パプア・ニューギニア(ケヴィエン、ラバウル)訪問

魁三鉄(永橋続男)

1986年8月6日〜8月17日

 

(1)

 この旅行はちょっと普通とは異なったことが理由となって行われた。

第2次世界大戦(1937年〜1945)、日本としては特に太平洋戦争においてその当時20,30歳台の人々が兵役に取られ、数多くの犠牲者が出た。最終的には兵士のみならず、沖縄を始めてとして日本国土への空襲などにより、一般市民までもが戦渦に巻き込まれ、莫大な損害と犠牲を強いられ、その戦争は敗北して終結した。

 私はもの心ついた頃から、母の兄(伯父)がこの太平洋戦争において、アメリカの潜水艦によりカビエングというところで船ごと撃沈され、海の藻屑と消えたということを、時々聞いていた。母の持っていたアルバムには伯父の東京商船大学での姿や海軍の制服姿の凛々しい姿などが写っており、なかなか格好良い「伯父」であった。

小学校2年生くらいになると歴史への興味も湧き、ときどき母に死んだ伯父のことを良く尋ねた。お国のために死んだ人だから偉い人であると同時に母としては唯一の兄であり、良き兄であったという思いは人一倍強かったから、母は私にはその少年時代から戦死に至るまでの生涯が英雄のように語られていた。しかし、母には祖父母の前ではあまり死んだ伯父のことは話さないように、と注意されていた。私もそれは痛みに触れることだろうからと幼いなりに自重していた。

冷静に考えてみれば、私が当時8歳くらいだとして、わずか12、3年前に一家の柱として後を継いでくれるはずであったわが息子を亡くしたばかりの祖父母に対してあれこれ生前の話などを問うことは、問われる側としては身内の孫からの質問であったとしても、時の流れの中でかさぶたのように覆われつつある悲しみの傷がそのたびごとにまた剥がされる痛みとなっていたであろうことは、少年の私にもそれなりに理解できることであった。

無邪気な妹は祖父がTVで観ている相撲の千秋楽で優勝力士の栄誉を讃える[君が代斉唱]の時になると突然スイッチを切ってしまうすがたを見て、どうして「お相撲の歌」になるとテレビを切ってしまうの?と母に聞いたりしていた。私も最初はその意味が分らなかったが、そこに「伯父」の姿が見えると妙に納得できた。

ともかく、そんな「伯父」の戦死については祖父母から直接話を聞くことはあまりなかったが、問わず語りに聞こえていたのは「カビエングという場所でアメリカの潜水艦に撃沈された。乗っていた船の名前は?というとコッコウマル、とか否、カグマルと聞いている」とか、いう話であった。そこから先へは関心も発展せずその後もずっと昔聞いた話をそのまま信じていた。

一度、大学に厚生省の戦没者に関する資料があるのを知り、資料を探しに行ったが、目指す事実は出てこなかった。私は調べようという気も薄れていた。時々、ふと事実はどうなのだろう?と気になることはあったが、他のことへの関心のほうが強く、「伯父」の戦死についてはそのままでいた。

ところが、自分の身内の妻が亡くなった後、また「伯父」の死への関心がふと湧いた。1986年当時はパソコンによるデータベース処理はまだ端緒についたばかりで、今のようなインターネット回線も一般大衆には開放されておらず、資料探索などは文書記録探索によることしかできなかった。

 

伯父の戦死についての確たる根拠を持っていたわけではなかったが、ともかくもカビエングへ行ってみようと旅立ったのである。

この話は最後にどんでん返しがあるのだが、それは最後に触れることにしよう。

 

(2)

 8月5日、この日は台風10号が来て、大雨が降ったため、京成線が土砂崩れで不通となっているという情報を得たので、TCATから急遽チェックインをするという予定外の動きから始まった。

成田へリムジンで着く頃には雨も上がり、10:00発のJAL741便が離陸する時にはもうかんかん照りとなっていた。台風進路との関係のためか、飛行機は通常の太平洋側へ向かって直接出るのではなく、いったん東京方面の内陸部へ入り利根川の上空から次第に進路をマニラへ向けるという飛び方をしていた。

今回の旅行はパプア・ニューギニアがメインであるが、首都ポートモレスビーには直行便がなく、マニラ経由で乗り継ぎが必要であった。

また、パプア・ニューギニアに入国する際には対マラリアと黄熱病予防注射が必要とされていた。

マニラからポートモレスビーへ飛ぶ飛行機は8月8日までないので、マニラに3日間まるまるトランジット。ステイということになっていた。

 

機内ではサリーナという大柄なフィリピン女性と隣り合わせになり、いろいろフィリピン情報を仕入れた。万一の時にはとName Cardもくれた。

マニラ空港に着くと、悪名高い白タク、雲助タクシーの呼び込みがすごい。50ペソで行ける市の中心街までを$20(=20p X $20=400p)と吹っかけてくる。しかもスリとか強盗グループとぐるになって高いからとお金を払わないそぶりを見せるやタクシー強盗に早代わり、などという話もかなり事実として起きているというところだ。

東京で一泊分だけ予約を入れておいた中心街の繁華街エルミタ地区にあるアロハというホテルまで正規のタクシーでやってもらった。ホテルへ着くとフロントデスクで「今晩の女性は?」と聞かれた。ホテルの設備はまぁまぁだが、あんまり気に入らない。まだ4日もあるからと翌日は次のホテルを探すことにした。

その日はホテルの周りをうろうろしたが、エルミタ地区は日本の新宿みたいなところで、犯罪もある繁華街である。ホテルの場所は便利なところにあるのだが、日本人と見ると女性を紹介するという声があちこちですぐにかかる。日本人と見ると「いいこがいる」という声しかかからない。まぁ、自分のいるところがそういう地区なのだろうから仕方がない、とは思ったものの、やはり良い気持ちはしない。

翌日、午前中まず、ホテルを探し始めた。直接目ぼしいホテルに入り、直接中を見せてくれと交渉するが、まだホテルが決まっていない、ということで結構吹っかけてくる。そこで、ホテルのフロントで交渉することは止めて、機内で知り合ったサリーナの紹介してくれた名刺を持って旅行会社のオフィスに行き、交渉したところ、$20/1泊で契約できた。Bayview Prince Htlというロハス通り沿いのホテルだった。そこのホテルのボーイもニコニコしながら、「一人?さびしい。いいこ、いる」などと部屋へ案内しながら日本語で言う。荷物を整理し、街へ出るとまた「日本人?いいこいる」の声がホテル周辺のいたるところでかかる。

ホテルの入り口には警備員がピストルを腰にぶら下げている。その後3日間出入りしていたからすっかり顔も覚えて気安く声をかけるようになった彼までが「おまえはなんでまだおんなを連れてこないのだ。ここはマニラだ。心を開放しろ。いまからでもいいおんなを紹介してあげる」などと親切に言ってくれる。マニラ人はひとなつこいが、中身がなんとも……というやつだ。女性の人権も何もあったものではない。 当時は……、今は?

街を動く時はほとんど歩いてしまったが、話の種にジプニーにも乗ってみた。一番安い乗合自動車である。7,8人くらいが乗り合いで乗ったり降りたりする。私は30センチモを払って乗った。フィリピンでは日本語を一切しゃべらず、訊かれたらシンガポールからとか嘘を言ってでも英語を通すことだ。そうすれば、民衆の足にも乗ることができるし、人々もその気になって親切にしてくれる。要するに、旅行者の日本人はお金を持ったセックス・アニマルという人種なのであった。

マニラ市は昔はロハス通りのあるこのエルミタ地区が中心であったらしいが、いまではMAKATI地区が高級商業地区となっている。アメリカの管理下にあったため、英語はタガログ語、スペイン語と同様に普通の人々なら使える。市内にはアメリカの「支配」の投影がいたるところに見られた。太平洋戦争時の戦況図などからもアメリカはフィリピンを日本攻撃の拠点としていたことがはっきり分る。また19世紀にはスペインの統治下にあったため、スペイン文化の影響も随所に見られる。

マニラ市には立派な公園がいくつかあるが、ホセ・リサール公園はその最大のものである。独立の父、ホセ・リサールを記念した公園である。

1986年当時はマルコス・イメルダ政権が崩壊し、アキノ大統領(女性)となったばかりであり、国家としてのその行く末は不明確であった。マルコス政権下での不正蓄財や政治的な弾圧などから逃れた人々がようやく活動を始めたばかりの時代であった。マルコス体制というのは、日本の感覚でいえば、ほとんど村の政治というレベルの政体であったようだ。

市内見学の先としては1611年創立の聖トーマス大学や日本のキリシタン大名高山右近の像などを訪れてみた。右近についてはいつか歴史小説の素材にしてみたいと思っていた。

マニラ2日目からはBayviewホテルに変えたが、そのホテルの前でマルコス・イメルダ政権の政敵であり、暗殺されたニノイ(アキノ)の遺品展が行われていた。マニラ空港でタラップを降りている最中に公衆の面前でピストルで撃たれて死亡した政治家である。その時着ていた服や遺品そして日々の暮らしぶりが覗える愛用品の数々や室内などが展示されていた。
       
         

マニラ市内は1日、2日あれば大体観て周れるところである。そこで7日は郊外のツアーに参加した。日本人は私一人、サウディ・アラビア、ドイツ、アメリカ、オーストラリア人のミニツアーで、タガイタイというところへのチャーターツアーであった。竹でできたパイプオルガン演奏を聴いたり、ラス・ピナス教会という古い教会を訪れた。

フィリピンは台風の通り道であるが、建物は竹製の高床式のものが田舎に来るとたくさんある。ココナツプランテーションという庭園にも竹製の家や家具がたくさん展示されていた。

タガタイとは火山と湖の景勝地であるということであったが、日本人の私から見ると、ぜんぜんどうということのないリゾート・エリアでしかなかった。

マニラ市内に戻るとまたホセ・リサール広場へ行ってみた。それくらいしか行くところがないのも事実なのだ。

マニラでの食事はほとんど毎食中華街へ通った。物価は当時で日本の3分の1から4分の1位であり、中華料理は火を通してあり、一番安心できたからである。また、味もスープやソバツユなどはすこし違和感のある味だが、野菜と海鮮料理が豊富で安いのでこれは大分贅沢ができた。

 

(3)

 さて、8月5日〜8日までをマニラで過ごした後、いよいよ目指すパプア・ニューギニ(ア)に飛んだ。マニラ⇔ポートモレスビーは約4時間のフライトである。機上からはとくにフィリピン海域には無数の小島がさんご礁をなしてあるのが見える。海は真青である。リーフの周辺は薄水色で透明であり、一層美しく見える。約4時間後ポートモレスビーに着いた。エア・ニューギニのAB300機の操縦士はまだお雇いのオーストラリア人パイロットであるということだった。

                               

空港では入国審査があり、その場で5キナ(1kina200円)を払ってVISAを取得する。そして警告としてマラリア蚊がまだ撲滅されていないので、薬を飲むように指示が出ている。私は予防注射済みだ。P.N.Gのホテルは様子が分らないので日本で予約を入れておいた。DAVARAホテルまでordinary Bus(乗合自動車のこと)で30トヤである。バスといってもマイクロバスでシートが破れていてちょっとひどい。でも動ければ良い。

30分ほど乗るとポートモレスビーの中心に着いた。ホテルの前は海水浴場となっていた。PNGの人々はほとんどがまだ素足である。足裏の皮が厚く草鞋のようになっており、指がそれぞれに思い切り伸びている。髪の毛は天然パーマ、アフロヘアという感じだ。水上の集落に住む人々もいるが、ほとんどは陸上で普通の家に住んでいる。

マーケットは賑やかで夕方には大勢の人がその日のおかずを求めて買いに来る。飛んでくるハエを笹の葉のようなもので子供たちが追い払う手伝いをしている。食料品ばかりでなく、衣類なども並べられている。枇杷の実ほどの大きさの緑色の木の実がたくさん売られている。なんだかはわからないが、人々はこの実を噛んでタン壺のような黄色の特製壺に吐き捨てる。口の中で唾液と混じると真っ赤になるらしい。はっかのような作用があるのだろうか?

                     

 

8月10日いよいよ目指すカヴィエングへ飛ぶことになった。カビエングと小さい時から聞かされていた地名は英語ではケヴィエンと発音されたり、カヴィエンと発音されていることが分った。PNGは大きな島といくつかの小島からなっている。大きな島(日本の本州くらいはある)にはしかし鉄道はない。道路だけだ。人々はそこで国内航空路として巡回コースを作っているエア・ニューギニを利用している。ほとんどの人々は飛行機に乗れるほどお金持ちではないが、利用する人々はかならず飛行機を利用している。飛行機も空港も小さく、飛行機の定員は50人くらいである。PNGでは飛行機に乗れる人々はお金持ちだけである。

飛行機は最初にマダンへと飛んだ。兵隊に行ったことのある人ならばすぐにわかる重要な海軍基地が設けられていたらしい。緑の椰子の木などがうっそうと繁っているだけの街だ。冒険ダンキチとかノラクロとかの漫画もこの辺が舞台か?

入り組んだ入り江が港としては便利であったのだろうか?次の到着地はウエワクだ。飛行機は時計回りのルートを辿って飛び最終的にはまたポートモレスビーに還って来る。陸地には常に厚い雲がかかっており、雲ひとつない空というのはほとんどない。海の気流が山の空気によって冷やされるからなのだろう。

ウエワクの飛行場はすこし立派な設備があり、給油作業もあった。このウエワクでルスと呼ばれるお金持ちの現地の女性と隣り合わせになった。それまで隣の座席にはマニラからずっと誰も座らなかったので人恋しくもあり、いろいろ話を交わした。飛行場でエンジンの調子が悪いからと待ちぼうけを食らっている間もいろいろと雑談をしていた。

それらを基にして処女小説となる「靴を捨てた男」を書いた。もちろん、作り話として。

ケヴィエンにはポートモレスビーを出てから6時間後に着いた。まっすぐ飛べば1時間ほどのところなのであるが……。

 

(4)

ニューアイルランド島の北端にあるケヴィエンはちいさな街だった。飛行場は土を固めた滑走路が一本あるだけの管制室も何もない小さな飛行場であった。乗降客も数人というところであった。それでも裸の子供たちが飛行機を見に集まっていた。

ホテルまでどれくらいの距離かを尋ねたところ、1,5kmくらいということで、街を目指して歩き始めた。暫く歩いていると後ろからブルーのバンが来て、どこへ行くのか?と尋ねるので、ホテルだ、と答えると、「荷物を後ろの荷台に置いて乗れ」という。顔立ちからしても悪人とは思えなかったし、観光客など来ないところだから金目当ての誘いでもなかろうと楽観して乗せてもらった。

なにしにきたかということからすこし話し始めるとならば、島の中を自分が車で案内してあげるという。任せたという感じで車に乗せてもらい島内見物をさせてもらった。とにかく何もないところだ。水産学校のマークがあったりしたが、密林ばかりだ。

港にも連れて行ってくれた。リーフにも行った。そこで恐らくこの沖合いで潜水艦に魚雷を打ち込まれて「伯父」の乗った船は撃沈されたのだろうと思い、暫く黙祷した。いつか行ってやろうと思っていたので、何となく肩の荷が下りた気がした。母を連れてきてあげたいな、とも思った。「現地の女性を連れてでもいいから生きて帰ってこないかな!」とか「あれだけ泳げた人だからきっと近くの島まで泳ぎ着いたに違いない、などとも思ったけれど……」という話を思い出していたら自然と涙がこぼれた。

              

そんなことで予定よりも早く私流の慰霊訪問は達成された。翌日もペーター(親切な男の名前)は私を連れて案内してくれるという。ケヴィエンに日本人が働いているから会わないかと誘ってくれた。木材会社が事務所を持っていたということだった。車に乗せられてゆくと、彼らは中国人医師家族であった。ペーターはその後も日本軍のトーチカの跡や島の図書館に置かれていた「海軍佐蔵部隊進駐」と彫られた枕木のような木柱を見せに連れて行ってくれた。

ケヴィエンはそんなところであったが、当時の私にはそれなりの思いのこもった場所であった。

812日、ケヴィエンからラバウルに飛んだ。PNGは全体、ホテルも少なく、外国人客も公用で来るためか、宿代も高い。ペーターは私にラバウルでの宿泊先を会員制のニューギニア・クラブに紹介してくれて、少し安く停まることができた。

ラバウルは軍歌にもあるように、海軍航空隊にとっては重要な基地であり、戦後もそこを懐かしむ人々が多い。特徴のある街で、双岳の火山が飛行場の前に立ちふさがるように立っている。街そのものはかなり賑やかな町である。あちこちに日本軍の進駐していた当時の残滓がある。弾薬、砲弾を隠していた地下壕や作戦司令部の跡なども残っていた。戦争博物館には戦車などもそのまま残っている。(動かないが)

        

公共バス停の近くに止まっていたガイドらしき男に島の案内を頼むと20キナで主なところを案内するという。高いか安いか分らないが、案内を頼むと裸足のままトヨタのハイエースを80km〜100km位で飛ばして運転する。年に何回か日本人の旧軍人たちが街を訪れることがあり、その案内をしたことがある、という。

椰子の樹とバナナの葉で覆われた路を抜けて走ると海岸にたどり着いた。今はそこはスキューバダイビングの絶好ポイントとなっているから、よかったら明日またやりに来ないかと言うが、私は「できないから」と断った。岩場に砕ける白いしぶきと眼の先に無限に広ろがる真っ青な濃い群青色の海がコントラストをなし、とても美しかった。波は絶えず高く岩場を襲い、高波に飲まれてしまったらとても岩場には戻って来れないな、とすこし怖かった。

ガイドがこちらへ来いと手招きする先には赤錆のへばりついた鉄骨が崩れかけながらもなお、しっかりと建っていた。潜水艦の係留ポイントであるということであった。さらにナマヌラ展望台というラバウル湾とシンプソンハーバーとラバウルの街並みが一望できるところへも行った。こういう景色は昔兵隊としてここに駐留したことのある人にとっては懐かしいだろうなと思った。

ニューギニアでは陸軍の兵隊が食糧難でみな餓死したり、栄養失調でなくなったということである。とても景色などにひたっていられなかったというのが実態であったろうが……。それでもラバウルは町であったからここにいた兵隊は贅沢できたのではと思った。

車で動いている途中で、奇妙な姿をして歩いている人たち?がいる。蓑笠をつけた一つ目小僧のような姿で歩いている。二本足で歩いていなければ、どこからも人には見えない。何だと聞いたら、「これを見た人は偉くなれるから、あんたはきっと偉くなる」とおだててくれた。現地人のなにか幸運を呼ぶ祭儀の出しものだろうと思うが、正体は分らなかった。

 

暫く走るとJapanese Bargesという洞窟へ行った。あるある、魚雷艇のような小型突撃艇のようなものの残骸がトンネルの中に隠されてあった。近くにはイギリス軍から奪取したクレーン装置がアメリカ空軍の攻撃によって破壊された残滓もあった。たくさんの洞窟も今なお残っているが、中には吸血蝙蝠やヒルそしてマラリア蚊がたくさんいるので入れないということであった。

戦争の爪あとというよりは準備基地の残滓が残っていたわけである。

    
      

いったん、街へ戻り空港で旧日本海軍の飛行機があるはずだがと空港職員に尋ねると、彼は少年の案内人を紹介してくれた。まだ中学生くらいの裸足の少年二人である。この日まで私は常に長袖シャツを着て蚊に刺されないように気をつけていたが、なぜかこの日は油断していて、半袖のまま見学に出ていた。そのことはすっかり忘れていた。


              

ところが少年二人が私を連れて歩いて行くところは次第次第にジャングルが深くなって行く。蚊はその時点では出ていないが、もっと奥へ行けば出てくるのではないか、などと不安になり、どうしようか、戻ろうかなどと心の中で不安と戦いながら歩いていた。するとしばらくして急に明るい日の射すところへ出た。

なんと眼の前には大きな飛行機の残骸が、それでも飛行機であることをはっきりと分らせる姿で残っている。その瞬間、こころの迷いは吹き飛んでしまった。一機だけでなく、何機もある。中には翼の日の丸がまだはっきり残っているものもある。思った以上にしっかりした飛行機を製作していたのだと感じた。さらに砲台のあるところまでジャングルの中を歩いた。このとき、カメラの中のフィルムがもうなくなりかけていた。かろうじて枚数の最後のところからの数枚で行った証拠となるだけの写真が撮れた。

 

(5)

ラバルウから再びポートモレスビーに戻った。帰りの飛行機から降りて、BOROKOホテルへの路はこれでよいのか?と尋ねたところごつい感じのその男が俺について来いと手で合図をする。PNGの男たちはみな武骨な体型の男が多い。がっちりしている。その男も顔は浅黒く、小柄なプロレスラーのような男であった。(軍人とみたのだが)まぁ、ついていってみるか、という感じで後を着いて行くと車でポートモレスビーを案内するという。私は景色はもう見ていたので、大学はないのか?と聞いたらニヤリとして連れて行こうという。

          

University of PNGだ。男はLeviと名乗った。UPNGは広大なキャンパスを持つPNG唯一の総合大学であった。Leviは私が何のためにPNGへ来たかを確かめたあと、専攻は何かと聞いたので、今は哲学とか比較文化などに、と答えると、ではと一人の男に合わせてくれた。Calebはアメリカのカンザス大学とハワイ大学で哲学博士号を取得した哲学教授であった。Calebは私たちを大学の食堂へ連れて行き昼ごはんをご馳走してくれた。そして夜また会う約束をした。

Leviはさらに国会議事堂を見ないかと誘ってくれた。もちろん、Yes。するとまた車に乗せて、建物まで行った。建物は独立建国11年の国だけあって新しい。奇抜なデザインであり、入り口には民族的な壁画が描かれていた。私はPNGの政体については関心がなかったので事前に調べてこなかった。ちょっと恥ずかしいレベルであった。Leviは国会で働く友人を呼びに行き、私に紹介してくれた。まじめそうな感じの紳士が現れ、しばし案内してくれた。

その夜、約束の6:00に彼らと再会する約束をしていたが、彼らはその時間に現われなかった。私としてはお礼に夕食を奢り、一緒に食事をするつもりでいたが約束の時間に来なかったので、6:30頃から一人で食事を取ってしまった。食事が終わった時、すっと彼らが現われた。そこで雑談をした。Calebは来年学界出張で東京へ行くことになっているからということで、来年東京で会おうと約束した。

PNGではkaviengで慰霊することが主要目的であったから、この地にとくに観光上特別なものがないとしてもそれはそれで納得の行くものであった。

 

815日 朝早くホテルをチェックアウトし、10::00発のマニラ行きに乗った。その日夕方再びマニラに戻ると、またBayview ホテルへ行った。まぁまぁという印象であり、悪くはなかったからである。フロントの人は覚えていてくれ、もうフィリッピンから日本に帰っていて、来ないと思っていたが、と言いながら歓迎してくれた。マニラではもうすることもなく、市内をぶらぶらしていた。16日の写真はない。もう撮るところもなくなったという感じであったし、いまからセブ島とかまで行っても疲れるだけだし、と旅の疲れをとるべくホテルでのんびり休んでいたのだ。

食事のために市内へ出かけ、ホテルへ戻ってくるたびに、顔見知りとなったガードマンの男から「どうして女を連れてこないのだ?女は嫌いか?」などと繰り返し、笑いながら攻められたのには閉口したが、愉快な男とまじめに関わる気はなかった。

この旅行の最終日となった17日、14:25発のJAL機登場まで時間があったので、空港脇にあるNAYONG pilipinoというフィリピン文化村を訪れてみた。行って驚いたのは、市内には結構たくさんいた日本人観光客がここには一人もいないことだった。竹や草を編んだ草葺屋根の家や家具などばかりの原フィリピン人の生活ぶりを展示する場所なのだが、まぁ、全然人がいなかったのには驚いた。空港からすぐの距離にありながら全然知られていないようだ。

午前中この文化村で過ごしてから空港のチェックインそして夜7:30に無事成田到着ということで「伯父」慰霊の旅は終わった。母や親戚にその時の様子を一応話してあげ、とても喜ばれた。

 

(6)

上記の旅が終わって23年。この間、毎年831日にkavieng沖合いで戦死したということ以外を話題にして「伯父」のことを改めて話題にする人は親戚の中でも誰もいなかった。私もすっかり、そのことは一段落したものと思い、特に改めて調べることもなかった。

 

ところが、今年に入り、鋸南町の書斎小屋で作業するようになってからは時間ができたせいか、この夏ふとインターネットで戦没者、特に海軍の撃沈された船のリストを検索しながら見ているとニューギニア海上域で昭和18年(1943年)8月31日に撃沈された戦艦や輸送船などにコッコウマル、とかカグマルという名前がないことに気がついた。

やがて、「近代艦船事典」の中に「国光丸」という艦船が2隻あることが記されており、そこに次のような記事が記載されていることがわかった。一隻は1945年にボルネオで撃沈されたタンカー船であった。これは違うと判断した。そしてもう一隻の「国光丸」をみた。そこには次のような記述があった。

『 

国光丸

国際汽船

1943.5/31竣工

8/29馬公出港後297船団を編成し八幡へ航行中/31.1010中国台州列島東方約100km(2834'N/12305'E)で松東丸等とともにアメリカ潜水艦(SS197)シーウルフの発射した魚雷を左舷に受けて約90秒で沈没.

5486T.

 かなり正確な記述であり、場所を除いては「伯父」のデータと一致している。さらに芋づる式に辿って「シーウルフ」を見るとやはり、正確な記述がある。国光丸に関しての撃沈記録もある。以下のようなものである。

814日、シーウルフは10回目の哨戒で東シナ海に向かった。831日、シーウルフは(北緯2834 東経12305 / 北緯28.567 東経123.083 / 28.567; 123.083 ) の地点で297船団を発見。船団の左前方に位置して雷撃し、国光丸(国際汽船、5,486トン)と松東丸(松岡汽船、5,253トン)を撃沈した[6]。シーウルフは昼夜を問わず船団の追跡を続け、翌91日昼ごろに2度目の攻撃で2隻の輸送船に対して雷撃したが、いずれも回避された。日没後、シーウルフは(北緯3127 東経12728 / 北緯31.45 東経127.467 / 31.45; 127.467 ) 草垣群島近海で3度目の攻撃を敢行。富生丸(拿捕船、2,256トン)に魚雷を命中させ、他の輸送船にも魚雷を命中させたが、こちらは不発であった。さらなる目標に対しても魚雷を発射したが、回避された。シーウルフは最後に浮上し砲撃で富生丸を撃沈した。この哨戒も、魚雷を全て消費したため予定より早く終了した。この哨戒では合計12,996トンの船舶を沈め、それに加えて2隻の75トンのサンパンを艦砲で撃沈した。915日、シーウルフは32日間の行動を終えて帰投した。』

 

この資料はアメリカ側の攻撃記録として存在したもののようだ。

ということで、「カグマル」についても同様に調べてみたが、カグマル(香具丸)はニューギニア海域で撃沈されているが、年度が1944年(昭和19年)12月である。

果たして「伯父」はどちらの船に乗っていたのだろうか?戦時中のことであるから、伝えられる情報の確度が低いことも考えられた。戦没年の間違いか、戦没地の間違いか、はたまたもっと別の事実があるのか?

調べを進めて行くと、「国光丸」はもともとは民間商船であり、戦時に徴用され輸送軍団に入っていたことがわかった。当時の海軍では艦船にも序列があり、純粋の海軍船(いわゆる軍艦)と徴用船との間には格差があり、民間からの船は格下という位置づけがなされていた。したがって、軍事関係の資料を調べても徴用船に関するデータは整備されておらず、長いことないがしろにされていた、ということが分ってきた。

 

さらに調べて行くと、財団法人 日本殉職船員顕彰会 という民間船員の殉職者名簿を管理している組織があり、そこに戦没者などの個別のデータが揃っていることが分った。要するに徴用船として輸送船団に組み込まれた船員は軍人というよりも、民間人船員であり、その殉職者として扱われていることがわかった。戦争下における殉職者という扱いである。

この位置づけが正当であるか否かは議論のあるところかもしれないが、とにかく事実データを揃えているところであることが分り、しかも個別のデータに対しての問い合わせに可能な限り答えてくれる、ということが分った。

そこで、私は「伯父」の氏名とこちらで調べた範囲での撃沈データをeメイルで送り、回答を待った。するとほとんど日を置かずして次のような回答をいただくことができた。

前略

 メール拝見いたしました。

 

 「永橋 次男」様は、当会の記録(厚生省援護局資料により作成)では、次の様

に戦没船員名簿にお名前があり、神奈川県横須賀市観音崎の「戦没船員の碑」に

奉安されています。

 

1)氏   名   永橋 次男

2)生年月日   大正71111

3)没年月日   昭和18831

4)死亡場所   日本近海

5)船   名        国光丸 (船舶運営会)

6)職   名        機関士

7)本 籍 地    千葉県

 

 なお、国際汽船の国光丸の遭難報告書は遭難年月日は魁三鉄様の記載と一致、

緯度は北緯2830分、経度は東経123度32分と記録されており一致してません。

乗組員名は生死ともに記載されていませんでした。

 

上記、調査結果をご報告致しますので、よろしくお願い申し上げます。

 

                                         草々


財団法人 日本殉職船員顕彰会
事 務 局   山 ア  剛
T E   L  03-3234-0662
E-mail      kenshoukai@isis.ocn.ne.jp

 

以上である。

大変ありがたいデータであった。まず間違いない。「伯父」はなんと「日本」で(―当時の日本の領土域内で、現在は中国 台州市沖合い100km位 沖縄との間で―)撃沈され、戦死していたのだ。

 

私は母にまずそのことを報告した。母は「えーっ!!」と驚きの声をあげ、「そんなことないわよ!」とでも言うかと私は思ったが、母はその時、「そうだったの」と諦観した声で下を向いていた。そして私に「ごくろうさま。ありがとう」と礼を言った。

母の現存しているきょうだい(叔母、叔父)にも知らせた。

祖父母はずっと「南方海域で撃沈されて死んだ」と思ったまま、もうずっと以前に亡くなっていた。「『天皇陛下万歳!と声をあげて海の中に沈んでいった』、というような報告を受けて、軍人らしく父は満足したような顔をしていた」という母の話を嘘だと思っていたが、そうは言えなかった子供の頃の自分を思い出した。

戦争の中で役割を演じる役者としてみんなが振舞っていたのだ。みんな無理に素直な心を抑えながら他人の目への体裁を保っていたのだ。そういう教育を一体何のためにしたのだろうか?

それにしても戦後地味な形で戦争の事実を追跡しているみなさんがいるという事実に大変驚かされた。そしてものすごく感謝している。一人の力ではこんなにすぐに事実にめぐり合うことはなかった。インターネットを通した情報公開によりこのように世界中からデータや情報が集められるようになった時代にめぐり合えていることにも素直に感謝したい。

軍用に開発され、主に軍用に使われたこのインターネットが民間人に、それも全世界の人々に公平に
OPEN化された現代という社会の仕組みに深く感謝したい。こうした通信技術を戦争の道具にすることはぜったいに防がなければならない、という思いと共に……。

私のパプアニューギニアへの慰霊の旅は2009年8月19日をもって本当に終了した。

 

<了>

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