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2007/01/08(月)
(大坂峠越え往復 うちんくの年末年始)
連休最終日は昼で仕事打ち止めて、板野JR大宮駅より明治8年に完成した今に残る人牛馬専用の
大坂峠越え旧道を香川県瀬戸内海まで行き、同じ道を帰ってくることにする。
この道は昭和10年に鉄道高徳線が開通するまでは唯一の交易ルートであった。
古くは源義経が平家を追って小松島から屋島へと抜けた道でもある。
明治までキリシタン入国阻止と納税や経済に窮した出農民阻止のため大坂口御番所が設けられていた。
悲喜交々いろいろと因縁の残る道である。
その後、車道の大坂峠越え旧国道(県道1号)や、現国道11号が北灘まわりで開通したりで通る人はいなくなった。
しかし歴史ある古道ということで、四国の道指定と全国峠100選に選ばれ、お遍路さんと登山家が行き交う。
私も血気盛んな三十数年前、踏み付けるだけのアクセルワークでくねくねの県道1号から谷に転落し、
途中の松にひっかかり命拾いした反省の峠でもある。
バランスとるようにそっと車外に出て斜面を這い上がり、庄野重機のクレーン車を徳島市内から呼んで、
ぐるっと車にワイヤー巻いてガリガリと引き上げた。費用は8千円だった。
エンジンがかかったのでフロントガラスの割れた新車を雨の中注目浴びながら帰り、
途中蔵本のふじや横の名前忘れたが中華料理店で熱々中華丼が冷えた身体にうまかったのを覚えている。
その後しばらくふさぎ込んだ。
あのときはあのときで思いっきり悩んだ。

めぐりめぐってぶざまな本年を、ご容赦ください。
さて番所、決して怪しい者ではございませんので、お通しくださいとお詫びも兼ねてST奉行様に土下座。
この峠を越えて他国へ一時脱出しますが、アイシャルリターンマッカーサー必ず帰ってまいります。
当時の舗装技術の石畳がところどころ残る。

ルートから200メートルほど外れた展望台からの眺めはなかなかのもの。

高架くぐったその先は讃岐屋、うどんや、ローソン、ホテルがある国道11号。

その国道を少し高松寄りに進むと大坂峠に向かう三差路分岐があり、更に少し先の三差路を人牛馬は右に入り高架下へ。
人だけでなく牛馬も通れるように改良された道は、ほんの一部を除き急坂はありません。
明治8年以前の改良前の旧々道は跡形なく埋もれているようです。
往復3時間10分でした。
帰って1日遅れの七草粥、今年も身体だけは健康で丈夫でいたい。幸せってこれだろう。

我が家の顔出し年末年始風景なんぞなんの興味もないでしょうが、出農民の気持ちが分かる状態で越し、明けてはお寺連発しました。
7日は建治寺、小松島の七福でイリコ出汁の効いたうどん、末広で久しぶりのボウリング父143娘132。

6日は仕事合い間に童学寺。
3日は番大山寺、愛染院、そして大麻比古神社に向かうも超混雑で道の駅第九の里までで断念。
2日はカラオケで3人4時間歌いまくり。
ブロードバンド動画映像(クリックで動画再生します)調理師さんの歌いっぷり(0'36)



元日は昨年も行った白山麓のスケート場、そして初詣は近くの長尾寺。

大晦日は中洲市場で買ってきたブリ鯛マグロの寿司で腹いっぱいの年越し。
今年のブリは品薄で高値だが、閉店間際まで待ち安値でゲット(ちょっと惨め)。

長男もデカイが次男もデッカクさせた苦労も勲章か、白髪にならず天然の金髪になる(ホント)。

クリスマスから年末にかけて、500円とは思えない仕様の弁当をサービスしました。
この陰で「えび事件」があった。
そいや去年は「かまあげ事件」があったな。
やりくり予算で年末年始を質素に過ごしました。
ああ、35万/月の小遣いがあった昔が懐かしい。
しかし質素の今が世の中よく見えます。
ゼロからスタートの試練の年になります。
☆謹賀新年

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