端末を起動させ、コーヒーを淹れようとしていると研究室のドアが開く。視線を遣った先に居たのは研究室の主である准教授だけではなかった。その主、カタギリ准教授はロックオンの姿を認めるとにこやかに笑う。
「ああ、ロックオン。紹介するよ。研究に参加してもらうことになったミス・アーデだ」
カタギリ准教授の横に立っていた少女は微かに会釈する。
「情報工学科のティエリア・アーデです」
「D2のロックオン・ストラトスだ」
……とびきり出来のいいビスク・ドールのようだ。
磁器めいた白い肌、指で梳いても引っ掛からなさそうな肩までの艶やかな髪、眼鏡の奥の瞳は紅玉か柘榴石を嵌め込んだかのよう。なまなましい感情というものを削ぎ落とされた観賞用の人形、それがロックオンが抱いたティエリアの第一印象だった。
「刹那とアレルヤは?」
「今日はまだ見てないですね」
「そうか……まだ時間あるかい?」
ティエリアはカタギリ准教授の問いかけに一瞬躊躇った後、頷いた。
「……少しなら」
「ならばもう少し待って貰えるかな。あと二人、来る筈なんだ」
今度はすぐに頷く。ロックオンはその遣り取りを見ながら、予定していた量より多めに豆と水をセットして自分の席に着いた。ティエリアは研究室の中央に置かれた、ミーティングなどに使う大きなテーブルの側の椅子に腰掛け、室内を見回している。工具などがあるのが物珍しいのだろうか。しかし整った横顔には、やはり何の感情も浮かんでいない。既に起動した端末を前にティエリアを観察していたロックオンの思考は、落とし終わったことを知らせるコーヒーメーカーの音で破られた。
「カタギリさんも飲みますよね」
立ち上がりながら声をかけると、頼むよ、という穏やかな声が研究室の奥から返ってくる。ロックオンはマグカップを三つ用意して問いかけた。
「ティエリア、」
ロックオンの呼び掛けにティエリアは弾かれたように顔をこちらに向ける。真っ直ぐに向けられる深紅の瞳に非難の色が浮かんだ気がしてロックオンは言い直した。
「……と。悪い、つい。ミス・アーデ、お前さんもコーヒーでいいか」
「……名前で呼んで頂いて結構です」
するりと立ち上がった彼女は近寄ってくる。女性にしては長身だが、並んでみると肩幅などはやはり細かった。ふわりと肩から零れた髪から甘い香りが漂う。
「すみません」
ティエリアは両手で包み込むようにしてマグカップを受け取った。伏せがちの目蓋の端はびっしりと長い睫毛が彩っている。それに見惚れていると、コーヒーを受け取りに来たカタギリ准教授の携帯端末が鳴った。
……聞き耳を立てずとも漏れ聞こえてくるこの声は。
「ロックオン、」
「はい」
「ちょっと行ってくる。後は頼むよ」
エーカー准教授だな、と困ったように笑うカタギリを見ながら見当をつける。
「後って何をです」
「あの二人にも紹介しておいてくれ、ってこと。ミス・アーデ、今日は顔合わせだけだから、詳しいことはまた今度」
慌ただしく出て行ったカタギリの背中を見送りティエリアに視線を戻すと、彼女は顔をしかめていた。今までのイメージを消し去る、人間らしい表情に驚く。
「どうした」
「苦い……」
眉を寄せて落とされた言葉に拍子抜けした。
……苦手だったのか。
「苦手なら遠慮せず断れよ」
「飲んだことが無かったんです」
困惑したようにマグカップを持つ手も細く。
「ここ、砂糖は置いてねえんだよな……いや、刹那用の、」
ロックオンは冷蔵庫を開け牛乳パックを取り出す。
「これ入れたらだいぶマシだろ」
カフェオレになるまで、とはいかないがミルクを注ぎ入れ再び手渡すと口をつけたティエリアは微かに唇の両端を上げた。
「……飲めます」
「残しても構わないけど」
「いいえ、」
ティエリアはロックオンを見上げる。
「有難うございます」
まるで花が綻んだようだった。人形なんてとんでもない。蕩かすような極上の笑顔の、綺麗な弧を描く唇は薄紅色をしていて、気付くとロックオンはティエリアに口付けていた。柔らかい唇の体温を感じた瞬間、慌てて身を離す。ティエリアは呆然としたように目を見開いていた。
「す、すまん!」
ティエリアは震える手で自分の唇に触れる。ようやく現状を理解したのか、顔を赤くした。勢い良くロックオンを見上げたティエリアは右手を振り上げる。自分が受けるべき咎にロックオンが身を硬くすると、室内に鈍い音が響いた。予想以上の報復に、非難する立場には無いと分かっていながら叫ぶ。
「……おまっ、グーは止めろ、グーはっ!!」
「うるさいっ!!」
ティエリアは眉間に皺を寄せ怒りに震えていた。
「し、初対面の相手に対し、この蛮行っ……万死に値するッ!!」
尚も腕を振り上げたティエリアの手を受け止めると、その滑らかな肌の感触に目が眩む。
「はな、せッ!」
「離したら、また殴るだろ」
「当たり前だッ」
毛を逆立たせ威嚇する猫のようだ、とロックオンは呑気に考えた。直ぐにそんなことを考えている場合ではない、と思い直したのだが。
「……悪かった。反省してます。本当に、ごめんなさい」
「何だその誠意の感じられない謝罪はっ!」
火に油を注いでしまったようで、ティエリアは更に激昂する。
「だって仕方ねえだろー、こんな美人を前にして冷静で居られねえよ」
「……ッ。そんな理由、認められるかっ!」
悪いとは思っている。反省だってしている。が。
……あの笑顔は反則だろ。
その時研究室のドアが開く。ドア口に立っていたのは同じ研究室に在籍するアレルヤ・ハプティズムと刹那・F・セイエイだった。ロックオンとティエリアの姿を見つけた二人は驚いたように目を丸くする。
「どうしたんです、ロックオン?」
「……誰だ?」
二人の問いかけにティエリアの手を掴んでいた手が弛む。その隙を見逃さずティエリアはロックオンの腕を振り払った。
「……失礼するッ」
ティエリアは肩を怒らせドア口の二人を押し退ける。不審そうに見つめる刹那の視線も物ともせず、ティエリアは研究室を出て行った。
「え……えーと、今の誰ですか?」
気を取り直したように訊いてきたアレルヤに、ロックオンはため息で応える。
「情報工学科のティエリア・アーデ。研究に参加することになったんだとさ」
「へえー。綺麗な人でしたね」
「……それでロックオン、」
ロックオンとアレルヤの遣り取りを黙って聞いていた刹那はちらりとロックオンを見上げた。
「その頬はどうした」
指摘されたロックオンの頬は見事に赤くなっている。時間が経つと青黒くなることは間違いなさそうだ。じんじんと痛む頬を押さえ、ロックオンは口を開く。
「猫にやられた」
「……赤い目の?」
「……っ。……そうだ」
刹那は呆れたようにため息をついた。アレルヤも遅れて気付いたようで、ドンマイ、と呟く。
……とんでもないことになっちまったなあ。
全て自分自身の責任だが。未だ唇に残る柔らかい感触にロックオンはため息しか出て来なかった。
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