修 善 寺 紀 行
2002年6月30日 曇り時々晴れ後雨
久々にドライブ気分で決めた伊豆参り。特にどこって要望はなかったんで、修善寺に行って後パパ(時頼)のお墓参りと三島神社っっ
とほとんど勝手に決めちゃいました(苦笑)
6月30日と云えば、ワールドカップの決勝戦…多少どうしよと思いましたが、北條熱の方が勝りまして(^^;)ま、なるべく早く帰ればいっかって事で。
もひとつの心配事は梅雨。雨だったら嫌だなぁと前日天気予報見てたら雨80%とか云ってたりして(汗)
しかし!当日朝曇り。雨降ってませんっっっ私たちの愛の強さかしら?(爆)
ともかく6時半過ぎに家を出て、友達2人をピックアップ。前回と同じメンバーで一瞬不安が(苦笑)←薬師寺紀行を参照の事(^^)
しかし今回はラジオもナンも云いませんっっよぉっっっし!行くぜぇ〜と東名に乗って順調に走り
愛鷹SAで一休み。これ「あしたか」と読みます。もののけ姫を思い出したのは私だけではないでしょうvv
そこでブラジルサポーターと遭遇しました。ワゴン車から次々と出てくるおじさんたち…何故かみ〜んなケータイで電話してるんすよ(苦笑)
本国へ電話してんのかなぁ?今から横浜決勝戦行くよって報告してるのかなぁ??
ふと視線があったらにっこり。ブラジル人の方々はフレンドリーです(^^)
10時近くに沼津着。かな〜り早いです(笑)お昼頃に沼津着のつもりで8時に東名乗ったのに〜って飛ばし過ぎなんですよ(苦笑)
後は136号線をひたすら走る。以前走った記憶が蘇ります。
願成就院を過ぎ、ここからは初めての道。と云ってもそんなに変わるもんじゃありません(苦笑)
修善寺温泉に入りますと所謂温泉街という雰囲気。こじんまりとした印象で道も細いですぅ〜〜〜ぎりぎり相互通行って感じです。
「修善寺」の看板探しながらゆっくりと走ってるとそれらしいのを発見。案内通りに右折して坂を登ります。
しかし地図の感じだとすぐなのに全然ありません(汗)おかしいなぁ〜と進んで行くと「修善寺虹の郷」と云う看板が…間違ってるじゃんっっっ
「虹の郷」はいらないのよ、ただの「修禅寺」に行きたいんだってば(苦笑)本日第一回のUターン…やっぱやらないといけないらしいです(爆)
元に戻って又進みますとありました。思いっきり間違えるハズのないその道路沿いに(笑)何だか笑えますわ(^^;)
修禅寺/(現在は)曹洞宗。大同2年(807)弘法大師が諸国巡歴の際この地で教えを説き、弟子の杲隣大徳が修善寺に残り大師を開基として創建したのが始まり。
寛元4年(1246)蘭渓道隆が軟禁されたのを機に臨済宗となり発展した。南北朝に伽藍が全焼。足利基氏と畠山国清が戦ったりしたらしい…
にーちゃん義詮と違っていいイメージがあるんだけどな〜基氏くんは(^^)畠山って足利の同族じゃなかったっけ?南北朝ってホント難しくて全然追いつかないんすよ〜(汗)
後に北條早雲が再興、延徳元年(1489)隆渓繁紹を迎えてから曹洞宗となる。拝観無料也。
でもってこのページを書く為に修善寺の事を調べていて知ったのですが、場所の漢字は「修善寺」ですがお寺は「修禅寺」です。
何故そんな紛らわしい事をっっしっかり間違えていたので修正しましたがな(苦笑)
流石温泉街で観光地、人が一杯です。私たちが行く場所でこんなに混んでるのって珍しいので、ちょっとびっくりっす(苦笑)
修禅寺と云えば、鎌倉二代将軍源頼家、頼朝の異母弟源範頼が北條家によって幽閉された場所。
北條ら〜ぶの私たちが行くと祟られそうな場所です(^^;)
階段を登って門をくぐると、山を背景にしたこじんまりとした総欅作りの本堂が一幅の画のよう。
明治時代に再建されてますが、綺麗な建物です。
本尊は実慶作大日如来像(重文)ですが、本堂は非公開なので見る事は出来ません。
この大日如来像を解体修理した際に女性の髪が三束胎内から見つかっています。
かなり前にNHKで特集を組んで政子の髪ではないか、と推論したそうです。
血液型はO型とB型。白髪も混じってたとか。果たして誰の髪の毛なのか?政子だったら話題にはなりますわな(^^;)
永井先生は頼家室の辻殿ではないかと考えてらっしゃるようですが、こういう話はとても面白いです☆
どなたかの法要が営まれていてバタバタしてましたが、建物見てるだけで気分がよいです(^^)
あぁこういう場所って落ち着くわ…もっと人が少なければね(苦笑)
人が居なかったら「鎌倉擾乱」ごっこがやりたかったんですけど(笑)
高橋直樹氏の小説なんですが、この中の一編が頼家の話で頼家の暗殺がゴロちゃんの命によるものとなっているのです。
そのシーンを読んだ時、ゴロちゃんの笑い顔…含み笑いが聞こえたような気がしたんですよ(おおうつけ)
きっとカット割するとしたら、この辺りでゴロちゃんの口元だけがアップでぇ〜
頼家がこのヘンで立ち尽くすってど?みたいな(もう腐ってます、何とでも云って♪)
気を取り直して社務所で縁起をもらう、10円也。
向いに宝物館があって頼家所縁の遺品、政子寄進の経典、文書、書画、戯曲修禅寺物語関係品などかあります。
が時間的なものもあり、ここはパス。今度来た時にでも見たいです♪
←修禅寺本堂
お次は指月殿。虎渓橋を渡った高台にあります。丁度修禅寺と桂川を挟んで向かい合ったようになっています。
急な石畳の坂を登り、最後に階段を登って行くといきなり眼前が指月殿。頼家の死後、母政子が菩提を弔うため宋版大蔵経を納め建立したもので
伊豆最古の木造建築です。本尊は釈迦如来。すこし金箔がハゲハゲになってます(汗)
両脇に仁王像。これは元々広大な寺域であった修善寺の総門に脇士として安置してあったもの。少し寸足らずに見える所がカワイイです(罰あたり)
見た感じ、何て云うか昔の学校みたいだな、と思ってしまいました。(自分が小学校低学年の頃には未だ木造だったんだよ〜)
もしかしたら政子もタロちゃんもゴロちゃんも触ったかも、と建物をすりすりしてたのは云うまでもありません(苦笑)
指月殿の隣に頼家のお墓がありますが、遺骸は指月殿の地下に埋葬されてるんだそうです。
彼の最期を思うと、すがしいものではありません。吾妻鏡には彼の悪行ばかりが載っていますが
実際どうだったのか。
元々北條氏の人間が書いただろう書物に立場が悪くなるような事柄を載せる筈がありませんから。
他に残されてる文献や修善寺物語のような物語が成立した事を考えると
かなり思い残した事があるだろうと思います。
義時、時政に暗殺された、とまんま書かれている本もあるし、実際そうだったんでしょう。
ただ幾ら政子の実家とはいえ、当時未だ一御家人に過ぎなかった北條氏が
将軍を暗殺した事を黙認した(しなければならなかった)
そういう下地はあったのではないだろうか。
政治的無能(いいとこの典型的ぼんぼん…)実朝の乳母が北條氏で
頼家は比企氏と云う事も勿論。
ん?結局北條氏が権力を握りたいが為か(苦笑)え〜っと(汗)
個人的には時政は権力を欲しがってたけど、義時はそうでもなかったんじゃないか、と思ってます。
幕府体制を整えたい、朝廷に馬車馬の如き扱いを受けていた昔とは訣別して武士の政権を作るのだ
という気概みたいなものを感じます。
その為の犠牲はある程度やむを得ないと思っていたんじゃないか。
まぁとりあえず頼家はあんまし好きじゃないですねぇ…
つーか源氏って好きじゃないっす(^^;)
しかし亡くなった方のお墓を前にしては、やはり静かに眠って頂きたいだけ…
手を合わせ頭を垂れてきました。 指月殿 →
さて修善寺を後にして次はごはん。まぁ麺類が無難だろうとうどん屋さんを探すと、道路わきに「至高のそば」…あれ「究極のそば」だったかな?
ともかくそういう手書き(笑)の看板を発見。それも幾つもあるんですよ〜
何気に興味を引かれて探しました。136号線にあったんですけど、美味しかったです!普通と全然違う麺なんですよ。緑色の蕎麦なの。うどんもコシがあって美味しかったし。
一人で切り回してるんで大変そうでした。私達が入った後何組かのお客さんには時間がかかってしまうからって断ったり
しまいには暖簾さげちゃったんですけど、次々やってくるし。ここはヒットでしたよん☆次も来ようっと(はぁと)
次に目指すは最明寺。時頼パパのお墓があります。源氏山公園の麓にあるこじんまりとしたお寺です。
ここのお墓は時頼の死後、彼を慕った伊豆の方々が分骨を願い供養したもの。やはり名執権だったのねっっパパ(はぁと)
お寺の方も居ませんでしたし縁起などは全然わかりませんが、ちらっとネットで調べた所、元々禅寺で室町時代に廃れてしまった所を
日蓮宗として再興されたとの事。…時頼と日蓮って仲良かったっけ??(汗)
小さな山門をくぐって見渡すと、時頼のお墓を指し示す案内標識があります。大河効果か?標識新しいぞ(苦笑)
本堂の横の道を進むと一般の檀家さんの墓地への入り口、その脇の階段を上がった所がパパのお墓でした。五輪塔…なのかな。
鎌倉明月院より少し小さいですけど、立派なものです。時頼自身は伊豆で暮らした事はないと思いますが、先祖の土地で眠れるのはきっと嬉しいのではないでしょうか。
さて最後は三島大社。136号線をひたすら戻ります。
その前に最明寺から136号に戻る時に地図を見てたら気付いた。とりあえず「まっすぐ行って」とドライバーに頼む。
狩野川を横に走って行くと北條寺に出ました(うっとり)間違ってなくって良かった♪北條寺と最明寺は一本道なのね〜〜歩くとかなり距離あるけど。
又今度来るね〜〜と念を込めて136号へ戻りました。
どうでもいい話でスミマセン(苦笑)
三島大社/創建はいつか不明。古くは日本書紀にその名が見える。中世以降武士の崇敬を集め、特に源頼朝は有名。
社殿は江戸時代に地震によって倒壊し、時の神主矢田部式部盛治が10年の歳月をかけて復興させた。中々偉丈夫な建物であります。
社務所はこれ又見事な建物で平成元年に完成したもの。
御祭神は大山祇命と事代主命。この御ニ柱を総称して三島大明神と称す。大山祇命ってスサノオだったっけ?
1号線を越えて少し迷って(やっぱり迷うのだ/笑)何とか三島大社着。観光バスもたくさん居て、流石に込んでるみたいです。
駐車場に車を止めて、敷地に入っていくとともかく凄い人出。なになに??何かあるの???と茅の輪くぐりという神事だとか。丁度2時からでホント今から始まるって所。
ふ〜ん、と横目で見ながら本堂へ行こうとした時に厄年を列記した看板が目に入りました。
…友人二人は眼が点。「八方塞」だってっっナニコレ??って感じです。言葉からして不吉(苦笑)丁度ドライバー殿も前厄でして
これも何かの縁と云う事で茅の輪くぐりに参加させて頂きました。
6月30日に行われるのが夏越の大祓、12月31日に師走大祓として毎年行われています。
日常において犯している穢れを半年ごとに人形に穢れを託して祓い清めるという神事で、夏越大祓の際は茅の輪くぐりも併せて行うというもの。
和歌を唱えながら、3回くぐり社殿でお参りして終わりました。これで厄も払えたかしらん??
お参りを済ませた後、宝物殿に向かう途中見たスゴイもの二つ。
一つは金木犀なんだけど、全然金木犀じゃないよぉ〜〜サイズの巨大な木。
何と樹齢1200年!天然記念物に指定されてるとか。マジ大きい。秋に来たら凄く薫るだろうなぁ。むせるくらい(苦笑)
縁起によるとその芳香は二里に及ぶと書いてありました。二里って…8km??ウソぉ。
もひとつは腰掛石。源頼朝が参詣の際に腰掛けたと云われてる石。隣には政子が腰掛けたという石もあります。
ホントかぁ〜〜と思いつつ一応腰掛けてきましたけど(笑)余程頼朝には恩があるのかな、三島大社。
宝物殿では他に誰も居なくて貸切状態で見られました。嬉しいわぁ(^^;)
メインは政子奉納の国宝梅蒔絵手箱。金張りの豪華な一品です。
流石に国宝を展示する訳にはいかないのか、レプリカが妙にライトアップされて展示されていました(苦笑)
このレプリカを作る行程がビデオで上映されていて、思わず見入ってしまいましたわ〜〜なんて細かい作業!
こういうのを見ていると職人さんの仕事って大変だし、伝えていってほしいよなぁと思いますが…
そんな簡単な問題じゃないんだよね…
後は刀や古地図など色々ありましたが個人的には文書が一番目に付きました。
足利直義とかあって(兄はどうでもいいらしい/苦笑)ミーハー度は増すばかりvv直義好きなのよ〜
大河ドラマ「太平記」の直義はちょっとパスだけど(苦笑)
個人的感想だけど、兄よりも切れ者で冷静沈着なイメージがあります。兄がキライだからなぁ、わし。
カリスマみたいな意味では兄の方があったかもしれないけど、政治的に無能っぽいんだもん(苦笑)
余談ですが、帰宅してから宝物殿の案内を読んでたらゴロちゃんの文書もあるって書いてあったのです…
えっっドコにあったのっっっ全部は展示してないだろうから、今回は会えなかったのね、多分(T_T)
いつかお目に掛りたい〜〜こっち方面に来たら又行かなきゃ、だわ。
連れもそれに気付いたらしくメールが入ってましたわ(笑)流石、北條ら〜ぶの私達よね(爆)
←腰掛石 大きい方に頼朝、小さい方に政子が腰掛けたとの事
沼津インター近くの干物センター、前回も寄ったんだけど今回も寄ってみました。するとお店がかなり減ってました…
不況の波はここまで来てるのか?って位すかすかになってて吃驚…お店のおばちゃん達は元気でしたけど何となく悲しい。
結局干物の詰め合わせみたいなのを買ったんだけど、おまけまでしてもらってしまいました。又今度来ますっっ
名古屋に帰り着いた頃雨に降られたりしたけど、何とかワールドカップ決勝戦の後半に間に合う様に帰ってこれました。それ迄もラジオで聞いてたんだけどね(苦笑)
しっかり途中浜名湖SAで夜のお菓子を買って(笑)VSOPとか色々種類はあるけどふつ〜ので充分美味しいと思うわ〜ってどうでもいいか(苦笑)
やはりあちこち行くのはやっぱりやめられない、と思った修善寺紀行でした。…やっばり「奇行」だったかな(笑)