

【注2】

@成勝寺の初代検校は保延五年から白河天皇の第四子覚法(真言宗の仁和寺第四代)が、保元二年からは鳥羽天皇の第五子覚性(第五代)が勤めた。(仁和寺史料)

A勝田庄は寄進者が不明であるが、これは、古来からの行政単位であった勝田郷ではあったが寄進をする程に私有地を蓄積した中核的な有力者(開発領主)が郷内に成長していなかった為と見るべきかも知れない(所有形態が「成勝寺領・皇室領」と成ったのもこの為であろう)。であれば、郷内の公領(国衙領)と周辺地一帯を皇室の荘園に仕立てるには現地赴任する役人の手が必要となる。

 院権力に用いられて任国に赴いた国司らは皇室領荘園構立の作業を行いこれを「寄進」、その恩償として荘官に任命されることで国司退官後も荘官としての利権を確保したものと見られる。

B成勝寺年中相折帳を見ると寺の運営費用の大方は、諸「国」からの「納物」(米・油など)で賄われていて、荘園からの「年貢」は補助的である。勝田庄の領家職・年貢の大方は成勝寺倹校である仁和寺門首(覚法、覚性など皇室出身者)に納められていたと思われる。

C成勝寺領荘園(☆印は保元の乱以前の成立又は寄進。その他は不明)

 遠江国勝田庄   建仁元年記録 東進記、華頂要略・門葉記

☆近江国伊波庄   永治二年記録 愚昧記裏文書(平安遺文二四六七)

☆出雲国揖屋社(庄)天養二年立券 後白河院庁下文案(平安遺文三三八六)

   〃      平安末期記録 成勝寺年中相折帳(平安遺文五〇九八)

☆丹波国福貴御園  天養二年寄進    〃

☆山城国久世御園  久安元年寄進    〃

☆丹波国胡麻御庄  久安元年寄進    〃

☆信濃国弘瀬御庄  久安二年寄進    〃

☆出雲国飯石御庄  仁平二年寄進    〃

☆摂津国難波御庄  仁平四年寄進    〃

☆豊前国伝宝寺本庄 仁平二年   宇佐大鏡。崇徳院怨霊の研究より。

 周防国多邇御庄  平安末期記録 成勝寺年中相折帳。多仁荘とも記す。

 但馬国朝倉庄   弘安八年記録 但馬国大田文(鎌倉遺文一五七七四)。本家成勝寺。

 越後国大槻庄       記録 華頂要略・門葉記。文治二年後院領(吾妻鏡)

 近江国報恩寺   文治六年記録 吾妻鏡の記述からの推定。

 近江国余田      〃        〃

 美濃国蜂屋荘     〃        〃       建久二年後白河長講堂領

 筑前国粥田荘   永享八年記録 金剛三昧院住持宥済申状案。「伏見山成勝寺誌」より。

 (某国野衣保   建仁元年記録 出典不明、東進記か。「伏見山成勝寺誌」より。)

 〇「成勝寺年中相折帳」は平安末期のものと見られる。この文書は荘園名を列記した冒頭部分が欠けているし、当然に記載されているはずの近江国伊波庄・豊前国伝宝寺本庄の記載も無い。勝田庄の名も欠けている部分に記載されていたのかもしれない。

 〇「伏見山成勝寺誌」は平成元年に東京都世田谷区宮坂二ー二四ー五所在の伏見山成勝寺が発行した小冊子。

【注3】

@昭和五十五年刊「丹波の荘園」によれば、栗村庄は始め崇徳領だったものが保元の乱の際に没収されて皇室(後院)領とされた後、寿永三年に粟田宮に寄進されたという。(領家は後白河の近臣藤原光能)

A「崇徳院法華堂」と「崇徳院御影堂」とが同一かどうかについては研究者の間に議論が有る。挙兵前の治承四年(一一八〇)四月十五日に頼朝が崇徳院御影堂を建立したと云う華頂要略の記述は年号に疑問も有るが、頼朝が建立などに関係したのは間違い無さそうである。祟徳院御影堂の検校には頼朝と親交の有った青蓮院の僧慈鎮(慈円・九条兼実の弟)が補されおり、兼実・慈円の助言・協力により建立などを行ったのかも知れない。

B成勝寺執行(執事)昌寛は頼朝の近親者と見られ、頼朝の奉行をたびたび勤め、越前国の鳥羽・徳光・丹生北・春近などの地頭。(吾妻鑑、崇徳怨霊と源頼朝、福井市史通史編・中世)

【注4】

@成勝寺は火災後の再建が確認されていないから、再建されないまま承久の乱を迎えたのではなかろうか。「華頂要略(東大史料編纂所蔵)」引用の「門葉記」は、越後国大槻庄が崇徳院御影堂(当寺)に所有が移った件につき「此庄本成勝寺領也、而彼寺炎上以後当寺被申寄」と云うから、この火災が承久元年のものかは不明だが、成勝寺領勝田庄(領家職)の御影堂への移動もこの火災と関係が有るのかもしれない。なお、成勝寺は承久の乱後に京都伏見に移転して「伏見山成勝寺」と号したようで、その後江戸に移転。

 

メモ

〇勝田庄の東隣りの初倉庄は鳥羽の手で荘園化が始まった。長承元年(一一三二)密厳院による曼陀羅供養の費用に充てる為に寄進、保延元年(一一三五)に鳥羽御願の宝荘厳院に寄進されたが、寄進後も支配権(本家職、本所・管領)は鳥羽或いは其の妻が握っていたと見られる。後に鳥羽の娘八条院に譲られて間もない平治元年(一一五九)に立券(正式な荘園としての承認)された。

蒲神明宮文書治承四年源朝臣(花押)。

〇治承三年勝田山、田所散位源(在判)