韓国 ソウル&慶州 旅行  

魁三鉄(永橋続男)

1986年4月25〜29日 

 (1)

 日本語は話せない、亡妻に似た顔立ち、体つき、そういう女性に会いたいな、という幻影的願望を抱きながら、前年私は初めて一人参加の中国への旅行をした。― 当時は香港まで一人で飛び、そこで他の旅行者と合流するグループ旅行という実質的には中国国内はグループ旅行となる旅であった ― そんな女性などをより蓬莱山に近かったはずの中国南西部の地域で見つけ出すことは当然のことだがなかった。

 ただ、あからさまにまた同じターゲットを求めるためにということではなかったが、人間の顔立ちや体つきも似たようなアジアの国に行ってみたいという気持ちがいつのまにかまた出てきた。旅行するおもしろさを感じていたこともあった。

 翌年、春、突然急に思いついたように、無性に韓国へ行ってみたくなった。学生時代、韓国からの留学生ご夫妻に仲良くしてもらったこともあり、以前から一度行ってみたい国だ、と思っていたことも背景にはあった。

 そして、とても残念で不幸な影響を永く残している日本による侵略の歴史に対する朝鮮民族の国民感情はどのようなものだろうか、とか、そもそも歴史的にみたら「きょうだい」みたいな国なのではないかな、などと思っていたため、その両国間の文化的な影響、特に日本の奈良時代における韓国を経由した仏教文化の影響などを自分なりにこの眼で確かめてみたいな、という気持ちもあった。

 そんないわば、ほとんど思いつきのような感じと潜在的な関心から私は韓国へ行ってみることにした。その時初めて、旅行社を通さない自分ひとりでつくる旅をすることになった。

 当時は特に男性グループによる韓国の女性と安く遊べるツアーの類の募集はたくさんあったのだが、もともと旅行代金が高く、(私の収入から見てのことだが)また、みな最低催行人員が2名とか2名一室でないと、非常に宿泊費が高くなる、という不都合があった。(この点は今でもそうである)聖人を装うつもりはなかったが、私はそういうグループ旅行がとても嫌で、韓国へ旅行するということが、「女性を買い求める」というイメージでそのまま自分にもかぶるということをとても嫌なことだと思っていた。(かえって意識過剰であるともいえるのだが……。自分も「欲しいタイプの女性に出くわすことを求めている」という矛盾したような気持ちでいたにもかかわらずである)

 

 そこで、ともかくソウルまでの航空券だけを手にして後は現地へ入ってから宿を探し、すべてをその都度決めてゆくというやりかたで旅してみようと決めた。

 韓国語がしゃべれるから自信があるからでしょ?と好意的に問われるとしたら、それはまったくのかいかぶりでしかなかった。私は韓国語をまったく話せないし、もちろんハングルを読んだり書いたりすることもできなかった。(フライトの中と宿で5フレーズくらいは覚えることに努めたが、あとはすべて英語を使った)

 時期はゴールデンウィーが迫っており、そこにかかると旅行費用は2倍から3倍くらいかかることがわかっていたので、ゴールデンウィークに入る頃に帰国するように旅程を調整した。

 

 (2)

 この韓国旅行とはまったく関係ないが、その写真集メモ(旅行備忘録)を読んでいて思い出したのだが、私はその年、「日本語を学びたいと言って来ているのだが、滞在場所の面倒をみてよ」と職場の先輩に頼まれた、不思議なバックグランドをもった、英独仏中西、5ヶ国語を自在に操る、きわめて有能なドイツ人をわが家に居候させていた。

居候する間、私はドイツ語ではなく、英語で社会時事的な話題や国際情勢などを含め毎日雑談をしていた。その間、いろいろおもしろい彼の経験談などを聞き、また一緒にジョッギング運動したり、彼が介する日本の中央官僚や政党事務局の人々と酒を呑んだりする機会をもらえ、とても楽しかった。そして当時のレーガン政権下で、ある仕事をするためにジョージ・ワシントン大学へ来ないか、と誘われていた。

ドイツ人にアメリカの大学へ来ないか、と誘われたのも妙な話だが、そのあたりのことも含め彼との愉しく、ためになったかかわりについては私の別の作品なり、記録の中に公開されることになろうが、その彼が、いつのまにか私が韓国へ出発する日時にあわせてシンガポールへと飛び立ち、次の仕事場へ向かうことになっていた。機は私が
JAL953便、彼はSQ(便名は失念)で共に18:00発であった。

 私たちは正式には東京の電気ビルにあった外国人プレスクラブでFarewell Dinner Partyをしていたが、出発日その日に、会えるようだったらまた成田でも会おう、と決めていた。

 出発当日、われわれはうまく出発ロビーで会えた。お互いにGOOD LUCK ! と握手してJALとSQのゲートへ向かった。

 その時、私には人生の一つのターニングポイントなのだなぁ、彼の誘ってくれていた象徴としての飛行機に一緒に乗っていれば……という思いをいだきながらゲートへ向かったことを思い出す。Herr A.Kはいまごろ世界のどこで活動しているのだろう?ベルリンの壁がすっかりなくなっている今?

 

 (3)

 ソウル、金浦空港(現在は日本からの飛行機は仁川国際空港発着となっている)に降りた時ニンニクの香りが空港全体に感じられた。日本は大根の匂いがする、とかいわれているのを聞いたことがあるが、自国民には気付かれにくい国の香りだろう。私は別に苦にはならなかった。

 夜、外国の空港に到着することは一人旅の場合、そして飛び込み訪問のように宿泊先を決めていない場合、心理的には不安やストレスが多くなる。バゲッジの引取りやら、現地通貨への両替などで意外に時間を食われ、空港のインフォメーションやホテル案内事務所などが閉まってしまうことがあるからである。

 到着したのは夜の8時半頃であり、また荷物は手荷物だけにしておいたので、インフォメーションカウンターは問題なく開いていた。

 他にも日本人客は数人いたが、日本語で問い合わせをしているせいか、相手にしてもらえないのが眼に入った。アメリカ人とか英語を話している人はどんどん情報を得ている。これはすべて英語を通した方がよいなと判断し、英語で安宿を勧めてもらった。幸い、年齢を聞かれることもないし、貧乏学生のような姿であるせいか、YMCAを教えてくれた。行き方を教えてもらい、公共バスに乗ってソウル市内のYMCAへ行った。場所もよく、寝るだけの1っ泊を予定していた私には十分な設備であった。

 

 翌日からソウル市内を歩き始めた。天気は小雨が降ったりやんだりという日だった。当時は治安維持の点から市内には制服を着た警察官はもちろん、私服の公安刑事などが政府の重要な建物の周辺を巡回していた。YMCAで一緒の部屋になった旅行者たちがやたらにカメラを持って歩いているとあらぬ嫌疑をかけられるから注意した方がよいとアドヴァイスしあっていた。

いわゆる観光名所旧跡ではまったく不愉快なことなどなかったが、路上で一般の歩行者に行き先を尋ねた時、私がカメラをぶら下げ、地図を片手に持っていたからか、通行人が何人かで周りを取り囲みながら、韓国語でしきりに何かを言われ、ジェスチャーで耳のところへ電話機を当てて、これから連絡を取るから、といったようなことを言われて、しばらく動けなくなったことがあった。

私は急いでいた訳でもないので、そこに囲まれたまま立ち止まっていたが、1分くらい?すると囲んでいた中の人が英語で「観光ですか?」と尋ねた。「もちろん、そうだ」と答えると、人の輪は崩れ、行き先の方向を指しながら路の行き方を地図をとって教えてくれた。カメラと地図の組合せはやっぱりソウルでは緊張の種であった。そんな時代であった。

 23年後のいまは産業分野によっては日本以上に競争力もあり、国家として経済力も格段に強くなっているから、「北の脅威」などはほとんど亡霊のようなものなのではないかと思うが、どうだろうか?

 ソウルでは主だった名所旧跡をひととおりざっと自分の足で歩いてみた。私は慶福宮のいくつかのポイントの景色がとても気に入った。特に北岳山を背景にした境内が好きになった。勤政殿と呼ばれる政事に関わる儀式が行われた石の敷き詰められた場所や建春門、そして特に香遠亭庭園が気に入った。
   
 

 これはいつか小説の舞台に使いたいと思っていたが、それが後年戯作「カルメンと白磁壺」の一舞台として描写されている。

 

 (4)

 ソウルでは街中を行き交う人々はその当時で1970年代初の東京といったファッションであった。建物も「現代」(ヒュンダイ)のような大型ビルはまだそう多くはなかったし、明洞(ミョンドン)なども言われているほどには高級ブティック・オン・パレードという感じではなかった。若い人々もなぜか男はあまりおらず、買い物客は冷やかしも含め女性同士でそこへ来ていたというイメージしか残っていない。

 街の活気という点ではこれはやはり東大門市場がにぎやかであった。私は2泊目からはこの近くのイースタン・ホテルへと宿替えした。こちらは一応ホテルだけあって、個室の設備はYMCAとは段違いであった。市内は地下鉄が実に分り易く走っていたので、市内はまったく問題なく歩き回れた。

 郊外には地下鉄2号線(グリーン・ライン)で梨花女子大キャンパスへ行ってみた。上流階級の才媛が集まる名門女子大学として高名な大学である。自分自身への絵葉書を読み返してみると「梨大はチャペル風のビルディングがすばらしい。丘の上を越えて裏の谷へ抜け、しばし左手に沿って歩いたところ延世大学正門に着く」と記してある。にもかかわらず記憶としてはその光景が浮かんでこない。延世大学では英語を話せる学生に出会えないことが記されている。写真はそれぞれの大学メイン・ビルディングの前でとった写真だけが残っている。

 このようにソウルはこじんまりした街であるから一日あれば、ざっとは周れた。

 

 (5)

 27日からはバスで慶州へ行ってみることにした。韓国の道路は車は右側で日本と反対である。漢江を南に渡ったところにあるソウル高速バスターミナルから慶州までは上り下りが別々の3車線分くらい太い片側一方通行の国道もあった。バス代は5,090ウォン約4時間30分と記録されている。
            

 慶州はよく奈良にたとえられるがなるほど落ち着いた静かなたたづまいの街だった。観光都市としてアピールしようという国策があったのか、新しい建物は朱と緑や青等の鮮やかな色を一様に塗りたてた新羅方式の切妻式屋根を乗せたものが目立った。街の中には古墳群公園、慶州博物館、東洋最古の天文台、曲水の宴の跡などが主な観光名所であった。

 宿泊は慶州のユースホステルをつかった。部屋は100畳くらいの大きな部屋に宿泊客はわたしを含めて2名しかおらず、悠々と寝ることができた。一泊5,000ウォンであった。

              

 慶州でのメインはやはり仏国寺と石窟仏である。石窟仏坐像へは坂道を登らなければならなかったが、私にはまったく負担になる道のりではなかった。ただ、妻が一緒に来たとしたらこの坂道を登ってゆくのは難儀になるなぁと思いながら、その昔、伊豆で坂道と階段をおぶって上がったことを思い出していた。なんとなく、妻の姿はこの地にあっているような気がした。彼女はもちろん日本人であったのだが……。

 そんな想い出があったので、「カルメンと白磁壺」のヒロインのひとりをそんな姿に重ねてみたというわけだ。

<了>


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