勝田・かつまた氏の歴史(一および二)

 

                        「勝田・かつまた氏の歴史」の目次                       http://www7b.biglobe.ne.jp/~katumatagorou/index.html

                                  

一 始めに

○研究の目標

 @勝田氏やかつまた氏の発生、一族の発展と崩壊、子孫の各地への移動と定着、の経緯を明らかにする。

A一族としての文化的特徴を探り、先祖からのメッセージを聞く。

 A後進の勝田氏研究者に基礎的資料と手がかりを提供する。

〇調査研究の対象

 電話帳による調べでは、全国に勝田氏約五〇〇〇世帯、かつまた氏約九二〇〇世帯が現住している。 

今日では、「勝田」と表記する者は「かつた・かつだ・かった」と云い、「かつまた」と云う者は「勝間田・勝俣・勝又・勝亦・勝股」と表記している。が、平安末期に「勝田」と表記して「かつまた」と云う勝田氏が発生して一族が繁栄したのは間違いないから、今日の勝田氏の中に「かつまた系勝田(かつた・かつだ・かった)氏」と云うべき者が多数居るはずである。よって、「勝田」と記す者及び「かつまた」と云う者を併せて研究対象とする必要が有り、本書の標題を「勝田・かつまた氏の歴史」とした。なお、「勝田」と記して「しょうだ」と云う者は研究対象外とした。

〇調査研究の方法

 @勝田・かつまた氏一族の歴史研究の先駆と云うべき左記の書籍を調査研究の手がかりとした。

  「勝間田氏と其の史蹟」     村田春渓著

                  昭和三十三年静岡県榛原町勝間田村の勝間田史蹟顕彰会発行

  「勝田(かつまた)氏物語」   桐田榮編集執筆

         その一、その二  平成二年及び平成三年静岡県榛原町教育委員会発行

  この他、太田亮著「姓氏大辞典」、角川書店刊「姓氏家系大辞典」、日本系譜出版会の「勝田一族の系譜」「勝間田一族の系譜」等も調査の手がかりとした。

 A国立国会図書館、東大史料編纂所、都立中央図書館、各地の史料館等に所蔵の日記・古記録・古文書等の資料や史書等に記載されている勝田・かつまた氏の記事を調査した。

 B各地に現住の勝田やかつまた氏所有の系譜・系図・過去帳等の資料や伝承を調査した。

〇調査研究結果の編集方法

 @ 三の「編年名簿」に、調査で得た資料内容の要点と資料の出典などを記した。この研究の基礎部分である。

 A 四の「論考」@ABで勝田・かつまた氏発生経緯を考察した。

B 五の「各地の勝田・かつまた氏」に勝田・かつまた氏に関する資料・伝承を記し、筆者の解説・論考を付した。

 C 二の「勝田氏の発生と一族発展の大筋」で研究の総括を記した。かなり独断的だが研究の参考にされたい。

 D 九の「備考@〜E」はこの研究の中で得られた成果でもある。研究の参考にされたい。

 

 

二 勝田氏の発生と一族発展の大筋

                     …… 一族としての勝田(かつまた)氏崩壊まで ……

 

一、地名勝田(かつまた)と名字勝田(かつまた)

 平安期の源満仲(九九七年没)は、姓は「源」で実名は「満仲」であるが、摂津国の多田庄に住んだので多田新発意とも云った。「前九年の役(〜一〇六二)」の経過を述べた「陸奥話記」によれば、平永衡は伊具十郎、橘貞頼は志萬太郎、吉彦秀武は荒川太郎、清原武道は貝沢三郎と称した。伊具・志萬・荒川・貝沢は居住地・支配地の地名である。すなわち武家政権成立前夜の平安後期、各地の在地官人・荘官・土豪などの武士層は給与・開発・実力占拠等によって得た土地の名(地名)を名乗った。この土地の所有・支配が親子で世襲された場合には名乗りも世襲される。これが今日の「名字」「姓」の始まりである。

 承平年間(九三一〜九三八)成立の和名抄(和名類聚抄)に「遠江国榛原郡勝田郷」と「美作国勝田郡勝田郷」が記されている(勝間田・勝俣・勝又の地名は記されていない)。「勝田」と記すのはこの二個所である。何れの「勝田」も「かつまた」と云った(読んだ)。これは和銅六年(七一三)の風土記編纂の際に二字好字改変(三文字の土地を二文字に改めた)がなされ、改変により、それまで「勝間田」と記されてきた土地は「勝田」と記すのが公式となっていた為である。

 よって、平安期において、勝田と記すが「かつまた」と云う名字はこれらの地名から発したと見られる。

 和名抄は行政単位としての郡名や郷名を記したもので、当時において他に「勝田」と記す土地が無かったともいえない。平安後期までに備後国「勝田庄」や伯耆国「勝田庄」が成立、鎌倉中期までに武蔵国勝田、下総国勝田(かつまた)の地名が発生、安芸国の刈田郷の如く後に表記を勝田に改めた土地も有り、今日「勝田」と記す(記した)土地を日本各地に三十ほど確認することが出来る。但し、これ等の土地から勝田(かつまた)氏発生という伝承等は確認されていない。(地名「勝田」と「かつまた」を参照)

 

二、平安後期 勝田宿祢兼清の登場、勝田(かつまた)氏の発生

 勝田氏の名の資料上の初見は、平安後期の保安元年(一一二〇)石見国の国司(大目)任官を申請した兵部省所属の公家「勝田宿祢兼清」である。「勝田」は氏(うじ)名、「宿弥」は姓(かばね)で、天皇から与えられた(公認された)ものである。保安元年までに勝田氏が発生したのはこれで疑いない。この「勝田」が「かつまた」かどうかは判らないが、氏名(うじな)勝田も地名に基づくものと見られるから、具体的には、この勝田は和名抄に記載の遠江国勝田郷か美作国勝田郡勝田郷である可能性が高い。

 他方、勝田(かつまた)氏一族の長門国勝間田氏は、源義家の孫頼貞が美作国英田・勝田(かつまた)の両郡を知行して「勝間田左衛門五郎(以下『勝田五郎』と云う)」と名乗ったのに始まったと伝える。

 この頼貞が勝田五郎を名乗ったのは白河〜鳥羽院政期の一一一五〜一一四〇年の事と見られ、勝田宿祢兼清の活動時期に合致しているのである。加えて天皇公認の「勝田」は他者が勝手に公称できるものではない。よって、勝田五郎と兼清とは同一人か又は同族の者と見てよいだろう。

 保元の乱(一一五六)前に、恐らく国司として、遠江国に移動していた勝田五郎(又はその子長保)は、同じく義家の子孫と云われる遠江国の横地氏と共に源義朝軍に参加して保元の乱に勝利したが、平治の乱(一一五九)では平家方に敗北、義朝は殺された。

 その後の平家全盛期の中で勝田五郎は、京都の公家と連携しつつ、義朝の遺児範頼(源頼朝の弟)を遠江国で支援し、孫の成長は源頼朝の挙兵(一一八〇)に率先参加した。勝田氏は源氏嫡流の再興を願って行動し、頼朝政権樹立によって一族発展の基礎を築いたのである。

 勝田氏は頼貞―長保―成長と続いて鎌倉期をむかえる。長保や成長の兄弟は不明。平安期において、これ以外に勝田・かつまた氏の発生は確認されていない。(この項は論考@ABを参照)

 〇寶亀三年(七七二)の勝間田氏(小月王)は一代限りと思われるし、奈良期の勝田光吉(仙光とも)は資料的に信頼できないので、今は無視する。

 〇河内源氏嫡流 源義家―義親―為義―義朝―頼朝

  勝田氏    源義家―頼忠―頼貞―長保―成長

 ○常陸国本木勝田氏の系譜によれば、勝田五郎(頼貞)は成信とも名乗った可能性がある。

 〇勝田五郎は活動舞台を遠江国に移したが、美作国で獲得した権益(領地)を維持した様である。

 〇備前国岡山城に住んだと云う(兵庫頭)長保は備前美作等の領地経営に当たったか。

〇遠江国における勝田五郎の居住地は五郎の遺跡の在る浜松市飯田町の龍泉寺域と見られる。

〇勝田五郎は成勝寺領遠江国勝田庄成立に関与して、勝田庄の荘官職等を得たか。

九条兼実の日記「玉葉」に寿永二年十一月六日から七日にかけて兼実を訪れたと記される「成長法師」とは勝田成長か。

 

三、鎌倉期 将軍御家人勝田(かつまた)氏

 頼朝政権(鎌倉幕府)の創設(一一八五)に参画した勝田成長は将軍御家人の地位を得て遠江国勝田庄(静岡県榛原郡榛原町)の地頭に補任され、翌年には上京して朝廷の官職「玄蕃助」に任官し、後白河院の法事の奉行などを勤めた。この玄蕃助任官は頼朝に無断のものだったから頼朝の怒りを買い、朝廷・公家勢力に通じるものとして警戒されていたのだろう、建久六年(一一九五)に至って乱闘刃傷事件を理由に地頭職を没収された。しかし、成長は頼朝死去(一一九八)後に赦されて勝田庄等の地頭職を回復し兵庫頭に昇進して復活、将軍実朝の遣宋(中国)使の一人になっている。

 幕府は承久の乱(一二二一)を引き起こした公家や公家方の武士の領地三千個所あまり(主に西国)を没収して将軍御家人(主に東国武士)を地頭として配置した。成長の子と見られる勝田兵庫助も大和国に地頭職(「給所知」と記されている)を得ているが、この他に能登国・越前国・和泉国・備前国・備中国・長門国にも得た可能性がある。

 この時代、勝田氏一族の者(庶子、家の子)は勝田庄内の本領(私領)に居住する総領の統制に従って将軍御家人としての総領の任務を分担した。一族の者は総領から本領や地頭職等の一部を分与され、総領・地頭の代官として各地に赴任し、任地が遠方の場合は移住し在地化したのである。鎌倉末期、幕府に反乱(一三三一)した河内国の楠木正成に従っていた勝田左衛門尉直幸や、後醍醐天皇の倒幕呼び掛けに応えて出雲国舟上山に駆けつけた備中国の勝間田氏はいずれも在地化していた勝田(かつまた)氏一族の者であろう。

 鎌倉期における勝田氏一族の総領(惣領)は将軍御家人たる成長―兵庫助(実名不明)―(不明)―長清(左近将監・越前守)―兵部丞(実名不明)と見られる。

 〇成長が没収されたのは幕府から給与された地頭職で、幕府創設前、すなわち頼貞・長保以来の既得権益(荘官職や本領)までは没収されなかったのではなかろうか。

 〇宝治元年、渋谷氏と共に薩摩国入来院に移った勝田小次郎太夫(惣地頭渋谷氏の下の小地頭か)は美作国勝田庄を名字にしたと云う。勝田左衛門五郎の子孫か、別系勝田氏の発生か。この勝田氏は別として、鎌倉期に別系勝田氏の発生は確認されていない。

嘉暦四年丹後国の地頭代勝田次郎兵衛尉は勝田(かつまた)氏か。

 

四、室町期@ 将軍の当参奉公人・奉公衆の勝田(かつまた)氏一族

 北条氏支配の鎌倉幕府打倒と後醍醐天皇政権樹立(一三三三)、その後の後醍醐政権打倒・足利政権樹立(一三三六)の全過程で、勝田氏は一族総領など大方(楠・新田・北畠氏に従った者も居た)は足利尊氏と行動を共にした。勝田氏は尊氏が天皇方新田義貞軍に破れて九州に逃避した際の数少ない随行者の一人でもあった。勝田氏としては源義家を同祖とする足利氏を頼みにしていたのであろう。 尊氏の幕府が創設されるや、左近将監に任官した勝間田彦太郎入道や勝田氏の総領かその子弟と見られる勝田能登守佐長・勝田治部丞長直が将軍尊氏に近侍し、尊氏後も総領やその子弟が代々の将軍近習(帶刀、衛府侍)を勤め、一族の者は応永の乱や永享の乱等の際には幕府軍の先頭に立っている。勝田氏は将軍の直臣という点では守護達と対等の「当参奉公人」の地位であり、一般の地頭御家人(国人、在地武士)とは異なる立場であった。

 永享年間、将軍義教(一四三五〜)は当参奉公人の者およそ三五〇名を五組(番)に分けた「奉公衆(番衆)」に再編、勝田氏は一番に勝田左近将監と勝田兵庫助(頭)、四番に勝田能登入道と勝田弥五郎等三〜四名(家の子・郎等を含めて計三十名程か)が編入されて在京した。将軍はこの直轄軍再編強化によって当時増長の著しかった守護大名勢力を牽制しようとしたのだった。

 将軍直臣の勝田氏は本拠地遠江国に於いても守護(今川氏、後に斯波氏)の被官化することなく勝田庄周辺の初倉庄・小高御厨等に対する権益拡張をはかっていたのだが、地頭御家人等の在地武士を被官化することで任国の領国化を進めていた守護勢力にとって勝田氏の存在(勝田氏の本領地は守護不入の地だっただろう)は障害物に他ならなかった。

 嘉吉元年(一四四一)将軍義教を殺した播磨国等の守護赤松満裕討伐や寛正六年(一四六五)の遠江国の狩野氏討伐など勝田氏の将軍奉公衆としての活動は続く。しかし、将軍権力低迷で勝田氏の立場は既に危ういものであって、享徳二年(一四五三)には管領細川勝元が将軍義政の決裁なしに遠江国勝田兄弟の争いに介入する事件(相続争いか。勝田氏分裂か)、三河国の有力国人吉良氏の勢力が守護不入地である勝田氏の知行地中田郷(現浜松市中田町)に侵入する事件が発生している。

 なお、奉公衆は将軍の直轄地「御料所」を預けられて、自らも所得を得ていた。中には御料所を預けられて移動・在地化した勝田氏一族の者も居たかもしれない。

 〇勝間田彦太郎入道は養父勝間田備前守(勝田備前入道)から始まった勝田(かつまた)氏の分家。孫の盛実は応永二七年に長門国小守護代。子孫勝田左近将監は奉公衆。

 〇伊勢国勝田座勝田氏の先祖勝田肥後守は勝田(かつまた)氏か。

 〇和泉国の地頭勝田孫太郎入道は勝田(かつまた)氏と見られる。

 〇丹波国氷上郡の勝田新左衛門・同豊後らは細川氏被官人の勝田(かつまた)氏と見られる。

 〇能登国の勝田左衛門五郎は勝田(かつまた)氏と見られる。

 

五、室町期A 応仁・文明の乱と勝田(かつまた)氏一族の崩壊・離散

 有力守護達が東軍(細川勝元ら)と西軍(山名持豊・斯波義廉・大内政弘ら)に分かれて京都を舞台に直接対決した応仁の乱の際の応仁元年(一四六七)十月三日の戦いで、備前の勝田次郎左衛門尉等の奉公衆が東軍に属したのは将軍義政が東軍に取り込まれていたからであろう。勝田氏が一族を挙げて東軍又は西軍に加担した様子はない。

 勝田氏は享徳二年の兄弟争いの際に細川勝元に介入されているから、勝元に対する警戒心は強かったはずだし、駿河国の守護大名今川義忠が自ら進んで東軍に加担した狙いは西軍に属した遠江国守護斯波義廉(越前・尾張の守護も兼任)から守護職を約六十年ぶりに取り返して遠江国を支配する事であったから、遠江国を本拠地とする勝田氏としては将軍が無力化してしまった中での東軍勝利によって、今川氏の強力支配・領国化が遠江国で実現するのは望まなかったであろう。従って斯波氏の勢力と提携しながら自立の道を探っていたと思われる。今川氏の被官・家臣化する道は選ばなかった。

 文明六年(一四七四)四月に細川氏と山名氏が講和したが、斯波義廉は将軍に対する謀反人のままであったし、その勢力は減退していた。はたして今川義忠はこの八月に遠江国実力支配に走って斯波氏の守護代狩野氏等を討ち、翌七年には勝田氏や横地氏と武力衝突した。

 文明八年春、義忠は自ら五百騎を引き連れて駿河国から侵入して勝田城と横地城を急襲し、七日間の戦いの末に両城とも落城。勝田氏は城主修理亮や子息等が死去して一族中核部分が壊滅、この時残党の多くは甲斐国等に移動、事実上本拠地を失った。

 この戦闘の帰途に義忠は勝田氏らの残党に射殺されたから、今川勢による勝田氏旧地の支配は完結しなかったし、奉公衆勝田左近将監・同兵庫助・同越中守や勝田播磨守らによって本拠地回復の努力がなされていたであろう。しかし、明応二年(一四九三)細川政元は将軍義材を実力で追放(明応の政変)し将軍奉公衆体制を解体したから在京勝田氏は失職し、百五十年余り続いた足利将軍との関係はここに終了し、一族再興の望みは絶たれた。

 翌三年、幕府を支配した政元と同盟していた伊勢新九郎(後の北条早雲。今川義忠の子氏親の伯父。奉公衆でもあった)は今川軍を率いて遠江国侵攻を再開、同五年勝田氏の残党勝田播磨守が勝田庄の本拠地に居たが追放されたのであろう、以後今川支配となった遠江国本拠地において勝田(勝間田・勝俣・勝又も)氏の活動は確認されていない。本領・地頭職など遠江国内の勝田氏の権益は全て奪われ、大方は今川氏の被官・家臣に配分されたと見られる。

 平安末期に始まって、将軍の直臣として武家政権を構成してきた「一族としての勝田氏」は、以上の経緯で、崩壊したのであった。

 文明八年の敗北及び明応二年の奉公衆解体と同三年からの今川軍の侵攻を契機にして、一族の残党は家族も含めて各地に移動したのだが、闇雲に逃げたわけではない。今川氏に対抗する尾張国斯波氏や甲斐国武田氏、安房国の里見氏、常陸国の真壁氏、長門国の大内氏及び各地の勝田氏などの親類縁者を頼って移動し生き延びた。

 これらの勝田氏や、平安期・鎌倉期・室町期にかけて各地に移動し在地化していた勝田氏は、その地の大名の被官・家臣化するか、或いは帰農・郷士化又は商人化したのだった。

 〇城主勝田修理亮の子義勝は房総里見氏を頼って下総国中野村砦に移り、後に土気城酒井氏家老。

 〇勝田修理亮の子の一人は駿河国御廚地域に入り印野(伊野)八郎と名乗った。

 〇駿河国裾野須山の勝田氏は先祖が遠江国から逃げてきて住みついた。

 〇遠江国葛俣(かつまた)の葛俣盛次は富士郡の下方に移動し、明応九年甲斐国武田氏家臣。

 〇遠江国勝田庄(郷)出身の勝俣氏は武田支配の信濃国佐久に移転。

 〇遠州浪人勝又和泉は信濃国に移動して下条氏家臣。

 〇奉公衆勝田左近将監は小守護代として長門国に移り、大内氏の家臣。代々「勝間田」と表記。

 〇勝田能登守・勝田播磨守系勝田氏は常陸国真壁郡本木に移動。

 〇勝間田新六政行は三河国岡崎城主松平清康家臣。後、内田に改名。

 〇美濃国瑞浪現住の勝股氏は遠江国勝田(かつまた)氏一族の子孫と見られる。

 〇出雲国の勝田次郎左衛門尉秀忠は備前国の勝田次郎左衛門尉と同一人か。

 〇陸奥国葛西氏の家臣勝田(かつまた)某は遠江国勝田(かつまた)氏か。

 〇伯耆国弓ヶ浜の勝田四郎・勝田五郎上総介などは勝田(かつまた)氏か。

 〇伊勢新九郎の孫北条氏康の家臣勝田八右衛門(猿楽八右衛門)は遠江国出身か、伊勢国か。

 〇京極氏や亀井氏の家臣となった多数の勝田氏は出雲国出身か、京都・近江の出身か。

 

六、子孫

 その後の勝田・かつまた(勝間田・勝俣・勝又・勝亦・勝股)氏については多岐にわたるので「各地の勝田かつまた氏」の中に記録し考察する。

 今日では勝田氏約五〇〇〇世帯、かつまた氏約九二〇〇世帯へと増大しているが、江戸末期における人口は三〇〇〇万人程度で現在人口(一億二五〇〇万人)の約四分の一で、世帯構成人数も多かったのであるから、世帯数としては勝田氏は五〇〇、かつまた氏は九〇〇程度だったと推定される。

 勝田(かつまた)氏は発生が古くかつ繁栄した一族であるから、これらの勝田氏やかつまた氏の多くが勝田(かつまた)の子孫である可能性が高いのである。

 ただし、この系統以外の勝田氏や勝又氏発生の伝承も有るから、事実に即して研究を進めるべきである事は云うまでもない。

 〇鎌倉期に陸奥国の勝田庄から発生と伝える勝田氏が居る。

 〇天正年頃に下総国勝田(勝間田)から発生と伝える勝又(勝間田とも)氏が居る。

 〇備前国の勝田次郎左衛門尉や「松田勝田殿」と呼ばれる者は松田氏の一族か。