靴を捨てた男

魁三鉄

(一

 

  その旅もまた、先立って計画されているときにふと心に思い描かれ期待されるように、予期せざる運命によって誘拐され行くことを密かに期待しておこなわれたという面を少なからず持っていた。と同時に、運命の行方を具体的にイメージすることは自分勝手な、運命の神を冒涜しているような気持ちになること故に、旅の中で繰り広げられる誘拐の内容をあれこれ頭の中に描くことをあえて避けたのもやはり、いつものことであった。

  三十センチメートルも離れてみれば、元々曇りガラスであったかのような、浅く微かに無数にひび割れた細かい傷がその透明さを奪っている窓ガラスではあっても、額を押しつけてみればそれなりの景色が見える小型ジェット機の窓の下には、真っ白なちぎれた真綿雲が碧い海のカーペットの上に吹き飛ばされまいとして必死にしがみついているような姿であちこちに散在しているのが見える。すでに成田空港を飛び立って乗り換えること三回、私はマニラを経てこのパプア・ニューギニアの領海上を久しく飛んでいた。

    ポートモレスビーを立ち、マダン、ウエワクと離着陸を繰り返しながらフォッカー二十八型ジェット機は三番目の到着地マヌス・アイランドをめざしてとんでいた。やがて着陸が近いことを無言のうちに知らせるように機はその先頭部分を急速に下へ向け始めた。まもなく機が着陸体制にはいることが告げられたとき、機は大きく左に旋回を始めた。機の左翼は大地に向かって斜めに突き刺さるように傾きながら、雲間からきらめく陽光にきらきらと輝いていた。窓から見える茶色の滑走路は老人の額に走る幾筋かのしわのように見えた。と、まもなく、機は鶴が首をまっすぐに伸ばし大きく羽を広げつつ、たもとをしっかりと閉じ、脚を小さく縮めながら揃え、すーっと滑るように着陸した。

  座席ベルトをガチャリと外して「やっとついた!」と叫ぶ声、無言の表情の中に道中の無事を安堵の表情で素直に喜び、頭上の荷物置き場から手荷物を下ろしている者、家族をだろうか、知人をだろうか、出迎えの人々のいる方向をしきりに見つめ身をかがめ、座席の背もたれに手をかけ、自らの体のバランスを保ちながら窓の外をのぞき込んでいる者、到着の無事を祝っているヨーロッパ人夫婦の接吻しあう姿、早くも通路に立って手にした荷物をしきりに左右の手で持ち代えながら重い扉の開くのを待っている者、物めずらし気に食い入るように私を見つめる裸足の子とその手を握りながら、反対の手でハンモックを小さくしたような網袋に赤子を容れて待つ母親。 なお座ったままの姿勢で5A席から視線を百八十度回した私に飛び込んできた人々の動きであった。

  小型ジェット機の一つしかない前扉がドスンと鈍く重い音をたてて開くと外の光が一条機内にさしこんできた。人々はぞろぞろと光の差し込む方向に向かって黒い影となって一斉にゆっくりと歩み始めた。数分もすると機内には私一人を除いては誰もいなくなってしまった。ポートモレスビーを立ってから既に四時間ほどが立っていた。

  私は長時間座席の背もたれに体を張り付けていたため、上下左右に小刻みに振り混ぜなければ元の状態には戻らぬ分離したサラダ・ドレッシングのように、重い血液が足先へとすべて沈澱してしまっているのを感じた。私は周囲に誰もいなくなったのを確かめるとおもいっきり脚を延ばし、通路の向こうにある通路側席の肘当てに脚を掛け上半身をすっかりと寝かせた。右足ふくらはぎ、そして左足ふくらはぎと、私は通路を横切り肘掛けに掛けた脚を交互に高くあげ始めた。顔よりも高い位置におかれた足の先から私の頭を目指して心地良い生気が静かに流れ始めたのがはっきりと感じられた。「いい気持ち!」誰に云うともなく私は一人呟いた。むくんでさえいるように感じられたふくらはぎの部分が手によるマッサージのためにマシュマロのように凹んではすぐに凸みかえっていくのがわかった。ポートモレスビーからその度ごとに機内アナウンスを繰り返してきた大きな柄の鮮やかな水色と白のコスチュームをまとった褐色の肌のスチュワーデスは人懐っこい愛想の良い眼で私のそんな動きを追いながら、視線が交錯する度に、微笑を送ってみせた。

  「機外へ出たところであと三十分ほどのフライトで、目指す目的地ケイヴィエンに到着だ。」と思うと、このマヌス・アイランド空港でわざわざ外へ休憩を取りにゆく必要はなかった。実際、マダン、ウエワクとその飛行場に着く度に好奇心から機外に出てみた私ではあったが、着陸直前の窓から見えるマヌスの景色はやはり椰子の樹林と密生するブッシュの明るい緑の絨毯以外になにもなく取り立てて機の外にでる理由はなかった。「降りてみることもあるまい。」私は一人で納得しながら、足を揉み続けた。

 

  しばらくすると、私は扉の外で「ハロー」と呼びかけるスチュワーデスの声で再び乗客が機内に乗り込み始める気配を感じ、あわてて伸ばしていた脚を縮め体を元のように起こし靴を履き始めた。うつむきになって靴を履いている間、わらじをそのまま素足に張り付けたような分厚い褐色の裸足が次々と通り過ぎて行くのが眼のなかを動いて行った。

  スチュワーデスは乗客が手にしたまま示すボーディングパスに記された数字とアルファベットの組み合わせをすばやくみてとり「後方の右手窓側」とか「すぐ左の通路側」などと手で行く先を示しながら笑顔で手際よく座席を案内して行く。いつのまにか機は半数以上の客を入れ換えて再びその席を埋めていた。私は自分の隣にくる人は結局このフライト中には来ないのだと半ば諦めた気持ちで窓の外へと視線を投げ、椰子の葉が海の風に一斉に同じ方向に泳いでいる姿に見入っていた。…と、私はなにか大きな黒いものが私にかぶさってくる気配を感じた。どすっ…軽いショックが私のシートのクッションに伝わった。視線を返すまでもなく誰かがそこに座ったことがわかった。反射的に眼はその方向の斜め下に向かったが、最初に眼に入ったのは金色の輪をつけた濃茶褐色の細長いステッキであった。「老人かな」一瞬そんな思いを浮かべつつ、わたしの視線は光をさえぎられ、やや暗くなったシートの隙間に黒くうごめく隣人の足先から上へと動き、腰の位置からやがて顔へと向けられた。

  「ハロー」低い重みのある、しかし明らかに女性のそれとわかる柔らかさを含んだ円みのある声が象牙のブレスレットのような白い歯と共に私の眼に向かってきた。「ハロー」私も自然にお返しの挨拶をやわらかくかえした。わたしたちは眼と眼を交わす中に穏やかなやさしい光を感じあっていた。

  自分の座席にしっかりと位置を決め直す時を一瞬の身繕ろいの時と心得ているかのごとく、櫛と呼ぶには余りにも無骨な、しかし確実にその機能を期待し得る自分の左手を使って無意識に頭の髪の七三分けの位置を探りながら髪をとかしているつもりの自分に気がつきながら、私は隣に座った婦人の体の線を眼で追いかけた。

  肩からすっぽりと素肌のままに飛び出している二の腕の部分が、彼女が心地よい安定を求めて体を小さくシートの中で動かす度に私の腕にモールス信号のように小刻みに小さくぶつかった。ふくよかな熊のぬいぐるみがおかれたような圧迫感と心地よい柔肌の肌触りがポロシャツを通してその度にわたしの心の中に伝わった。婦人は手にしていた荷物の塊を自分の足元の狭い隙間にどさりと置いた。ビルムスと呼ばれる天然の繊維で編まれた目の細かい袋は黄、緑、黒、赤、桃色、白、青の原色を鮮やかに織りなしながら、しなやかに崩れた幾何学模様を浮かび上がらせていた。パプアニューギニアの女達は外出するときにはみな額に紐を掛け背中にこの種の袋を吊るしていた。彼女はまたもう一つ、竹で編んだ荒い目の、袋というよりは篭に近い物入れも足もとに置いていた。さらにもう一つ私が最初に気がついた彼女の肌の色と見まごうばかりの褐色の細長いごぼうのようなステッキを斜めに横たえた。もしその先端に金輪がかぶせられていなければ、自分の体を横切るように斜めに置かれたその棒を私はすぐにはステッキとは識別できなかったことだろう。

  彼女が手にしていた物はそれらが全てであった。「カシャン」軽くジュラルミンの噛み合う音がした。婦人は自分を心地よく留めるシートベルトの穴を見つけ、離陸に備えた。

  ズズーン、背中をシートに軽く押しつけられるような力を感じながらわれわれは機が再びエンジンを始動し始めたことを感じた。しかしまだ機は滑走路の中には入っていなかった。一つしかない扉が閉められたことを確認すると私たちはもう前からずっと隣りあってこの旅を続けてきた者同士のようなくつろいだ気分になった。

  「どちらまで?」艶に満ちた白い歯を見せながら婦人は笑顔で尋ねた。私は「ケヴィエンまで」と、ここにきて初めて知った読み方などという迷いはおくびにも出さずに、答えた。キャヴィエン、カヴィエング、私は出発に先立つ諸準備に際してその国の国営航空会社の東京支店で聞いていた発音に倣ってわざと二つの言い方で行き先を告げたとき、「ケヴィエンね」と優しくにっこり笑いながらそう発音した同乗するスチュワーデスのひとりを思いだした……。

  「じゃ次ね!」

言葉はまぎれもない美しく澄んだ英語であった。

  「ええ」

  「どちらから? いつ?」

 婦人は誘導するようにほほえみを絶やさずに問いかけてきた。わたしは改めて婦人の顔を正視した。なぜか昔からの知り合いのような感じがした。眉、目、鼻、口そして耳、どれもがはっきりとした輪郭を持っていた。頬がすこし張り出していた。眉は濃くはなく、横に長かった。目は切れ長の二重で涙袋が厚かった。瞳はいきいきとしてひかり輝いていた。鼻は高く、丸く、鼻筋は太く、まっすぐに顔の真ん中に座し、艶々やしかった。笑顔を作る度に掘り込まれる左右の頬のしわは、鼻元から口の両端を結ぶところにやじろべえの釣り輪のような対称的な深い溝をくっきりと彫っていた。ふくよかな耳たぶの部分には象牙でできたハート型のピアスが琴線よりも細い金色の線で吊るされていた。笑みからこぼれでる歯は整って並び、微かにのぞける歯茎は鮮やかな桃色の歯肉に覆われていた。頭はたわしのような短く、硬い毛に覆われていた。胸もとには真っ白な、明らかに人の手で作られた、形の整った珊瑚の粒を連ねた首飾り、柔らかい光沢に満ちた金のネックレスが婦人の動きに合わせて軽やかに微かに跳っていた。私は更に下にひろがる素肌の行方を追った。肌はサラブレッドの脚部のように艶やかに光っていた。新鮮な血が、気が、欝勃と湧き止まず、絶えず沈澱する老廃物を体外に捨て去っている健康な肌であった。私の目線は更に男のものとなって柔らかく、丸やかに隆起するふたつの小山へ通じる流れに沿って動いた。目は進むほどに勾配を増す隆起に喘ぎながらも、見えない力に引かれて小山を上って行く。ほどなく達した頂上からみたもう一つの小山の間には深い谷が横たわっている。優しさを味わうためには更に喘ぎの道が続いて行く。けれども私の想像を邪魔するように濃いブルーのドレスが雲をかぶせて視界を遮断する。雲は永久に二つの山の存在を感じさせながらその形をはっきりと見せることはなかった。

  私は日本を八月五日にたち、マニラを経て二日前にポートモレスビーに入ったことを告げた。

  「マニラは落ちついていましたか?」婦人は尋ねた。

  「えっ!?」

  「アキノ政権は安定しているようでしたか?市民生活に混乱は見られませんでしたか?たとえば、市民同士が敵対しあって暴力沙汰を起こしているとか?」

  私は唐突な質問に一瞬とまどった。旅行といえば、話題は自ずと軽いお天気や食べ物の話というのが常であるからである。

  「私がみた限りでは、政治の混乱がそのまま映し出されているという光景は 市内の観光地にはなかったと思います。市民は自分たちの生活を守るのに一生懸命という感じでしたよ。もっとも私は元々そんなに政治には強い関心を持っていませんからあるいはなにか重大な兆候を見逃していたかも知れませんけど……。市民にては今度の政変もまた一つのお祭でしかなかったのかも知れません。」

  「なるほどね。あなたの見たことは案外市民の本当の姿かも知れないわ!ところで話題を代えてごめんなさい。あなたはどうしてケヴィエンへ?マヌス・アイランドもいいところだわ」

  「マヌスへはお仕事で?」

  「いいえ、父のお葬式の終わった帰りなの。これからラバウルへ帰るところ」

  
「そうでしたか。ご愁傷さまで……。」

  
「父は天命を全うしたわ。きっと今頃は天国だわ」

婦人の顔には湿っぽい影はなかった。

  
「ケヴィエンには知り合いでもいるの?それともお仕事で?」

  婦人は畳み掛けるようにきいてきた。

  「実は、私の母の兄が、つまり伯父さんがケヴィエンの海域で第二次大戦中、輸送船で従軍しているときに、潜水艦に撃沈されて戦死したのです。もう四十年以上も前のことですから私は勿論生まれていませんでした。けれども、小さい頃からいつか戦地へ行って冥福を祈りたいと思っていましたから……」

  「そう。どうしてケヴィエンで戦死なされたってことがわかったの?」

  「勿論、厳密にいえば誰もどこで死んだのかはわかっていません。ただ乗っていた船の撃沈された場所がケヴィエン沖合いということまでが分かっているということで……。それに何人かの生存者がいたということで、その人たちの証言によってということなんです。」

  そう語ったとき、わたしはまだ学校へも上らぬ以前のこと、戦友達は皆天皇陛下万歳!と叫んで船と共に立派に海中に沈んで行ったという芝居がかった話を愚直に信じ、「立派な軍人としてその役を果たし、お国のために死んでいったことを誇りにし、心の支えとしている」とわたしの祖父母が語って聞かせたときのかれらの複雑な顔がちらりと頭をかすめた。

  私は話に一息入れようと機窓に目を投った。するとピチピチと窓を軽くたたく水滴が幾筋もの仲間を集めながら、集まるにつれそのスピードを挙げてツーと下に伝わり落ちて行くのに気がついた。

  「外は雨になっているようですよ。」

  「あらほんとだわ。」

  婦人は自分で確かめようと腰を上げて窓の方に頭を向けようとしたが体を上に持ち上げようとした分の力と同じ力で体を下に引っ張られバランスを崩した。彼女は思わず私の肩に手を当がいその身を支えた。

  「ごめんなさい!」 

 「いえ、どういたしまして」

  お互いに偶然の接触を楽しむように束の間のいたずらを許しあった。

  「まだお名前をうかがってなかったわ。わたしはルス ナカシュ・・・」

  私はルスという名前を聞き取った後はファミリー・ネームへの集中心を欠いていた。ファースト・ネームをしっかり覚えておけばいいや、私は自分の中で自分の耳の悪さと集中力の欠如に一人言い訳をした。

  「あなたの名前は?」

  「ツグオ ナガシマ」

  「えっ、すいません。もういちどおっしゃって。」

  「ツグオ ナガシマ」

  私ははっきりと一語一語を区切って名前を発音した。そして呼ぶときにはただツグと呼んでくれと言った。婦人はうなずき「ツ」「グ」と唇を突き出しながら何度か口の中でその音を確かめた。 

  「レイディーズ アンド ジェントルマン!」

 突然注意を引くスピーカー・マイクを通した声が頭の上から降って来た。いよいよ離陸体制にはいるためにシートベルトの安全確認のアナウンスがあるものと心得ていた。ルスとの会話の間、他人の声は単なるざわめきであり、テストを重ねるエンジン音は会話をスムースに進めるBGMであった。マイクの張りのない機械的な雑音に割り込まれて人々は一瞬の静寂を用意した。

「当機はただいまエンジン調整中です。目下のところ第一エンジンの調子が完全でなく、もう三十分程調整時間が必要となる見込みでございますので当地の離陸時間は三時半をすぎる予定でございます。皆様におかれましては、お急ぎのところ誠に申し訳ございませんが、もうしばらくお待ちくださいますようお願いいたします。なお、機外、空港待合い室でのご休憩も可能でございますのでご希望の方はご案内いたします。」

少しくぐもったような声が聞こえた。乗客たちはため息をついたり、軽い不満の声を上げながらカシャッ カシャッ と至るところでシートベルトをはずし始めた。

  「私たちも降りてみない?マヌス・アイランドもいいところよ。もっとも空港の外には出られないけれど……」

  ルスは一度は決めたポジションからベルトをカシャンとはずした。 

    「OK!」

  私は短く答えた。

  ルスは金輪のついた杖を手にして身を支えるようにして座席から立ち上がった。私もまた足元に置いたパラシュートバッグを肩にかけ席を立った。ルスは私とほぼ同じ背丈の女であり、熊が歩くようなのっそりとした歩調で私の先を歩き、三メートルぐらいの高さのゲートタラップを手すりに捕まり降りると振り返って私に笑顔をおくった。大粒の雨が雑にピチッ、ピチッと彼女の頬から首筋にかけて跳ね返っていた。濡れた肌には雨露にふれて色を取り戻した、生き返った緑の葉と同じ艶が現れていた。エンジンのギューン、ギューンという音が一定のリズムで耳をつんざいた。タラップ下の滑走路は雨粒を激しく打鄭しながら跳ね返し躍らせていた。

  私たち二人は黙って滑走路を横切り、休憩室のある木造の空港の建物へと向かった。ルスの履く草履の音がカサッ、ペタッ、カサッ、ペタッとメトロノームのように同じリズムを刻みながら、雨のダンスに調子を合わせていた。雨に濡れた首筋を冷たい風がつっきっていった。私は歩く道すがら顔を揚げて空を仰いだ。薄黒い雲が低くあたりを覆っていた。雲は一つとして同じ位置に留まるものはなかった。空には垂らしこまれた墨が風の動きに合わせ複雑な階調をつくっていた。飛行場の周囲には高さを揃えられた椰子の樹が風のBGMに煽られ一斉に葉の向きを揃えて舞踏会を催していた。

  見送りや出迎えの人々を仕切る木柵には幾重にも束ねられ掛けられた褐色の人々が麦わら人形のような形で寄り掛り、降りしきる雨をものともせずに鈴なっていた。週に一度か二度飛来する怪鳥のようなジェット機を見に来ることはかれらにとっては、たまに食堂に集まり、ああでもない、こうでもないと駄べくってはなにか新しいことが得られたかのごとく錯覚し、満足しては帰って行く儀式にも似た惰性のあたらしいものとの接触の機会であった。人々にとってはたとえジェット機の中から運ばれる空気がほとんどとるに足りない新しさしか含んでいなかったとしても運ばれるものの中に確かに少しずつ微妙に異なるなにかが感じられればそれで良かったのである。栄養のないことはわかっていても毎日食べるバナナやイモよりは目先の変わったチョコレートの類の方が彼らには確かにおいしく感じられる栄養物であったのである。

  柵によりかかる一人一人の顔の表情が見えるところまで近づいたとき、「ドラー」っとルスは聞き慣れぬ言葉を発した。意味はわからなかったがその音には明らかに命令する者の落ちついた威厳と強さが含まれていた。左手を揚げ木造の暗闇の部分を金輪のステッキの先で指しながら、ルスはなにかを叫んだ。するとその叫びに呼応して赤と黄色の布に腰をまとった黒い影がすばやく小走りに暗闇の中へと消えて行った。と、まもなく素朴な木造りの建物に白い蛍光灯が数本づつパッパーッとひろがった。薄暗さに慣れようとしていた私の目は鈴なりの人々の黒豹のように光る肌の輝きと視線の集中に一瞬面食らった。

  小さな階段を上がり敷かれた板の上を歩んで行くと足の体重が交互にかかるその度に板は軽くしなり、ギッ、ギッと押し殺すような悲鳴をあげた。集まっている村人や今しがた降りてきた乗客達の視線が私とルスの一対の歩みに合わせて注がれた。褐色の顔から発せられる眼の光りは好奇のかたまりのそれであった。なかには人懐こく笑顔で手をふる者もいた。私とルスは誰の指示ともなく空けられていた蛍光灯の下のベンチへ座った。人々は予定道理に事態が進んだことに安心したようであった。私は肩に掛けた軽バッグを下におろした。柔らかいバッグの表面の凹面に溜まった小さな雨溜が水銀のように蛍光灯の光に反射しながらボトボトッと床に落ちた。ときどき強い風に合わせて叩くような音をたてて屋根が雨に鳴った。またときには軽くサッーと鳴りもした。

  「スグオ!」柔らかい響きの低い声でルスは話しかけ始めた。ツという音はスに変わっていた。

  「ケヴィエンへ行くということだけれども誰か知り合いでもいるの?」

  「ホテルはあるでしょ?」

  「あるわ。一軒ね。小さな街だから……でもきれいなホテルとはいえないワ。よほどの理由のある人以外来るところじゃないもの。ホテルなど必要ないのヨ」

  「ルス、あなたはどこまで行くんでしたっけ?」

  「ラバウル。ケヴィエンのつぎだわ。自宅はラバウルなの。生まれたところはマヌスだったけれど、今はラバウルに住んでいるの。過ごしやすい良い所ヨ。帰りによらなくって?見るところも沢山あるわ。日本の人にとっては……。」

  「おとうさまが亡くなったってさっきおっしゃってたけど、おとうさんはこちらのひとだったんですか?」

  私のこの問がなければ、運命の神はそのまま私の上を静かに通り過ぎて行ったことであろう。

  「違うわ。父はマヌスの人ではなかったわ。パプアの人でもなかったわ。神が遣かわした人だったとしか言えないわ。」

  悲しそうに発達した頬を少し凹ませながらルスは軽くうなじを左右に揺すった。

 

(二)

 

  マヌス島とケヴィエンとを結ぶほぼ中間点を10隻からなる輸送船団は帝国海軍駆逐艦に前後を守られながら一路海軍司令部のあるマダンへと向けて白波をけたてていた。すでに南海の燃えるような太陽は水平線の彼方へと沈み落ち、漆黒の闇がひたりひたりとその広がりを大きく濃くしていた。けれども目を凝らしてみれば闇夜は闇夜ではなかった。あるところには真砂に微かに小さく混じるガラス片のように星辰が高くキララと輝いていた。またあるところにはただべたーっと真っ黒なコールタールが一気に太筆で塗りたくられたような雲がかたまっていた。

  規則正しい船首の波を裂く音と煙突をこまく揺らしながら出すタービン音が暗い舞台の上で合奏していた。このまま進めば明日の昼頃にはマダンへ着く。一大任務は完了できる。誰もがそう思い、三カ月前の陸の感触を思い出してはそれぞれの思いにふけっていた。明日の楽しみを胸に抱き誰もが軽い興奮を覚えていた。

  スギオもまた明日の上陸をひかえ、大任を果たしたことへの賞賛と慰労に包まれたマダンの司令部での自分を想うと寝つかれなかった。寝ようと思えば、頭にはどこまでも軍人であろうとする頑固な父の姿が、そしてどこまでも男の云うことには忠実に従い、我慢強く忍従を続ける明治の女である母が、さらには戦争さえなければ、自慢気につれて歩けた均整のとれた3人の妹たちの顔が自然に浮かんできた。

  戦争ではなく、商用の航海で世界を巡ったならばと思えば、頭には金髪の、上を向いた短い鼻のゲルマン娘が、豊満な胸と張りだした腰をくねらせ大胆に媚びを売る南米の娘達が、ベールの下に白くすきとうった蝋人形のような肌をしたペルシャ娘達が、そして彫り深く浅黒いくぼんだ目と長い鼻立ちのインド娘達が練習船で寄った寄港地の酒場の煙のように身をくねらせながら浮かんでは結び合い、結んではちぎれ、ちぎれては離れ、いつしか消えてはまた浮かんだ。純白のセーラー服で歩く自分達が寄る先々の港の女達に誘うような眼差しで見つめられるのは兵隊としての規律に縛られているとはいえども男として悪い気のすることではなかった。男達は表では競争心や闘争心をかきたてる強制装置に自分から志願して入る一方で、日毎の心のバランスを保つ慰めとして想像の花の園に遊ぶことを心得ていた。

  女は確かに彼の人生にとってなくてはならぬものであった。戦時下の世にあって男が女の事をあからさまに語る事は許されなかった。しかし、スギオにとって女は女ではなく、心を癒し、安らぎを与え、明晰な頭を呼ぶマチスの絵のようなオアシスであった。

  スギオにとって学校はすべて戦時下でなくとも戦場であった。微分・積分の世界が、幾何学の世界が、地勢学の世界が、歴史の世界が、そして体操の世界が、男の社会そのものが戦場に他ならなかった。生きるという事が戦場であった。世の中は男同士の戦争によって富を蓄え、生活を豊かにし、便利の度合いを増してきた。学校に於いても、村や町でも、軍隊に於いても、国に於いても、国家の間に於いてもみんな男同士が戦争を仕掛けあい、仕掛けられあっては身をすり減らし、そのエネルギーが勝利者の然るべきところに吸い込まれて行った。男達は針千本かバラの華のように全身に鋭い針を付けた鎧に身をまとわなければならなかった。男が複数で寄りあうことそれ自体が針の衝突を意味していた。針で小突きあう痛みは存在につきまとう常なる友であった。

  女は真綿のようにどこまでもふくよかに優しく身をくるむ安らぎの世界であった。観念の優しさではなく肌の感じる優しさこそが安らぎと心地よさのすべてであった。女の中に戦争はなかった。女が船に乗れば良い、そうすれば戦争はなくなるだろう。船の女神に嫉妬の暴虐をふるわれても、女のためには、船のためには男は平和と安全を守ろうと戦えるだろう。またたとえ、船が沈められるとしても女と一緒ならば運命を共にする事も苦痛ではないだろう、スギオは自分が今いる場所を忘れてそう考えていた。

    その夜もまた日中とあまり変わらぬ蒸し暑い夜であった。

  と 突然「敵艦、魚雷発射!取り舵いっぱい!直ちに全員戦闘体制に!」引き攣った艦内マイクとともに怒声が船橋から飛んできた。

  「なんでまたこんなときにおいでになって!よくもまぁ……」

  「くそ!絶対に負けるものか。かわしてみせる!……」

  仲間達は思い思いに言いたい事を言いながら、あわただしく次々と所定の位置に付いて行く。スギオもまた枕元にきちんと畳まれた制服をすばやく身につけながら機関室へと急いだ。ゴー、ビッタン、ゴー、ビッタン、人声を寄せ付けない轟音が規則正しく響いている。奇妙に落ちついた密閉された別の世界であった。艦上で動くあわただしい人の動きは一切なかった。恐怖感をかき立てるような混乱はまったくなかった。むしろ心には静寂が漂っていた。自分はこの規則正しい騒音を守りきれば良いと自分に言い聞かせた。彼は異常を知らせる兆候がおきないかメーターに目をへばりつけていた。

  ズシン ダーン!! 大音響とともに突然左船腹の底に、ずしりと響く強く重い振動を感じた。と、その瞬間に見据えていた計器の赤い針が数本一気に振り切れるのを目撃した。と同時に自分の体が宙にとび、無数にある鋼鉄の管のどこかにたたきつけられるのを感じた。体中に鋼鉄の塊が鈍くめりこんできた。ウッー 声にならないうめき声が喉の奥から絞り出され、頭の中がスーッと真っ暗闇になって行くのがわかった。

 

(三)

 

    耳もとに聞こえる音は確かに人の声であった。ザーーッ、シュー、波が割れては同じリズムで同じところへ打ち寄せた。頭の中には音があった。開けようとした目は意志に反して一度にすっきりとは開かなかった。目を開ける事が辛かった。開けようと試みればかえってキラキラと輝く日差しの洪水は瞼の水門の筋肉を固く閉じさせた。同時に意識の中に戻った外の光を求めて目の中の明るい世界を現実のものにしようと、目は瞼を微妙に震わせつつ、瞳のチューニングを試みた。まだ開いてはいない目の中に確かに明るい気配が存在した。ようやく薄くわずかに開けた網膜の中には黒い塊が塊のままときどき揺れていた。ひとときをおいて、ジャーーという軽い水の注がれる音とともにそれが口元から溢れ頬を伝わり耳の中に届いた。自分は確かに生きているのだ。生きてしまったのだ。スギオは誰にもわからない心の動きに自分の生命を確認した。耳のくぼみを伝わる水は耳穴へと不快いに這いずりこんできた。忍び込む不快な進入者を避けようと彼は頭の位置を変えようとした時鈍い痛みが電流のように背中をビシリッと走った。見えかけた世界は再び漆黒の世界へと消えていった。

 

  なぜか係留綱につながれて空中を漂う、流されてはまた戻るアドバルーンが浮かんできた。スギオは祖国を人並以上に愛していた。事実、学校で課される修身は常に他の学生の範となる評価を受けていた。確かに彼は教えられた事をそつなく身に付けていた。けれども言葉では同じ愛国の情であってもその中身は修身の教科書に記された事がすべてではなかった。愛国は尊皇だけを意味するものではなかった。帝国海軍に入隊したのは天皇の忠実なしもべとなるためではなかった。軍人としての功名を求めてのことでもなかった。彼の求めた事は常に心を世界に開き世界の人々と仲良く協力しあって平和で幸福な世界を造る事であった。船に乗る事がもっとも簡単に外国を訪ね、世界を知る術であった。日本人であっても、日本から離れた目をもって、世界をそして日本を見る事こそが彼の求めるものであった。明治天皇の崩御と命運を共にする機を失した事を終生の恥とし、息子だけは立派な奉公人としてお国に捧げたいと考えていた父の愛国心とはまったく異なる愛国心であった。スギオはそうした自分の考えを父親への反抗や口答えとして表すほどに未熟者ではなかった。親を思い、長幼の序を尊んだのは、母親の何があっても唯ひたすら自分が悪者となって身を処すことを女の道と信じた母の姿に学ぶ、母への畏敬の念であった。

  アドバルーンは突然、係留綱を付けたまま静かに上空へ上がり始めた。風に漂いそれはどんどんと流されて上昇した。陸地の建物はマッチ箱のようになり、さらには米粒のようになりとうとう視界からは消えてしまった。それでもなおアドバルーンは上がって行く。どこまでもどこまでも高い空を上昇りつめて行く。係留綱もまたどんどん延びて行く。そこからは大八島が掌の大きさに見え始めた。朝鮮半島も中国大陸も太平洋も眼下に見え始めた。もっともっと高くそれは更に昇った。綱もまた切れることなく無限について伸びて行く。ユーラシアが、南北アメリカ、アフリカが見えた。確かに丸い。地球は丸かった。濃いブルーの陸と淡いブルーの海が限りなく透明に近いブルーの空に浮かんでいた。荘厳な音のない沈黙の世界であった。アドバルーンにつながる支え綱はそれが係留止めにしっかりと繋っていることを見ることが出来るうちは確かに根をもったアドバルーンであることを保証していた。が、このように遠く高く離れるに至っては繋がりを「信じる」以外にはアドバルーンを繋ぐものはなかった。

 

  気がつくと、外の光が頭の中を再び照らし始めた。今度の光は黄色くゆらめく火の光であった。遠くで波の海辺を洗う音が反復している。風にそよぐ椰子の葉がさざめいている。今耳に入っているのは明らかに人の声である。横たえられた体は自分が竹で碁盤の目のように編まれた床の上に寝せられていることを感じた。スギオは故国で聞いた、そしてホノルルで、またハンブルグで、マルセーユで、ボンベイで耳にした音の記憶の中で、今耳から入ってくる連続した音を比べてみた。けれども、聴く音は頭のどこかにしまわれていた録音機を持ち出し、再生したところでどれにも符合するものではなかった。声調は珊瑚礁に囲まれた穏やかな波のように小さく小刻みに軽く跳ねていた。そうした音がスギオの体を柔らかくそっと静かに穏やかに包んだ。警戒心という毛の針を張り鼠のように逆立てる必要はなかった。アルマジロのように心を固く内側に閉める必要もなかった。

  「どこなのだろう。ここは?」少し大きな声で叫ぶように彼は自問した。彼の声を聞いて、褐色の肌の群がりから出ていた声が一斉にぴたりと止まった。一瞬張りつめた空気が四角く伝わった。数十の暗闇に光る目線が自分に投げかけられていることがわかった。「どこだろう。ここは?」スギオはもう一度声を出して自分に尋ねた。

  「マヌス!マヌス!」音の調子から察しがついたのか、低いけれども温かいしっかりした英語の声が聞こえた。「もう大丈夫ですよ。安心なさい!」声の主の方を見ようと体をおこそうとした時再び軽い痛みが背中を走った。しかし、気を失う程には強い痛みではなかった。声の主は老人であった。そくいんの情が顔に溢れていた。

  「確かに助かったのだ。確かに助けられたのだ。一体なんと静かな穏やかな   ところだろう。」

  今度は安心というクロロホルムがそっと暗い寝場所を用意した。

 

 

    一か月、二ヶ月が過ぎた。いつしか背中を走る痛みは消え、スギオは自分の寝ている家の回りを散歩することが出来るようになっていた。背中の痛みの代わりに足裏が細かい尖った石粒や堅い岩の破片を踏む度に痛かった。人々は皆裸足であった。裸足に慣れ、足裏にもう一枚足裏の皮膚が張り付けられたようになる頃には身の回りにいる人々をかれは識別できるようになっていた。「靴を履いた生活は捨てたのだ」スギオは一人呟いた。

  周りの人々は紛れもなく人間であった。男であり、女であった。自分との違いは本質においてどこにも見いだすことは出来なかった。異常に強い光を含んだ目や褐色の肌は確かにスギオがこれまでに育った世界のそれとは違っていたがそれらとて人間であることにおいては何等取り立てて問題にすべき違いとはいえないものであった。スギオの目はそうした自然的なものの中の違いからではなく果たす役割や行動様式から彼を取り巻く人間達の一人一人の違いがはっきりと識別されるようになっていた。人々の発する音からはボスともボースとも聞こえた長老の名前はボアズということもわかった。彼は自ら多くを語る男ではなかったが、後から知るところでは、その地に渡っていたドイツ人宣教師が驚くほどにキリスト教の教えを本質において受け入れることの出来る男であった。宣教師は彼がヨーロッパ人よりもはるかに良く十字架の意味を解することに驚いた。ニューギニアは人が人にとって狼である必要のない自然の恵みを受けた地であったが、ボアズは日月星辰や潮の満干、鳥獣の動きを良く心得ているばかりでなく人間を良く知っていた。誰に教わることもなく、彼は人間の生について、存在について、また死について天与の悟りをもっていた。彼は定められたようにその地に君臨した。多くの村人は事ある度に彼のもとへと足を運んでは必要な解決を見いだした。時には強い調子で若者達を叱責した。彼の中には私がなかった。若者達は信頼というものがどの様なものかを無言のうちに悟っていた。

 

  彼にはネオミィと呼ばれる歯並びの整った健康な肌をした娘がいた。寡黙ではあったが、愛想の良い落ちついた娘であった。

  朝早くに首飾りを作る海の宝石の波に打ち上げられた珊瑚や珍しい貝殻を拾いに海辺に出た時、彼女はスギオをそこに発見した。丸太や木の屑と一緒に寄せては返す波の間にそれらとは明らかに異なる血の気配のある人間を見つけたとき、彼女はそれが人であるという唯そのことでその人体を放っておく事は出来なかった。、そのまま再び自然の中に放っておけばやがていずこにかまた流され行く枝や木塊の破片のように見捨てておくことはできなかった。といって、ネオミィは体のあちこちから浅い擦り傷による血ぞめのスギオの姿を見つけたとき、塵や真砂の中に時としてある、その身を訴え、妖しく自分を引き寄せる宝石の光をそこに見つけていたわけではなかった。

  半年もたつと、英語に似たような言葉や言い回しの出てくる現地の人々の話す音がスギオにも聞こえるようになってきた。敵性語として表だっては嫌われていた英語を密かに独学していた事もその理解を早めていた。ネオミィはスギオの快復とともに彼の肉付きの良い、がっしりとした肉体と穏やかで冷静な物言いに心を曵かれ始め、年の頃も近いスギオを男として意識し始めた。村人達は、尊大なところもなく、打ち解け、もう昔からこの村で生まれ育っているかのような気持ちを共にするスギオの姿を快く迎え入れていた。彼の存在は誰にとっても好ましいものであり、だれもその存在を否定するものはなかった。彼は村人と一緒になって働き、また遊んだ。スギオはいつしか村にとってなくてはならぬ存在と役割を担うようになっていた。いつしか七年という歳月が流れていた。スギオはふと自分の今と祖国の様子を頭の中で想像した。父や母そして兄弟姉妹達の姿を想った。高く抜けるような南海の空が透き通った明るいブルーから茜色に変わりやがて濃紺から漆黒の闇をつくって行くひとときの間、椰子の木の葉はフラミンゴのように海風に激しく踊らされ、ときどきラグビーボールのような実の卵を足元に産み落とした。そのまま放っておかれる中のいくつかは風の力を借りながら転がっては曲がり、曲がっては止まりつつ、不規則な動きを繰り返しながらいつしか波の寄せるところまで転がって行った。あるものは転がった先の岩の凹地にはまり込み、またあるものは小枝に阻まれ、その動きを完全に止められてしまった。唱歌で習った籐村の詩が浮かんだ。過去を想えば確かに涙がでそうになった。けれども、スギオはこの地を捨てる気にはなれなかった。「自分は靴を捨てたのだ。靴を履く代わりに裸足の生活を取ったのだ。」スギオは自分に言い聞かせた。

 

  スギオとネオミィは八年目の春、夫婦の契りを交わした。周囲の人々にとってはむしろ遅すぎる結婚であった。周囲のものはスギオをこの地に繋ぎとめるためにも二人の早い結婚を望んだ。二人は周囲の事よりは自分達の心の成熟を待ちあった。戦争ももう五年も前に日本の敗戦に終わっていることがマヌスにも伝わっていた。

  二年の後長女が生まれた。名前はルスとつけられた。ルスは肌の色は褐色であったが父に似てどこか日本的な部分があった。彼女は学齢に達すると、すでに日本の敗退によって連合国の支配下にあったラバウルのインターナショナル・スクールへと送られた。ラバウルには日本人はもういなかった。代わりにアメリカ人、イギリス人、オーストラリア人、フランス人などがいた。ルスはラバウルの町と共に成長をした。天然の良港は人々の手から離れる事はなかった。爆撃によって荒れ果てたままに放置されていた空港にも滑走路が引き直され飛行機が舞い戻ってきた。街は前にもまして賑やかになった。ルスは学校で学ぶにつれ祖父や父のすばらしさがわかってきた。体でわかっていたすばらしさが形となってわかってくる喜びを感じた。家庭でしつけられ、教わった通りに振る舞えば学校での生活はすべて快適に進んだ。ルスは十八才までの教育を終えたとき一度マヌスの両親のところへ帰り、自分はこの先さらにラバウルに住んでよいものかどうかを相談した。スギオは勿論賛成した。母のネオミィも夫のスギオが反対しないならば自分は反対する理由はないと言った。ルスは自分の希望通りに少しでも世界に開かれた土地に住める事を喜んだ。彼女もまたとりわけ父の影響のために、過去よりは未来を、内よりは外をという思考と生活様式を受け継いでいた。

  スギオはルスを育てる間自分が日本人である事は言わなかった。母のネオミィも夫が日本人であるということをことさら語る事はなかった。日本人という事にこだわり、気兼ねしてふれる事を避けたと言うよりはむしろ国籍にこだわらず自然にこの地にとけ込む姿が国籍という観念をもたらさなかった。

   妻のネオミィは夫が過去に目を振り向けないその理由を最初は郷愁感と結び付けて理解しようとした故に、眠っている感情を揺り起こすことを恐れていたところもあったが、毎日の生活の中で夫の常に前を向く暮らしぶりを見ているうちに自分でも知らず知らずの内に夫のスギオはこの地に神様によって遣わされたに違いないと確信するようになっていた。

  スギオは住民に役割を巧みに配分し自分は目立って表にでることを避け村の生活の向上に全力をあげた。一つの事業の完成が近づく頃にはつぎの設計図が描かれていた。

 

  ルツは二十才の時、ラバウルの火山の観測にきていたイギリス人の地質学者と結婚した。結婚生活は幸せに続き四人の子供ができた。母ネオミィはルツが三十三才の秋ふとした病をこじらせて肺炎となって死んだ。同じ年の冬今度は夫がラバウルの地震調査の際突然起こった火山の噴火に巻き込まれて死んだ。立て続けの不幸と父を気遣いルスは子供達をラバウルの学校の寮に残してしばらくマヌスへ帰った。

  「私のことは心配しなくて良い。村の人々がなにかと面倒を見てくれるし、自分が建てた診療所のおかげで健康面も大丈夫だ。それに食事の面倒ぐらいは毎日自分でやるようにしないとぼけてしまう。心配せんでよい。それより、ラバウルに残している子供達のことをしっかりみてあげなさい。わしはもう一つ是非目の黒いうちにやっておきたいこと、つまりコミュニティ・カレッジの建設という大目標がある。これをやり遂げなければ……」

スギオはそういって情熱のこもった瞳でルスに笑みを送った。

  ルスは父の忠告に従ってラバウルに帰った。ラバウルではホテルを建て生活の糧としたので生活に困まることはなかった。子供達の成長を見守りつつ、ルスも地域社会での活動を活発に始めた。子供達のうち長男はイギリスへ父の後を継ごうと志し、地質学の勉強に留学した。長女はアメリカへ看護の勉強に出た。そしていま残っている二人の男達は日本語を勉強している。いつか日本に行くのだと……。

  「お父様が倒れたそうです。すぐにマヌスにお帰りください。」

 スギオの面倒をなにくれとなく見ていた家政婦のナッソウからルスの元に電話が入ったのはむっとした湿気が部屋中に淀み、肌には湿ったオブラートのようにしつこく絡みついた暑さがなお残る八月の十日の夜のことであった。スギオは七十才を過ぎた頃からときどき激しい胸の痛みに襲われることがあった。ルスとの会話が電話で交わされる時に「そろそろ神様のところへ連れて行ってもらえる頃かもしれないな?」などと軽い冗談を言うこともあった。胸の痛みは波状攻撃となってその日は襲ってきた。三度目の発作に襲われたときその痛みは火箸を胸に突っ込むような熱さとなり、スギオの意識を奪った。意識は再び戻ることはなかった。

  ルスが翌朝飛んで帰ったときにはすでに父は永遠の眠りについていた。のぞき込む顔は無言の中にも自分の望むように生き抜いた人間だけがみせることの出来る満ち足りた静かな威厳が漂っていた。村人達も続々と駆けつけていた。目をくしゃくしゃにする者、頬を幾筋にも濡らしたまま放心したように口をあけたまま地べたに座り込む者、後頭部に両腕をくみ、天を仰ぎ叫んでいる者、じっと下を向いたままピクリとも動かぬ者、人の数だけ悲しみの表情があった。

  梯子のように組まれた板の上に止められたスギオを褐色の村人達は蟻のように整然と数珠つながりになって運んだ。埋葬はスギオがネオミィに発見された海辺が見える丘の上にされた。

{Died in Manus 10th of August 1986 靴を捨て私は眠る}

墓碑にはそう刻まれた。               

 

 

(四)

 

  「スグオ!喉が乾かなくって? 私、ペプシを買って来るわ。」ルスは売店とは名ばかりの棚の上に並んだソフト・ドリンクの瓶に向かった。雨雲に覆われていたせいか十五メートルも先の売店の二本ばかりの蛍光灯の光はルスの姿をただぼんやりとした黒い塊にした。黒い塊の輪郭は「まさか!?……」私ははっと息を飲んだ。そんなことがあるはずはない。首を横に振った。一瞬の間に一つの連続したドラマが頭の中を走馬燈のように走って行った。  

  「ハイ」大きな掌ににぎったペプシが差しだされた。

  「ありがとう。いくらでした?」

  「なにいってんのよ!ご馳走よ。楽しくお話が出来たわ。」

  「では、せっかくですから、いただきます。」

  私は缶のリフトを強く押し込んだ。シュポッ!生温い炭酸が泡だって顔に飛んできた。一口飲んでルスに愛想笑いを送った。ルスも同じように応えた。同じ家の中のテーブルに向き合って語り合っているような気がした。

  「乗客の皆様にお知らせいたします!第一エンジンが快復しました。長らくお待ちどう様でございました。機はまもなく次の到着地ケヴィエンへ向けて出発いたします。どうぞ、お座席の方へお戻りください。」

  スピーカーを通してスチュワーデスの声が響いてきた。私とルスはどちらからともなく席を立つ合図を黙ってうなずきあいながら交わした。二人とも飲みかけのペプシを握ったまま小雨がまだ跳ねる滑走路を無言のまま歩いて機内に戻った。

  席に戻ると肩と肩が触れ合っているのをお互いに承知しながら黙ってベルトを締めた。やがてまもなく激しい金属音を轟かせて鋼鉄の怪鳥は滑走路を離れ、重苦しくのしかかったままの雲の中に首を突っ込んだ。パシパシパシッと砂粒がガラスにぶつかるように雨粒がしばらくのあいだ窓をこまかく強く打鄭した。二人は触れ合う肌で言葉を交わしていた。

 

  「皆様、本機はまもなくケヴィエンに着陸いたします。お座席のベルトを今一度しっかりとお締めくださいますようおねがいいたします」

そのアナウンスがなければ、ジェット機は雲をつきぬけ、キラキラと輝く光の中をどこまでも高く昇って行くように感じた

  「あそこが叔父様の眠っているという ケヴィエンよ!」

 機が急速に傾き、ルスが指さす向こうには一筆で描いたような直線の滑走路が窓の向こうに伸びて来た。

 

 <了>

 

本作品についての若干の覚え書:
本作品は1989年私の初めて書いた戯作であった。処女作品ということになる。いま読んでみると出来は良くないが、初めての作品という記念の意味で本ホームページに載せてみることにした。

なお、このテーマは私の母の兄(伯父)がニューギニア、カヴィエング(ケヴィエン)沖合で1943年8月太平洋戦争中アメリカの潜水艦により乗っていた商船が撃沈され、戦死した、という話をもとに、その地付近を1986年慰霊訪問したとき、構想し創ったものである。しかし、その後史実に即して調べてみると、伯父は中国、台州市沖合約120km沖合の東シナ海で乗っていた国光丸とともに撃沈され、殉職・戦死したことが判明した。

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