蓮華寺紀行


2000年6月4日、快晴。
近江は番場の宿にある、蓮華寺。ここに最後の六波羅探題北方、北条仲時公以下430余名が静かに眠っている。
今回の目的は彼らのお墓参り。以前・・もう7年くらい前に一度行ったんだけれど
その時はちゃんとお参り出来なかったので、今回はちゃんと花とお線香を用意、準備万端整えて行ってきました。

米原インターを降り、かすかな記憶を辿り8号線に出る。多分こっち〜という何とも頼りない記憶に同行者3名はびびっていたかも・・(笑)
いやもう慣れてるか(爆)。
しかし観光地の強みで、直ぐに蓮華寺→という看板を見つけ素直にそれに従い左へ曲がる・・あぁそういえば高架下みたいな風景に記憶がある。
看板の導くままに蓮華寺に一直線・・一回曲がるトコ間違えたけどさ(笑)

バス停があり、北条仲時公うんぬんという大きな石碑のある角を左に曲がると正面が蓮華寺。しかし高架に遮られて、寺全体が見えない。
折角の風景が台無し・・と文句を云いつつ、駐車場に眼をやるとかなりの車が止まってる。失礼ながら、観光寺ではないからこんなに車が止まってるハズがない・・・
もしや何かあるのでは・・・??入れないと困るよね、としゃべっていると境内から人がやってきた。訊いてみれば、6月の第一日曜日は
菊華会の法要が営まれているという。菊華会とはここで自害した430余名の方々の子孫で構成されている会のこと。
とんでもない日に当たってしまった・・・けれど入っても構わないとの事でほっとする。もうちょっと早く来れば、一緒にお参りしてもらえたのに・・と云うお言葉に
私達は恐縮。とんでもございません・・彼らの末裔の方々と席を同じうするなんて恐れ多いっっ。

蓮華寺勅使門

正面の勅使門・・中々荘厳な門。蓮華寺は聖徳太子創建で元は法隆寺と呼ばれていたらしい。皇室所縁を表す土壁の5本線・・・
下に眼を移すと今はコンクリートで固められてしまっているが、自害した430余名の流した血がまるで川の様だったことから名づけられた血の川の址が・・・
勅使門は滅多な事では開かれないので、左側から回り込んで境内へ。入山料300円也。人は居ない。ただお金を入れる箱が置いてあるだけ。
なんとものどかな風景・・だけどそれがとてもしっくりしている。

境内から右に折れ、階段を上ってその中腹に彼らのお墓はある。無数の塔。言葉もなく、花とお線香を供え手を合わせる。
周りは緑・・秋には紅葉が楽しめるだろう・・ここなら静かに眠れますね・・・・。

お参りを済ませた後、過去帳を見せて頂く為本堂へ。案内の方に、どうしてここへ来られたのですか?との質問に一瞬、しどろもどろ(汗)。
仲時公のお墓参りに、と云うとえらく喜ばれて、菊華会の方々にお伝えしておきます、とまで・・そんな(あせあせ)。
そんな高尚なものじゃないんですよーホントはっっ。ただボンノーにまみれてるだけです・・すすすみません;;(心の叫び/笑)
本堂後ろの庫裏に過去帳は展示されている。他に一向上人の掛け軸や、仲時公の肖像(ホントにつり目よ/笑)、槍、井伊家の掛け軸・・などなど。
長刀もあったんだけど、紋が違うの・・・北条家の紋じゃない。それとも普恩寺の紋??・・・ホントに奥さんの長刀だったらロマンティックだよね〜。
過去帳に眼を転じると、まず越後守仲時/28歳で始まりたくさんの名前が連なっていた。
糟谷の名前も見える・・名前は甲冑に書いてあったので、それを書きとめたらしいです。でも年齢は・・・?と尋ねたら意地悪な事訊くね〜と笑われてしまった。
それって・・・・まずいんじゃないスかっっ?(汗)勘ぐっちゃうぞぉ〜(笑)
10代の少年の名前も・・中学生かそこらで主に従って、腹を切るなんて今なら考えられないこと。しかし酷い時代だったとは思いません・・彼らは武士として
鎌倉武士として誇りを持って、自害したと思います。境内を流れる血の川・・・確かに悲惨な最期ですが、武士とはそういうものだろうと思います。
・・・裏切りに疲れはて、本当は故郷へ還りたかっただろうけど、力尽きた彼らを誰が責められるというのか。ようやくゆっくり眠れるのだから・・・
今の平和ボケした私が何を云っても、仕方のない事ですけれども。

そして、一つの写真が眼に入りました。六波羅山にある仲時公の墓・・・?京都にもお墓があるのか?と思ったが、念のためお尋ねしてみると
元々は境内のあのお墓だけだったのだけれど、時の井伊家の殿様(多分江戸時代ですな)が、六波羅探題まで務めたお方のお墓がこんな所では何だろう
と云う事で蓮華寺正面の六波羅山の頂上近くに移葬したとの事。位の高いお方の墓は高い所に・・・と云う事らしい。
ちょっと待ってっっではさっきお参りしたお墓には仲時さまは居ないのね・・・(涙)
でも一人で可哀相な気もする。部下たちと一緒にこちらに居たかったんじゃないただろうか・・淋しくないかなぁ・・・・。
お墓は一畳分くらいある立派なものらしい。写真ではよくわかりませんでしたが・・・。
何でもいいけど前回来た時は、そんなお話出ませんでしたけど〜(笑)、いやでも驚きでした。やはり訊きたい事は訊かなくては。

こちらで扱ってる文献などあったら見てみたい、というような事をお話してたら住職さんが登場。過去帳を写真に撮ってそれを本にしたものがあるらしい。
ただそれは、菊華会限定本の様なもので正に刷り上ったばかり・・まだその方々にも配布してないのに外部の人間に出す訳にはいかない・・それよりも何よりも
5000円って事なので、ちちちちょっと手が出ませんです、はい。
その代わりって訳じゃないけど、蓮華寺のエピソードを集めた冊子を購入しました。こういうのつい買ってしまうんですよね。

本堂から見える六波羅山、少し木々が切れているあそこがお墓ですよ、と教えて頂いた。思わず拝む私達。
登れない事もなさそうだけど・・・やめておいた方がいいだろうか・・今回は。いつか登ってやるっっ。

蓮華寺1←門後ろに見えるのが六波羅山。あそこに仲時さまが眠ってるのね・・・(爆)

本堂から境内を臨む。仲時もこういう風に皆を眺めたのか?
この本堂は鎌倉当時のものなのかを訊くと、はっきりはわからない・・と云うか・・
いや、その案内の方は菊華会の会合で既に一杯やってて(笑)、ちょっと言葉がアヤシかったんです(笑)。そんな時に来ちゃってスミマセン・・。
でもいろいろ説明して頂いてありがとうございました。
冊子によると、六波羅山の麓の可能性もあるとのことで、どうも当時の蓮華寺は現在とは違う所にあったらしい。ちょっと残念ですな〜。

本堂でそんな話をしていると、菊華会の方々の笑い声などがもれてくる。
いつもならお茶ぐらい出すんだけれど、と云われ、そういえば前回来た時あちらに通された覚えが・・・。
何やらあか・・なんとか云う人とか居てね、と云うので、あか・・はしさんですかっっと思わず力が入る私達(笑)。どうも誘導尋問してたよーな・・(爆)
本当に赤橋という苗字の方が居たら・・・一体誰の子孫なのかな・・・?誰か生き残ったのか・・・?それとも娘の流れかな・・・?
何にせよ三つ鱗の紋の方が居たらしいので、もう私達のミーハー度はレッドゾーン(笑)。困ったもんです・・誰か止めて(爆)

帰り際、もう一度境内を見渡して、斎藤茂吉の歌碑や聖徳太子叡願の梅、鐘楼などを見、又来るだろうと云う想いを胸に帰途についた。


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