南イタリア(シチリア)の旅 

魁三鉄(永橋続男)

1995年12月23日〜1996年1月4日 

 

(1)   

1995年夏にはフィレンツェを中心にいわゆる北イタリアを回ったが、その年の冬、今度はローマ以南、シチリア島そしてティレニア海に面する南イタリア、バーリ、アルベロベッロを前半訪ねた。後半はラベンナを中心としたビザンチン美術の痕を辿った。

 ホームページ内、他の紀行文中の写真と同様、それらはすべてプリント印刷してアルバムの中に挟まれているものを取り出し、手持ちの初心者用デジカメでホームページ用に撮り直したものである。したがって、映像的にははっきりしないものもあり、みにくいかもしれないが、ご寛恕願いたい。

 

 さて、そのときの備忘録を見ると、こんなことが書いてあった。

 「……(前略)……例によって一人旅なので途中で計画はいかようにも変更しうるものであった。シチリアは恐ろしいが、美しいところだ、といううわさが一人歩きしているようだが、冬のイタリアはいかに?」

 

 (2)

 イタリアへ最短時間と距離で行けるのは大韓航空ということで、そこに勤める昔の職場仲間のS.H氏にティケットを頼んでおいたら、Economyのなかでも一番楽な席を取っておいてくれた。例の「ご対面」席である。美人のCAと話ができるということもさることながら、体が自由に動かし、伸ばせるのが何よりもありがたい席なのだ。いまは、この間(2009年春)経験したが、その席に座る時は非常時にCAを補助するということを了解することを条件に、その席をくれるということだ。(中華航空の場合だけかもしれないが)

 ソウル経由でトランジット待ち時間はあるものの、ローマまでモンゴル上空を飛ぶので最短距離、時間で飛べるということだった。それでも13時間近くかかったが……。南イタリア(シチリア島そして本土南部の旅の軌跡)の旅は下の写真の通り。

 ローマ空港からテルミニ駅に着くと、そのままパレルモ行きの夜行列車へ乗った。列車はちょうどクリスマスで故郷へ帰省する乗客でごった返していた。列車は満員、pre-notativo(予約)もいれてないので、下手をするとその列車には乗れないかもしれないと焦った。

列車はホームにいるのだが、車内のランプが点灯されておらず、列車の中は真っ暗なままなのだ。人声ばかりが騒々しく聞こえてくることで人が乗っていることが分る。列車はシチリアのパレルモまで行く車両と同じシチリア島のシラクサまで行く車両に別れている。

パレルモ行きはもう乗れない。シラクサ行きの車両に乗って、途中で車両替をすることにした。途中、フェリーに乗る時点で替えようという作戦にしたわけだ。

 シラクサ行きも混んではいたが、眼を凝らしながら通路を進んで行くと、6人乗りのコンパートメントの中に一席空いているところを見つけた。無骨そうな身なりのあまりよくはない男たちが既に席を占めている。

しかし、そのなかの一人が手招きしてくれた。ちょっと躊躇したが、他を探しに行って戻ってきた時にはもうその席もないだろうと判断して、思い切ってその席に座った。座って荷物を棚に入れて落ち着いた時、やにわにコーラのような黒い液体を入れたカップをすすめられて、どうぞ!と差し出された。

私はすぐ、睡眠薬入りスリとか窃盗のことが頭をかすめたので、ちょっと警戒しながらNo,Thank you! と断った。暗いことが幸いであったのか分らないが、こちらが警戒心のあまりに断ったとは表情を読まれないですんだようだ。一瞬緊張で汗もかいたし、満員列車の中をずっと席探しをしながら歩いていたので、体中に汗をかき、その席に落ち着いたときは汗タラタラ、喉カラカラだったのだが……。

 座席を得たことでホッとした。ずっと立ちっぱなし、あるいは通路に座り込んでパレルモまで行くことを思えば、男6人で窮屈でもはるかに楽であった。10:00頃発の汽車だったと思うが正確な記録がない。イタリア半島のサン・ジョバンニ駅には早朝4:00頃の到着とある。そこで列車は行き先別に切り離されて、フェリーへ汽車ごと乗るようになっているのである。昔、青函連絡船がそうであった。

          

 ある程度熟睡してしまい、ゴトゴトガサガサした雰囲気に目が覚めたら、もう列車はサン・ジョバンニに着いている。急いで車両を乗り換えに行ったら、良い塩梅にパレルモ行きの乗客はだいぶ減っており、すぐに座席を見つけることができた。

 フェリーは船底から2階分を列車に、そして3階を自動車用にわけ、乗客は列車の中にいても良いし、デッキから上の船の客室にいても良いというつくりである。

 甲板に出てみると対岸遠くにオレンジ色の光が連なっている、シチリア島のメッシーナの街明かりだ。見えているくらいだから距離も知れている。気温も真冬の海上だというのにそんなには寒くない。10度はあったと思う。

6時頃にはメシーナ駅に着いた。短くなったパレルモ行きのコンパートメントにはどの個室も2,3人だ。列車がはしりだして間もなくすると空が白み始めた。私のコンパートメントには男女の二人組み。話をする仲になってから知ったことだが、国連で働いており、男はフランス人だが、クロアチア、ザグレブで市民生活の再建復興担当、ガールフレンドのマウロはパレルモ近くのトラパーニ出身でこれから彼女の家に行くのだという。

もし、パレルモで困ったことがあったら、連絡しなさい、と連絡先をもらった。車中などで知り合った時のこういう情報は何で役立つか分らず、すごくあり難いものだ。彼らは私が日本人であると分ってより親切であった。

UNTACの明石前代表、緒方貞子氏が彼らの上司であると言っていた。パレルモで無事宿が見つかった後、クリスマスの挨拶だ、とマウロに教えてもらった電話番号に挨拶の電話をかけたらとても喜んでくれた。

 そとがすっかり明るくなる中を列車は快調に走り抜けて行く。岩肌がむき出しの山が線路に迫ってきたり、海が青く美しい。やがて9時頃になると海の見える沿岸に赤い屋根に白壁のリゾート的な建物が目に付き始める。オレンジや杉などの木々も鮮やかだ。小高い山の向こうがパレルモだというころには太陽はかなり強い光を放っていた。

 

 (2)

 パレルモ駅に着いた。駅で食事を済ませてから、宿探しだ。初めての訪問地を訪れ、寝場所を確保するには昼間に到着することが大切だ。日が落ちてからだとみえるもの、見るべきところが見えなくなったり、見過ごしやすいからだ。

 パレルモ駅周辺をざっと地図を参考にしながら歩いてみた。駅の前にはローマ通りとマケーダ通りという主要路がある。このうちマケーダ街は昔からのパレルモの街で、建物もスペイン・バロック風の建物で、汚く、暗い感じがして、かえってマフィア街という趣を感じ、シチリアに事前にいだいていたイメージにあっている。が、ちょっと不気味だ。アルベルゴ、ペンジオン、ホテルといった宿泊所を表す建物もたくさんある。 

写真の材料としては良いが、敬遠してローマ路を歩いてみた。やく2kmほど歩き続けるとこざっぱりしたホテルがあった。部屋を見てこざっぱりしてそれなりだったので、また値段交渉も思ったとおりに行った(約4,000円)ので3日間お世話になることを決めた。

 宿が決まったのでさっそく街を見学に出かけた。ピアッツァ・プレトーリアという広場付近にはマルトラーナ教会、そしてクアトロ・カント(十字路)にはカテドラーレがあった。シチリアの歴史は複雑で、被征服の歴史だという。

近代イタリアに併合されるまではギリシャ、カルタゴ、ローマ、アラブ、十字軍、ドイツ、フランス、スペインの支配を受けてきた地域であるという。マフィア組織はそうした移り変わる支配者たちに対抗する地元の人間たちが秘密裏の連絡網をもとに作り上げてきた裏組織であるということだ。

 そんな歴史的背景をそのまま映し出しているのが建物の姿だ。カテドラーレはもともとは12世紀にノルマン様式(ビザンチン+サラセン)で建てられたのだが、その後立て替えられたということだ。街には東方的なビザンチン様式の建物も目立つ。教会の中はビザンチン世界がそのもののモザイク画が独特の様式に沿って描かれている。イエスの姿、聖母子の姿、みな同じ様式だ。

 サラセンの影響下にあったPORTA NUOVAの門の上にはサラセン風のアーチ柱が見えた。エレミティ教会というのはアラブ様式の混じった建物である。

PORTANUOVA         クアトロ・カントのカテドラル

市内見学はまたゆっくりとすることとして、その日は翌日からの旅に備えて、早く休んだ。

 

 (3)

 前日24日はクリスマス・イヴ、今日はクリスマスということで町中が賑やかになるのではないかと思っていたが、さにあらず、街は静かなものであった。大都市以外は本来のイヴを教会などで静かにすごしたあと、家庭の団欒の時としていたようである。一人旅の寂しさを感じた。特別な日となったのは、鉄道やバスなどの公共交通が特別ダイヤとなってしまい、運行ダイヤが極端に少なくなってしまったことである。

 翌朝、古代ギリシャ文明の影響下にあったアグリジェントへ行くことにしたが、列車がダイヤどおりに来ない。駅の掲示にはその旨らしきことが貼りだされていた。パレルモ駅からの発着時刻表はかなりたくさんの列車が走っているように見えるのだが、路線ごとに見ると一日に2,3本しか走っていないところが多い。

アグリジェントへは島の中心にある山岳地帯を越えて行かねばならない。山はそんなに高くはないが、岩肌がむきだしているせいか、難儀の坂道を列車が喘ぎながら登ってゆくというようなイメージとなる。岩肌には木など一本もないような感じがして、荒くれた感じが一層強い。

男性的だ。山合いを走るにつれ、頭の中には「ゴッドファーザー」のテーマ曲が流れ出す。映画の画面を思い出しながら、シチリアへアルパチーノが行き滞在していたコルネオーレ村はこのあたりでロケを行ったのだろうか?などとちょっとロマンチックな気分になる。

写真 車窓からのシチリア風景     

イタリア国鉄はいい加減な運行で評判はよろしくないのだが、私が経験した限りでは若干の遅れなどはあるもののほとんど問題なく走っている。鉄道ファンにはいろいろな味のある鉄道であるような気がする。

 アグリジェントへは1時間くらいの旅である。アグリジェントの駅はおもしろい駅舎のつくりで、列車は丘・崖の下にホームがあり、いわゆる待合室や駅務室は丘(崖)の上にある。乗客は3階建てくらいの高さの分のエレヴェータを使ってその間を行かねばならない。

町全体が丘とか崖の起伏からなり、そんな建物になっていることが後でわかった。駅からはバスで神殿遺跡へ行くバスに乗り込んだ。観光客らしき人は誰もいない。イタリア語はしゃべれないし、全然分らない。心細い。
TABAKKIと書いてある出店のようなところで切符を買う。90分以内なら使い放題、乗り放題となっている。

乗る時に
神殿の谷」に着いたら教えてくれとガイドブックを示しながら頼んでおく。その昔、イグアスの滝に行った時ひどいメにあって以来、事前に地図を示す癖がついた。

 合図で降りたバスの停車場は広場になっているが、自家用車が10台くらい止まっているだけで、客はいない。遠くに今来たアグリジェントの町が丘に連なって見える。しばらく坂道を歩くと真冬にもかかわらず、汗がにじみ出てくる。歩いていると歴史の教科書などで見たことのある柱石があちこちに見えてくる。ドーリア式柱石の遺跡だ。完全な姿で残っているもの、崩れたもの、いろいろとある。遠くに目指すコンコルディア神殿というほぼ完璧な姿で残っている神殿が見えた。

写真 コンコルディア神殿を臨む  

 建物はギリシャ様式だが、途中ローマ帝国の煉瓦造りの建物の遺跡もあちこちに残っている。神殿につく頃には汗が額ににじんでいた。無理もない。神殿の裏側から見える蒼い海の向こうはアフリカだ。カルタゴやらチュニジアあたりになるのか、対岸は……、と思って眼を凝らすが水平線以外は何も見えない。あたりまえだ!!

 神殿はこのほかにもヘラクレス神殿とかジュピター神殿とか名付けられたものが残っていたが、いづれもほとんど原型を止めていないレベルだ。2500年くらい時を経ているのだから、無理もない。そういうことからするとコンコルディアがそのまま残っているのは奇蹟だ。

 アグリジェントではパレルモに帰れる汽車の時間に合わせて動いた。パレルモに戻ってからはまたパレルモ市内見学に出掛けた。

 パレルモの市内を歩いていると路上脇にきれいなイタリアン・カラーとでもいうべき緑色、そして赤と白色まで使われている帽子のような形のものが置かれている。かなり大きい。ゴミ箱だ。この帽子型は可燃ごみ、四角い箱型は不燃物ゴミ用である。なかなかおしゃれなデザインでとてもゴミ箱とは思えなかった。

 ゴミ箱                  「死の凱旋」

 パレルモにはヨーロッパではかなり知られている美術館がある。その美術館のロビーの壁に「死の凱旋」と題されたピカソのゲルニカを思わせるようなちょっと不気味な絵がある。作者は不詳だが、その構成力、象徴性の表現などには相当の力量を感じる。美術館のなかにはほかにも魅力のある作品があったが、私の気を惹いたのは、やはり「聖母子」画だった。

有元利夫の作品がいつも頭にこびりっついていたからである。この聖母子画は「ウラジミールの聖母子」を思わせる模写のような製作者の主観を抑えたすばらしい作品であった。

 

 (5)

 パレルモはバス路線が発達しており、バスをうまく使うと機動力がまったく異なってくる。独立広場から地方へ出るバスを使って郊外のモンレアーレの教会を訪ねてみた。教会の内部へは午後4時からでないと入れないということであったので、付近を散策しながら中へ入れるのをまった。

 この教会のある丘からはパレルモの街がよく見える。丘の中腹には高級住宅がところどころに建ち、遠くには赤屋根の建物郡が海まで続いている。なかなかの絶景だ。

         

バスの乗車券                          バスの時刻表                    パレルモの街並みを眼下に

 教会はビザンチンとサラセン様式の融合からなるいわゆるノルマン方式ということである。中は荘厳であり、ゴージャスである。金色が多いのがビザンチン絵画の特長であるが、黄金というよりは銅色のすこし赤みがかった金色だ。ローズ・ゴールドとでも言うのだろうか。大きな主イエス・キリストの姿があり、また聖母子像が描かれている。

ビザンチンの場合、外伝として聖人化されている聖母マリアの姿のウエイトが大きい。東方的な母性的な姿の顕現である。それらはホディギトリア様式という母子の位置関係を示している。

 教会内部には旧約聖書の「イエスの射エルサレムへの凱旋」「ペテロとパウロの再会」「ペテロの事蹟」などのモザイク画が色鮮やかに描かれていた。

  主イエスキリストや聖母子像  ペテロとパウロの再会 

 

 パレルモの街ではおもしろいものを食べてみた。赤く熟したサボテンの実である。野生のサボテンがいろんなところに生えている。そして市場で売っていた。話の種にと、それらを2,3個買ったときのことである。市場の親父さんはそれを素手でひょいと掴んだ。わたしはそれを右の掌で軽く受け取った。

「アッ」もう遅い。「イタタ!思わず手を引いてしまった。実は道路に落ちている。掌を見ると毛虫の毛のような細かい棘がたくさん刺さっている。深くではないが、痛みを感じる深さまでは確実に刺さっている。しばらく、その場で左手を使って棘を一本一本抜いていた。十本くらい抜いたと思う。ようやく左手の掌で右の掌をさすって、なで、痛みがないことを確認した時、親父さんを見たら、黙りこくって新聞紙にくるんだそれらを手渡した。

その間、口を開かなかったので、私も黙って無愛想に受け取った。なんだか、コウサ・ノストラ(掟)とかいう語が浮かんで口をきいてはいけないような気がしたからだ。

 ホテルに帰り、棘が刺さった話をしたら、女主人が笑いながら、「自分が剥いて食べられるようにしてあげるから」というのでそのまま新聞紙を渡した。ボタンキョのような感じで、みずみずしかったが、味はあまり覚えていない。すごくおいしかったというような記憶もなく、青臭かったような気がする。

 

 (6)

 27日午前中にパラティーナ礼拝堂を見学した後、パレルモからシラクサ行きの列車に乗った。なだらかな古墳のような丘陵地帯を走りぬけながら地中海沿いのシラクサへ向かった。シラクサはアルキメデス出身の地で名高いが、富士山に似たエトナ火山の雄姿を見たいと思ったからだ。

しかし、この日は雲が多く、火山の裾野しか車窓からは見ることができなかった。列車の終着駅シラクサではローマ方面へ行く列車があったが、夜行列車でホテル代を浮かすつもりで切符を買ってしまっていたので、あえて20:45発のその列車の出発まで待つことにした。

 シラクサ駅にて

 どこの国においても、地方にある列車の駅は郷愁感と意気込みが複雑に絡み合い交錯する舞台である。これからローマとかミラノで一旗あげようという意気込みで故郷を後にする青年男女が、抱き合いながら家族や親友たちの暖かい送別を受け、その瞬間、その暖かさに思わず心がたたずみ、別離の辛さ、悲しさに襲われるのと同時に、いっときそれらの絆を断つこととなっても、きっとこころざしを通して故郷に凱旋してみせる、という誓いのような激しい気持ちが交じり合う場所なのである。

 シラクサ駅でもゆっくりとその歩みを増し始める列車の窓を走りながら追いかけ、叫び声をだす若者の、また窓にしがみつきながら、家族や友人に手を振る青年男女の姿が何組も見られた。

 私はそういう光景を見ると、自分が送られる人のような気持ちにすぐになってしまうタチであり、涙っぽくなってしまう。何度でも……。「別れ」が嫌いなのだ。友達の転校、卒業式、愛する妻の死、父の死、愛犬の死、親友の死、……なぜか「別れ」は地方駅の見送りと見送られる姿と重なってくる。

 

 この後、旅はイタリア本土へ戻り、ポンペイ、さらに本土の南へと続くことになる。

<了> 

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