イタリア紀行 ラベンナ、アッシジ探訪そして3度目のローマ

魁三鉄(永橋続男)

19951230日〜199614

 

(1)

 自分宛に出した絵葉書によれば、バーリ発21:26の夜行列車に乗りボローニャ着4:08、ラベンナ行きの列車はボローニャ発6:08。ラベンナ到着7:30頃となっている。

 ラベンナは幹線路から外れた町であり、列車の接続がよくない。ボローニャには早く着いたものの、夜もあけない街では何も見に行けない。バスもないし、世界最古のボローニャ大学へも行けない。そこで駅で待つしかなかった。

 ラベンナへ到着するとそこは昨晩からの薄雪でところどころに雪が積もっていた。街自体は小さなところなので歩いて行ける。目指すサン・ヴィターレ教会まですぐについてしまった。国立博物館にはイタリア様式のイコンが100枚以上陳列されていた。様式性を伴いながらもより絵画的な自由度、創画者の主観的思い入れがイコンの中に見られた。

こうしたまとまったイコンを見た事がなかったし、全世界でも恐らく他にはそういうところはないであろうから、これは得した気分。しかし、写真は撮れなかった。禁止。

 

 モザイク壁画で有名なプラチーディア廟は金色のモザイクが華麗に天井を埋め、4使徒であるマルコ、ルカ、マタイ、ヨハネを表すライオンや牛などの動物が描かれている。天井壁は電灯の光に輝いて星空の下にいるような錯覚を覚える。空から見ると建物の屋根は十字形になっているという。

           

 サン・ヴィターレ教会は5世紀半ば頃に建てられたという古い石造りの教会だ。内部には緑色が特徴のモザイク画で有名だ。「ユスティニアヌス帝」の像が代表作である。私宛の絵葉書に記した文の中には色に関する疑問がしるされている。いわく、

 「モザイク画は退色しないのだろうか?先に石を砕いて一面にはめ込んでおいてから色を上に塗ったように見えてならない。色のついている原石を砕いて貼り付けていったとしたら、その色彩感覚を含めて、誰かが遠くから指示を出していたに違いない。

建物の煉瓦の風化が直接的に歴史と風雪を覗わせるのに対して、緑や茶赤色に見える金色の鮮やかなモザイク画はなんども後世塗り替えられたかのように新鮮だ。着色でなく原石そのものだから色の退化がないのかもしれない」と。

 モザイク画を見てしまうとそれでおしまいというような気もしたが、ラベンナの街は年末ということもあったのか、人はほとんど外に出ておらず、落ち着いた街のたたずまいは中世都市そのままであった。石畳の敷かれた狭い路、石造りの建物の密集、確かにこの街などを見た印象は石の文化そのものと感じるものである。街の中にはピサの斜塔ほどではないが、すこし傾いたまま建っている洗礼堂の建物があった。

                     

 朝も9時を過ぎるとメルカート(市場)も開き始めた。すこし人が動き出した気配がした。4番目に訪れたのはサンタ・ポッリナーレ・ヌーヴァ教会である。内壁にはビザンチン的な画風様式ではあるが、すこし異文化的な様式を含んだ聖人像が見えた。

 午前中に無事予定していた処は見たので、いったんボローニャ経由フィレンツェ行きの列車に乗って、そこから出ているアッシジへ行く列車に乗った。

 

(2)

 フィレンツェとボローニャの間にあるトンネルを抜けると雪がぱらついていた北イタリアから中部イタリアへと入り、空も晴れ出した。

 アッシジには夕方5:30頃到着したが、あたりはもうすっかり真っ暗であった。一度バスの乗り違いをしてしまい、アッシジの教会の建物とは逆方向へ行ってしまったのでまた時間を損した。日本でいう門前町のアッシジであるから信徒たちが泊まれるホテルの類はいくらでもあるだろうとたかをくくっていたが、なるほどホテルはたくさんあるのだが、場所の良いホテルはみなすでに満室となっており、バスで時間を損したこともあり、、サン・フランチェスコ教会からは離れたサンタ・キアラ(聖女)教会の前にある「ローマ」という場違いな名前のホテルに泊まることになった。1995年大晦日である。

 翌日、1986年元旦、朝からまず近くのサンタ・キアラ教会へ行った。ステンドグラスの美しい教会である。中には聖女キアラの棺が納められた廟がある。

 

 アッシジの街は新市街と旧市街に分かれており、教会のある側が小高い丘の上にある。丘の上からは新市街が見下ろせるのだが、天気がいまいちのせいか、写真では街の画像がぼけている。アッシジの丘のサン・フランチェスコ通りを抜けて教会へ入る。教会正面の建物(ファサード)は修復中であり、工事のやぐらが組まれていた。教会の部分にはロマネスク様式も混ざっている。この年の写真アルバムにはアッシジ教会の内部の写真は一枚も撮っていない。既に内部は前年に訪れ撮影済みであったからである。

 この教会は最近起こった大地震で教会内部のジョットの名作がかなり被害を受け、現在もまだ修復中であると聞いている。

      

 この教会付近を散策してみると、すこし裏手に入ってしまうと人はほとんどいない。裏手の丘からは雑木林や畑がゆるやかにくねった凹凸の中に一面に広がっていた。年末、そして正月をこのカトリック教徒の聖地の一つで過ごした行く年、来る年であった。


                

 

(3)

 正月一日、アッシジを出るとそのままペンドリーノ(特急電車)に乗り継いで、ローマへ入った。ローマでは前回、前々回で行ってなかったところもあり、また骨董店へよる予定を立てていた。

 多少慣れていたローマでは駅前は避け、フィレンツェ通りの安宿に宿泊の地を定めてから、早速夜のローマの街へ出た。ローマは結構寒かったが、そこはイタリア中部のこと、軽い冬支度で十分である。イタリア人女性はファッショナブルであり、毛皮(風)コートなどを身につけているが、中は薄手のセーター一枚とかブラウス程度のことが多い。要するに冬のファッションとしてコートは羽織るのである。

 特に理由もなかったが、トレヴィの泉へまずいってみた。夏はこの泉に飛び込んでいる若者たちがいたが、この時期にはさすがにそういう「馬鹿」はいない。人もあまりいない。背を向けてお金を投げている人もいない。

 スペイン広場へも行ってみた。実は、新年の願い事として戯作の素材になるような女性に出会うことを、教会の中には「神のみ子は今宵しも……」の歌声が響く中、アッシジの聖フランチェスコ教会で祈った。聖フランチェスコの若き日の放蕩に倣ってというわけではなかったが、その祈りが汚らわしいものとは思えなかったから、ずずしく「女」を望んだ。

別に結婚したいから相手が欲しいということではなく、一時を創作の素材になるような刺激で埋め合わせて欲しいというような勝手な願いであった。

そんな願いがかなったように、スペイン広場では偉い美人の日本人女性に写真撮影を頼まれた。なんとなく女優のような輝きと身だしなみである。着ている物がみなコンドッティのショップで今買ってきたような艶づやしさがあった。彼女は私がイタリア語をつかえると思ったらしく、自分は言葉がわからないからローマに来てもいまいちおもしろくない、レストランにも入れないなどと誘うかのようにこぼしている。

私の心のうちはそんな女性なら絶好のターゲットであったはずなのに、なぜか聖人のような気持ちに支配されてしまっていた。「じゃ、一緒に街中を散歩しよう」とか、「食事をしに行こう」とか声に出せない。このままなら彼女の信頼のようなものを保てるだろうが、長い時間を持てば持つほど、言葉も金回りも馬脚が顕われ、彼女には失望と軽蔑の念をふやすだけだという現実によってもたらされるプライドの破壊の怖れに私の心は萎縮したのだろう。

要するに相手に気後れしてしまったということなのだ。「私はこれから予定しているところがあるので一人で行動しなければいけないので、申し訳ないがご一緒できない」などと格好をつけた返事をしてしまった。彼女はジェット・ツアーというパック旅行できたと言っていた。

私は彼女が宿泊しているジェノヴァ・ホテルまで一緒に歩きながら、言葉の上で必要以上に近づくことを避けていた。なんとなく、彼女の側に気を惹かせるような態度で接していたのである。

 結局彼女とはスペイン広場から彼女の泊まるホテルまで一緒に歩いただけで、名前すら聞くことがなかった。

 一人になって歩き始めると、「東京でまた会おう」とか「連絡先をどうして尋ねなかったのだ」などというもう一人の自分がしきりに自分を責める。その夜、一人で行きたいところとして自分を納得させるようにバビーノ通りの骨董店へ足を運んだ。

もしかすると、彼女も一緒であったとすると私よりももっと高価なものに関心を払い、そして買っていたかもしれない、などと未練がましい妄想にふけっていた。聖フランチェスコへの祈りがかなえてくれた「女性」であるから、ぜったい普通の女性ではない、と信じておくこととしよう。そして勝手な妄想を戯作へと発展させよう、という「良い人」で終わったわけだった。

 

 (4)

 ローマでの2日目。前回も前々回も、ローマ訪問がメイン訪問地ではなかったのでいわゆる古代ローマ帝国の史跡や遺跡はほとんど訪れていなかった。そこで今度はローマ市内、郊外の見学に徹することにした。

 
 朝早くから地下鉄を乗り回し、名所旧跡を訪れることにした。ローマ・テルミニ駅は国際列車の発着駅であるから早朝からヨーロッパ各地へと向かうたくさんの人々が切符売り場に並んでいた。地下鉄は
A線とB線とあるが、地下鉄は深い。

韓国は国防上の理由からであるが、このローマは古代ローマ帝国の遺跡にぶつかることがないように深くしたらしい。地下鉄の車両はニューヨークの地下鉄に負けず、悪戯書きだらけであった。ラッシュアワーは東京並みに混雑するらしく、スリによる窃盗が頻繁に起こるらしい。

駅の出入り口にはジプシーのこどもたちの5,6人のグループとなった窃盗団がすきを狙っている。子供だからと油断しているとポケットに手を突っ込まれ、そこに気をとられているうちにバッグや持ち物を奪われたリする。私も夏のローマ駅で子供たちに囲まれそうになったが、危ないとわかったので走って避けた。

            

 最初にチルコ・マッシーモ駅で降りた。この駅の近くにはフォロ・ロマーノ(元老院)遺跡のほかカラカラ浴場や真実の口があるからだ。カラカラ浴場は古代ローマ人たちの社交場であった場所だ。モザイク模様の床などに当時の面影を偲ぶことができる。真実の口はサンタ・マリア・コスメディン教会の中にある。私が行った8時前の時間には誰もいなかったが、わざわざ通行人を呼びに行き、一枚記念撮影をしてもらった。

    

次に向かったのはオッタビアーノ駅だ。ヴァチカンへ入るのに最短距離の駅だからだ。ヴァチカン広場(=サン・ピエトロ広場)にはすこし団体グループが来ていたが、前日の元旦には数万人の信者で埋まっていた光景を宿の
TVで見た。

   

広場にはイエス誕生の様子が柵で囲われた馬小屋の中に人形によって再現されていた。ヨーロッパ人は誰もみたわけではない世界を信じることで、世界を統一的に解釈し、その体系の中で現実を位置づけてきた。人間の統一された想いが現実的な物質化を作ってきたのである。あれだけの地域の広さで……、また2000年という歴史の長さで……。

 サン・ピエトロ寺院の中はミケランジェロのピエタなどがある。ヴァチカン美術館は行列をなして入場券を買って入った。建物内の天井・壁には装飾模様、絵画がぎっしりとつめられているが、誰も静止して鑑賞等はしない。惰性で見ているだけである。

要するに天井画は一つ一つの絵のためではなく全体として天井を飾り立てるピース(部品)なのだ。ヴァチカンには
H.MatisseBuffe,そしてBen Shahnなど近現代高名画家の作品が献呈されていた。彼らも自分のスタイルでキリストの世界を題材に描いている。美術館の最後を締めるものは、シスチーナの礼拝堂である。すべての路はこの部屋へ通すための演出効果を背負っているかのようにあるという感じだ。

このミケランジェロを必然的に見るように……。天井と壁を覆う大作のスケールは半端ではない。これを一人で完成させたというのだから超人だ。首が曲がってしまったというのも納得できるすごさだ。カメラで一度に収まらない。


 昨日の「女優」にまた会えるかもしれないとすこし、期待をしてスペイン広場を再訪したが、いるはずもなかった。

 再び、トレビの泉を経てパンテオン神殿へ。2000年以上も前に建てられた堅固な神殿だ。ここに祭られえることは最高の栄誉に違いない。人類の代表者を意味するのだから……。その後はナボーナ広場である。

ベネチア広場からヴィトリオエマヌエーレ2世記念塔そしてフォロ・トラヤーノというローマ観光の中心を巡った。いまでも発掘作業は続いている。コロッセオの姿もガイドブックの通りだ。中には入ると内部の崩壊が目立つ。

外観は円形競技場としての建物を維持しているが、煉瓦造りの建物の内部は至るところが形を失っている。しかし、「クオヴァディス」に書かれたシーンや映画のグラヂュエータのシーン、はたまたベンハーなどが連想される世界だ。


    

再びカラカラ浴場を訪れた後は旧アッピア街道を歩いてカタコンベへと向かった。石畳の街道の道は真中が盛り上がり、両端側が轍のためか凹んでいる。ローマ市城壁内外を分けるセバスチャノ門が見えてきた。この門の外はもうローマではなかった。

両脇が石壁、煉瓦壁となったアッピア街道が続く。すべての路はローマに通じていたのだ。時々自動車がせまいこの街道を観光客の歩くことなど構わずにぶっとばして走り抜けて行く。危険極まりない。路の両側には松の樹が逆さ箒状の形をして連なっている。

いかにもイタリアという光景である。街道を疾走する車に怯えながら一時間ほど歩いた。セバスチアーノ・カタコンベに着いた。カタコンベは本来は穴居住宅として使われていたが、いつしか地下墳墓となっていったということだ。

案内人のガイドがなければ迷い込んだらまさにミイラになってしまうとかの複雑な迷路となっているということだった。

 
このカタコンベには有元利夫が「すごいのあるじゃん!」と感激したという鳩の壁画は見られなかった。たぶん別のカタコンベにあったのだろう。

 

 (5)

  カタコンベからローマ市内へ戻ると、私は自分の趣味の作品を探しに昨日見に行ったバビーノ通りとは別のところにあるロシア・イコンを扱っている骨董店を訪ねた。店はすぐにはわからなかったが、なんとか見つけ出せた。シエスタで4時までは店が開かないということなのでまたバスへ乗ってティベレ河を見たりしていた。 

 4時になって店に来ると最初は一枚、ロシア・イコンを見せてくれた。有元利夫の話をしたり、ロシア・イコンの現状などを話すと店の主人はさらに奥の倉庫へと案内し、隠し持っているすべてのイコンを見せてくれた。

いづれの作品も表向きは1880年以降のものだということにしてあるが、中には1800年くらいの作品もあるという。ソ連邦が崩壊し、国宝級の作品が監視の目をくぐってロンドン経由でローマに流れてくるのだという。それでも本当に良い品といわれている16世紀以前のものはさすがに出てこないということであった。

私は1880年頃の作品という一枚金箔押しの鮮やかなイコンを買ったが、それは聖母子像ではなく、商業の繁栄を祈るイコンであるということである。

 翌年、私はまたこの店を訪れ、やはり、18世紀の後半の聖母子像イコンを購入した。

 こうして新年に入ってからの3日間をローマで過ごし、4日に日本に帰り、この旅は終了した。

<了> 

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