イタリア紀行 ナポリ・南イタリア(アルベロベッロほか) 

魁三鉄(永橋続男)

1995年12月28日〜1986年1月4日

 

(1)

 シラクサからの夜行列車でナポリへ向かった。ベスビアス火山で廃墟となったポンペイの見学のためである。

 当初はナポリ・セントラル駅についた後、宿探しに入り、周辺のホテルをあたったが、値段、ロケーション、設備で折り合うような良いホテルがない。全体街の治安もよくないし、高い。マルジョリーナ駅まで行って探してみたが、こちらも大同小異、良いホテルはない。

そこで思い切ってポンペイへ行ってしまうことにした。ポンペイは、ごく一部が残っているだけの、たいして広くない遺跡なのだろうと思っていたが、実際に行ってビックリ。一つの古代都市全体が埋もれていた跡なのだ。

スカヴィ・サルノ門という入り口から入ると正面には当時の円形スタジアムが見える。高さは7,8mの高さからなるローマ式アーチ型の壁面で全体が覆われ、要するに丸ごと競技場の体をなしている。これがまるごと火山灰の下に埋もれ、さらにその上に堆積した土の上にブドウ畑があったというのだから驚いて、にわかには信じられない。

ポンペイへの入場口       円形スタジアム遺跡 

 天気は一日目は朝のうちは時折雨が落ちていたが、全体曇りであったが、2日目はすっかり雨も上がり、きれいな空の中にベスビオ火山も見えていた。

街の中に入り込むと、いよいよ自分は古代ローマ時代へとタイム・スリップした気分になる。この古代都市は煉瓦や石造りの建物、壁などであったから火山灰の中にそのまま燃えずに埋もれ残ったのだろう。当時の家の中の料理場、かまどなどの跡もそれとはっきり分る。金持ちの家の壁にはフレスコ画が描かれている。家の構造がはっきりと分るだけに約2000年前の状態だとはとても思えない。屋根は多くの場合、さすがに堆積物の重みで破壊されたものが多い。第二次大戦時に空襲を受け破壊されたドイツや日本の都市のような感じさえする。

 当時の街の様子     2日目は晴天 

 建物はそのまま保護もなく、のざらしにされた状態であるが、さすがに保護されている遺物もある。それは遺体だ。石膏ボードで作られたように灰白色となった遺体がその時のままの姿で残っている。人体はほとんど現代人と同じ姿であるからまさに戦争写真などにあるような悲劇的な姿である。空に向かって苦悶の表情を浮かべているもの、家族一団がまとまってうつ伏せになって横たわっている様子など、演劇の舞台ではないか、とさえ思えてくる、非日常的な光景である。

悲劇の人々T     U 

ポンペイ遺跡見学には2日間を費やした。2日目はすっかり好天となり、景色もすばらしかった。

 好天のポンペイ 遠くベスビオ火山を見る

 町全体の造り等も説明されており、当時の都市というものがどのような姿で作られていたかもわかるようになっている。

 建物の室内に入ると絵画のある壁や天井があるが、そこにはおもしろい図もある。ガイドブックなどにも必ず載っている「リパナーレ」という当時の売春部屋施設があり、ローマ人の生態がよくわかる。

売春部屋はかなり狭く、いくつものしきりの中で何組かの男女がそこでセックスを楽しんでいたらしい。部屋は薄暗く、部屋の天井壁に描かれた絵柄は肉眼ではよく見えなかったのだが、フラッシュ撮影によってかなり鮮明な画像が得られた。これは帰国後の写真現像を見て初めてわかったものであった。

娼婦の館内壁画            貴族の館内の壁画

 でもどうして、男女の性行為をする場所で性行為を絵として残したのだろう。その気にさせる刺激として?それとも体位のお手本として?現場で絵がはっきり識別できれば、誰かに質問していたであろう疑問である。

 ヴェッティ家という金持ちの家には美しい壁画が何箇所かに描かれていた。家庭の中に祭壇や神殿を造ってある家もあった。

 ポンペイについてはイタリア古代史研究でもするのでない限りは、ガイドブックの案内でほぼすべてがわかる様になっている。

 

 (2)

 まる2日間のポンペイ見学を終えた後は29日朝、ベスビオ鉄道でナポリへ戻り、本土の南イタリア、アルベロベッロへ行ってみることにした。そこは御伽噺の小人の国にでも出てくるような変った家並みのある街である。

 ナポリ地下駅(ガリバリディ駅)を出た列車はイタリア半島中央の山間部を抜けて、横切りアドリア海側へと向かってはしる。景色はだんだん畑が多くなり、ところどころには荒地も続くことになる。イタリアでは一番貧しい地域である。土地は痩せており、工業はない。イタリアのチベットという言い方をされることもある地域である。

アドリア海側に面した唯一の工業都市バーリで宿を探すことにした。それくらいの都市でなければ、宿などはまったくなさそうな感じがしたからである。さらに、もちろん、観光都市のアルベロベッロにはホテルはあるのだが、観光客目当ての宿泊施設は高いに決まっているという算段からである。

バーリは港町で海の向こうはユーゴスラビアであった。ボスニア、ヘルツェゴビナの紛争時には海を渡る難民がこのイタリアの港を目指すということで国際問題となったところである。バーリにはめぼしい観光名所もなく、城址とサン・ニコラ教会という小さなロマネスク様式の教会くらいが私の関心を惹いた程度であった。

ナポリ駅(地下駅)             アドリア海に面したバーリ

バーリからアルベロベッロまでは汽車で約1時間。沿線のところどころにとんがり屋根の家(トルゥリ)が車窓から見えた。そうした家々は観光用ではなく建っているものであった。

    

 アルベロベッロは町全体がとんがり屋根の家を観光用に売り物にしているらしく、白い家並みと黒いとんがり屋根の家がコントラストをなすように群集しているところであった。

 ただ、トルゥリを観光用にしているため、すべてが「ウソ」っぽい感じがする街であまり好きになれなかった。またそれしかない街であった。

<了>  

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