掃部山は、江戸時代には「不動山」、明治に入ってからしばらくは「鉄道山」と呼ばれていました。(なお、庶民はポッポ山と呼んでいたそうです)それは、この地が明治初期の鉄道建設事業の拠点になっていた為です。現在、山手にある外国人墓地。そこに眠るエドモンド・モレルをはじめ、鉄道建設のため来日した外国人技師の官舎がここにあった為です。鉄道開通後も、ここの涌き水が鉄道用水として利用され、紅葉橋から花咲町一帯は鉄道用地となっていました。鉄道山が掃部山に変わったのは明治十七年(1884)、旧彦根藩の有志が故井伊掃部頭直弼の記念碑建設のため購入し、井伊伯爵家の所有となったため掃部山と称されました。大正三年になって、伯爵井伊直忠は園地四千二百七十八坪余りと銅像その他を、市民の憩いの場として役立てて欲しいと横浜市に寄付しました。それを受けた市は整備を整えて、同年十一月七日掃部山公園として公開しました。
掃部山湧水・鉄道山湧水