…キリスト教とは…

 キリスト教信仰とは「今も生きて働き、人を導き、支配してくださる神のひとり子イエス・キリストを知る」ことから始まります。キリストは毎日の生活の中でいつも、変わることなく、私たちを愛していて下さっています。私達の魂が、キリストに向かうとき、そのことに気づくことができるのです。
 この世の生活の中で、心を騒がせる私たちの魂が、キリストに思いを向けるとき、そこにキリストがおられることを発見するのです。その時私たちの罪がどんなに悲惨で罪深いものであるか気づかせてくださいます。その悲惨さから私たちを救うために神様の側から、私たちを「尋ねだして」くださるのです。そして罪深い私たちにかわって十字架上でこの罪を引き受けてくださった愛を知らされるのです。
 このことは、日曜日の教会の礼拝で聖書から語られる説教を聞くとき、確かなものとして信じ受けとめることができます。
 キリストを信じるものはいつも希望に満ちています。それはすべての罪と死に勝利されたイエス・キリストが、再びおいでくださる時、み国にあずかる約束が信じる者に与えられているからです。


日本キリスト教会信仰の告白

                              (195310月第3回大会において制定)
                              (198510月第35回大会において一部改正)

 我らが主と崇むる神の独子(ひとりご)イエス・キリストは、真の神にして真の人・永遠なる神の経綸に従ひ、人となりて人類の罪のため十字架にかかり・全き犠牲をささげて購(あがない)いを成就し、復活して永遠の生命の保証をあたへ、救ひの完(まっと)うせらるる日まで我らのために執成し給ふ。おほよそ神の選びを受け、この救ひの御業を信ずる者は、キリストに在りて義と認められ、功なくして罪の赦しを得、神の子とせらる。また父と子とともに崇められ礼拝せらるる聖霊は、信ずる者を聖化し、御意(みこころ)を行はしむ。この三位一体なる神の恩恵によるにあらざれば、罪に死にたる人、神の国に入ることを得ず。新旧約聖書は神の言にして、そのうちに語り給ふ聖霊は、主イエス・キリストを顕示し、信仰と生活との誤りなき審判者なり。教会はキリストの体、神に召されたる世々の聖徒の交りにして、主の委託により、正しく御言を宣べ伝へ、聖礼典を行ひ、信徒を訓練し、終りの日に備へつつ主の来り給ふを待ち望む。いにしへの教会は聖書に拠りて左の告白文を作れり。我らもまた使徒的信仰の伝統に従ひ、讃美と感謝とを以てこれを共に告白す。

我は、天地の創造主(つくりぬし)、全能の父なる神を信ず。我は、その独子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は、聖霊によりてみごもられ、処女(おとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦難(くるしみ)を受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死者のうちより復活し、天にのぼりて全能の父なる神の右に坐し給ふ、かしこより来りて、生ける者と死にたる者とを審き給はん。我は、聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交り、罪の赦し、体の復活、永遠の生命を信ず。
                                            アーメン




日本キリスト教会信仰の告白(口語文)

                        (200610月第56回大会において採択)
                        (200710月第57回大会において制定)

 わたしたちが(しゅ)とあがめる(かみ)のひとり()イエス・キリストは、(まこと)(かみ)であり(まこと)(ひと)です。(しゅ)は、(かみ)永遠(えいえん)計画(けいかく)にしたがい、(ひと)となって、人類(じんるい)(つみ)のため十字架(じゅうじか)にかかり、完全(かんぜん)犠牲(ぎせい)をささげて、(あがな)いをなしとげ、復活(ふっかつ)して永遠(えいえん)のいのちの保証(ほしょう)(あた)え、(すく)いの完成(かんせい)される()までわたしたちのために()()してくださいます。
 
(かみ)(えら)ばれてこの(すく)いの御業(みわざ)(しん)じる(ひと)はみな、キリストにあって()(みと)められ、功績(こうせき)なしに(つみ)(ゆる)され、(かみ)()とされます。また、(ちち)()とともにあがめられ礼拝(れいはい)される聖霊(せいれい)は、(しん)じる(ひと)聖化(せいか)し、御心(みこころ)(おこな)わせてくださいます。この三位一体(さんみいったい)なる(かみ)(めぐ)みによらなければ、(ひと)(つみ)のうちに()んでいて、(かみ)(くに)(はい)ることはできません。
 
(きゅう)新約聖書(しんやくせいしょ)(かみ)(ことば)であり、そのなかで(かた)っておられる聖霊(せいれい)は、(しゅ)イエス・キリストを(あき)らかに(しめ)し、信仰(しんこう)生活(せいかつ)との(あやま)りのない審判者(しんぱんしゃ)です。 教会(きょうかい)はキリストのからだ、(かみ)()された世々(よよ)聖徒(せいと)(まじ)わりであって、(しゅ)委託(いたく)により(ただ)しく御言(みことば)()(つた)え、聖礼典(せいれいてん)(おこな)い、信徒(しんと)訓練(くんれん)し、()わりの()(そな)えつつ、(しゅ)()られるのを()(のぞ)みます。
 
古代(こだい)教会(きょうかい)聖書(せいしょ)によって(つぎ)のように信仰(しんこう)告白(こくはく)しました。わたしたちもまた、使徒的信仰(しとてきしんこう)伝統(でんとう)にしたがい、讃美(さんび)感謝(かんしゃ)とをもってこれを(とも)告白(こくはく)します。
  わたしは、
天地(てんち)(つく)(ぬし)全能(ぜんのう)(ちち)なる(かみ)(しん)じます。わたしは、そのひとり()、わたしたちの(しゅ)イエス・キリストを(しん)じます。(しゅ)聖霊(せいれい)によってやどり、処女(おとめ)マリアから()まれ、ポンティオ・ピラトのもとで(くる)しみを()け、十字架(じゅうじか)につけられ、()んで(ほうむ)られ、陰府(よみ)にくだり、三日目(みっかめ)死者(ししゃ)のうちから復活(ふっかつ)し、(てん)(のぼ)って、全能(ぜんのう)(ちち)なる(かみ)(みぎ)()しておられます。そこから()て、()きている(もの)()んでいる(もの)とを(さば)かれます。わたしは、聖霊(せいれい)(しん)じます。(せい)なる公同(こうどう)教会(きょうかい)聖徒(せいと)(まじ)わり、(つみ)(ゆる)し、からだの復活(ふっかつ)永遠(えいえん)のいのちを(しん)じます。アーメン


サイトマップ      関連リンク集