台湾周遊旅行記

魁三鉄(永橋続男)

2009年5月28日(木)~6月4日(木) 8日間 

 

2009年5月28日(木)曇り  台北は晴れ 

 モリシアに新規開店した「日本旅行」のキャンペーンとして、11,000円台北往復切符が売り出されたのを知ったのは、約10年ぶりの海外旅行、4月21日~25日の第1回台北旅行から帰った翌日、4月26日の事であった。

即断即決。切符は最大延長1週間のFIXであったので、一週間として申し込んだ訳だ。航空会社は選べないという事であったから、これは中華航空しかないな、と思っていたが、予想通り、切符はCI101便16:30発であった。座席は44Hである。

 

 この日のGateは86番、シャトルへ乗らねばならないので少し不便。中華航空は昔は乗るものではないといわれていたが、こんにちではそのようなことを言う人は少なくなった。相変わらず機材はセコハン中古機の手当てであるが、安全確認や運行乗務員の腕は全く問題ないと信じている。客室乗務員も多くは洋風の顔立ちの若いシャオチェ(小姐)CA.だ。薄紫の制服。昔はどの航空会社も民族衣装をあしらった制服を着ており、そのような国を代表する美女とそのサーヴィスぶりに男どもはおおいに喜んだものだが、いまはもうCAに酒の勢いで絡んだり、サーヴィスの強要を迫る客もいないようだ。前回、Cathey Pacificの時もみな旅慣れた感じだったから、時代の流れの中で日本人は全体、海外旅行におけるマナーも自然と向上したのだろう。それに治安上の理由から男性CAもすぐ駆けつける体制になっているし…。

サーヴィスで少し不満なのは、日本の新聞がないことか、台湾の各誌、新聞はあるが、乗客数の多い日本人用のそれがないのは片手落ち。コスト節減、それとも国家のプライド?

台北との時差は1時間、台北には現地時間19:00頃到着であった。一人旅、手荷物だけなので入国手続きも早く終わり、空港内で30,000円の両替を済ませた。この日は9,972元(TN$)であった。手数料は30元。

 「国光客運」の台北市内行きのバス切符(125元)を購入し、乗る頃には、あたりはもうすっかり夜となって暗くなっている。初めての訪問地の夜の到着は心細いが、慣れているところは迷いもない。台北駅まで約1時間。リムジンバスもなれたもので、10分おきくらいに、各社競争で運行している。一番安いのが国光客運、アロハが一番高いがバスが豪華。

バスが台北駅へ近づいたのでバス停車場から方向の指標となる「新光三越」高層ビルを見るが、見えない。真四角の駅舎の中で東側に到着したようだ。南側へ出ると右斜め前に「ビル」が見えた。これですべて勘が働き出す。予約しておいたホテルは「城美大飯店」、南西の方角だ。歩いて10分くらいとのことだが、私など5分で行ける。碁盤の目状の道路だから簡単だ。繁華街であるし、治安は全く問題ないのが台湾のよいところ。昔ながらの軒下商店街、そして銀行、証券会社のビル、雑居ビルなどが林立。カメラ機材の店がやたらに多い商店街の一角にホテルはあった。Internetで1,500NT$だが、現地で飛び込んで行けば、1,230NT$(平日)だ。帰国前の6月2日、3日分は早速予約した。台北は予約無しで行っても十分宿は見つかる。ホテルについてはまた記そう。

 通されたシングル、バス無しの部屋は、見た目はまったく問題なかった。702室だ。一通り明日の支度を確認して時計を見ると10:00だ。いまさら夕飯でもないと、そのままベッドへ。ところがしばらくするとディーゼルエンジンのような低い周期的な音がするのに気がついた。寝静まると余計に音が耳につく。そんなこんなで気がつくと音が大きくなる。半分寝ているような、半分おきているような…。フロントへ文句を言って代えてもらおうかなと思いつつも面倒だし、と結局、そのまま寝てしまった。5時間くらいは寝たのだろう。

 

5月29日(金) 晴れ

 

 7:00からの朝食サーヴィスに一番乗り。トースト一式、お粥、中華惣菜からのヴァイキング、一回きりならなんとか我慢できる内容。あくまでもおまけのサーヴィスと思うこと。

向田邦子の遠東航空機墜落の場所、苗栗県三義郡へ向かう。直行列車がないので7:55発の苗栗(Miali)行きへ乗車を決める。台北駅地下ホーム3Bから乗車だが、列車の編成が短く、危うく逃すところだった。ホーム上で列車の停車位置を自分の目で確認したほうがよい。

列車はモダンなステンレス車両、日本からの輸入車両かも。各駅停車は<区間車>と表示される。急行は「莒光号」、特急は「自強号」。

この日から台湾は端午の節句の4連休とかで、子供づれが目立つ。家族でハイキングなどへ行く人でごった返していた。列車はほぼ満員。若い子達、中学校高学年くらいの子達の携帯を手放さない姿は日本と同じ。シルバーシートにあたる博愛座と示されたところに若者が占めているのも似たようなもの。40,50歳台の人々は率先してお年寄りに席を譲る。

列車は板橋、樹林、桃園、河北、竹北、新竹、苗栗へと走る。桃園までは比較的人家が線路沿いに立っているが、桃園を過ぎると駅の区間も長くなり、畑の緑がつづく。大きな都市には半導体や日本のYAMAHAとかの製造工場が建っている。現地生産拠点だ。かなりの日本企業が進出している。

台北では見られなかった屋根の上に銀色に光る大きな筒状のタンクが各家にある。どうやら太陽光を利用した温水タンクのようである。しばらく走っていると風力発電塔も連続して立っているところもあった。

 台鉄は在来線運営、高鉄は「新幹線」高速鉄道のこと。台鉄は伝統がある分、廃止された古い機械、列車などがところどころにある。三義駅への直行はなかったので、苗栗駅から10:52の区間車(各駅停車)二水行きへ乗車で。運賃は台北→苗栗165元、苗栗→三義28元。待ち時間の間に苗栗駅付近を散歩。駅前はバイクでいっぱい。台湾では路上駐車が当然となっているので、道路は広い。バイクは文字通り足なのだ。

 三義駅では向田さんの碑まで行くのに駅から少し下っていった先の交差点脇にある、貸し自転車、バイク屋を見つけた。サイクリング自転車を借りた。彭という女性が100元とpassportを預かった後、自転車を貸してくれた。自転車に乗って街中をうろうろ走ってしばらく行くと、先ほど貸し自転車屋にいたMs.彭がNAGAHASHIさん!と坂道の上の方から呼びかけている。狐につままれたような顔をして顔を確認するとなんと彼女だ。いったいどうやって私より先に…、果して、私が回り道をしたのかな…などと思いながら、「ハァ」と返事をするまもなく、傍に近づいてきて、これから自動車で送ってゆくからそれに乗って行けとのこと。と、話を聞いていると、実にトラックみたいなバンが傍で止まった。「借りた自転車は荷台へ乗せるから、前へ乗れ」という。「父が運転して送る」というのだ。最初借りた自転車で行くからと断ったが、坂道がきついという。「だから乗れ」と。これはすべて英語でのやりとり。

「わかった。じゃお言葉に甘えて」と。助手席に乗り込んだ時、まだ「お花」を買っていないことに気が付いた。そこで「まだ花を買っていないので、花屋を見たらそこでいったん止めてくれ」と頼んだ。Ms. 彭は父親にその旨中国語で伝えたところ、この先には花屋はないからまた街中へ戻るという。ぜんぜんいやな顔もしないでそのまま乗って花屋まで戻り、50元払いユリと蘭の花ともう一種類の花を買った。

 さて、車に乗りなおしたが、途中会話が出来ない。なにしろ会話はまったくわからない。英語も分からないから、あきらめて日本語で話していた。父親は中国語だけ。なんとなく雰囲気だけは友好的な感じにしようと笑顔でお互いに話しておいたが、実際は何を語り合っているのかわからなかった。バンはやがて未舗装の(工事中)急な坂道に入った。昇って走れなくもないなとは思ったが、実際に足で漕いで登るのは結構大変だ。大汗はまちがいない。そこをすいすいとバンは行く。三義は材木業の街として発展したらしい。途中、森林博物館があり、珍木が並べてあった。10分も走らなかったと思うが、右へ大きなゆるやかなカーブをのぼりきり、少し下り道にさしかかったとき、ここだと云う。知っていなければ、見過ごしてしまう場所だ。下車して初めて階段が見えた。それ以外何もない。その階段まで来て見上げると亭と呼ぶ茶会用の亭のような屋根の下に石碑が見えた。15段くらいの階段をあがると赤い線香がすっかり放置された姿で崩れて立っている。ここしばらくは人が来ていない感じだった。石碑に金色で受難者や客室乗務員、パイロト名等が彫られている。向田邦子さんの名前も左最下段に記されていた。

向田さんは取材をかねて、中南米、アルジェやアフリカ、アマゾンなど意外に穴場を訪れる人であったようだ。飛行機の離着陸が苦手だなどというエッセイもある。台湾にはどんな取材目的で行ったのだろう。

 Ms彭の父親はここで帰るからというので「もちろんOK.後は自分で自転車で帰る」と伝えた。記念に一枚彼の写真を撮った。

しばらくあたりを散策してみた。亭の場所はちょうど三義のエリアに入る峠の頂点に位置していることがわかった。三義郷からこの峠を下ってゆくと苑裡へ通じるが、この峠は結構山の中なのだ。標高は500~600メートルくらいの山がいくつも縦につらなっているところだ。薄紫のむくげの花が咲いているネットの遥か向こうの下界に街並みが見えた。

遠東航空のジェット機はもっと山の中に落ちたのだろうと思われた。もっとも空中分解らしいから1箇所に固まっての事ではなく、あちこちに散乱という悲惨な状況であったらしいのだが。当時は130号線も狭く自動車1台がやっとの道幅の細い田舎道であったのではないかと思う。

 向田さんの優れた作品の意味は、ある意味でどこにでもあった日本の戦中から戦後にかけてのわがままな亭主関白の虚勢を張る姿や家族への愛そしてそれを支える妻の内助の功、兄弟愛など家庭の温かさをごく普通の人の視線で描きながら時代の様相を浮かび上がらせたところにあるのだろう。やはり家族の温かさ、コミュニケーションの豊かさへの共感だろう。有元利夫の共感した部分は谷中の寺内貫太郎一家に代表される家庭の温かさ、人との交わりの濃さにあったのではないかと思われる。コミュニケーション力だ。

 さて、峠からは貸し自転車で下り道の快走である。そんなに急坂ではないが長い距離なのでどんどんスピードがあがる。ひんやりとした山の空気が爽やかだ。軽井沢あたりで経験した爽快感だ。真正面にはお椀のような山が道路の両脇に茂る木々の合間から見える。時々、自家用車とすれ違う。三義の街をしめすアーケードをくぐり、左へ曲がるともう街はずっと人の流れでいっぱいだ。時刻はもう昼を過ぎている。どこかで腹ごしらえをと思いながら左を見ると、乗っけてくれたMs.の父が店先に立っていたので、おお声で「さっきはありがとう」といったら、気が付いて手を振ってくれた。店の名前を覚えるのもかねて写真を一枚撮っておいた。後で送ってあげれば、と思ったからだ。

下りの坂道だからペダルに足を乗せてハンドルを左右に細かくまわしながらスピードを殺して町の通りに沿って降りて行くと左右にはいろんな屋台の店が出ている。食べ物屋が多いが、おもちゃのようなものを売っている店もある。椰子の実ジュースをリヤカー屋台で売っていたが、生水を使っているので、買うのをやめた。

どこへ入ろうかとうろうろ左右を見ながら自転車を流していると、長蛇の列を成しているレストランがある。どうしようか迷ったが、あれだけの人気だからきっとうまくて安いかなにか特別のものがあるのだろうと自転車を右側の空き地に止めた。

そのレストランの前後の左右の道は車だらけだ。台北ナンバーの車も多い。店の名前は「頼新魁麺館」という創業60年の老舗だった。店には12:40に入ったが、席はすごい熱気、超満員。一人ということで並んで待っている家族連れを飛ばして席を案内してもらった。

 そこは麺の人気が高いらしい。いろいろメニュは書いてあるが、私は面倒なので、右斜め前に食べている人の麺を指指した。頼んでから周りを見回すとみんながそれを頼んで食べている。それとワンタン麺みたいのを頼んでみた。自分で一品料理小皿を選択して品物を食べる事も出来るようになっており、何か旨そうなものがあれば、直接手にとって見ようと思ったが、格別のものもなかったので、注文したものだけを待った。10分位したら来た。熱いスープをそっとスプーンにのせ、息を吹きかけて、瞬間冷ましてから口の中にスープを落とした。「旨い」。軽い油に豚かイノシシの肉油の香りが乗っている。それに野草の春菊みたいな若芽だけからなっているような緑の草が香ばしく口の中から花へと抜ける。山菜きのこなどの入った担仔麺とかはどこでも同じように売られているが、やはり微妙にスープの味が違う。そしてワンタン麺も熱いスープの味がよかった。油が軽かった?せいか?

台湾で一番安あがりな食事はルーロウファン(魯肉飯)だ。これもどこにでもあり、20~30元で食べられる。屋台でも一番安い一品だ。

 この食堂で、左隣に1組の夫婦が座った。私は中国語は一切ダメなのだが、そこは旅なれた者の度胸慣れ、万事指とジェスチャーと英語でOKなのだが、一品食べ終わったところでもう少し何か食べようかと首を回していたら、隣から「日本の方ですか?」と流暢な日本語、それでも少しアクセントが習った感じがしたので、台湾の人だろうと思い、「はいそうです」。津田沼とか保田とか言うのは面倒なので、「東京からです」と応えた。「ここにお友達でもいるのですか?」という。まぁ、三義などというところへ来る人はよほどのわけがない限り来るはずはないのだから、そう尋ねられても不思議ではない。「いや、28年ほど前に遠東航空機がこの山の中に墜落したのを覚えていますか?」「ああ、そういえば、

わたしたちその頃東京へ留学していた頃です。東大の工学部です。」「工学部というといろいろありますけど?」「土木です」「私は服飾なの、向こうで知り合ったの。」と奥さん。「主人はいま台中の大学で教えています」と、特に聞きもしないうちにいろいろ話す。「どうしてこちらへ?」「さっき言った事故の慰霊碑が立っているのでそこを訪ねてみました。向田邦子という有名な作家が事故に巻き込まれましてね」「ご家族?」分かってないな、と思いつつも「いや違いますよ。ぜんぜん関係ありませんけれど、訪れてみたくなったので…。お参りも兼ねて」「そうですか、よかったですね」とこんな話をしばししていると次の台中へ行く列車の到着時刻が近づいてきたので、では「お互い、道中ご無事に」と別れた。

 若い頃は出先で人に会うといろいろ話を発展させたが、なんだか自分の容貌もどんなに若く見ても50歳くらいのオヤジだと思うとなぜか、話を発展させる事が億劫になってくる。白髪交じりの髪を黒く染めて30歳代といってもバレナイくらいなら、ちょっとアヴァンチュールを楽しめるところだが…。作り話、つまり創作などにはそんな変装でもしないといまの歳では面白い劇的な状況には出くわさないだろうな、と思う。

<<ここまでの部分は別の写真付きでYAHOOの拙稿ホームページ『有元利夫をめぐる断章』5.向田邦子の世界 に引用してあります。>>

 台中へ着く頃になったら、列車の中で少しお腹が鳴り出した。下痢の前触れだ。台中のホテルは2日目の分はAgodaを使ってe-booking(予約)を入れておいたが、29日はどこへ泊まるかを決めておかなかったので、これから探さなければならない。と思いながら、台中駅下車直前になったら、猛烈にトイレに行きたくなった。もうしばらくの我慢、と思い列車から降りたが、あまり我慢するのもよくないと思い、駅のトイレへ。しかし、なぜか、満員。仕方がないので、どこか大きなホテルへ入って、泊まる交渉をする前にトイレを借りよう、と思い、街中へ出た。結果から見ると駅の右側がホテルのたくさんある地域だったのだが、正面左に…大飯店の大きな文字が縦に見える。安心したのか、急にトイレも近くなる兆し、腹も痛い、汗が額に滲み出すのが分かる。広い駅前を荷物を引っ張りながら走って、そのホテルへ飛び込んだが、誰も出てこない、だいいち、ガランドウで人の気配がない。おいおい、と誰かいるだろうと隣の店の人に英語でホテルの受付はここでいいのか?と聞いても知らん顔。ぜんぜん通じない。もう尋ねているより、ほかのホテルをあたった方が早いとそこを諦め、同じ方向の奥へ進んでいったが、これが辛い旅の始まり、となってしまった。

 大楼と書いてあるビルへ入れば、トイレくらいあるだろうと入り口まで走るように行くと、ロープが張ってあり、入れない。ホテルはと上を見上げてもこちらにはない。もっと先へ行けばきっとあるだろうと思い先へ進めども、ない。では角を右へと軒下の商店街を走るが、トイレのすぐ借りられそうなところはない。あぁ、参った! お腹が痛いし、もう我慢できないくらいの便意、お腹は周期的な感じで我慢できそうもなくなったり、我慢できそうになったり、…、訳も分からず走り歩いているとレストランがあった。ええい、とまず飛び込んだ。「いらっしゃいませ」と云われているのだろうが、構わない。荷物をほうって、お腹を押さえながら、「トイレ!トイレ!」と叫んでもなぜか通じない。中国語のトイレをなんというか覚えておかなかった罰?10秒か、20秒かわからないけど、ジェスチャーでトイレに入りたいと伝えると女店員はわかったらしく、奥のほうへ手を向けた、急いでそれらしきところへと向かう。あった、あった、列車型の便器が見えた。ほっとする。ズボンをめくってパスポートとかお金とか入った貴重品入れを落とさないように気をつけながら便器にしゃがむ、苦しくなってくる、汗で体中がびしょびしょだ。

 というような状況を経て、無事悪いもの?を出してしまう。少し落ち着いたが、もう一度行くだろうな、なんて計算が出来るほどに落ち着いた。楽になったので、トイレから出たが、時刻は3時頃だし、そんなお腹の状態じゃ食べてもすぐに下痢してしまうだろうと、思い、身支度を整えなおすと、いくらあげてよいかわからないからポケットにあった50元を出してそこの主人らしきオヤジさんに手わたそうとした。「シェシェ」と言いながら50元を台の上に置いたが、オヤジさんはいらないという。場所を教えてくれた給仕の女の子もいらないという。顔が笑っていないので、なんともバツが悪い。結局、とりそうもない雰囲気だったので、「シェシェ」と5回くらい言ってそのレストランを出た。お腹は痛くなくなったが、歩いているともう一度トイレへ行きたくなりそうな感じ。まだ全部悪いものを出し切っていないナ、と自己診断。早くホテルを見つけないと。

 と、歩いているのだが、今自分がどこを歩いているのかも分からない。台北の新光三越タワーのような高い一目で分かる目印とかがない、軒下からは建物が邪魔をして何も見えない。まぁ、いいや、歩こう、歩こう、などと角が来るたびにそちらに歩いてみるがホテルはない。駅のすぐ右側にホテルの文字が見えたのを思い出し、右側へと方向をとりながらまた歩く。またトイレへ行きたくなってきた。今度は少し落ち着いている。しばらく歩いていると薬局があった。ここならいいだろう、入りやすいし、と思い、店の中に入って、お腹が痛い、とお腹の周りに右手をあてて、さすりながら「トイレ」へ行きたい、というのだが、若い女の子たちに「トイレット」という言葉が通じない。

そのうち、女店員たちが3人集まってきた。なんとなくはづかしいが、「トイレ」と繰り返したら、ひとりが笑いながらこちらへどうぞという仕草で連れて行ってくれた。店員さんだって人間だから勤務中にトイレには行くだろうと思っていたから、トイレの存在は確信していたが、「トイレ」が通じないのには参った。ウォッシュルームとかトワレットとかトイレットとか言ってもぜんぜん通じないのだ。手洗い所と紙に書いて見せればすぐに通じたかもしれないとは後からの話。ここでもお金はとらなかった。みんな笑っていた。私も愛想笑いをして、御礼を言って出てきた。お腹ももう完全に大丈夫という感じになっていた。

体に余裕が出来たので、いろいろ店を覗きながら、どこに宿をとろうかと思い、また歩いた。少し、駅の方向に戻ってみようと思い立ち、しばらく歩いていると旅館
HOTELという文字が薄紫色の看板で出ている。近づいて行くと見た感じきれいな扉だ。とりあえずここへ入って聞いてみよう、と扉をあけると2階へと階段があり、2階に受付がある。受付の女の子に今晩泊まりたいが、一人でシングルベッド、バスつきでいくらか?と英語で聞くと800元だとのこと、あまりに安いので、実際の部屋を見たいのだけど……というとそのまま同じ階の205の部屋へ連れて行ってくれた。これが少し狭い感じはするもののお湯もたっぷり出るし、設備も上等、騒音もなさそうだ、これで800元とは信じられないとおもったが、現にこれが使えるのだと思うと即刻決めた。ホテルの名は「S旅館」とある。大飯店ではなく、旅館というのは格は低いらしい。しかし、もらった名刺はすべて英語で書かれているし、非常に便利だ。ただ、あとから分かったが、こういうホテルは日本で云うラブ・ホテルでもあるようだ。朝食は付かなかったが、棚にほかの洗面用具などと一緒にコンドームが置かれていた。時間貸しで~元とかの表示もあったから。でも怪しい感じはなかった。ほかの部屋とは離れていたのか、誰にも会わなかった。顔をあわせないように作られているというわけでもなく、だれでも一人で利用できる普通のビジネスホテルだ。

 というわけで、ホテルは格安だった。翌日泊まることになっていたe-netで予約していたGGHotelよりはずっとよかった。そちらは格は上であり、部屋のつくりは大変立派であったが、夜中に変な電話(娼婦?)がかかってくるし、朝飯もたいしたものでもないし1,900元もするというのだから、果たして国際公認ホテルとは? だ。

 ホテルも決まったので、夕方、街の中に地図を持って出た。中国は建国の父、孫文が中山という名で崇められているため、町の中心部には必ず中山公園とか像がある。この台中にも立派な中山公園があり、市民が池のボート遊びに興じたり、恋人たちのデート回遊路があり、憩いの場となっていた。落ちてゆく丸い夕陽が非常に大きく、朱色の光が強く輝いていたのが印象的であった。ただ、池の水は水道水からの循環らしく、自然水の山からの流入ではないので、緑色をした水であまり感じよくなかった。

 台中は面積は大きいが感じとしてはこじんまりした都市のようだ。駅の周りが旧市街、郊外に高層ビルが林立している。台中は台北と比べると全体のんびりしている。いわゆる名所旧跡というものはなさそうだが、一応台湾の中部の中心都市だ。バス以外の公共輸送手段もなく、歩いてすべての用事を済ますことのできるところだ。逆に言うと、あらゆる生活に必要な事は徒歩圏内にある。ただ駅の周りは繁華街も廃れているらしく、歓楽街らしきところもとくにはない。台湾といえども、中国の思想というか、考え方は大陸的であり、道路幅にしても、区画にしてもでかい。台中も歩いているとだんだん疲れて、遠くに見える建物まで歩くのがイヤになってくる。

夜は継光商店街という車一台がやっとの軒下商店街を往復してみた。漢方薬問屋、食事屋台、ジュース屋、御茶屋、電気製品、上下水道備品屋、薬局、雑貨屋など暗いイルミネーションの脇に並んでいるが、そんなに人通りも多くない。物価(食事)は台北に比べると少し安い。食堂でもほとんどの食べ物が一品20元から50元までの間だ。

ホテルは値段が異常に安かったからかえって心配になったくらいだが、治安上の不安も全くなく、怪しげなカップルが人目を忍んで…というような光景も眼にしなかった。あったとすれば、トイレの水洗の流れる音がたまに円窓の向こう側から聞こえてきた事ぐらいか。

台中は結局私の場合は、日月潭と阿里山へ行く拠点として滞在した場所という以上の意味はなかった。

 

5月30日(土) 晴れ

 日月潭へは当初あまり熱心に行きたいとは思っていなかったのだが、やはり台湾の名所という事で行く事を昨晩決めた。ルートはバスにしようかと、観光バスツアーも駅前のバス会社で探してみたが、案外高い。日本で募集している台北からの日帰りバスツアーなどはとても高い。国泰交通という4,5人乗りのミニバンだと150元で水里まで運んでくれる公共バスがあるのがわかったが、なんとなく鉄道の方がいいという気になったので、集集線というローカル線へ乗って行くことにした。台中→水里113元。

どうせまた今夜は台中のG GHTLへ泊まるのだからとキャリー・バゲッジはS旅館へ預けた。

8:35発の列車へ乗ったのだが、この日は4連休の間という事もあり、列車は超満員。家族連れや中高生が連れ立ってはしゃぎながら列車の中で姦しい。二水というところから田舎の支線に入り列車は少しづつ山あいを抜けて走ってゆく。車窓からの眺めもバナナや椰子の林立群生となる。野生とも荒れた畑ともつかぬ群生地帯を通り抜けて、ジィーーージャジャジャという唸るような空気を震わすエンジンを回す音とその後の休息のような無音の間、ゴトンゴトンというレールを鳴らすだけのディーゼル車特有の走行音を一定のリズムで反復させながら、響かせ、車体を揺らしながら列車はひた走る。

正座するような位置で座って首だけ窓の方に向けて外を見続けるのでしばらくすると首が痛くなってくる。で、反対側に首を、となるがお隣の座席の人も同じようにしているからそうすんなりと座の位置を変えて自由に姿勢を崩して見ることも出来ない。そんな事の繰り返しをしているうちに、列車は集集という駅に着いた、このあたりからはいろいろなハイキングコースがあるらしく、リュックサックを背負った青少年や親子連れがたくさんそこで降りた。

それでも座席はほぼ満席のままだ。残りの人は水里まで行き、さらに私と同様に日月潭まで行くのだろうか?となるとバスも満員かな? などと思っているうちにわけなく水里に到着。駅舎は一段高いところにあり、急な階段を下って駅前広場に出た。自家用車なども着ているが、バスの姿は一台も見当たらない。黄色いタクシーは何台も停まっている。日月潭行きのバスはどこからでるのか?と尋ねても英語がわからない。だいたい地方のバスというものは列車の到着時刻にあわせて、接続良く運行されているはずだからここで一台逃すと次まで1,2時間は待たないといけないなどと懸念し、少し焦る。早いとこバスを見つけなければと。もしかしたら、観光地によくあるようにタクシーで行く事を暗に推奨するためにバスはないのかもしれない、などと変な勘ぐりをしながら歩く。


歩きながら誰かれなく尋ねているとバスはあっちだと手で示してくれる人がいた。左手に曲がり少し坂を上ると向こうに一台バスがいる。少し走ってバスのところまで行き、行き先を確認すると「日月潭行きではない」と細かく手を横に振る。ああぁ、まいったなぁ!と思ってふと右を見るともう一台おんぼろバスが停まっている。が、客は乗っていない。目指してきたバスに気を集中していたせいか途中の小屋みたいなところに人が屯っていたのが眼に入らなかった。気を取り直して人のいる方を見るとどうやらそこがバス停らしい。しかし、さっきの列車に乗っていた人たちのようにリュックサックなど背負っている人は誰もいない。本当にこれでいいのかなと不安に思い、お年寄りに尋ねても英語だから通じない。バスは着ていないが、ここで良いのか否かが確認したい。掘っ立て小屋みたいな中に入ると切符売り場があった。窓口でSUN-MOON LAKE?というが窓のオヤジさんははぁ?という顔をしている。と、「Yes」という声が脇のほうからして「forty seven yen」と30歳くらいの青年が教えてくれた。顔をみるとアメリカ人だ。ああ助かった、これで必要な情報は全部えられるし、万事OKだ、と安心する。そのアメリカ人青年、中国語が自由に操れるうえ、少し日本語もわかるという。

車中、両脇の車窓から外を眺めつつ、アメリカ人と話をした。大陸本土から来たという。中国語はそちらで身につけたということだ。世界中旅行をしているとときどきこういう現地語に通じたアメリカ人に会う。
CIAの一員なのだろう。スパイ映画のようにではなく、ごく日常の生活を定期的に仕事として報告しているのだろう。そういうものだ。別にとくべつの存在ではなく普通の市民なのだ。だから警戒心などは持たないのが私。

日月潭のvisiting centerにバスが着くと「俺はこれから貸し自転車を借りる。ここに泊まるつもり。あんたは?」というので、「今日夕方には台中に戻るから、ここには泊まらない。歩いて周遊するから自転車もいらない。じゃここで、バイバイ」ということで、そこで別れた。

 日月潭はすごい人だ。ほとんどの人は自家用車できている。駐車場は広いが、それでもまだ空きが見える。大型観光バスも100台以上は来ている。連休だから台湾全土からこの地に押し寄せているのだろう。バス停のあるセンターからいったん下って、少し上り左折すると日月潭の碑の立っている一番の混雑のボート乗り場だ。正面には青龍山とかいう山が頂は霞んでいるが見えている。日光の男体山という感じだ。湖上は波が立って、岸辺には波が50cmくらいの高さで押し寄せている。観光船の航跡によるものではなく、潮の満ち干による波だ。湖水の色はなぜか緑色。翡翠色といった方がよいか?

遊歩道に沿ってしばらく散策するが、日本人にとってはこの手の景色は日光以外にも猪苗代湖とか十和田湖とかいろいろあるせいかあまり感興がわかない。1時間もいると飽きてしまう感じ。台湾の人々にとってはこういう場は一箇所しかないから一度は訪れたい場所なのだろう。

周遊散歩道を1,5時間くらい散策したあと、同じ道を帰るよりは埔里へ出てから帰ろうとバスを探した。バスは一時間に一本くらいの割である。運賃はちょうど日月潭→埔里50元。

 

 埔里は紹興酒の名産地として名高い。酒造りの街。ここも自家用車があふれ、文化会館とかの市場の中は人息れでごった返している。紹興酒の臭いが漂う。紹興酒好きにとっては離れがたい街だろう。地酒のようにいろいろな種類の酒があるからだ。私は下戸だし、酒に興味はないので、梅を紹興酒につけた土産を一袋買っただけだった。きらきら光る細長い飴を何度も折り返したり伸ばしたりしながら名人芸として見せている。子供たちは歓声をあげながらその動きを眼で追っている。日本のどこかでも見たことのある光景だ。

しばらく見物した後、バスが来たので飛び乗った。バスはいったんヘアピンのように街の正式の停車場まで走り、また同じ地点に戻ってくる仕掛けになっていた。

  

埔里から台中までの間は高速道路なのか広い片側3車線道路でバスは100kmくらいで快走する。川の流れに沿って走り、気持ちよく、いつのまにか午睡というところ。気がついたら台中の街が見えてきた。

 バスは退屈しのぎにという事であろうか、映画を上映してくれたが、これがカンフー対空手の対決で反日映画なのだ。台湾では珍しい上映なのでは?と思ったが。大陸で制作されたVideo Tapeを流したのだろう。卑怯な日本人vs正義派の中国人カンフー名人という図式である。日本人は私だけしか乗っていなかったと思うが、変な不快感があった。運転手は親族にでも日本兵に虐待とかされた人がいたのだろうか?親日的な台湾であるが、かつては2,28事件などのように抗日運動もあったところだから、あまり親日ということに甘えてもいられない。

歴史的背景とか政治的な理由とかを離れて純粋に思いを吐露すれば、台湾が日本の一部であったらどんなにか良いかとは常日頃思うことだ。だって、果物が豊富で、自然豊かだからだ。パイナップル、マンゴー、バナナ、椰子の実、ドリアンそれにライチと今は輸入品しか食べられないおいしい果物が台湾では安く食べられるからだ。それに海から高山まで気候帯の豊かさも魅力だ。

 夕方、台中に着いたが陽はまだ落ちていないし、明るい。街をまた歩こう。アッそうだ、宿替えをしなくては、――本当は代えずにそのままS旅館でよかったが、Internet予約をしてしまっていた以上、当日とか、1日前のキャンセルは半分以上チャージを取られるし、カード払いだから面倒この上ない――― そこで仕方なく、国際ホテルへと出向いた。S旅館から歩いて5分くらいのところである。アコモデーションは確かに立派であった。一人で使うにはもったいないゆったりした大きさだ。夫婦同伴用の部屋だ。荷解きをしてから再び、ある程度様子の分かった台中の街中に繰り出す。台中は太陽餅という銘菓がある。だが、ぱさぱさしていてなんとも食べた気がしないお菓子だ。中に金柑の味がするジャムが入ったり、ミツバチの蜜が入っているものなど種類はいろいろあるが、お土産としてはさえない。結局、台中には買うものはなかった。街を歩いていたら、宣伝の看板に台湾各地の名産物を書いた図があったので写真に収めた。

 夕飯は市場というところへ行き食べた。魯肉飯のいわゆる豚の角煮は大きく柔らかくおいしい。インゲン豆をにんにくで炒めたものも胃を刺激し、食欲を増す。どれも30元ほどでこれで500円以内で全て済んでしまうのだから旅行者にとってはありがたい。しかし、住人としてここに毎日来たとしてもほとんどは毎日似たようなものしかないから中にある屋台をかわるがわるハシゴして食事をしても、一月もすれば飽きてしまいそうだ。一応、魚から肉、野菜まですべてあるが、魚はすべて揚げ物となってしまう。焼き魚とか煮魚料理は見なかった。ちょっとメニュの狭さには失望だ。豆腐料理は臭くて有名な、その名もそのままずばりの「臭豆腐」があるが、そんなにおいしいものでもない。豆腐が少し違うのだ。概して、屋台料理はどこもメニュは同じだ。夜市は各都市にいくつもあるのが普通だが、内容はどこもだいたい一緒だ。200元以下でお腹が満ちるほど食べられるという点だけが取り柄で特別の味がするわけでもない。麺類も同じ。

いわゆる中華レストランに相当するところはア・ラ・カルト500元位の品からコース3,000元、5,000元くらいまでの幅があり、それこそ高級食材を出すが、普通は2,000元くらいまでの料理がせいぜいだ。あわび、フカヒレスープ、北京ダック、ロブスターなどをメインとしてデザートが全てついて5,000元くらいだ。高級ホテルのレストランだと5~7,000元くらいになるが。日本で一人一万円のコースくらいのものは3,000元で食べられる。

 

明日は阿里山森林鉄道へ乗る日なので朝は早い、ということで夜8:00にはホテルに戻る。日本なら9:00だ。ベッドへ入って寝込んでいたら、夜中に突然電話がなって目が覚まされた。なんだ?と思って受話器をとると低い女の声、40歳くらいの感じ?で、なんかけだるく甘い口調で言っている、はぁ、娼婦だなとピンと来たので、Don’t bother me!とだけ強く怒ったような口調で言ったら、すっと切れた。いわゆる国際級ホテルでは初めての経験だ。Room No.を誰が教えたのだろう?とは翌日、朝、思ったのだが、その夜はすぐそのまままた寝てしまった。

 

5月31日(日) 晴れ

 

 阿里山森林鉄道の起点駅嘉義へ11:00頃には到着すべく台中を8:47発の列車に乗らないといけないので、7:00に朝食の用意された食堂へ行ったら、外の扉のところに化粧の濃いグラマーな女性が立っている。小声で何か言って私に会釈したが、分からないので黙って無視して食堂に入ってしまったが、その後彼女はどこか外へそのまま消えて行った。多分昨夜の電話の主は彼女だったのだろうと勝手に思った。

ホテルと契約している俗に言う高級コールガールの類だろうな、と想像力のたくましい私はそう思ったし、小説の素材としては、使えるな、と思いひとりでニヤニヤしてしまった。ペルーのリマのことを思い出したから…。

このGG Hotel建物は立派だが、朝食もたいしたことないし、格は低いけれどもS旅館のほうがずっと良かった。外見では分からないものだ。まぁ、夫婦とか恋人と宿泊するなら大飯店なのだろうが…。

 8:47発の嘉義行きの列車には無事乗車。区間車だから約2時間の旅だ。二水までは昨日乗ってきた。嘉義は高鉄と台鉄が離れている。森林鉄道は旧駅から出ているという情報だが、万一、間違っていると森林鉄道のあるほうの駅に行かねばならない。となると1時間は余裕を持っていたほうが良い、ということで11時前に着く列車に乗ったわけだ。

嘉義に着くと森林鉄道の切符売り場にはSOLD OUTの赤札が立っている。定員が150~200人くらいしかない列車だから予約しておかないと安全ではない。Internet で阿里山鉄道のHPから予約し、切符を購入したのは成功だった。平日だから大丈夫とはいえないのが、この国際的に有名な高山列車。駅には白人も台湾人もいたが、日本語は聞こえてこない。団体旅行客として旅行代理店を通すと大変高額な現地optionalツアーである。

 お腹がすいてはと列車の中で食べるためのパンとか焼き肉まんを買っておいた。日本の観光地を連想して、当地へ行くと食堂は2倍3倍の値段とか、法外な価格がつけられている事を恐れての事だ。ものにもよるが、これは杞憂に終わった。チャーハンを阿里山の駅前の屋台では60元で食べる事ができたから。それでも、30%くらいは高い。だが、パンを買っておいたのは一応正解だった。

切符売り場へ行き予約番号の印刷された紙を見せるとpassportを要求された。お腹の中に隠してあるそれを取り出し、わたして確認照合がおわると一緒に切符が渡された。日本で買っても399NT$(元)は変わらない。旅行代理店の介在がないからだ。旅行代理店が入ると切符代と1泊で2万円くらいとられる。

森林鉄道発着駅は嘉義駅の台鉄のホームの中にある。みんな列車の来るのを待ってレールに降りて記念写真を撮ったりしている。そのうちに、赤のディーゼル機関車が牽いた列車が入ってきた。座席は全て指定されているから席の取り合いはない。列車は思っていた以上に大きなものだ。アルゼンチンの地下鉄と同じくらいの感じだ。座席は右側に1列通路の左側に2列だ。一両あたり40~45人くらいの定員である。それが4両か5両。車両は観光専用列車のためかあたらしいし、まぁモダンなつくりだ。2000mの高さを超えるところまで上って行くため、乗客も心得ており、みな長袖シャツとかブランケットを用意している。私もバッグには毛糸のカーデガンとゴルフのレインギアを入れてあり、いつ寒くなってもいいように構えている。結構みんなおおきな荷物を持っている。だいたいが背負えるものだ。というのも、あらかじめ知らされているのだが、途中、列車を降りて歩かねばならないことになっているからだ。それはまたそのときに触れよう。

列車は定刻どおり12:00出発。日本の旅行代理店情報では10:00となっていたが、5月18日からはダイヤが変更になっているのだった。私のほうが旅行代理店よりも正確な情報を持っており、恐縮されたのを思い出した。

列車は狭いレールの上を思ったよりは速いスピードで走る。約70kmの道のりを4時間かけて走るというのだから平均時速は20kmにも満たないはずだ。そんな頭の計算上のスピードより速い。日頃の車の運転感覚で言えば、40kmくらいの感じだ。列車は揺れる。肩で風切りながら早足で歩く不良少年のような感じ。一駅走ったら日本式の切妻屋根の駅舎に停まった。駅員さんが愛想よく迎えている。誰も乗降客はいない。東北あたりの支線の駅にはまだこんな駅舎がいっぱいありそうだ。三角線路とかなんとか書いてあったが、意味が良く分からなかった。

走り始めてしばらくするとすでに100mくらいは周りより高いところを走っている。列車は客車をディーゼル機動車が押して走るという昔懐かしい走り方である。津田沼駅構内の操車場で機関車が入れ替え作業のときに貨物列車をそのようにして押していたのを思い出した。ディーゼルにはDL48とか記されているが、その数字によって示されるspec内容はわからない。鉄道ファンなどはそういうのを楽しみに調べたりして、わざわざ型の古いのを選んで乗ったりするのだろう。

しばらくすると車窓からはドリアンが太い幹に5,6個づつ重そうにぶら下がっているのが見えた。ドリアンのなり方は始めて知った。あれだけ重いものがいくつもぶらさがっているのだから幹は椰子の木より太くて高さは低い。ボコボコの刻みがはっきり見える。間違いなくドリアンだ。へぇー、こんなところで出来るんだと妙に感心した。これから先にはたくさんなっているんだな、と推測したが、不思議な事にしばらく先へ行くともう二度とドリアンはなかった。あるのは捨てられたように線路脇に生えているバナナの木である。そして棕櫚のような竹状の節のある高い木、台湾椰子の木、そしてところどころに紅色の実をつけたレイシ(ライチ)である。台湾に来てからこの日までライチはまだ食べていなかった。バナナは買って食べたが、どうも昔食べた台湾バナナと違う味だ。バナナの質が変わったのか、味がホクホク感にかける。昔のバナナは味が濃く、あまいそれでいながらさっぱりした黄金色のサツマイモを食べているような味であったが、どうも違う。フィリピン産とかで売られているそれの味である。昔食べた味のバナナを探した話はまた後で。

列車はほどなくして山間を抜けながらレールをギーン、キーンと軋ませながら上がって行く。先頭車両が右側に見えたと思うまもなく今度は左側に見え出す。無限のS字型ラインを辿って行く。空から見れば大蛇がくねって山を這い上がって行くイメージだろう。眼下にはときどき集落のようなものが見える。5,600mも上がっただろう。この先まだ2000mちかく上って行くのかとおもうとなんとなくワクワクする。

そんなこんなの行程を列車はどんどん着実に上って行く。木々の枝葉が列車の窓に時々当たる。植物の側も心得ているのか、当たるところまでしか葉や枝を伸ばしてこない。不思議な植物の知恵というか、防御本能だ。

山はどんどん深くなる。ひとつ山を上るとまた二つ三つの山の姿が見えてくる。眼下にはジャングルのようなうっそうとした樹海が広がる一方だ。窓が開かないから木々の臭いは伝わってこないが、なにか爽快なフレッシュエアーを感じる。

一時間くらい走ったろうか、かなりの高さまできたところで、列車から乗客全員が荷物を持って降りるよう指示が出た。近年の台風により、線路がダメージを受け、その復旧作業がまだ終わっていない区間だ。その区間は歩かねばならない。それを承知で、というよりは楽しむつもりで、人々は乗っている。私もその一人だ。その駅名は樟脳寮という。

駅といってもなにもなく、乗客は線路上に降りる。そこから全員次の駅まで約15~20分歩く事になる。歩くといっても山の上り道のトレッキングという感じだ。駅から100mくらいのわき道にはテント張りのバナナ売りがいる。地元で採れた自然のバナナなのだろう。グローブみたいな短くて太いバナナである。色は緑色のままのと、黄色のところどころ黒い斑点のついているのとがある。どちらも1房に20本くらいのバナナがついている。重さも3貫目くらいありそうだ。一本か2本に切ってもらいたかったので指で一本の根のところを指して切る仕草をしたら、ダメだと掌を横に振る。1房をまるまる持って帰る人などいないのに…と未練がましく思いながら諦めた。バラで緑と黄色とを一本づつ食べたかったのに。

そんなことでバナナの交渉をしていると周りに人がいなくなった。一番最後になったらしい。あわてて人の姿が見えるところまで駆け上がった。息が切れた。しばらく行くと今度は下りの道である。先に歩いている乗客が下方前方に木の枝の間から途切れ途切れに見える、結構起伏のある道だ。これで雨でも降った日には大変だ。滑るだろうし、雨水が濁流のように押し寄せてくるだろうし、と今日の好天に感謝する。それでもところどころの岩場では慎重に足を運ばないと滑る。実際、滑る女性を目撃した。幸い尻餅だけで済んだようだが。

     

しばらくすると、こちらに向かってくる人々の一群がいる。どうやら下り列車の乗客だ。彼らは上ってくる。上り列車の乗客は道を下り、下り列車の乗客は道を登っている、なんて不思議な光景だ。こんなことはほかでは体験できまい。

やがて、眼下に、列車の屋根が見えた。今度乗る列車だ。列車の編成は全く同じで、座席も同じようになっている。しばらく待ってもう誰も取り残された客がいないのを確かめると列車は再び動き出した。これからが山登りの本番かと思うといっそうワクワクする。

走り出してまた1時間くらい経ったろうか、少し、山の空気が変わってきた。霧が出始めたようだ。遠くが霞んできた。窓も濡れ始めた。駅らしきところを写真に収め後で場所の確認をしようとしたが、出来た写真を見てもぼけたりしてはっきりしない。山の景色はもう同じようにしか見えないので写さない。

 そうこうしているうちに列車は最終地点に近づいてきたようだ。列車はどの駅にも止まらずに各駅を通過しながら走って行く。十字路という駅名が見えたところで台湾観光局発行のガイドブックを見ると終着駅まであと3駅位だ。そこで再びカメラを取り出していると、英語のアナウンスで神木(Sacred tree)という音が聞こえた。神木は1997年の台風で倒壊したという。その倒壊した樹齢1000年以上の木が駅の表示の脇に柵で囲われて横たわっている。直径3mくらいの黒い巨木が横たわっている。登山帽をかぶったハイカーたちがその周りを囲んでいるのが見えた。明日来ようと決めた。もうあたりは雨だ。阿里山駅にとうとう到着だ。
総檜でできた駅舎からは檜の香りが鼻をつく。霧というよりは完全に雨になっているので、用意してきたゴルフ用レインギアを着込む。メガネが曇りだす。ますます見えない。あたりももう夜霧に包まれて暗くなっている。街灯の明かりが中心部以外がぼけて白んでいる。駅にはホテルからの迎えが来ているはずだ。何軒ものホテルからの迎え人が白い紙に人名を書いて改札口を出たところで待っていた。私は阿里山高峰大飯店に予約をしてある。すぐに分かった。メガネ姿の小柄な男性がジェスチャーで車へと導く。英語は話せない。それぞれの客がそれぞれの送迎車へと吸い込まれて行く。

私の乗った車には私一人だ。土曜日の予約を入れたときには満室であったが、日曜日は空きがあるということで日曜日にしたのだが、一人とは、と思いつつ、霧の向こうに薄い影のような建物があちこちに見える中をバンはゆっくりと坂道を降りて行く。どれだけ離れているのか、駅舎との位置関係を頭に入れておこうと目標になるような建物を探すが、霧雨でまるで見えない。ものの一分も経たないうちに車は停まり、着いたという、なんということはない、駅の直下にホテル群はあるのだった。階段があるはずだと思ってみると案の定、ちゃんとある。歩いても1分だ。

 ホテルマンは無愛想で部屋番号のついた鍵を渡すと、そそくさとどこかへ行ってしまった。一人で鍵を持って3階まであがり、部屋へ入った。寒くはないが、暖房が効いているわけでもない。これはやはり厚手の下着を持ってきて正解だったなとひとり満足。5時ぐらいなのにもう暗くて黒い影の人や建物しか見えない。いったん駅まで出てみる事にする。30段くらいある、綴れ折の石階段を上るとお土産屋と食堂を兼ねた商店や屋台が駅前広場に並んでいる。お土産店にあるものはありきたりのものばかりでつまらない。どのお店も同じようなものしか置いていない。つまらないところにいても仕方がないから、お腹もすいた事だし、何かを食べようと決めた。屋台の値段表を見るとまぁ少しは高いがそんなにひどくはない。面倒だったので、チャーハンを頼んだ。そして山菜スープ。共においしいものだった。台湾のチャーハンははずれという事がない。恐らくオイスターソースなどに隠し味が入っているのだろう。茸や山菜の入っていたスープもシンプルな味が利いていておいしかった。まずスープをどんぶりに入れてからざるに入っている野菜類を各種さっとどんぶりに入れただけなのだが、スープが冷めないせいか、チャーハンを半分をくらい食べた頃香りが良く漂い、スープもちょうど良い具合だ。茸やそのほかの野菜も旨い具合に熱に溶けて柔らかくなっている。これで両方で120元だったかと思う。合格!お腹もいっぱいになり満足。

 

夕食が終わっても周りには何もない。明日は3:30にモーニングコールだという車内アナウンスを思い出した。4:20に祝山行きの列車は出るという。部屋へ戻り、TVをつけたらなんとNHKの放送をやっている。有線と表示が出ている。録画かなと思ってみると生放送だ。ちょうど6時の首都圏ニュースだったようだ。こんなところで日本語のニュースが聞けるなんて、今の時代を感じた。台湾は日本だよ。台湾の人々がみんなで日本に帰属しましょうとなってくれるといいなぁとまた勝手な思いがふと浮かんだものだ。国家による国境なんて所詮は共同の幻想によって支えられているものに過ぎないのだが…。

 その後、古い大河ドラマ(風林火山)をやり始めた。つまらないからTVは切った。風呂に入ろうかとおもって蛇口を温水側にひねってしばらく待ってみたが、熱い湯が出ない。生ぬるいのが出たが、それ以上熱くならないので、諦めて9:00頃寝た。

 

6月1日(月)晴れ

 

 ジーと強いモーニングコールで目が覚めた。時計をみるとぴたり3:30だ。窓の外は真っ暗だ。顔を洗って寒くないように支度をして4:00頃外へ出てみると三々五々とどこからともなくそれぞれのホテルからだろう、人々が駅舎へと向かっている。駅舎の中の待合室はもう満杯の人で溢れている。昨日、150元で買わなければいけないと云われて買った往復切符を改札に出してプラットホームへ出た。ここにも人々は集まっている。列車はまだ入っていない。少し、空が白み始めた。

列車が奇妙な編成で来た。客車をおしながら且つ引っ張っている、つまりディーゼル機動車が真ん中にいるのだ。全部で10両くらいのようだ。ホームにみんながあつまり、我先にと乗り込む。大分はっきりと人の顔も見分けられる明るさになり始めてきた。5:20に日の出と予想されている。祝山には5:00頃に到着だ。

駅前の展望台にいっせいに列車を降りた乗客が飛び出してゆく。ガイドさん連れの中国人(台湾人)グループが固まって前をふさぐ、踏み台やら柵に足をかけて前を覗こうとする人などでごった返すが、5分もするとガイドさんがそれぞれのグループに解説を始める。時々どっと笑い声や合いの手が入る。何言っているか分からないが、今日の好天は皆さんの日頃の行いが良い結果のためです、みたいな感じ。

 やがてグループは三々五々と違った方向へ歩き出す。どうやら別の場所にもっと良い日の出のご来光を拝めるところがあるらしい。そちらへ移動する前に玉山の位置を確認し、どこから日が上がってくるかを見当をつける。玉山はかつては新高山と呼ばれたほぼ4000mの高山だが、この阿里山の展望台から見ると遠望するせいか、あと1000mくらいの感じだ。三角形の頂きが特徴的だ。日本だと槍ヶ岳みたいな感じ。それほど鋭く尖っていないが、正三角形状に見える。連山であるからみな3000m級の山並みだ。登山家にはさぞかし魅力ある山だろう。空は少しずつ白みつつ茜色が濃くなってくる。あと10分くらい、つまり5:20が日の出時間だから、別の展望場へと歩き出す。

     

自動車でもあがってこられるように(許可車だけか?)舗装された道路を5分ほど歩いて行くと再び展望台がある。こちらの方がなるほど視界がより広い。切り立った断崖が左手に迫り、左から高山が並び中央に玉山がさらに右手にも高い連山がつらなる。右手の一部は山の端の一部が切れ落ちており、限りなく透明に近いブルーのきれいな空が見える。人声以外は何も聞こえず、空気はひんやりと締まっている。スケールという点ではグランドキャニヨンには到底及ばないが、それでも荘厳な雰囲気が漂う山だ。修験者などの霊山という信仰対象でもあったようだ。雲海が下方に広がり薄緑の森が霞んでいる。

いよいよ日が上り出した。思ったよりもはるかに左側によった山の端から朱色の光が強さを増して目の玉を押すように輝きながら上ってきた。もうまともに肉眼では見ていられない。サングラスがあっても、ずっと見てはダメな感じ。山の端に接してほぼ完全に丸い姿になったところで写真を撮った。光が十字を切るように映るはずだ。N子ちゃんの亭主などはこんなところで自分の撮りたいイメージの現実が起きるのをじっと待つのだろう。せっかくだからと自分の顔をも入れた写真を撮ってもらうよう頼んだ。

 陽光がすっかり出てしまうとすべてが明るく自然の色がそのまま世界を造る。やわらかい緑が下界の山々をおおっている。時々ホトトギスの鳴き声が聞こえる。花はあまり見かけない。人々の顔はご来光を拝めたということでか、それに現実に朝の光が差し込んで顔が満足そうに輝いている。私も天気には感謝した。せっかく来たのに雨で、霧のカーテンに全てがふさがれていたら、などと想像してしまうとゾッとしてしまう。

人々はここからハイキングトレイルのいくつかのコースを辿って降りて行くことになる。あるいは6:00の下り列車へ乗るかだ。トレイルハイキングはだいたい半日コースだ。私はここにもう一泊する予定はなかったので、列車へ乗った。阿里山駅へいったん戻りそれから近くを散策ハイクすればよいやと思ったからだ。半分くらいの人々、とくに見た目50歳以上?の高齢者とおぼしき人々は列車に乗って降りる人が多かった。

 6:30頃には出発駅に戻った。宿へ帰り、その日のスケジュールを考えた。できれば今日中に山を降りた後、高雄(カオシュン)か台東(タイトォン)に出て、泊まりたい。となると、一日に2本しかない列車に乗るか、数本のバスに乗るかしかない。上ってくるときは列車であったから、帰りはバスにしようと決め、切符を買いに行ったら、9:00発のバスの切符は8:10過ぎからでないと売らないと言う。

そこで約1時間15分くらいの散策ハイキングをすることにした。自分の歩くペースならいかに山のトレイルであっても半径2km以内ならどこへ行っても戻れるだろうと計算した。少し早足で坂道を登り、下り坂は走るような感じで下ることにした。普段ゴルフ場のUP/DOWNを経験しているから基礎体力はあるはずだ、と思ってのことだ。

    

 掲示板のハイキングコース案内図を見て、来るときに列車の窓から写真を撮った倒壊した神木まで行けると判断した。そこまで行く途中には結構見所がある。歩き出した。道は舗装されているが結構きつい。走って上ってみたがすぐに息が切れてしまう。それに肺がしまるような感じがしたので、走るのはやめた。ここは高山だ。高山病になったら後が面倒と思ったからだ。クスコのホテルで苦しんだ事を思い出した。

 しばらく上ってから案内表示にしたがって左に道をとると今度は急な下り坂の道だ。道に沿った「象の木」とかの矢印表示板に沿って小道に入るとそこからは完全な歩道である。道の両脇には蔓のような垂れ下がった草がたくさん茂っている。ところどころに可憐な花が赤や黄色に咲いている。花の大きさはみな小さい。しばらく歩いていると「象木」という表示が目に入った、目の先にはなるほど鼻をのばした象の頭のような木がある。根と幹の区別がわからないが、とにかくぼっこりした形は象に見える。傍に行くと中は空だ。空洞になっている。その左先には「3代木」という表示が見える。これも珍しい光景であり、一代目の木の上に2代目の種子がついてしまい、1地代目の木の上に根を張り、そこから栄養をとって育ったらしい。それがさらに3代目の種子によって引き継がれ2代目の上に育ってしまったらしい。崩れて倒壊した上にそれぞれ次の世代がその上に種を落とし、それが付いたというわけだ。これも土台となる場に倒壊した1代,2代の幹の中は大きく空洞になっていた。

さらに進んでゆくとところどころに樹齢1000年という表示のある檜や杉の巨木が生えている。カナダ北西海岸の密林地帯のレッドシダー、ヒマラヤスギ、などはもっと太いのがあったななどと思いながらも、足下との苔の密生する道で足を滑らせないように注意して歩いて行く。沢のせせらぎが心地よく響いてくる。小さな吊橋があった。それを渡らずそのまま下ってゆくと人声が聞こえてくる、どうやらもうすぐだな、と判る。左に大きく曲がる道の先に森林鉄道の線路が見えた。神木駅の表示も見える。左になるほど直径3mくらいの黒い樹木幹が柵で囲われた中に横たわっている。倒壊した後、線路をふさいで列車が通れなくなったので、チェーソーで10mくらいの長さで切断され、2箇所に分けて安置されている。切断面はきらきら光っている。せっかくの御神木だから手でさわった。硬い木だ。

 阿里山の全てのハイキングコースを歩くには最低2泊しないとだめなようだ。日本人の私からすると台湾の景色は豊かに違いないが、場所が小さく限られているから、九州だけの景色を全国民が訪れるという感じなのだ。日本の場合、北海道、東北、甲信越、紀州…とさまざまなところにこうした樹林の光景もあるし、それぞれにまた変化のある味があり、variationが豊かだ。そのせいか、話として一度は訪れないと、とは思っても何度も来たいとは思えないのだ。日本人って自然に恵まれすぎて贅沢なのかな。

帰りの道は全く逆の道を辿っただけだったので迷う事はなかったが、坂道を登ったり、下ったりの20分くらいはやはり汗をかいた。8:20頃バスの切符(214元)を買ってから、ホテルへ帰って、荷造りをして9:00発のバスに乗った。バスは嘉義までだが、鉄道とは全くはなれた道路18号線を下って行く。18号線はちょうど北回帰線に沿ってその上下をクロスして走る。理屈の上では南十字星がぎりぎり見えたり見えなかったりという微妙な境界を走るのだが、日中は全く関係ないし、こうした山岳地帯では地平線などないに等しいから関係ないわけだ。時間はバスの方がぜんぜん速い。お天気が良いせいか、景色も晴れやかだ。阿里山の高山地帯いったいはいわゆる高山烏龍銘茶の量産地とあって、1500メートルくらいまで降りてくると一面お茶畑だ。街という街全てがお茶畑と製茶屋さんだ。バスを止めてもらってここでちょっとお茶を買いたいといいたいが、観光バスではないので無理。

  だんだん景色が単調になってきた。眠くなった。バスの車窓も平地に入るといわゆるバナナ畑や台湾椰子の畑ばかりである。嘉義からはまた台鉄でとりあえず高雄まで行って、そこで泊まるか、更に先へ進むかを車中で考えよう。

嘉義から高雄までの車窓は平凡だ。なんとなく眠気を誘う。車窓からは畑と街が交互に現れるだけだ。何枚か写真を撮ったが、台南から先はうなぎの養殖場が線路沿いにたくさん見えた。黒いビニールシートを掘った堀の中に敷いて、水を電動水車で動かしている。これがたくさん日本に輸出されているのだ。畑には白い袋をかぶせた木がきちんと並べられて豊かな枝に実をつけている。中は見えないが、多分アップルマンゴーだろう。台東の方へ向かうにつれ、同じような木がたくさん白袋と一緒にみられたが、ところどころに赤く熟した真っ赤なマンゴーの実が見えるところがあったからだ。

さて、列車は高雄止まりであったので、駅を降りてみる事にした。

 この高雄駅は実に不便なつくりである。昔の駅は今でもそうだが、-わが書斎房のある保田駅もそうだが―プラットホーム(月台)間は跨線橋で移動するようになっているのだ。しかも、エスカレータ設備がない。これはお年寄りには大変だろうなと思う。実際、私のように手荷物二つを持って歩くには面倒が多い。駅ビルのようなものもあり、食堂もあるのだろうと思うが、これもない。マックだけだ。駅を出ればいろいろ食堂もあるのだろうと思って遠くを見渡すと国光客運、つまり長距離バス乗り場が見えた。駅前の大きな道幅の道路は正面には横断歩道がない。地下道もない。駅から延びてまたぐ道もない。駅の道路を隔てた反対側に行くのが一苦労という駅だ。そんなこともあって、渡るのが億劫になってバス停の方へと移動式歩行路に乗って近づいていった。コンクリートが敷き詰められた広場の上をずっと歩く。空気が熱い。

やはり台湾南部へ来たからだろう。すぐに全身から汗が出てくる。やがてエスカレータの下りがあったので、そこからバス停に向かって降りた。駅からは150mくらい歩いた。バス停へ行ったのは、そこから台東や花蓮へ行くバスがあるかどうかを確かめるためだ。しかし、台湾は中国大陸側は非常に発達しているが、反対に太平洋岸は近代化から取り残されたままだ。上から見ると亀の甲羅の左半分が都会で工業化も進んでおり、畑も農園もきちんと整理されているが、右半分は自然のままだ。バス路線もまたしかり、台南、台中、台北行きのバスは10分おきに出ているが、東側へ行く路線はない。台東へは列車で行くほかはないと諦めた。バス停の前にも横断歩道はなかったが、少し戻ったところに横断歩道があったのでそこを渡り、すっかり何も食べずにいたお腹に麺を入れ込んだ。

高雄も物価は大して変わらない。細い横道にはいるとホテルの文字も見えるし、屋台もある。どうしようか迷った。高雄に泊まるか、もっと先まで行ってしまうか?と。高雄の市街マップを広げて見ると繁華街は
MRTで海の方へ行くようだとわかった。ケープタウンのような台地が見えたらなぜかまた来ようという気になり、列車で台東まで行く事に決めた。時間もまだ14:00頃だ。見ると莒光号が台東まで行く。これはちょうど良い、と切符を買う。280元。列車は14:25発で17:26到着だ。これなら明日の花蓮、太魯渓谷見物も楽だろうからと思い、台東で宿探しをすることにした。

    

 列車は台湾の南部を走る。一度、屏東という内陸にある駅を経てから列車は直下に降りて東シナ海の海際を走ってから山を横切り、長いトンネルを2つ抜けて東側に出る。

この東シナ海とマンゴー畑の広がる車窓をカメラにと思ったらなんとバッテリーが切れるという赤いサインが出ている。写真に収めたいと思う景色を見るたびに、SWITH ON にするが、構えるとカシャと切れてしまう。ああ、このあたりの景色を撮りたいのになんというUnlucky。

 この屏東から山側へ曲がるところまではアップルマンゴーの一大農園だ。白い袋が一つ一つの実に掛けられ、虫に食われないように保護されている。ときどきむき出しの紅色に艶んだ実が見える。トンネルを抜けるとこちら側はもう台東県だ。今度は太平洋に面して海沿いに走る。車窓から直下に見える太平洋の波は保田の波のように静かで穏やかだ。迫る断崖と海の間を線路、国道、そして黒砂の海岸線が走る。それはまるで房総の内海沿いを走るようだ。しかし、スケールが違う。なにしろ列車の2mはあろうかという長方形の窓の長い辺の端から端まで水平線がはっきりと弓なりになって弧を描いているのだ。地球が丸いということを銚子の犬吠崎の展望台で見ることができるように、列車の窓から真ん中が盛り上がって見える太平洋の水平線が見える。海岸べりにはテトラポドが積まれているが、今日のような穏やかな日には波はちゃぷちゃぷと遠くはなれたところまでしか来ない。

恐らく台風の襲来のときに備えた防波ブロックなのだろう。台風のときは恐らく国道は波しぶきを浴びて通行禁止となるだろう。列車もまた。

         

 もしかしたらバッテリーが少し持ち直して撮れるかもしれないとスイッチを入れるがやはりしばらくして被写体にレンズを向けシャッターを押してもその瞬間閉じてしまう。

あたりは5時を過ぎて少し日が翳りだしているが、景色は問題なく良く見える。この台湾の南の最先端には墾丁国家公園という景勝地があるのだが、そこへ行くには自動車が必要だ。九州の指宿のようなところのようだ。台湾一周といっても自家用車がないと完全には一周とはなりそうもない。

列車は知本という駅についた。珍しく駅にタクシーが何台も待っているし、降りる人の数も多かった。調べてみると有名な温泉町であるとのことである。ここに降りるのも手だttなと思うも、荷物の整理もしていないし、もう遅い。そのまま乗り続ける。まもなく、台東だ。ここでゆっくりホテルを探そう。ホテルでしっかりデジカメの充電をしようなどと考える。

列車は予定通り台東駅に着いた。そこまでの列車であるから全員降りる。私は改札口を降りるまで駅前に何軒かのホテルの類の建物があるだろうと信じて降りたのだが、これが駅の前は大きな広場があるだけで、タクシーがずらりと並んでいるだけだ。街の中へはタクシーで10分くらい走るらしい。だが、待てよ、それなら次に来る「自強号」で花蓮まで行ってしまったほうが今夜中に入れるからそのほうが良いかもという気が沸き起こった。

次の自強号が来るのはたしかい1時間くらい後だからのんびり行こうと荷物を牽きながら歩いて駅へ戻ると台東初の花蓮行きの列車があと3分で出るという。切符の窓口では誰かが窓を塞いでなにやら駅員ともめている風情。改札口に女性の駅員が私の姿を見て、ファーリェン?という。花蓮へ行くのかということらしい。ウンとうなずくと人差し指を一本上げて行けという、切符売り場を指差してまだ買っていないというジェスチャをしたら、彼女は小さな補助切符とか印刷してある切符を手渡した。そして急げ!といっている(らしかった)ウォーキトーキィみたいなもので何か言っている。

これは急いだ方が良いワイと思って少し無理して荷物をぶら下げて走った。列車へ乗ったらちょうどドアが閉まった。私が乗るのを確かめてから車掌さんが扉を閉めたようだ。やれやれ。

列車は確かに花蓮行きだ。自強号より30分くらい早く到着するらしい。ラッキー!座席に座ったら額から汗がぼたぼたと落ちてきた。下着もびっしょりだ。ほかにお客さんは乗っていないし、着替えのストリップショーをしようかなと思い、バッグの鍵をはずしていたら、車掌さんが検札に来た。検札というよりは切符を買ってくれと来たというほうが正確だ。あわてて、服を脱ぐのをやめて200元だったか?を払った。(実際には273元という記録)列車は軽く冷房が効いていた。額の汗がスーと乾いて行く感じがする。一人お客さんが入ってきた。そこで着替えはやめる事にした。列車はもう山間をぬけて走っている。

台東からは山の中を走っているせいか、景色はほとんど黒くしか見えない。目を凝らすと山の端がラインを引いているが、べたっと塗られた黒壁が目の前に下がっているように景色は黒いカーテンだけだ。レールの合奏が聞こえてくるだけだ。汗がひんやりとなったので目が覚めた。あわてて、レインギアを袋から取り出し、被った。列車は9:00頃花蓮に着いた。

列車が駅構内に入るキーンというポイントを通過する音がしたときに、窓の外に大飯店の文字がネオンに光って見えた。これなら安心だ。少しくらい予算オーバーでもいいや、と落ちついた。駅から降りるといくつものホテルのサインが見える。大体、駅前よりは少し離れたところの方が値段は安いのが相場だ。慌てて決める事はない。何軒かをゆっくりあたってみようと歩き始めた。勘で暗がりの多いほうへ行く事にした。

大理石の門柱のしっかりした大飯店へ入りいくらかと尋ねると1900元だという。高いなと思い、次をあたることにした。次もまた1900だ。このあたりは相場が1900なのかなと思い、中心街の方へと身を返した。しばらく歩くとまた立派なホテルが建っている。中へ入ると若い男女のレセプションがにこやかに出迎える。最初は中国語で挨拶されたが、私が英語で応え、バス付きのシングルはいくらか?と問うと2,200元だという。入った時の感じが落ち着いていたので、それなりに高いだろうなとは思ったが、2200元とは…。そこで自分にはtoo gorgeousだとやんわり断った。でて行こうとすると、ビジネスホテルでよいかと尋ねられたので、自分の探しているのはまさしくビジネスホテルなのだというと、それなら心当たりがあるからちょっとお待ちをと電話を入れて空いているかどうかを調べてくれた。青葉というホテルが1,400元であるという。1,400なら観光都市の花蓮ではreasonableだと、思ったので、それでOKと伝えてと頼んだ。

 教えられたとおりに道路を辿ってゆくと、着いたところは駅のまん前に立つホテルであった。最初からここにまず当っていれば、30分の無駄は省けたのに…、見通しの悪いやつだな、と独り言を声に出して自分を責める。ホテルマンは愛想も良いし、英語も分かる。部屋も見せて欲しいといえば、一緒についてきて使い方も教えてくれる。すっかり気に入り、お世話になる事にした。日本でホテル予約するのは気休め、安心にはなるが相当高い。台北の城美大飯店は4800円も日本でカードで払った。しかし、台北で6月2,3日分を予約したら2泊分で2,460元である。一泊3800円くらいであるから手数料は馬鹿にならない。この花蓮のホテルだって日本で予約を入れたら5,000円は取られるだろう。台湾はいわゆる飛込みでも十分ホテルがあることが分かった。この青葉、中は中国風の家具などが入っており少し古い感じがしたが、上等の広さと設備であった。大当たり。旅行会社には済まないが、今度行くときは全て現地で交渉という事にしよう。

 急にお腹がすいたので、さっそく、前にある屋台へ行き食事を取った。別の屋台で赤いマンゴーを買った。50元だった。12元でバナナを2本買ったが、この味はフィリピン・バナナの味がして旨くなかった。それから太魯閣渓谷観光バスの手配を観光事務所に尋ねにいった。ちょうど閉店間際であったが、共同運行の観光バスツアーがあったので申し込んだ。昼食は自分で用意する事にして750元。これで明日は8時間観光ツアーとなることが決まった。今日は阿里山→嘉義→高雄→台東→花蓮と一日の移動距離としては台湾下半分半周した長い旅となってしまった。ほとんど列車の乗りつなぎだった。疲れた。

 

6月2日(火) 晴れ  

 

 昨夜はよく寝た。8時半に観光センタ事務所の前から観光バスが出るというので7:00に起きて街を少し歩いてみた。屋台はもう場所によっては開いている。ジュースにサンドイッチというのが当世風台湾高校生の朝食のようだ。1km四方をぐるっと一周してみた。

花蓮は北回帰線よりも上にあり、東シナ海の方ではほぼ台中にあたる緯度だ。台湾の中央には高い山岳地帯があり、これがいわゆる横断道路を妨げている。しかし、梨山という地点を中継地に台中→梨山→花蓮というバスルートは存在している。梨山で一泊しないと横断は出来ないが、車さえあれば、走るだけなら5、6時間もあれば横断できそうだ。

一応、次回のために参考資料としてバスの時刻表などを撮っておいた。

 さて、街はといえば、これまでに訪れた都市と基本的には同じつくりだ。碁盤の目状に街路は仕切られ大通りには大楼と呼ばれるビルが立ち並ぶ。しかし、ここ花蓮は町が全体小さく、高い建物はあまりない。せいぜい3階建てくらいまでである。恐らく産業も大理石を素材とした産業くらいしかないのではないかと思われる。時々市民バスが通過するがそれも大通りだけであまり数は多くはない。家と家との間の空き地にバナナが実をつけてなっているのが目についた。紺青の袋ではなく白い袋が掛けられている。下から覗くと20本くらいが掌に曲げた指のような姿をしてぶら下がっている。まだ緑色のままだ。

まじかでこうした自然になっているバナナを見たのは初めてであり、それなりに感動だ。バナナというと大体が農園できちんと整理されて植樹されているというよりは線路際とか道路際の空き地に2,3本ごそっと大きな葉をたらし、そのうちの何枚かは赤茶色に変色して枯れてしまい、実などは全く付いていない、という姿しか思い浮かばない。これまでに車窓から見た放置されたバナナはみんなそんな姿をしていた。まじかで見ているこのバナナは高さが2m50cmくらいのところにあり、大人が手を伸ばしても手が届かないところにある。しかし、誰かがしろ布を被せてあるということは熟してくるのを待っているということである。あと何日くらいたつと完熟するのだろう?完熟したバナナを木の枝からもぎ取って食べるという夢はいつかなうのだろう。次におとづれる時にはぜひとも完熟バナナを木から捥いで食べることをしたい。

 バナナに大分気をとられたが、軒下の土産物屋でおもしろいものを見た。ひょこたんひょこたん左右にはねるように体をゆすって歩いている縞模様がはっきりわかるイノシシだ。大きさは5,60cmの子犬程度だ。牙も小さく生えている。よく見るとベルトをからだに巻いている。いわゆるリードロープというやつだ。お腹から背中に掛けてしっかりとベルトが掛かっており、飼われていることがわかる。珍しいので一枚撮る。

お土産屋さんには目立ったものはない。紫水晶のざっくり口をあけたやつ、よく昇仙峡などで売っているやつの大小とか花崗岩の飾り物、それに額入りのピンク色の地に黒い天然の模様がはいっている石細工などだ。あとはお菓子の類。

 そんな街角を一周してくると路上屋台で果物を売っている。既にバナナとアップル・マンゴーは買ったからここではライチ(レイシ)を買う。一本の細枝に5から8個ぐらいの蛇の頭の大きさ、形をした紅色と薄緑をしたライチがぶら下がっており、その細枝を5,6本束ねてゴム輪で止めて売っている。一束50元というのが平均的な相場だ。大体ひとつの実が1元という感じだ。花蓮観光のバスの中で食べても良いし、どこで食べてもよいからと一束買った。しかし、結構重くなる。そこでホテルへ置いておく事にした。何粒かをもぎとって。ドリアンのような匂いはない。

 ホテルへ帰ってパッキングをして、4時過ぎのツアー終了後すぐにチェックアウトできるように大きい方のバゲッジをフロントに預け、観光バスの来るINFOセンターの前へ向かった。バスは8:35分にくるというのでまだ15分くらいある。INFOセンターの裏側に小さな蒸気機関車や小型の客車などが並んで公園となっているのに気が付いた。阿里山の森林鉄道と同様の軌道幅だ。恐らく昔この鉄道がこの付近を走っていたのが、今は廃線となり使われないまま引退したという様子だ。蒸気機関車には子供の頃「神田万世橋にあった交通博物館」で運転台に乗った事があるが、それいらいだから50年ぶりか以上のことだ。

小さな機関車とはいえ、玩具ではなく実際に使っていたものだ。昔の汽車の中身はぜんぜん覚えていないが、垂直にたれている棒を引っ張ると、その度に石炭釜の蓋がハの字型に開いたり閉じたりしていたのを覚えている。汽車の運転台からは前方はどれくらい見えるのかと前方の運転窓を覗いてみたが、線路などはぜんぜん見えない。車体の一部が視野をほとんど妨げてしまっており、ほとんど目クラ状態だ。こちらが走っている姿を見ればその進行を邪魔するものはない、あれば蹴散らすというような存在であったのだろう。蒸気機関車というのはそういう陸の無敵艦隊の旗艦だったのだと思う。運転手も気が大きくなったことだろう。それを運転している間は……。

 そんなこんなして写真を撮ったりして時間を潰していると観光バスが来た。結構お客さんが乗っている。20人はいそうだ。2席分一人で占めるとしても2人で並んで座っている人もいるからそれ以上かもしれない。バスに乗る。アメリカ人がいる。なんとなく安心する。ほかにも英語を話している人たちがいる。日本人がいるかなと思ってすわってキョロキョロしたが、だれも日本語は話していない。たくさんの観光バスが駅前に集まり、

ほぼ同じ時間帯に出発するのだろうが、私が申し込んだこのツアーには誰もいなさそうだ。(後に、2人連れの日本人女性が参加していることが分かったが、彼らは中国語で話をしていたのだ)恐らく台北でのOptional tourとかで日本人は専用の観光バスで来るのだろうと思う。そんな状況だから、私に話しかけるのは中国語だ。わからないから英語で、日本人だ。中国語がまったくわからない、英語ならコミュニケーションできるから、できれば英語を使って欲しいと英語で言うほとんどの台湾の人は苦笑いしている。そんな中で、後からグレースとシアン?とかの二人連れの台湾中国人連れと仲良くなった。それにアメリカ人女性。

 バスは定刻に発車、一路花蓮の太魯閣峡谷に向かう。花蓮は平地にあるが平地の前方には切り開かれた口が一箇所だけあり、後は山がせまっている。バスは一箇所だけあるその谷あいに向けて突き進んで行く。30分も走っただろうか大きな砂利が川原にたくさん敷き詰めている渓谷が目に入ってきた。いよいよ峡谷の入り口だ。バスは右手の太魯閣峡谷インフォメーションセンターという大きな駐車場のある管理事務所へ停まった。ここで30分ほど自由散策となる。
      
運転手兼ガイドがいろいろ中国語でガイドしたり、インフォメーションを流すがぜんぜん分からない。何時にバスへ戻ったらよいのかも分からない。となると、自然と英語を話す人たちのいるところへ寄って行ってしまう。9:50まで自由散歩だと言う。トレイルがあちこちに延びていて案内板がある。とりあえず、万一に備えてバスの
NO.を写真に撮っておく。デジカメは便利だ。自分のバスがどれか分からなくなったときに照合できることを確かめた。それから散策だ。センターの対岸の遥か向こうには渓流をはさんでトンネルが見える。時々自動車が出てくる。そのトンネルの上は岩肌がむき出しになって崩れたままになっている山がトンネルをおおっている。グレースの説明によれば何年か前の大地震で崩落したのだという。崩れたというよりはナイフか斧でえいやっとばっさり切ったようなすべやかなは岩肌だ。これが花崗岩なのだろう。

しばらくviewing pointをいくつか訪れてから、バスにはぴったり戻った。みんなもだいたい+-5分位にはちゃんと集まる。アメリカ人の女性はもっとトレイルを奥まで歩いてみたかったが、時間がなさそうなので諦めたといっていた。

  
 またバスは動き出す。左側に座った方が渓谷を下に目にすることができて良かったかなと思っていたら、やがて橋を渡ったのだろう、渓谷が右下に見えるようになった。水の色は基本的には緑色なのだが、草津温泉のように白く濁って見える。石灰か何かが混ざっているような、すがしさに欠ける水流だ。川原は岩盤の部分と玉砂利状の小石が無数に敷き詰められているところとが適当に組み合わされている。道路は曲がりくねり、なかなかスリリングな感じだが、道路は広いし、ブロック塀が転落防止用にしっかりと端に巡らされている。それでも下は崖が垂直あるいは更に抉れているから下を覗くと怖い時もある。このまま落ちたらつっかえる場所がなくドスンと50mくらい落ちるわけだから、などと思うとやはり怖い。何万年と侵食されて出来た河岸だから抉られたようになるわけだ。

この大理石が板状に被さってくるような光景は確かにどこにも見たことはない。やはりここだけのいわば自然世界遺産とも呼ぶべき光景だ。やがて次の停車場へ来た。ここはいわゆる原住民族の村という事である。観光用に子孫である人々が機織や土器、木工具など伝統的な器や機械を使って見せる。内容は、布織りだが、南米のインディオ、アリゾナ、テキサスのナバホそれに北西海岸の諸トライブの人々よく似たデザインであり、織り方だ。よく見てゆくと幾何学模様の様や色使いなので異なっているのが分かるが、大きく見ると良く似ている。似ている味、臭いがする。2万年ほど前にアリューシャン列島を越えた祖先の一部はこのあたりからも出たのだろうと何の違和感もなく思えてくる。人間の足とはすごいものだなと思う。この移動しようとする意思もまた人間だ。食べ物がなくなったからなのだろうか、よりよい理想郷を求めての事だったのだろうか?

 トレイルにしたがって歩いて景色を見るが、最初はそのスケールに圧倒されていたが、だんだん慣れてきたせいかどこもあまり代わり映えがしないような気になってくる。特に背景が明らかに区別されるような特徴あるところでないと、背景はみな大理石や花崗岩の縞模様や千条石のようになり、代わり映えしなくなってします。目クラめっぽう撮るのをやめるようになってくる。いわゆる記念写真には背景がどことすぐわかることが欠かせない。布洛湾台地というのがダムの見える写真を何枚か撮ったその場所だ。

 バスは更に山間を大峡谷に沿って進む。そんなに急な山道ではない。峡谷の幅も下の方では100m以上あったのが、このあたりまでくるとせいぜい50mくらいになる。雨が最近は降っていないためか、水量もさして多くはないし、激流という流れではない。やがて燕子口という狭い峡谷に来た。道幅も狭く天下の剣という感じだ。見上げれば岸壁は落ちてくるようにかぶさり、ところどころに落石注意の表示が出ている。バスを降りて観光客は狭い歩行路を伝うように歩きながらトンネル内に進む。客を降ろしたバスは一足先に広い駐車場のある待機場所まで進んで行く。トンネルの中は手鑿で彫ったようにごつごつしたままだ。現代の掘削機で開けた穴の形ではない。250人くらいの人がこの道を作ってゆく途中犠牲になったという事だ。それが長春祠だとは後から知った事。

トンネル内は確かに燕が飛んでいる。イワツバメというのだろうか?岩壁にある穴をうまく巣にしているようだ。このあたりは絵になる背景が多い。典型的な太魯閣峡谷という絵だ。観光バスはここまでで折り返すものもあるらしいが、われわれの8hツアーは更に奥へと進んで行く。

 

 天祥が今日のツアーの最奥地点だ。ここには青少年育成センターのような施設があり、20歳前の若者たちが研修で歌の練習をしていた。ここのレストランでみんなは食事をしたが、私は自分で持ってきたパンと焼き饅頭をそとのテラスで食べた。グレースとシアン?が自分たちもお弁当を持ってきたので、レストランでは食べないから一緒に食べようと誘ってくれた。英語で歓談した。彼らは姉妹であり、少女時代にアメリカへ移住し、ニュージャージーとテキサスに住んでいたという。どうりで英語はほとんどネイティヴだ。大学もアメリカで出て、ビジネスを立ち上げてうまくやってきたという。何のビジネスかは聞かなかった。旅先ではあまり深く立ち入った事を聞かないのが原則だ。

向こうから積極的に言ってくる場合はこちらも応分に応えるが、特に歳を重ねてくるとそれ以上のなにか楽しい発展があるわけでもあるまいなどと勝手に決めつけてしまい、あまり後々も連絡を取り合おうなどという気が薄れてくる。若いときには運命に誘拐される事を積極的に求めるような、自分の気持ちを捨てたいようなところがあったが、久しぶりの旅のせいか、否、最近、明らかに日本のある人に心を寄せているからだろう、あまりほかの女性と話などをしてはいけないような気になってくる。そんなこともあり、あまり積極的には話をしなかった。若い時だと近い将来我が家に寄りなさいよなどと言われるとすっかりその気になってしまっていたものだが…。

東京から来て一人で台湾一周をしていること、向田邦子という有名な作家がいたのだが、彼女が乗っていた遠東航空機が墜落した事故に巻き込まれたこと、その慰霊塔があるので三義の山中を訪ねたこと、阿里山の日の出を礼拝した事、日月潭を訪れたことなどをはなした。話している途中、彼女たちはごそごそと袋から紅色に艶んだライチをごっそりと取り出し、一緒に食べろと言ってくれた。ライチは今が一番おいしい旬である事、剥くコツなどを実演して見せた。確かにライチはおいしい。日本のホテルや中華レストランで出されるものは茶褐色のものだが、現地のものは違う。ほんのりと薄く甘く、口の中に残らないさっぱりした甘さだ。みずみずしい爽やかさがある。表皮のいぼいぼは硬いが蔕の部分に親指の爪を立て皮を破ると一挙に3部の1くらいの皮が一度に捲れてしまう。だから2回か、3回ですっかり乳白色の実が取り出せる。実はとびだしてくるようにぷりぷりしており、押せばやわらかく跳ね返してくる弾力性がある。藤田の描く白人女性の肌のようだ。

 私はこれまで台湾バナナが世界一おいしいと信じていたが、今回認識を変えた。嗜好が歳によって変わったのかもしれないが、ライチだ。実はバナナの味が妙子と一緒に30年ほど昔に台湾で食べたバナナの味の記憶と異なるのだ。バナナを割ったときの感じも昔のバナナは焼き芋の金時芋を割ったときのような繊維が立ったまま折れたような手ごたえがあったのだが、こちらに来て食べたバナナは皆べにゃという感じなのだ。それに甘さの質が違う。味もくどい甘さだ。なにか品種改良(悪)でも加えているのだろうか?なんとなくフィリピンバナナのような味なのだ。

おっと、ライチ、バナナ談義はしなかったぞ。ともかくも彼女たちが出してくれた束のライチを3人でおいしく食べた。

 天祥はこれといって見るべきものもないところだったが、少し離れたところに五重塔が見えたので3人で行って見ることにした。グレースはしきりにここは仏教の寺としては世界一高いところにある寺だという。彼女は仏教というのは台湾の仏教とは思ってないらしく、しきりに世界一だという。私は別にどうでも良かったが、「でも、グレース、チベットの仏教寺院は4000mくらいのところに建っているよ。だから世界一というのは台湾式の仏教寺院のことでしょ」というとシアンが「そうよ。そうよ。仏教と言ったって、たくさん種類があるのよ」などと私を支える。「でも、世界一だわ」などとまだ言っている。

近くに見えるがこれが案外距離がある。途中でグレースが「私はもういい。ここにいるから、あなたたち行って来て」という。「OK。じゃ行ってくるわ」とシアンとわたし。大きな赤い吊橋を渡ってから急階段が続く、バスの出発は午後1時だ。あと10数分。間に合うかな?との思いがちらりと頭をかすめたが、まぁ大丈夫だろうと急ぎ足で上る。すると階段の上まできたら、シアンが「私もうだめ。かえる」と言う。「OKBye for now、じゃ、また」と応えて右に曲がった階段を上る。たいした段数でもないが案外効いてくる。あと2,3分と思い駆け上がった。目の前に塔の壁が見えた。左脇には石碑が建っていた。読んでいる暇はないのでタッチだけして、写真を撮ってまた急ぎ足で階段を下りた。吊橋のところまで戻ったときにはもう誰の姿も見えない。少し焦った。後2分くらいで戻れるかな?走った。大きく左に曲がった道の陰200mくらい先にグレースとシアンがのんびりと歩いている。後ろから大声で「Say to a Bus driver, awaiting me!」と叫んだら手を振った。先にバスの戻ったら「待ってくれ」と伝えるだろうと汗をぬぐった。

バスは私が乗るとすぐに走り出した。天祥から奥は道路は立派だが、観光バスは行かない。一般バスが梨山という山奥、台湾の山岳地帯の中心部まで走っているが、一日一本だ。梨山で一泊すると翌日台中行きのバスにつながる。いつかこのルートも自家用車の運転で走破してみたいものだ。

バスが停まっている脇にラッパの形をした小さな朱色の花が連なって咲いている。花の名前は分からないが一枚撮っておいた。バスは同じ道を戻りだした。景色はみたことのあるようなないような、みんな同じに見え出した。やがて1時間半くらい走ったら、行きに見えた長春洞に来た。今度は下車して洞窟内を見学だ。洞窟は人が2、3人くらいは一度に通れるが、基本的に狭い通路だ。奥の滝が落ちているところまで歩いて行く。長春祠が建っている。それはこの山岳横断道路建設の途中工事の事故犠牲者250人の霊を祭ったところだという。難工事だったわけだ。戦前から少しづつ掘削してきたらしいが、ともかくも人間の意志は自然を穿つことを実感する。洞窟のいくつかを歩いた後、バスはお決まりのお土産屋さんによって出発点の駅前に戻った。4時ちょっと過ぎだった。

太魯閣渓谷観光ツアーは無事終わった。日本人観光客に人気のある代表的な景勝地だけあって、やはり行って良かった。台湾へ行ったことある?という会話の時に、太魯閣峡谷は?と聞かれたときに「行った」という答えでその先の話が発展する材料を持てたということで…。別にそこへ行っていないから台湾を訪ねたことにはならないなどという気にはなれないのだが…。日本人団体旅行の場合、普通は台北から飛行機で花蓮まで飛んで、団体観光バスをチャーターし、その日のうちに帰路は特急で帰ってくるというのが一般的だ。そして値段も1万円とか1,5万円とかする。旅行会社にとっては日本人団体旅行はやはりお客様ということだろう。

今日の同じツアーバスに乗っていた2人の日本人女性たちは高雄で中国語の勉強をしに短期留学しているそうだ。だから中国語で行われるツアーに参加していたというわけだ。「台東に泊まるつもりで降りたが、駅前に何もなかったので昨日のうちに花蓮へ来た」とインフォセンターの散策トレイルで言った時に、「そうなんですよ。私たちも昨日は台東に行きました」という返事を聞いてこれは台湾に慣れた人たちだなと思ったが、そういうことだったのかと納得。北京語の勉強をするならば、大陸の中国で勉強するのはもちろんだが、息苦しさを感じないところとしては台湾は穴場かもしれない。

それに、台南は亜熱帯であり、確かに陽の差すところは熱いが、日陰はひんやりさえすることがある。アリゾナほどではないが、やはり空気が台北より高雄や台東の方がドライだ。台北は少しむっとするところがある。私にとっての太魯閣峡谷ツアーの意味は人並みの経験をしたというところかな。

 

樹林行きの特急列車「自強号」の切符もわけなく買えた。面白い事に台北行きというのはなかなかない。みな台北経由でそれ以南につながるようになっている。台北には操車場がないのかも知れない。この列車に乗ればいよいよ台湾一周の完了だ。花蓮からは海沿いに走り、やがて宣蘭を経て山周りというルートで台北へ着いた。

花蓮までは初めての経験であったせいか資料集めも含め好奇心が張っていたが、台北行きの列車へ乗ったらなんだか気の抜けた風船という感じで、列車の中ではうとうと寝てばかりいた。厳密に言うと寝たような寝たふりをしたような、…。というのは外への関心より気を惹くものがあったのだ。自強号の座席は指定席である。自分で選べるわけではない。旅の楽しみの一つは偶然隣り合わせというところで「運命」の「誘拐」の確率が高くなるところにある。こればかりは自分でわざわざ寄って行く、とか自分の意思で選択する、というのとは違って、神様の僥倖のなすままに、という「預けた」ところがある。

 さて、帰りの列車に隣り合わせた女性がこれが今度の旅行中には一度も見たことのないような日本人的な美女なのである。体は台湾の女性としては大きく、165cmくらい?胸・腰が張り胴回りが><型のモデルのような人であった。髪はおかっぱというのだろうか、長くはないのだが、ふわりとしたゆたかな黒髪である。肌の色は日に焼けていない日本人と同じような色、色白ではなく、どちらかといえば健康的な普通の素肌である。北京とか上海あたりには大柄な女性がいるようだが、台湾の女性は全体小柄だ。(最近は日本同様、若い十代、二十代前半の女性には背の高い人も台北では見かけるが)

ノースリーブのシャツに白いショートスカート(ミニではない)をはき、合席となることを確かめ、挨拶したときに愛想良く、にこりと微笑み会釈をしてゆっくりと落ち着いて座った。彼女はキャリア・バゲッジを通路に置いたままにしていた。私はてっきり日本人かと思い自然に「荷物を棚へのせましょうか?どうぞ」と日本語でジェスチャーでバッグを指差しながら言ってしまった。「xxx」、わからない、中国語だったのだろう、言葉が返ってきた。リクライニングに先に足を上げて座っていた私は思わず、居ずまいを正してしまった。英語で「台北へ行くのですか?」と聞いてみたが、彼女はタイペイという音に反応してだろう、中国語でなんか言っていた。「英語分かりますか?」といったら、掌を立てて横に小さく振った。残念!ああ中国語をやっておけばよかった、とその時だけは思う。

パラシュート・バッグの中には「中国語」の会話本を実は今回入れておいたのだが、わざわざもって来たにしてはついぞここまで一度も使わなかった。英語と日本語それに5つくらい覚えた短句ですべて乗り切れていたからだ。語学も好奇心につられないとやる気がしない。これまでの経験から言えば、学習意欲を刺激するのは必要にせまられるか、好きな事か、魅せられたもの(ひと)があるときだ。中国語にはそれがなかった。それに歳のせいか、どうもおっくうがる傾向が出て来た。

今もってその億劫を払拭させるものは「運命的な」と思わせる「女性」のようだ。私の本質的なところを暴き出す旅は面白い。しかし、だ、お互いを結びつけて会話をたのしむ術がない。「運命的な」ははかなくもなすすべもなく「運命的に消えて行く」。 

 私はなす事もなく、共にリクライニングで傾いたシートに体を預けながら、右側(通路側)に座った彼女のことをちらりと見た。しかし、座っている姿勢の角度からしてまじまじとは見ることができない。体全体はなんとなく窓の方に向けている。関心があるから余計に意識して隣とは反対の方に体がむく。といって完全に背中を通路側に向けてしまって寝入ってしまうというほど無関心になるのは惜しいような気がする。天井や液晶表示板に流れる列車案内の文字に目をやりながら時々彼女の体を見てしまう。それも悟られないよう、そっと。意識しなくても見えてしまう左手指には指輪はなかった。

 走る列車の外はしだいに中にいる自分たちの姿をよりはっきりと映し出し始めている。外の景色を眺めているような姿勢だが、目の中には反転した映像が重なって見える。

しばらくすると彼女はどこに持っていたのかカップ麺を袋から取り出した。駅の売店かどこかで買ったらしい。湯気こそ立っていないが一度はスープが煮立ったものらしい。前の人の座席の背もたれに掛かるテーブルを取り出し、カップ麺をそこに置きながらスプーンを左手に、箸を右手に取り、両方の手を一度に動かしてスプーンの中に麺を箸で取り込みながらまったく音を立てずにそれを食べている。私などは麺類といえば、漱石ではないが、ズルズル音をたてて飲むように食べる、それが粋な食べ方だなどと言われて、食べるが、この人は全く口から音が立たない。麺を噛んでいるのか飲んでいるのか分からない。びっくりした。器に箸とスプーンを同時に入れ、スプーンに麺を箸で取り、スプーンを口に運び、口に入れる一連の動きが窮屈そうではなく、実にスムースなのだ。毎日の事というように動きに無駄がない。構えたところがない。いったいこの人は何をしている女性だろうかとふと思った。

あまりに近すぎて顔を良く見ることができないのが残念。おしゃべり相手をすることができないのはもっと残念。中国語ができれば、発展のある「運命」があったかもね。それとも中国語には縁がない事が、ほかに「運命」への通路へとつながっているのかな?と希望的想定。これだけお目出度いから長生きするんだよな、と自嘲。

 

 ふと気が付くと列車は、駅名が中の蛍光灯の光で浮かび上がる現代的な表示板のある駅を通過している。もうすぐ台北だ。立って荷物を整えだしているお客も増えてきた。列車は地下を走り出した。台北到着のアナウンスが中国語で案内され、最後に英語で報知される。台湾の鉄道はすべて漢字表示と英語(ローマ字表記)である。目で観る限りは日本人にはなんとか分かる。すべて。

彼女が先に並んで通路に立つ。やはりプロポーションがいい。でも後姿。プラットホームへ降りてからは、彼女の後ろについて歩く姿を想ったらなんだか変な気になったので、すたすたキャリアーバッゲッジを牽いて彼女を追い越し、エスカレータへ乗ってからもバゲッジを手でもちあげて、そのまま振り返らず改札口を出て、一路、既に到着日に泊まった城美大飯店に向かってしまった。

 ホテルには彼は夜当番なのだろう、この間の彼が「ウエルカムバック」と迎えてくれた。「この間の部屋じゃないよね。あの騒音には参ったよ。静かな部屋になっているでしょね!」と念押しを言うと「ご心配ありませんよ。今度は5階ですから」とにこやかに応える。「じゃ、信じているから下見しないね」というと「だいじょうぶですよ。これがキィです」と503と彫られた鍵をくれた。

なるほど、良い部屋だ。大きさもaccommodationも良い。なにより静かだ。それに液晶壁掛けテレヴィでNHKが見られる。まるで日本だ。これが1,230元ならきわめてreasonable。さっそく荷解きをしてからロビーの受付にキィを預けついでに、「気に入ったよ。とてもすばらしい部屋。ありがとう」と伝えたら、彼もニコニコして親指を立てた。

まだ夜9:00前だったので、MRTで士林夜市へ行った。この間の約10年ぶりの海外旅行の折、親友Tと一緒に訪れた士林夜市だ。このあいだ来た時はおじいさんやおばあさんなど大人がほとんどだったが、この夜は違う。店という店は原宿?アメ横?のような安っぽいファッション・ハウスばかりで落ち着かない。ホットパンツやミニスカートの10代のギャルが屯している。ボーイフレンドも一緒だ。あるいは友達グループの一団だ。私の歳の人などほとんどいない。もちろん屋台はあるが、昼間のように野菜や惣菜などの屋台は見かけない。せっかく果物や屋台で食べようとして来たのに、これではと思いながらとりあえず、端のほうまで歩いてみる事にした。

結局、めぼしいものはなにもなかった。ほかの夜市へ改めて行くのも億劫になってしまったので、角の一角の街路沿いになったベトナム料理を意味する?越南料理…とか看板に書いてある店に入り、指差しで注文して食べた。たしかに唐辛子がきつく、さらにテーブルの上に乗っている自分で按配できる調味類も芥子を中心にしたものばかりだった。でも、魚醤油はなかった。越南「風」だからか?お腹がいっぱいになればもう士林に用はない。

 帰りには台北駅ではなく一つ前の中山駅で降りてホテルまで歩いて帰ることにした。ガイドブックに寄れば中山駅、雙連駅が日本の銀座に当るところらしい。中山駅で降りると親光三越があり、DFS(免税店)があり、いわゆるブランドショップがある。101タワーが出来てからは、高級ブランドショップもそちらへ進出しており、どちらかといえば、こちらは廃れているようだ。もともと入る人は少ないのがエルメス、ブルガリ、ルイ・ヴィトン、ダンヒルといった世界的なブランドショップだが、こちらにはほとんど人はいなかった。DFSが近いから昼間団体旅行の日本人客が来ない時間帯は閑散としているのだろう。前回行った101タワーのほうが活気があることは確かだ。ほかにめぼしい店もなかった。台北駅まで歩いても15分くらいであった。

ホテルへ帰ってNHKを見たらブラジルで大型機が墜落したニュースをやっていた。ふと向田さんのことが思い出された。思い返してみると、今日という日は長い一日であった。

 

6月3日 (水)雨(強・弱)時々晴れ

 翌日(3日)は、ざんざんと降る雨音で目が覚めた。窓のカーテンを開けたら黒灰色の雲が一面を覆っているが、右の方がかすかに青く見える。スコールだな、一時降れば止むだろうと思い、予定通り、北投温泉へ行ってみる事にした。といっても、北投温泉はMRTで30分もかからない距離にある温泉である。大都市近郊に大温泉があるなどうらやましい限りだ、と行く前は思っていた。

 台北市内は東西南北ほぼ一通り訪れたし、帰国前の一日はゆっくりしてみようということにしていたわけだ。それにしても行くには往復1時間もあれば十分であるからと、朝食をとって9:00を過ぎてから、少し、台北の西側の一角を歩いてみる事にした。台湾も中国人による街づくりだから、幹線道路の道幅は広く一区画が大きい。西門から龍山寺まで適当に歩いてみた。妹に頼まれた「貝柱」と「小エビ」など中華料理の素材探しをかねての事だ。この中華料理の素材がなかなかない。日本のスーパーに相当するところがあれば、食材コーナーにでも行けばなんでもあるだろうと思っているのだが、この食品スーパーがない。小さなスーパーはあり、インスタント・ラーメンとかスィーツ、菓子類はいくらでもあるのだが、本格的な食材、それも生ではなく、加工してあるものなどは売っていない。三越の地下にも行ってみたがない。セブン・イレブン、ファミリーマートなどおなじみのコンビにも掃いて捨てるほどあるが、そこには加工食材など置いてないのは同じ事。

 地元の人が普段自宅でお料理する素材を買ってきてくれというのだから難しい。ぶらぶら歩いていると、時々強烈な薬草の臭いがすることがある。漢方薬店だ。鹿の角とか、タツノオトシゴとかマムシ、スッポンとかのいわゆる精力剤といわれているものが店頭にかざられているが、アワビ、フカヒレ、えびの類は場違いのようだ。貝柱などどこにでもありそうだが、これが見当たらない。見て探すのはダメだ。疲れる。やっぱり、聞く事だ。貝柱、小エビとかなんて言ってよいかわからない。本も持ってきていない。面倒くさい。「なかった」といってごまかそう。

などと、思いながら歩いているのだが、とりたてて面白いものなど何もない。自分がどこを歩いているのかも分からない。分からずぶらぶらしていることを楽しんでいる。時間が経つに連れ、開いている店も多くなるが、思わず引き込まれるようなところはない。台湾へ行ったらそこにしかないもの、とか台湾産~なら品質よし、というものがない。珊瑚とか翡翠とか云っている人もいるが、品質はダメ、というのが拙評。中国人の翡翠というのはまぁ全部ネフライト(軟玉)だからジェッド(玉石)ではない。だいたい加工細工できること自体がその宝石としての価値をものがたっている。バーマ(ミャンマー)、糸魚川以外はダメ。

 

 小道の角に来たので、角に立っている女性に何気なく、「龍山寺はどっちですか?」と聞いたら、なんだか怪しい女性、濃いアイシャドーに厚い口紅を塗り、変な感じ、立って客引きをしているようだ。聞く相手をうかつにも間違えた。一角歩いている間、地面にしゃがみこんでじっと品定めするような視線で後を追ってくる女たちがいるのが分かる、君子?危うきに近寄らず、だ。

100mくらいすたすた歩いたら右側にこぎれいな中華菓子屋があったので入った。あまり期待はしていなかったが、三義で買った「竹箆餅」とかいうゲッペイに似たお菓子の袋を見せてこれがあるか?と問うと「ある」という。手に見せてもらうとまさしくその類のお菓子だ。それを買うと同時に気をよくして「ゲッペイがあるか?」と尋ねると8分の一サイズのものを見せてくれた。「これは大きいのが丸ごとある」という。そこで見せてもらったら、これが良い感じの大きな胡桃の入ったゲッペイだ。わかった。これからしばらく散歩してくるから帰りに寄る、といって店を出た。忘れないように頭に位置を入れた。不思議な事にこういう時私は迷わず、戻ってくる事ができる、才能だろうか?不思議!

 なんとなくこっちのほうだろうなと思い、店員さんに龍山寺の方向を手をさして聞くと「そうだ」という。「じゃ、帰りに」と言って、また歩きだした。脇道に行商の路上商店というか、行商のお年寄りが生ものをたくさん売っているところがあった。面白そうなので歩いてみる。どこから仕入れてくるのか採れたての野菜や果物そして魚、豚の足など、なまものがいっぱいだ。ライチがあったので、一束の半分を15元で買った。言葉が出来れば、どこから仕入れてくるのか聞きたかったが、ダメ。

道伝いに歩いてゆくと、前回親友Tをデパートに待たせて一人で来たことのある龍山寺に出た。中に入ると信心深い人々や真っ黒な服を着るというよりは被った僧?が護摩を焚き、読経している最中だった。商売の神に崇め奉られた関羽を祀った行天宮ほどの人数はなかったが、密度はそれに劣らずという熱心さであった。

ゲッペイの良いのに当ったので、また来た道を引き返した。まもなくしてさっきのお菓子屋さんに戻った。店員は本当に戻ってくるとは思わなかったらしく、びっくりした顔をして笑いながら歓迎してくれた。大きなゲッペイは2個かったが、箱をサーヴィスして一つ一つに入れてくれた。箱には英語でCelebrate for Wedding、漢字で天賜良縁、縁定三生と書いてある。結婚式の引き出物として使うお菓子のようだ。なかなか素敵な箱だし、8分の一の味も良かった。一箱140元だから450円以下、2品で千円以下の品だ。安い。うまい。これぞ、台湾土産と一人満足。ほんとうはライチやマンゴーそれに本当の台湾バナナ、これらを持って帰りたい。図版使用でお世話になったAさんにお礼として送ってあげたいとおもっても、適わぬ夢物語、Impossible dream。甘党ならゲッペイも有かと思うが、却って負担になっても…などと一人悩む。満足顔をして手に赤い大きな「太和…  」と記した袋に入ったお菓子を手にしながら、台北駅のほうに向かってまた適当に歩く。

 
 ホテルには10:00頃には戻った。買ったお菓子を部屋に置いて今度は台湾の温泉体験だ。MRTの淡水線の北投駅まで行き、そこから北投温泉線へ乗り換えれば着く。地下鉄と地上駅システムのこのMRTで30分かからない近さだ。北投駅からの乗り換え線は一駅しかない。電車はなぜかその一駅を非常にゆっくりと走る。なぜこの線が設けられたのか分からない。距離も1kmか2kmくらいの感じ。シャトルバスでも動かした方が余程効率がよいのではと思う。日本流に言えば、族議員路線なのかな?平日の午前中とはいえ、2,3両の電車に乗っているのはたかだか20人くらい。

        

  北投駅に着いた。駅の前に旅館の客引きがそろって呼び込みをしている日本の温泉観光地の賑やかさといった雰囲気などはまるでない。ただの普通の街だ。大きく分けると左、真ん中、そして右へと分かれる大きな道路がある。正面の道の先のほうに高い温泉ホテルのような感じの建物がいくつか見える。北投文物館という矢印も見える。そこでてっきりその道を行けばよいのだと勝手に判断し、一番急な坂道をえいこらと上り歩き始めた。箱根の強羅ほどではないが、急な坂道である。5分も歩いたら汗が湧きはじめる。くねくねとまわる坂道を登ってゆく左右には個人の別荘?のような大邸宅もあるし、7,8階建ての住居マンションも立ち並んでいる。

土留めの城壁にへばりついたガジュマロのような木の根がすごい。網の目のように壁に藤壺やタニシのようにぴたりと吸い付きまとわりついている。壁から少しの隙間も作らないように縦横に密に網を張っている。驚きの植物の根の伸び方だ。でこぼこまがりくねって伸びて行くのが木の根だと思うが、全く壁との間に隙間がない。剥がし落とされるような隙間を作らない知恵はいったい植物のどこからの指令なのだろうと思う。自分の伸びてゆく先の空間を読み取る力は植物のいったいどこに宿っているのだろうかと感心しながら思う。

10分くらい坂道をのぼり歩いていったが一向に温泉旅館らしき建物が現れない。レジデンスばかりだ。ようやく人の姿を見かけたので、英語がわかるかというとア・リトルと謙遜して言う。日本人みたいな反応。温泉街はこの道を行けばよいのか?と尋ねると、違うと言う。がっくり!聞けば、駅の噴水のところを右手に入る道を行くべきであったということだ。下りとはいえ、また7,8分は歩かねばならない。イヤになってくる。下りは今度は膝に負担がかかる。汗はかかないが、膝が笑うような無理はしたくない。ゆっくりまた来た道を駅まで戻る。なるほど右手には地獄谷とか温泉博物館とかの案内板が出ていた。少し丁寧に周囲全体を見回しておけばよかったのに、とはいっても、後の祭りというやつ。

 今度の道はゆるやかな坂道だ。2,3分も歩くとほどなくして木立の陰のなかの向こうに日本風家屋の切り妻屋根の建物が見えてきた。温泉博物館だな、と思って行くとそこには露天風呂館の表示があり、人が5,6人並んでいる。入り口の店員に入れるかと聞くと海水パンツを持っているかと聞かれた。海水パンツではないけど、パンツは用意してきていると見せるとそれはダメだという。指定の海水パンツは300元で売っているからそれを買えと案内する。馬鹿馬鹿しくなって「じゃ、いい」といって出てきてしまった。

隣のエリアにはレンガ作りのしっかりした建物がやはり切り妻の屋根を乗せていた。そこが博物館だった。小さな川が湯気を立てながらざぁざぁ流れている。硫黄の臭いが鼻にくる。さらに道を登ってゆくと古ぼけた旅館とおぼしき建物が2,3軒建っていた。貸し風呂100元などと書いてある。その先の道を行こうとしたら、通行止めの柵がかかっており、奥へは行けない。矢印で右側へ行けと指示が出ているので、木がかぶさり薄暗い小道をのぼる。左に曲がり車一台が通れる道をちょっと歩くと若いアベックが写真を撮りあっている。ということはなにかあるなと思い、近づいてみると、下に、石灰を混ぜたような白濁した緑色の池がある。ところどころに湯気が立っている。「ゴコ、ボコ、ゴコ、…」と沸騰した蒸気やその音が聞こえてくる、という激しさはなく、古池のような静けさである。幅10m長さ7,80m、位の池、湯だまり、源泉である。これが地獄谷というわけだ。「地獄」という文字の表わす鬼の住むような、荒涼とし、人の肝を抜くようなゴー音が鳴り響き、ごつごつした岩場などは全くない。なんだか気が抜けた。

   

 草津の湯畑のような賑わいもないし、温泉!温泉!といって騒いだのは日本人だけかもしれない。日本人が統治時代に開発した温泉街であり、それまでは原住民がときどき湯につかる程度だったというのは本当のようだ。せっかく来たのだからどんな泉質かは試しておこうと、100元の建物に入った。おじいさんとおばあさんが暇そうに雑談?をしていたが、私が風呂に入りたいというと、30分間で80元だという。それに片言の日本語がしゃべれた。いわゆる大衆風呂というのか、大きな湯船に温泉が張ってあり、そこに浸かるのかと思っていたが、コンクリートで仕切られた風呂場へと案内された。一人用、二人用、もう少し大きいなどと部屋の大きさによって仕切られている。

客は私だけだ。おばあさんが、赤い蛇口をひねって使い方はわかるかというから「ハイ」と応える。湯船に蛇口から出る温泉を張ってそこに入るだけだ。脱衣棚もみな同じ部屋に仕切りもなくある。風呂はきれいではない。使い古された年輪を感じる。これでは今のお客は来はしまいと思う。土木作業員などが汚れおとしと疲労回復に入りに来る場という感じだ。蛇口をひねって出てくる湯量は多いが、熱くはない。そのまま入れる。3,4分もすると湯船の4分の3くらいに湯が張ったので入る。肌がひりひりする。確かに温泉だ。掌を体のあちこちにあててみるとぬめっとしたような何かが皮膚の上に一枚被せられたような感覚がする。

蛇口に掌を伸ばし、少し、口に入れてみた。草津の湯と同じような、酸特有のやわらかい口の中の感覚を麻痺させるような不快な味がする。もちろんすぐ吐き出す。ぬるいくらいの湯加減で長く入るのが体に良いとは日本でも言われる事だ。目の前には、いろいろ注意書きが貼ってある。漢字の感じからは、湯あたりでひっくりかえらない様に3分くらいで出ろ、そしてまた入れなどということらしい。確かに泉質は刺激が強いのかもしれない。引っかき傷のあるところがくっきりと赤紫に染まってきた。 

15分くらい出たり入ったりしていたらもうよくなってしまった。

服を着て個室を出て、帰り際にいすに座って雑談しているおばあさんとおじいさんに「良い風呂だった」と御世辞を言って帰ってきた。客は私が来て帰るまで誰も来なかったようだ。台湾の人は温泉はあまり興味ないのかもしれない。それとももっとよい温泉を知っているのかな。湧出している温泉の数は全土で100くらいあるらしい。まだ未開拓なところも多いような気がする。泉質の豊富さと云う点で、日本はやはり稀有な温泉天国なのだろう。

 喉が渇いてビールでもと思ったが、自販機はないし、第一台湾ではビールを歩きながら立ち飲みなどしている人はいない。私も日本ではほとんどしたことがないから、捜し求める事もなくそのまま歩いて温泉川に沿って整備されている樹木の覆い茂る公園の中をMRT駅の方へと降りてきた。

あっけない温泉だった。大きな湯船や露天の掛け流しに日がなのんびりつかって風情を楽しんだりするという温泉の楽しみ方を知る日本人のセンスとはなかなかのものだと思う。

 こうして2時頃には台北に戻ってきた。明日の桃園飛行場行きのバスにのるまでまだ約1日ある。どうしよう。行く気になればまだ仇分とかウーライとかの観光地訪問も可能である。しかし、前回親友と台北は一通り訪れたし、妙子ともおいしいバナナを昔食べたし、なんてことを思っていたら、もうどこかへ行く気がしなくなってしまった。

いったんホテルへ戻り、足を壁に高く寄り掛けて血流を逆さにして疲労を取った。小一時間くらいウトウト寝たら、疲れが取れたので、また市内を歩いてみる事にした。今夜はおいしそうな中華レストランへ行って夕食を取ろうと決め、MRT雙連駅へ行く事にした。銀座、有楽町か新橋というところか?

 5:00もすぎると若い、といっても20代後半から30歳前半くらいか、男女が勤めを終えて繰りだしている。また、有名ブランドショップの並ぶリージェント・ホテルまで歩いてみた。なにか買いたいものがあるかなぁと自問してみるが思いつかない。いまさら新に欲しい高級品も思いつかない。購入するときは、3世代続いて使えるものを購入しようと思って、40歳代の時に旅行トランクやバッグの類はフランス、パリのLVで皆そろえてしまったし、時計も乗用車1台分のVacheronの最高のクラシックなものも買ってあったし、丈夫なスピ・マスもあるし、万年筆もViscontiStipulaも使っているし、ペリカンもあるし、こまごました傘や靴の類も香港や東京のLVで購入したものを使っていたから、男の~の類のものは一通り持っている。最近のitemといっても、新規に出てくるものはITやら情報機器の類ばかりで、いわゆるファッション・ブランドのもので新商品というものはない。あったら知りたいくらいだ。

なんであれ、その
itemで世界TOPブランドとされているものを一つ手に入れれば、そしてそれを長く使えば、良いのではないかと思うが、それは貧乏人根性かな。お金の増えるスピードの方が使うスピードよりも早い金満家にとっては万事が消耗品なのだろうか?お金が適正量を超えると絶対人間おかしくなるな。「吾足るを知る」を許さないのが資本増殖を義務付けた資本主義社会だ。最適バランスの解は永久に解けないのだろうか?不幸な人間。個人の欲望の歯止めを否定するのが今様の考えだ。欲望こそが発展への原動力と見做しているからだ。確かに飽くなき欲望を持つ人は存在する、しかし、そんな物質的欲望から自由な人々もいる、知性・教養が増すほどに欲望からは自由になるはずなのだが、現実はそうではない、人々の最低生活を底上げしながら、つまり、分配率をもっと働く者の側に上げて行くように、国ごとに基準を決めても良いのでないかと思うが、こうした人工的な規正は経験則上うまく行かない。人間社会とはいったいなんのためにあるのだろう。愛する人と2人だけで、あるいは家族や気の合う仲間たちと一緒に物質的に何不自由なく隔離され、外界を知らないで過ごせたらどんなに幸せだろうなどと思う。

 台湾は中国に先んじて現代化に成功しつつある。まだ地方にはインフラの弱いところが見受けられるようだが、それでも国全体としての経済発展は飛躍的なものがある。若者たちは西洋的なコンビニ・ライフを受け入れ、マックに行き、ダンキンドーナツに屯し、スターバックや洋風喫茶に入り浸っている。昔からの貧しい人々の食生活を支えた屋台はある一角に残っているが、どんどん建物の再開発のなかで転業したり、廃業している。人と人との交流、お年寄りを支えあう交わりもどんどん薄れている。儒教思想により支えられていた敬老精神は日本よりははるかに強いがそれでも近代化の流れの中でお金で解決する風情が出てきている。

10代、20代の若者は
MRTや列車の中で博愛シートを占拠し、携帯を覗いている。どの国もみんな同じようにしかも悪くなって行く。お化粧や整形外科がはやり、人工的な洋風美人顔が闊歩し、秘めておくつつましさの中に当人同士だけに見せ合い愛の豊かさを感じあい、喜びとするべき艶の世界が、見世物のように公衆の面前に現れている。経済力が備わり、ひとり立ちができるような状態であればそれを個の独立と呼び、それを尊べばそれでよいのか?人間としての品位をどこかへ置き忘れているのが現代人のようだ。日本を追いかけた台湾、そして韓国、今は中国、東洋諸国はみんな歩調をそろえて浅薄な「西洋化」の波に飲み込まれてしまうのだろうか?

人々でごった返す新光三越のある南京道路をそして台北へ通じる中山路に並行する道端を歩きながら考えたことである。そして感傷的なことも想った。昔、妻亡き後の5年くらい、ひとりで銀座を歩いていたとき、妻に姿格好の似た人にふと出くわすとそっとしばらくその人の後を追いかけたり、追いかけたくなる衝動に駆られた事があった。観察の間に妻との違いがどんどん判るにつれて胸の中に大きな穴が開き、そこに冷たい風が吹き抜けるような感じがした。スクランブル交差点を渡ってくる大勢の人の中から「あなた!」とか声をだしながら、駆け寄ってくる妻の姿の幻影を期待して、わざと人の多いところへ足を運んだ事もあった。こんな異国の地でそんな「奇跡」が起これば、そのままそこで私はどこにも帰ることなく、全てを捨てて彼女と一緒にそこにいるだろうはずだったが…。

 結局、おいしそうな中華レストランには入らずじまいのままホテルまで帰ってきてしまった。ホテルの近くの餃子を作っているところへ行き、6個一塊の餃子とベーカリへ行き洋風菓子パンを買い込んで部屋へ戻ってライチと一緒に食べた。餃子は安くておいしかったが、なんといっても今朝龍山寺の露地で買ったライチがおいしい。どうせ、日本へはもっていけないし、機内では手が甘い汁でべとべとしてしまい、後が大変になるという読みで、今晩と明日のお昼までに全部食べきるように分けた。

ライチは傾国の美女、楊貴妃が好んで食べたといわれているが、確かにおいしい。今度ライチを食べるまでは、台湾バナナ、太くて大きいほくほくした感じの金時サツマイモの焼き芋版みたいなバナナが一番好きな果物であったが、台湾のライチを親指で皮剥がしをしながら食べた味は今後、一番好きな果物は?という問いに迷わず「台湾の捥ぎたてのライチ」という答えを用意する事になった。昔、妻と一緒に食べたようなバナナがまた食べられれば、ウーンと唸ることになりそうだが…。

 

6月4日(木) 台湾滞在最後の日  雨のち曇りまた雨 

 

 また雨だった。8:00頃起きた。傘を買うのが面倒だったから、ゴルフ・カッパで移動する事にした。それに軒下を伝いあるけば、そんなには濡れずに済む。ホテルの朝食をとってからお昼までの間、また雙連駅まで行ってみる事にした。まだ買っていない自宅で飲むウーロン茶を買わねばならないし、なにかめぼしいものがあればそれを買おうというわけである。まだ3000元の現金が残っている。帰りの飛行場までの125元は別にとってあるから、まるまる使ってしまっても構わない。食材の小エビと貝柱も見つかれば買おう、と出かけた。MRTのトークン・カードもまだ100元分くらい残っている。雙連駅をおりて雨を避けながら、なんとなく軒下をぶらぶらしていたら、小型のスーパーがある。雑貨屋、ドラッグストアというやつだ。そこに、天仁茗茶という会社の凍鳥烏龍茶がグレード別に売っていた。

これはよいと3種類を買った。安いのは150元だった。
DFSだと250元からしかなかった。だいたい300元から700元くらいする。中身が同じかどうかはわからないが、同じように見えたので買っておいた。「貝柱」「小エビ」はやはり、ない。チョコレートとか日本のスイーツ類がたくさんあった。日式と書いてある。日本で製造されたものという表示である。それから干からびた梅干、ドライフルーツというのかな、を買った。妹のTは例の毒入り餃子発覚事件以前から中国製のものは絶対食べないと徹底しているが、母も妹Mも私もそれほどのアレルギーはない。烏龍茶を飲むときのおやつにという感じで2袋買った。甘くてすっぱくて種を舌に絡めて剥がす作業が面白いお菓子を買い込んだが、700元くらいにしか行かず、結局2,000元以上使わず仕舞いになってしまった。帰りの飛行機の機内食はどうせおいしくないセットものだと思ったら、急に250元を食べたくなってしまった。

11:30頃だったが、お店がすごく込んでいる中華レストランがあったので入った。SINCE1950 などと書いてあり、老舗らしい。「老菫牛肉細粉麺店」という。牛肉と麺の組み合わせにおいしいものがあるらしい。値段も麺にしては結構高い。3品頼んで230くらい払ったはずだが、覚えていない。味も覚えていない。そこそこおいしかった。

 ホテルへ戻り、預けておいた全ての荷物を受け取り再度詰め替えてから駅前の国光客運のバス停で飛行場までの切符を買い、1:35発の桃園飛行場行きに乗り込んだ。途中バスから見る淡水河は濁流である。台南へ行くときに見た河川敷は水没し、堤防まで濁流が押し寄せ溜まっていた。すごい量の雨が一度に四方八方から集まってきているのだろう。雨でバスのガラス窓越しの視界はほとんど見えなかった。

バスは第1ターミナルへ先によってから第2へと着いた。20人くらいの乗客が乗っていた。まだ2:30前だがちょうどチェック・インが始まっていた。英語で応対したせいか、7KとかのBoarding passをくれた。一緒に非常時の協力要請を伴うスリップがわたされた。これは例の「ご対面席」だなとわかったので、「ご配慮有難う」と言っておいた。

出国手続きを済ませると、時間がありあまっている。機内で読もうと持ってきた向田和子の「向田邦子の恋」をVIP…とか書いてあるレストランへ入ってコーヒーを飲みながらまた読んだ。

 向田邦子の恋をした相手のカメラマンには妻子があり、それがいわゆる不倫の恋だったらしいのだが、向田邦子はそのことを家族はもちろん誰にも打ち明けることなく、その相手を一途に愛したらしい。彼女の事故死のあとそのカメラマンは自殺し、その「秘め事」としての写真を妹のKさんがその男の母親から渡されたという経緯らしい。私としては、同性としても、太宰的なダメなやつであるその男のカメラマンは許せないという感じなのだが、向田は献身的に貢ぎ、かなわぬことを知りつつも、身の回りの世話などもしたことがわかる。そのなかにある向田の写真の輝きは「恋する女の輝きに満ちている」。
 結婚前に撮った妻の写真のなかにも妙につやづやしく写っている写真が何枚かあるが、それと同じだ。モノクロでプロが撮ったからということもあるが、モノクロ写真の奥深さ、すごさを感じる。

 私は向田の本は「父の詫び状」しか読んでいなかったが、今回の旅を前にして、全集を谷津の図書館から借りて斜め読みだが、一応ざっと眼を通した。「あ・うん」がエッセーで語られる実話をそのまま投影していて、しかもダメ亭主を陰で支える良く出来た良妻で、その良妻を心からプラトニックに愛し、現実の生活をささえる男の友情のような世界が描かれている。武者小路よりは「あり」という感じの世界だ。「よく出来た奥さんをもってうらやましいですよ」という言葉を子供の頃に父を訪ねた訪問客の語る御世辞を聞きながら、この人は本当にいいとおもっているな、と思ったことが私にもあるからだ。昔は職場の同僚や仲間を自宅に呼ぶということはほかの家庭でも結構行われていたのだな、と思った。

 向田の世界は要するに、なんだかんだ言っても父親が「偉い」立場で、妻が内助の功に努め、家族が理不尽に叱ったり、怒られたりしながらも、コミュニケーションを取り合いながら、家族としての温かさを大切にしたい、という世界なのだ。そこに背景としての身近な家庭の道具や設定があり、それは全てではないにしてもいくつかはそれにほとんど等しいか、近い家庭をその年代に生きた人ならば誰もがかつて経験した事がある世界なのである。小説家としての舞台の設定があまりにも近すぎて、強い葛藤や解き難い難問に心を悩まし取り組むというようなことのない、誰の家庭にも起こった、またおこり得る身近な生活のなかでの温かい人間関係を書いているところが人気の秘密だったのだろう。誰にも共感できる素地の活用そして細やかな女らしい心理描写。

 向田は台湾での事故死の前にも結構マイナーなアマゾンの奥地、アルジェとかに行っていた。映画の中に現れていた、いかにもその地を表わす世界が現実には存在していない事に随分と失望もさせられていたようだ。現実の「発展」によって。

彼女は台湾には何の目的で出かけて行ったのだろう、取材の目的は何であったのだろう?きっと少し違う世界を求めていたのだろう。一番油の乗っている歳の不慮の事故死は家族にとっても、また日本にとっても大きな損失となったことは確かだ。

向田邦子の遭難碑を訪れたのは、有元利夫が彼女のファンであり、その突然の死にショックを受けた、という日記の書き込み分を以前読んでいたからだ。多分、寺内貫太郎一家などの世界が彼にとっては「ある、ある」世界であったのだろう。谷中が舞台だけに、一層の事。

 

もらった7Kの席は非常口脇の「ご対面」席であった。前のスペースが広々としていて本当に助かる。40歳代の頃はCAが良く話しかけてくれたが、今の歳になると、さすがになにかと話しかけられる事もない。昔はどこへ行かれたのですか?と尋ねられて、プロの彼女たちが知らない世界の地の話をしたりすると、目を輝かして聞いてくれ、また好奇心豊かに問うて来る乗務員も結構いたが…。歳には勝てないのかな?

 無事成田に到着したあと、面白かったのは税関でのこと。もちろん高価なものや税金のかかる品目の持込はない。しかし、衣服やらのほかにお土産品が増えている。パラシュート・バッグはパンパンに張っていた。若い税関員はなにが入っているのかに興味があったのだろう。それにだれか一人くらいチェックしないと仕事をしていないと思われてしまう、とでも思っているのだろうか。

面白かったのは例の大きな「ゲッペイ」である。赤い箱にCelebrate for Wedding の文字が目に付いたのか、台湾にはどうして?お友達でもいるのですか?」「いや特に」「あけますけど、良いですか?」だめと言ったって開けるのにとは言わず「どうぞ」。「これなんですか?」といって型枠から取り出し、その下に何かが隠されていないかどうかをチェックしている。「ゲッペイ。お菓子です。」「わかりました。いいですよ。どうぞ」

という按配。平日、大人が単身でしかも日を空けずに同じ国を再訪していることを怪しんだのだろうか?団体旅行で動くとまずチェックはないが、単身旅行にはつきもののセキュリティ、そして税関のチェック。まぁ、これは仕方のないところだろうと、諦めるしかない。

成田空港を出たのは夜の9:00を過ぎていた。空からは雨のお迎えはなかった。 

 

<了>


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