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2005/01/13(木) (焼山寺山938m) もう病気である。尖った山の正体が判明したら快晴の日は即現場急行し逮捕に臨む。この病気を家人には修行と称して仕事合間に出かけるが、「したいことするのは遊びなんよ」と斬られた。 そういやこの9年よく修行したもんな、「遊ばんと仕事をもっと真剣にやれ」には今でも実感がない。自分ではよく考えよく動いていると思っている。 何方も自分が一番と思っている中で他人とは上下関係を作ろうとするから誤解や対立など無理が生ずる。山で例えるなら低いが山容が美しいとか景色がよいとかメリハリがあるとかで高い山を牽制することだろう。 その低い隠れた名山を攻めている私だが、資料集めにとインターネット検索すると有名な高山は数多くヒットするが無名な地方の低山は乏しい。これがそんなんなら発信したろうと、あまのじゃく心男の病気を重症化さる。 しかしご覧のように道順やタイムなど詳しくない。そんなもんは現地に来て知ればよいだろう。全部分かれば面白くもなんともない。だから興味(発病)を抱いてもらえるよう、あらかたを知らせるだけなのである。 他人と付き合ったり結婚と同じですね。先に全部分かって人生見通せたら、ドキドキ興奮や喜怒哀楽や偶然や心境変化などが失せ食べて出して寝るだけのつまんない一生になってしまう。 そんなん言っても平穏が一番よと言う人も、普通でない失敗やハプニング人生を自慢して語っている。そんなもんなんだ、だから現時点で悩みや不安を持つことはある意味幸せ者なんだ。 その悩みや不安を和らげ、楽しいはずの生きる力を沸き起こす運動汗「修行」は山道のようにくねくねと小理屈連続である。 山頂直下は切り立った尾根の連続でスリルがあり、雪に滑って落ちそうな30センチぎりぎり幅もある。なかなかの冬景色の山道が気に入り、冬枯れした樹木から覗く360°景色も見事だ。 山頂からの眺望で頭の中にある地図と目の前に広がる山容とのギャップで、先日の東宮山を見誤った。真ん中に立派に尖ってそびえているのがそうなんですが、 最初はあの山も登らなくちゃと新発見した気分でした。自宅に帰り地図とにらめっこして事実確認し、先日偶然登ったにしては徳島の名山々に囲まれた「世か中」の愛山だった。 山というのは近くから山容は分からないものなんだ。人間も同じで、近すぎても遠くすぎてもよく見えない。ほどほどの距離がいちばん冷静に観察できる。 でも、抑え得ぬ感情からどんどん近付き見せちゃいけない見られちゃいけない知っちゃいけない知られてはいけないことまで暴露や発見してしまうと一瞬融合した幸せ味わうが続かず終点。 平易な表現だと振るヌードより一枚羽織った蝉ヌードのほうが色っぽいということ。また顕微鏡で食べ物見てしまうと食欲減退ってとこかな。 雪道にうさぎらしき足跡が付いていた。崩れないしっかりした地面の上にある雪にだ。ちゃんと山道の丈夫なところを知っている。 たんぽぽが咲いていた(嘘そんなはずない)。多数の黄色く細い花びらは重ならないよう全部太陽にさらしていた。元気に生きる知恵だ、変わり者の私みたいによそを向いているものはない。ひまわりが・・(やめとこ) ここ焼山寺名物杉の大木の中を歩く。台風などの南風に踏ん張り自然対応したのか根っこの北側部分は張り出している。偉いなぁ、でも反対から想定外の強い北風が吹いたらあっけなく倒れ災害死するんだろうな。 人間も同じで、正面どんなに偉くても頑固でも裏側からだともろい弱さや優しさが見え通じられる。自然対応の代表格は人間さまなんだから。 おら〜、わかっとんかい。(誰にいよん)お互い変わり者なんだからにわかにまともふうなこといいだすんじゃない。通じるルールがあるじゃないか。
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