1 小学校の時

 小学校入学時の視力検査で既に近眼でした。ついでに色弱でした。小学校1年の時からメガネをかけていました。しかし、メガネをかけても黒板の字は良く見えた記憶はありませんでした。

 

 2 中学校の時

 黒板の字は、あいかわらず良く見えませんでした。

クラブ活動は、小さな小学校(一学年二クラス)だったので、バレーボール部と吹奏楽部がありました。バレーボールは体育館内が暗くて、ボールが良く見えなかったため、怖かったので入れませんでした。先生が吹奏楽部の入部を勧めてくれましたが、楽譜が見えず入りませんでした。楽譜が見えないからとは人には言わなかったことを覚えています。人の顔も良く見えなかった事を覚えています。

 

3 高校の時

自分は目が悪いので、商業高校進学を考えていました(目が悪く色弱の私は工業高校進学は無理  なので、それ以外で技術を身に付けることが自分には必要と考えたためです。)が県内で就職して生活していくには 名の通った進学校が良いと先生に勧められて普通高校に入学しました。黒板の字は、あいかわらず良く見えませんでした。参考書等を活用して勉強しました。

クラブ活動は合唱部に入りました。(音楽の基礎は無かったので楽譜は読めなかったですが、手に持つ楽譜は見えましたから。)高校2年の5月にメガネからコンタクトレンズにしました。世の中はこんなに明るかったのかとビックリしたことを今でも鮮明に覚えています。

しかし、その一週間後、左目が眼底出血。天国から地獄です。今でも眼底出血の後があるので小さい字は字が潰れてしまいよく読み取れません。多感な高校時代にこんなことになってしまい精神的にも参ってしまった気がします。

それでも、せめて勉強ぐらいは出来なくては(自分に出来ることは)と思い頑張ったつもりです。

 

4 大学時代

 一年浪人して大学(文系)に入りました。サークル活動をしたかったのですが、当時のコンタクトはまだ目に痛く、長い間入れていられなかったので入りませんでした。でも仲間と楽しい学園生活を過ごしました。車の免許も大学4年の時に取りました。

 

5 就職

 地元に戻り(自分は長男のため)、長野県の公務員になりました。

 

6 近視、乱視の度数

(1)最後に使っていたコンタクトのデータ(メニコンZ)

   左=−16.0 

   右=−14.5

(2)機械測定のデータ

   左=−18(近視)、−3(乱視)

   右=−16(近視)、−4(乱視)