イタリア・南西フランス旅行

魁三鉄(永橋続男)

1995年8月5日〜8月19日 

 

 この旅はローマ、フィレンツェ、ピサ、ベニス、ミラノというイタリアの観光中心地と南仏からカルカソンヌ、トゥールーズ、ボルドー、そしてポアティエ、ショビーニー、サン・サヴァン、を巡るフランスのローカルな地域を訪ねた旅であった。

 主にロマネスク様式建築というものがどのようなものかをこの眼でみたかったという動機によって組み立てられた旅であった。

 







(1)

 初めて大韓航空を使ってヨーロッパへ飛んだ。成田では一日の始まりを告げる一番機の飛ぶ時間が大韓航空のソウル行き#705便である。

 9:40離陸、機材は最新鋭のボーイング747−400、何の不安もない。座席は一番後ろだったが、隣があいており楽。

 ソウルで2時間ほどのトランジットの後、#915便でローマへ直行。このとき初めて大韓航空機が最短ルートで飛ぶことを知った。以後、イタリアへは大韓航空機が一番ということになった。

 時々窓から下を覗くと茶色と緑の大地が見えるがどこを飛んでいるかはわからない。ローマ・ダヴィンチ空港には現地時間18:00頃溶着。入国審査は甘いからすぐに終わって、空港駅からテルミニ行きの電車へ。空港ではイカサマ・タクシシーが不慣れな客を狙ってしつこく客を誘うがもちろん無視。法外な金を巻き上げられる。特に夜は。
アルバムの該当ページ    ダ・ヴィンチ空港駅


 イタリアは鉄道ファンにとっては列車の種類が多く、魅力ある国だろう。色といい、かたちといい、多様・多彩だ。私は今回ユーレイルパス保持だ。これでヨーロッパはほぼすべてカバーできる。極論すれば、コンパートメントをホテル代わりに汽車へ乗り続けて、モスクワからスペイン、ギリシャまで乗り回して終えることもできる。体はめちゃくちゃ辛いだろうが……。若い学生ならば可能だ。特に夏は。

 

 ローマ・テルミニ(終着駅)へ着くとお待ちカネ?のポン引き、ホテルの客引きの行列である。無視してすたすたと駅の外へ出る。静かなところまで歩いてからいよいよホテル探しだ。適当にホテル街を歩いて交渉した末にOKとしたのが、ホテル、アドヴェンチャー。7万リラ(約4,200円)と記録されている。3500円くらいのところもあったが、広さ雰囲気で決めた。設備はバスタブ、トイレ、TVつきだからOK.。シャワーだけはやはりきつい。お湯の出もよくはないが、我慢する。前年のホテルは設備はだめだった。女主人のおばあちゃんは親切だったが……。

 翌日さっそくフィレンツェへ向かった。テルミニ駅は国際列車の発着駅だからすごい賑わいだ。大型のバゲッジを曳く客の姿ばかりだ。
             
 EurailPassは最初に駅の印スタンプを入れてもらえば、あとは期間内自由に乗り降りできる万能ティケットだ。フィレンツェ行きの急行の1等車へ乗るが乗客無し。車掌が自分の出勤用に1等車を使っているというお国柄だ。赤札(予約席)の着いている席以外ならどこでも座れる。

 列車へ乗るときはプラットホームは低いので、重い荷物を胸の高さまで持ち上げないといけない。老人にはちょっと辛い。

 車窓からの眺めはローマをすこし離れるともう田畑だ。赤茶色の土地にはなにも生えていない。オリーブの樹木が群生しながら濃い緑の世界を作っている。トスカーナ地方に近づくにつれ小高いなだらかな起伏のある地帯となる。赤屋根に白壁の石造りの家のつらなりではないが、結構家々がある。和辻哲郎が旅した頃というのは家も点在という様子だったのだろう。なんとなく日本の千葉とか静岡辺りの多少起伏のある地帯を走っているという感じだ。

 

(2)

ローマ、フィレンツェ間は時速150kmではしる急行列車で約2時間だ。到着後すぐに始めたのは宿探し、フィレンツェには無数に泊まるところはあるから宿に困ることはない。5,6軒現物を覗いた後、決めたのはNizzaという安宿、5泊することを条件に1泊45,000リラ(約2,700円)で交渉妥結。Duomoから300m、駅から500m、中心街という好立地でこの値段である。

宿が落ち着いたところで、街へ出る。すべてが歴史を刻んだ街だ。Duomoへ行き、ジョットの鐘楼へ上がる。360度、街のすべてが見下ろせるランドマークだ。赤屋根に石壁の家、家、家。建物はどこも3階建てまでの高さだ。中世以来この景色は変らなかったのだろう。

鐘楼は約100mの高さがあり、鐘楼の中の展望台には大きな吊鐘が置かれていた。「天国の扉」にも寄ってみた。これはレプリカだそうだが。
Duomoからシニョーリア広場まで歩くとヴェッキオ宮殿入り口にはミケランジェロのダヴィデの像のレプリカが立っている。サボナローラが火あぶりになったところには円形の碑が刻まれている。ウフィッツィ美術館もすぐ傍だが、その日は入らなかった。
          

アルノ河にも出てみた。橋というよりは建物という感じのヴェッキオ橋。河には小魚も結構たくさん泳いでいる。

河に沿って歩いた後ジョットの「聖フランチェスカ伝」壁画のあるサンタ・クローチェ教会がある。中には入ると歴史上の有名人の墓がたくさんある。マキャベリ、ミケランジェロ、ダヴィンチ、そしてガリレオ・ガリレイなどイタリアが世界に誇る天才たちの石造りの石棺墳墓だ。いづれも傍に彫刻が施され、豪華な感じだ。教会内部には立派な中庭があり、回廊が美しい。

さらにアルノ河をわたり、ミケランジェロ広場へ行くと対岸のフィレンツェの街が絵葉書そのものに見える。下段の赤と緑の花と葉の花壇が見事だ。遠くには小高い丘が見える。フィエゾレの丘であろうか?  
   
                      

こうして 街は全体輪郭として掴んだ。小さな街であるからどこでも歩いて行ける。地下鉄などはない。だが、街は小さくても見るものは無数にあり、何年かけても見飽きない世界である。つまり、歴史の街であり、人類の宝の蔵の街なのである。建物の中は後日改めて鑑賞日を定めたというわけだ。

 

翌8月の7日は月曜日ということでフィレンツェの主な観光地はみなクローズであった。そこで郊外の旧市街を訪れることにした。まず、Arrezoである。有元利夫の原型をなしていたピエロ・デルラ・フランチェスカの「聖十字架伝説」の連作のあるアレッツォの聖フランチェスカ教会である。列車で約40分。教会の中はいま修復中であり、「聖十字架伝説」のフレスコ画は一部白いカーテンが掛けれれており、見えなかったが、いくつかの作品は薄暗い中にその姿を見せていた。

フレスコ画は色彩が独特の深みを備えている。けして広いとはいえない内部の3面壁に壁いちめんに描かれていた。中はフラッシュ撮影
OKであったのが意外。普通は作品保護のためにだめなのだが。それでもフラッシュが完全には届かないので、写真としては不完全だ。

        
ピエロ・デルッラ・フランチェスカによる一連の「聖十字架伝説」壁画

アレッツォにはもう一つ立派な教会があり、ミサを受ける人々でごった返していた。古代ローマ式の教会、サンタ・マリア・ディラ・ピェーヴェ教会である。街の建物のあちこちにアーチ型の柱に支えられた壁があり、いかにも中世ローマ的である。

アレッツォの次はプラトを訪れた。古い町にはいろいろなフレスコ画や下絵のシノピアがあるだろうという期待である。プラトはリッピの生まれた街であり、聖ドメニコ教会へ行った。街角には聖母子の絵があった。
            

 さらにPisaへも足を延ばした。ピサの斜塔を見るためである。斜塔は相変わらず立ち入り禁止となっており、いつ倒れてもおかしくないということらしかったが、今ではまた上れるようになっていると聞いている。倒壊を防ぐ支えがつけられたというとであるがちょっと興ざめである。観光客は多かった。

 

翌8日、フィレンツェの美術館を巡った。最初にラファエロ作品の収蔵で有名なピッティ宮殿内のパラティーナ絵画館へ行った。ラファエロは好き嫌いのはっきりしたファンが多いが、私はどうもいただけない口だ。ちょっと甘すぎるのだ。宮殿の庭園はすばらしかった。

この日はまた世界中からの観光客が集まっていた。シニョーリア広場などは、人々の色とりどりの服装、そして世界中からの人種の集まりと、それ自身が絵になっている広場だ。メディチ家の宮殿は積み上げられた石が実に見事だ。アーチ門に積まれたアーチ型の様式は古代ローマ人の知恵をそのまま中世に引き継いだものである。

        
自分へ記録として送った絵葉書           メディチ家宮殿                      サン・マルコ寺院 

サン・マルコ美術館にはフラ・アンジェリコの「受胎告知」がある。これは必見だ。写真は撮れないが、階段を上がった真正面にある。感激のご対面という人は多い。サボナローラの部屋というのもあった。隣のアカデミア博物館にはミケランジェロの実作の「ダヴィデの像」があり、これはすごい人気であった。やはり、男の裸体として美しい。彫刻像だから毛がない分、すっきりと美しい肌となって見える。

フィレンツェには皮革工芸品がお土産用に売られているし、市場にも品物がたくさんある。衣料品、生活必需品、日用品のあるマーケットへ行ってみた。

この日、夕方、目指す有元作品の原像と位置づけているシノピアの存在すると思われるフィエゾレのドメニコ教会へ行ってみることにした。しかし、ドメニコ教会の場所がわからない。そこでともかくバスに乗ってフィエゾレの丘の頂上にある聖サンフランチェスコ教会へまずいってみることにした。丘の上からの景色は絶景であった。裏手には古代ローマ遺跡の野外劇場の建物があった。

         

しかし、この日は見たいと目指してた下絵のある聖ドメニコ教会は見つからず、がっくりしていた。このときの様子は私のもう一つ別のホーム・ページ「有元利夫をめぐる断章」(http://www.geocities.jp/potapota105/index.html )に叙述してある。

夏のイタリアは陽の落ちるのが極めて遅い。夜9:00になっても日中のような明るさである。街にはテラスで食事をする観光客に溢れていた。

 

8月9日、ジョットを見るためにパドヴァのスクロヴェニ礼拝堂へと向かった。パドヴァ駅からまっすぐ歩き橋を渡った先に礼拝堂はある。その礼拝堂の中には母マリア伝説(外典)にまつわる絵解きが天井及び壁に描かれている。礼拝堂の管理は厳格であり、1グループ15人までのグループツアーであり、約20分でツアーを終えるようになっている。中は光の使用が限定されており、ガイドが指し照らす以外には電灯は使えない。

建物は煉瓦造りの切妻屋根式の瀟洒なたたずまいの礼拝堂である。中は真っ暗でガイドの灯りがない限り何も見えない。紺碧のジョットのブルーがライトに照らし出され、青を背景に金色の装飾が星のように輝いていた。











パドヴァからはベネチアに入った。急行列車で1時間かからない距離である。ベネチア駅は駅のまん前からいわゆる運河になっており、水上タクシーや遊覧船が出る。SNCFサンタルチア駅というのが正式のベネチア駅の名前だ。ベネチアの運河は緑色をしているが水深は浅くせいぜい1〜2mくらい、透明度はほとんどない。魚の姿も見えない。
            

遊覧船にのらずに、陸地伝いにサン・マルコ広場まで歩いても行けるらしい。約1時間のところだという。それでも水の都ベネチアなのだからと観光船に乗る。ゴンドラはとても高いらしいのでやめた。行き交う船は多く、たくさんの観光客を乗せた小型船がほとんどだ。建物の玄関ぶちのところまで水に浸かっている。海ではあるがあまり潮臭さはない。水面下には木の柱が建物を支えているらしい。木の柱は腐るスピードも遅いし、取替えも容易だからということである。橋をいくつかくぐりながらいくつかの船着場で客をおろしたり、乗せたりを繰り返しながら、その船は進む。ゴンドラは建物と建物の間の狭い水路をたゆたう。

船着場から陸に上がるとお土産屋台にはムラーノのガラスやらカーニバルの仮面などが並びたてられている。みんな安物の偽物みたいなもの。

私はベネチアはすきになれなかった。すべてが仮面をかぶった嘘の世界のように思われたから……。それでもそれは行ったからいえることであって、行かなければ何も言えない。その日夕方、といっても陽の光は真昼間のそれ、フィレンツェに戻った。

 

10日にはシエナへ。シエナというのは和辻哲郎や有元利夫の世界からの印象で、どこか京都的な町かな、と思っていった。SITA社の高速バスへ乗り、シエナへと向かった。バスの中では東京セイント合唱団指揮者の宮下正氏ご夫妻といっしょになり、しばしの間雑談した。 

イタリアの高速道路は日本とほぼ同じサイズ。もちろん車が右側通行であるからその点は反対なのだが、道路の造りまで日本と似ているような感じ。

         

シエナは典型的な中世イタリア自治都市。教会、市庁舎、そして市場の催されるカンポ広場、こじんまりまとまった田舎の町である。訪れる観光客もほとんどなく、やや拍子抜け。カンポ広場は暴れ牛を放ち、それを追いかける勇壮なお祭り、パリオで有名だ。その年は後数日後の8月16日がその祭り日でその日は世界中から観光客が押寄せるそうだ。私が訪れたのはそういう嵐の前の静けさという感じの日であった。



ブッブリコ宮殿にはシモーネ・マルティーニの作「馬にまたがる将軍像」があった。和辻はこれを日本的な絵画と評していたが、私にはあまりそのような感覚は受けなかった。モノクロの絵をみたときにはそんな感じがしたが、現物はやはりイタリアというか中世ヨーロッパ的な色彩であると思った。

イタリアの屋根は市街地はそうした規制があるのだろうか、みな赤茶色の屋根である。それだけ統一感はある。壁は白や煉瓦色だが屋根は一様に同じ赤茶色である。宮殿の中にはシエナ派の画家たちの作品が飾られているが、残念ながらカメラには撮れない。私は全体、聖母子像が好きな絵柄なのだが、ここにあったドッチオは良かった。イコンの聖母子の良質のものが欲しいという欲は根強くある。

シエナから戻るとそのままウフィッツィ美術館へ入ろうと並んだ。サンタ・マリア・デル・カルミネ教会でマザッチオの「楽園追放」をまず見てからウフィッツィに並んだのだ。そこはいつも長蛇の列で3時間並ぶのなどはあたりまえなのだが、その時間が嫌なので、すいている時間帯を狙っていたのだ。5:00頃いったが、幸い行列は短く、20分くらいで中に入れた。

全部を丁寧に見ていることは不可能なので、狙ったものだけを丁寧にみた。ジョット、ボッティチェリ、フラ・アンジェリコ、リッピなどをよく見たほかはスキップという感じで通り過ぎた。一番印象が違ったのは、ボッティチェリの2大作品、「プリマベーラ」と「ヴィーナスの誕生」であった。いづれも画面が暗くしっとりとした感じで、画集などで見ていたあの華やかさはなかった。

ジョットの「荘厳の聖母子」               シノピア描の「聖母子」

このイタリアの旅は満足な成果が得られた。なんといっても探していたフラ・アンジェリコの弟子たちの作であろうフィエゾレの聖ドメニコ教会所蔵の聖母子画とそのシノピアに会えたからだ。ローマ見学を犠牲にしてフィレンツェ優先にした甲斐があったこの旅の前半であった。

 

(3)

このあと、フィレンツェを後にミラノへと入った。また大きな荷物を引きずっての旅である。この年は妹一家がちょうどパリ郊外に滞在しており、パリで会おうかということにしていたが、彼らは他へ車でヴァカンスに出るということになり、私は南仏からロマネスク彫刻や建物を見ることにしたのだった。

           

 ミラノは国際列車の発着駅となっており、南仏、スペインへ行く列車がここのセントラル駅から出るので、この街にも寄ってみたわけだ。といってもミラノ市街には泊まらず、時間が許す限りの観光ポイントを訪れ、夜行列車で南仏まで出ようというわけである。セントラル駅も立派で、フランスのパリのサンラザールや北駅などと一緒で大きなアーチ状の屋根のある駅である。映画に出てくるシーンそのもののである。大荷物を駅の預かり所に預け、身軽になってからミラノの街中へ出た。

まずは定番のドゥオモから。そしてロマネスク・ゴチック様式の混ざった教会などを写真に納めながら地下鉄に乗ったりした。エマヌエレ2世ガッレリアへも行ってみた。ACミランのショップがあったので、甥っ子たちにあげようと入り、ローマとミラノの両プロ・サッカーチームのユニフォームを買った。スカラ座も入り口だけ見てみた。スカラ座はパリのオペラ座なみの規模を予想していたが、全然小さいのでなんだか気が抜けた。一番歴史があるだけに当時の建築上の制約の強い中での建造であったのかもしれない。アーチ型アーケードの見事なガッレリア商店街であるが、特に買い物には興味はなかったので通り抜けただけであった。

ミラノにはいわゆる市電が走っていた。路面電車である。東京の荒川と早稲田を結ぶ都電のような電車だ。乗ってみたかったが、乗らなかった。

街角の警察官とパトカー     ミラノ市電        スカラ座      最後の晩餐は修復中

イタリアの警察といえば、賄賂、汚職、マフィアとの癒着などのうわさがとかく絶えないいい加減な警察というイメージがあったが、街中の交通警官はさすが格好良く、スマートな体型、それになによりもアルファ・ロメオの車両が格好よい。イタリア車のデザインはあかぬけている。性能はだめということだが……。

ミラノには古城があった。スフォルツェスコ城という15世紀の建物だという。城門は貫禄のある門であり、ロマネスク的な円形塔も石で詰まれたもので歴史を感じさせた。

ミラノといえば、ダヴィンチの「最後の晩餐」である。サンタ・マリア・デルレ・グラチエ教会にそれはあるが、生憎修復中のときであり、見られず仕舞い。残念でした。ミラノの地下鉄は立派だが、ラッシュアワーの夕方の時間帯も車内はさほど込んではいなかった。

国際列車の発着駅ミラノ駅で18:15発ポルト・ボン行きの国際列車を待った。列車はイタリア、リビエラ海岸にそって走り抜け、南仏の紺碧海岸(コート・ダ・ジュール)、ニース、ニームを通り抜けスペイン国境に近いペルピーニャンへと向かう。

列車はほとんどノンストップで走る。コンパートメントは独り占め。バス、トイレがない以外はまるでホテル。翌朝、目が覚めるとなんとペルピーニャンだ。あわてて荷物をかついで列車を降りた。次の停車はもうスペインだ。あやうく、乗り過ごすところだった。

ペルピーニャンなどには観光客は来ない。ナルボンヌ行きの汽車までまだ時間があるが町に出ても何もなさそう。駅員が「でかい太陽がもうすぐ地平線の向こうから上がるから、それをみてください」などと言っている。しばらくすると確かにどでかい太陽だ。画面の3分の1くらいをおおってしまうような朱色の燃える太陽だ。確かにでかい。

これは良い思い出になるとシャッターを押したのだが、帰国して現像した写真をみるとまったく小さい。臨場感はまったくない迫力のない写真だった。


ナルボンヌ行きの列車に乗って降りたのは古城壁で有名なカルカソンヌの城址。駅からはないも見えないが暫く歩いて行くと城址が見えてきた。新市街を抜けて旧市街に入る。円錐の屋根を被ったような見張り台が連なっている。ここはフランスだが、イタリアと変らない景色だ。城からは赤屋根の建物がずっと広がっていた。

       

街へ戻ってくると映画で見たことのある手風琴(手回しオルガン)の物憂げな音色が聞こえて来る。珍しいと思ったので写真に収めた。カルカソンヌの城を見た後、フランス4番目の大都市といわれるトゥールーズへ入った。地下鉄はアルゼンチンのブエノスアイレスでのった電車のように小さい型のものである。横幅の狭い小さな車体である。

宿は150Fで大きな部屋を見つけたと記録されている。あまりどんな部屋だったか覚えていない。3人分のベッド、シャワーつきと記録されているが……。市内見物に出かけるがあまり知られているような旧跡はない。サラセンの侵入時に影響されたかのような造りの回廊を持つジャコバン修道院、キャピトル広場、8角形か10角形のような形状の教会建築、そして先端部だけがゴチック様式のサン・セルナン教会。街を抜けると市内を流れるボルドーへと流れ行くガロンヌ河を渡る大橋に出会った。

翌日13日には隣町、モントバンに午前中行き、午後からモワサックへ行った。モントバンにはラングドック・ロマネスク様式の教会があり、中には鮮やかなステンドグラスがあった。ブルーと紅色の組合せがステンドグラスをうまく引き立てている。建物の外観は古いが、中はきわめて現代的な装飾であった。ガロンヌ河の対岸遠くにはモントバンの旧市街が見えた。

サン・ジャック教会という建物も典型的なロマネスク様式建築であった。

モントバンは今度の旅で偶然立ち寄った街であるが振り返ってみると一番私のイメージ通りの落ち着いたフランスの田舎町という感じがした。このあたりを舞台に戯作をものにしてみたい。


                             

午後、逃せばもうその日の列車はない、唯一の列車に乗って次のモアサックへ向かった。ここは知る人ぞ知る中世彫刻の残る教会のある街なのだ。さびれた街ではあるがフランス国鉄の駅はどこもきちんとしている。線路沿いに歩いて行くと目指す聖ピエル教会が見えてきた。3聖人の一人ぺテロを崇めた教会である。教会の入り口にはデフォルメして彫られたペテロの像が石に刻まれている。イザヤの像も反対側右手にある。このあたりは中世ロマネスク芸術様式を学ぶものにとっては宝庫となる現場なのだ。

駅舎を降りたとき客は私一人であったから、教会には誰もいないかと思ったら、いるいる、みなさん乗用車で来ているのだ。モワサックはこの教会でもっている門前町なのだ。教会の内側にはやはり立派な回廊があり、その柱石にはさまざまな中世様式に沿った動物や植物の模様が刻まれていた。

ガロンヌ河に沿った一体には小さなロマネスク様式の教会がたくさんあるらしく、地図が載っていた。いつか乗用車でフランスに3ヶ月くらい滞在しながらこうした街を訪ねてみたいと思った。

街中へ入ると、大人たちが昼間からペタンクに夢中だ。フランス人はこれが大好きらしい。おもしろかったのは直径5cmくらいの鉄球を拾うとき、腰をかがめるのは億劫で負担になるので、磁石のついたステッキで路上からひろいあげることである。遊び人の横着者が考えそうな道具だと思わず笑ってしまった。



モワサック駅へ戻り帰りの汽車を探すと本日は日曜日ゆえに列車がないということがわかり、一瞬ドキッ!。時刻表をよく見て行くと隣のアジェン駅までゆくバスがあり、それで行くとトゥールーズへ戻る急行列車に接続するということがわかり、さっそく動きだす。

バス乗り場を探して待っていると、国旗を車体に描いた観光バスのようなバスが来た。お客さんは私一人、貸し切りバスという贅沢さ。これもSNCF(国鉄のバス)。バスの車窓からはひまわり畑、そして大きな原子炉から煙が出ている原子力発電所が見えた。こんな人里近いところに原子力発電所を建ててしまうフランス人の理性信仰には驚いた。

アジェンでは次の列車が来るまでの間、街中を見学した。あるある11,12世紀頃のロマネスク様式の教会が……。日曜日に開いていない教会っていったいなんなのだ、と自分の備忘録には書いてある。使われていないのだろうか。アジェンの古式教会は?

19:44発の急行列車を待ってトゥールーズへ帰った。検札に来た車掌さんは女性だったので、写真をとってもよいか、と訪ねると「もちろん!」。そこで一枚。当時はまだ日本でも女性車掌は珍しかったのでは……?

 

(4)

トゥールーズからボルドー経由でTGVに乗り換えアングレームヘ。アングレームはポアティエにも似て小高い丘の上に旧市街がある。昔からの街だ。ここにもサン・ピエール教会という典型的なロマネスク様式の教会がある。ボルドーからアングレームそしてポアティエへと向かうこの地域は100mにもみたない小高い丘陵と平野の連続した組合せである。

サン・ピエール教会には、なぜかロシアイコン風の聖母子像があった。だれかが寄進したのだろうか?教会の建物も松ぼっくり状の屋根がファサードの左右両脇にあるおもしろい建物であった。街は
G・フォーレの誕生地ということでその名を冠した音楽学校があった。

アングレームへ立ち寄った後はポアティエである。既に前年、冬休みの間にここには来ていたので、なんとなく街に心得があるような気がして自分の庭に戻ってきたような感じだ。ここの市庁舎はこじんまりとしたたたずまいであるがなんとも落ち着いたよい感じの建物である。東京の古河庭園の邸宅のような感じだ。街中の小さな公園には色とりどりの花壇の花々が咲き乱れ、美しい町に彩を一層添えていた。

この辺りには糸杉の木が目立って多い。スペインに近いガロンヌ河畔にはあまりなかったが……。今回の目的はサン・サヴァン教会への旅であるからポアティエには長居はしない。一日に午前・午後一本しかないバスでショビーニーへ向かう。バス停の存在がわからず困ったが、ショビニー行きのバスが見えたときには手を振って道路を塞ぎ、停車してもらった。バスの乗客は
4人だった。

    

ショビーニーなど来る人は、そこに親戚があるというくらいの人だろう。ましてや日本人などまず来ない。宿はこじんまりした個人の住宅という感じの民宿ホテルだ。ところがこれがまた味のあるホテルでフランスの田舎を満喫できた。カップルで来たら最高にロマンチックな雰囲気だ。

プチ・ホテル貸切りという感じだ。バスタブつきのかなり豪勢な部屋で
1ッ泊210F、パリなら7,800Fでもおかしくない。星の数は1つ。信じられない。2週間くらい居続けたいホテルだった。また行きたい。「彼女」と車で……。ああ夢か!

ショビーニーには廃墟化した城址があった。のぼってみると小さな街が一望できる城の隣にはロマネスク教会のサン・ピエール教会。中には柱石に怪獣や唐草模様などが中世様式で彫られている。

 

(5)

ショビーニーのプチ・ホテルを拠点にして、この旅の2大目的のもう一つの訪問地サン・サヴァン教会を訪ねた。ショビーニーからさらにヴィエンヌ地方の奥へとバスで入って行く。

このサン・サヴァン教会については吉川逸治氏の伝説的な研究がつとに有名である。私はここを訪れ、写真も1ッ本まるまる撮った。ところが、不思議なことが起こっていた。帰国後現像に出すとこのフィルムだけなくなっており、写真とならなかったのだ。

「やはり」
Xの魔手が及んでいたのだ。このXの手は実は前回もこのフランスでは襲い掛かってきたのだ。これについてはそちらで読んでもらおう。どこまでも、まさに世界の果てまで追いかけてくる私に憑いた魔の手である、そう思っていたのである。

        

ともかく、このサン・サヴァンでの様子は帰国後すぐに記した記録をそのままここにも記しておこう。

以下、アルバム記録より、

さて、今度の旅の目的は二つあり、一つは有元利夫氏作品のルーツ発見・対面であり、もう一つは、サン・サヴァン教会の壁画を見ることであった。フィレンツェ郊外フィエゾレで第一の目的は見事に達成された。

また第二の目的たるサン・サヴァン教会の旧約聖書の壁画も双眼鏡を使いながら解説書に基づき丁寧に見ることができた。

サン・サヴァン教会の壁画は久しく人の眼を惹くことのないままにあったのを「カルメン」の原作者にしてフランス文化庁長官であったプロスパー・メリメがその価値を発見したものである。その後フランスでも少しづつ研究は行われていたが、なんとしても一番の労作者は日本人美術史家の吉川逸治博士である。約30年にわたる地味な研究の成果はそのままフランス政府はもとより国際的にもみとめられ、建物はUNESCOの世界文化遺産に指定されている。

そのサン・サヴァン教会の壁画は確かにじっくり見ることができたのだが、すべてではなかった。天井壁画は公開されているがクリプトと入り口壁の部分は非公開であり、入れないからである。

この日(8月15日)、私は終日カメラを持ってガルタンプ川側から外観のサン・サヴァン教会をなぜか撮影した。絵葉書的ではあるが……。

内部撮影はフラッシュ撮影厳禁であった。このようにしてサン・サヴァンの目的は一応達成されていた。

翌8月16日、私は再度、サン・サヴァン教会に出向き隣の村のアンティグニィ(Antigny)のGallo-romaineと呼ばれる9〜10世紀頃の建立となる教会を徒歩で訪れた。
      

一方、朝から午前中、私はショビーニーにもGallo-romane期に建てられたらしい、古いちいさな教会があることを地図で見つけ3kmほど街の中心から離れたヴィエンヌ川に沿ったところにあるちいさな教会を訪ねた。何もないとしても、人気のない人里離れた川のほとりに1000年以上もたたづんできた小さな教会、ただそれだけの素朴さが心を惹いたからである。

ヴィエンヌ川に沿う道路をてくてく歩いて約一時間、確かにL字型の小さなふるいロマネスク型を一部含みながらまだ未発達の段階にある墓地にある教会に出会った。

人が誰もいない教会に入るとカチャっと音がして裸電球が照らされ内部がハッキリとみえた。磔刑のキリスト、それに誰かはわからぬが聖人像そんなものがあった。しかし、それ以上に私の目にはいったのは茶色を基調とした壁画であった。馬らしき動物、キリストらしき人物、その像はよく判らなかったが、意味のある壁画がそこにあった。緑、青も薄くある。私はこれは古い壁画だと直感して、そして誰もいないし、特に内部に撮影禁止の張り紙もないし……と思い、10枚くらい写真を撮った。帰国してからの楽しみとして……。

そしてその川にたたずむその教会の外観も撮り、そして午後、サン・サヴァン教会へと再度向かったのだった。

ところが、8月15、16日分のFilmはなぜかすべてパー!一体なぜこんなことに……。

 

以上がサン・サヴァン教会とその付近を見学したときの様子を帰国後記録したアルバム備忘録の一節である。

と、いう訳でこのときの写真はない。かなり貴重な写真ばかりがあったのだが……。これはいつか今度は「彼女」を連れて?またおいで、と神様に言われたと解釈することで我慢しよう、ということにしたのだが、それからしばらくして奇蹟?が起こった。それはこの後に……。

さて、日本から持っていったフィルムが使い切ってなくなったので、新たに現地で購入し、取り続けた写真がサン・サヴァンとは別のアンティグニィの古い教会の内部の写真である。絵柄は磔刑や最後の晩餐の図柄が描かれているのだが、その稚拙さには閉口した。まったく芸術性が感じられない駄作?である。しかし、一応写真は撮った。

かえすがえすも、サン・サヴァン教会と名の知れぬ古い教会内部の壁画のすばらしさを収めた写真がないのが惜しまれる、とアルバムには記したまま、半年がたった。夏の旅のことも忘れかけていた。

ところが、たまたま何かのきっかけで双眼鏡を持ち出したところ、そのケースの中にフィルムが一本しまわれていた。なんだろうと思って現像してみると、あっ、あった!あった!サン・サヴァン教会と古いロマネスク教会の壁画が……。いやー奇蹟だ!と思わず叫んだのだった。と同時に、これでもう「彼女」と再度行くこともなくなった、と他方のロマンの消失を心の中で惜しんだ。

 

ということで、自分で撮影したサン・サヴァン教会外観、サイクリングの若者たち、ガルタンプ川岸辺で水浴を楽しむフランス人一家の様子をここには掲載しておこう。サン・サヴァン教会の詳細な図柄などはその後随分ロマネスク教会を旅する書物が出たので、それらにきっと載っていることだろう。天地創造→アダムとイヴ→カインとアベル→ノアの箱舟→バベルの塔→アブラハムの物語・イサク→ヨゼフと兄弟たちといった旧約聖書の絵解きが天井壁画として描かれている。

 

さて、ショビーニーのプチ・ホテルを拠点としたサン・サヴァン教会をはじめとするロマネスク教会探訪も最後のフェーズとなった。

    

ポアティエに戻るとパリへ戻るTGVの待ち合わせ時刻を利用して、市内のサン・ジャン礼拝堂を訪れた。4世紀の建立という1500年以上も前のものだ。またノートル・ダム・ド・ラ・グラン教会も再訪し、そのロマネスク様式を写真に収めた。夕方パリへ着くとモンパルナス駅付近で安宿探し、190Fという安宿を見つけ、荷物を置いてからパリ市内をブラブラ。シャンゼリゼーへ出ようとしていたのだが、途中で虫が知らせたのか、オペラ座へ方向転換、地下鉄を乗り換えた。後で知ったが、シャンゼリゼーではちょうど到着したであろうその時に爆弾テロが起きていた。危うく捲き込まれるところだった。パリジェンヌ目当てに女性ファッションを楽しんだ。

翌18日もC.D.G.空港へ行くまでの間、サン・ジェルマン・デプレのカフェ、ドゥ・マゴで一時をすごした。

 

モンパルナスから地下鉄を乗り継ぎ北駅から空港へ、という帰路であった。フランス4度目の旅は終わった。


<了>


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