弘仁2年(西暦811年) 第52代 嵯峨天皇の御代 伏見稲荷大社(京都)は和銅4年(西暦711年)に創建 ちょうど100年違い |
式内社(しきないしゃ) 式内社とは、延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)に記載された神社。 延喜式神名帳は延長5年(西暦927年)に醍醐(だいご)天皇(第60代)の命により編纂されました。 式内社は全国に2861社 現在の神社の総数は約8万社、式内社の割合は約4% 旧滋賀郡八社の1つ 旧とつくのは滋賀郡に含まれる地域が変更されたためです。 神田神社のある地域は滋賀郡から大津市になりました。 旧県社 明治期に制定された社格制度で神田神社は県社に区分されました。社格は、官弊社、別格官幣社、国弊社、府社、県社、郷社、村社、無格社がありました。この社格制度は戦後に撤廃されましたが、その名残で旧県社のように旧をつけて呼ばれています。 |
孝昭天皇の子孫で、 真野の祖(氏神)とされています 孝昭天皇(第5代、在位:紀元前475年〜紀元前393年) | 天足彦国押人命(孝昭天皇の皇子) | 和爾日子押人命(わにひこおしひとのみこと) | 彦国姥津命(ひこくにおけつのみこと) | 伊富都久命 | 彦国葺命 (静岡県浅間神社旧蔵、太田亮「姓氏家系大辞典」) |
相殿(あいどの)とは、同じ社殿に2柱以上の神さまを合祀することです (神さまは柱で数えます) 本殿には彦国葺命、天足彦国押人命の2柱をおまつりしています |
彦国葺命(ひこくにふきのみこと)は崇神10年(紀元前87年、第10代 崇神天皇の御代)に武埴安彦(たけはにやすひこ)が率いる賊軍を討つ功績を挙げられました(古事記) 知勇、学才に優れ、「厄除、勝運の神」と仰がれました。当社の創始は彦国葺命をおまつりするため、その子孫が祠(ほこら)を建てたのが始まりと伝えられています 神田神社が鎮座する地は伊勢の神宮(内宮)の神田(みとしろ)がありました 神田は伊勢の神宮(内宮)が全国に領有する土地のことで、御戸代(みとしろ)とも書きます このような土地の領有は他の大社にもみられ、賀茂社(下鴨神社、上鴨神社)をはじめ、春日社、石清水八幡宮などがありました 「神田神社(かんだじんじゃ)」 はこの神田に由来するという説もあります 「みとしろのかみのやしろ」ともいわれました |
神田神社が鎮座する真野(滋賀県大津市)の名は和歌にも多く登場し、 古くから親しまれた土地だったようです。 |
近江路や 真野の浜辺に駒とめて 比良の高嶺の花を見るかな 源 頼政(新古今和歌集) 鶉(うずら)鳴く 真野の入り江の浜風に 尾花波(おばななみ)よる秋の夕暮れ 源 俊頼(金葉集) 夕まぐれ まだきに秋をさそい来て 袂(たもと)に宿す真野の浦風 詠み人知らず(隆信朝臣集) |