インド主要地訪問                魁 三鉄(永橋続男) 

(アジャンタ石窟寺院、ウダイプール、ジャイプール、アゴラ、デリー)

1994年5月4日 〜5月12日 

(1)

 1990年頃から私は夭折の画家、有元利夫の研究を少しづつ始めていた。彼の作品には直接的にインドを舞台にしたものとか、インドに関連するものが誰の眼にもはっきりわかる姿で作品に顕われている、ということはなかった。しかし、私は彼が青春時代に奈良や京都の古寺を訪れていたことを知るにつれ、とりわけ仏画との関連にこのころ注目していた。

 彼は西洋絵画、特にピエロ・デッルラ・フランチェスカからの影響を多く受けていたが、同時に日本の平家納経からも強いインパクトを受けていた。そのことを知って、仏画や平家納経のことをいつか丁寧に追いかけないといけなくなるな、と思い始めていたのだが、同時に彼が線描というものを強く意識していることも気になっていた。

 線描の仏画の優れた作品といえば、通常われわれは法隆寺金堂壁画を思い浮かべるだろう。そこで私は画集などをめくっていたのだが、関連した書籍などにも眼を通しているとやはりインドのアジャンタの壁画のことが頭から離れなくなってきていた。

 同時に、西洋中心主義に対する揺り戻しというような面もあり、堀田善衛の「インドで考えたこと」(岩波新書)なども久しぶりに再読するなどしていた。

 そんな関心が背後にあり、インドを訪れる機会を狙っていた。ただ、少しづつインド旅行のガイドブックを読んでいると、インドは「大好き派」と「大嫌い派」がいることが分ってきた。私は何事にも先入観はなるべく排してものを見る性質(たち)なのだが、インドはどうも一筋縄ではいかない、想像を絶するところがありそうな気がしていた。ある種の警戒感を持っていたのだ。特に、疫病にたいして自分のような温和な環境でひ弱に生きてきた人間はひとたまりもなくやられてしまうだろうという警戒感を持っていた。職場に出入りしていたカメラマンの方がアフリカのサファリで肝炎にやられたということを身近なところで知っていたことも警戒感を強めることになっていた。

 そこで、初めてのインド旅行は観光業者の開催するパック旅行に申し込むことにした(結果的にはこの旅一回のままなのだが)。当時の資料が見当たらないので正確な記録はないが、確か一人参加の旅でも一人部屋のホテル宿泊費の追加料金がそんなに高くなかったような気もしている。アルバムに同梱されていたガイドブックがJTBのものであるから、もしかしたらJTB主催のツアーであったのかもしれない。恥ずかしながら記憶がすっかりないのだ。資料が残っていると、たとえば、荷物タグのようなものでえも、それを見つめていると関連した記憶が少しずつ蘇ってくるのだが、何にもないとすっかり思い出せない。老化?ボケ?もともと天然? 

ともかく、わたしとしては珍しく殊勝におとなしくツアー旅行に参加したのだった。

 以下、当時の旅行後のアルバム記録を参考にしながらの記述となる。

 

(2)

 

 ゴールデンウィークも終盤、成田空港は帰国便が賑わっている一方で、これから外国へ飛び立つ人々はもはやほとんどいなかった。

 飛行機はインド航空AI#305便ボンベイ(現在はムンバイと呼ばれている)行きであるが、途中、バンコックそしてデリーでトランジットが入るものであった。

 成田発12:00正午、到着予定は現地時間夜の10:00である。トランジットタイムを入れて13時間の長旅である。エアーインディアのパイロットは空軍出身であったのだろう。かなり強引な飛びかたをしていた。もともと東シナ海は乱気流の出やすい海上であるが、この飛行機、乱気流突入の警告音が鳴ると同時にもうガタガタ上下に小刻みに揺れ始める始末だ。概して民間要請パイロットはあらかじめ備えるに十分な時間をとって事前に警告ランプをつけるし、乱気流は避けようとする傾向があるが、これは結構ひどい。油断できない、という気にさせる荒業療法?なのかな?

機内は6割くらいの混雑であるから感じとしてはガラガラ。そこで両隣との仕切りを上にあげてしまい、横になって寝て行こうというわけだ。ところが、そんなわけでそうわさせじと?ということではあるまいが、乱気流突入でなかなk落ち着いて横になっていられない。寝ている姿勢で天上にでも飛び上がり、その勢いで床にでも叩きつけられたら重傷まちがいない。

 ということでその強引な操縦にこころがざわめいたが、機内の窓から見えたエンジンに記されたエア・インディアのマークが馬上から弓を射る「いて座」のマークであることにふと気がついた。なんだ自分の星座と同じだ!などとまったく関係ないところで共通性を発見したら、親しみが湧いてきた。妙な心理だね。単純な男!

      

 東シナ海を南下して陸が下にあるころにはマレーシアかタイの上を飛んでいた。このいわゆる南回りはそれ以前飛んだことがなかったので、少し下を見ていたが、川の川らしくなさには驚き、幻滅した。やはり日本の川が川だ。まるで茶色の絵の具をそのまま流したような色だ。

 

(3)

 

 デリーへ着いた頃はそとはもう暗闇、そのままボンベイへと飛び、到着は夜の10:00過ぎ。日本時間では夜中の1:30だ。すっかり眠い。入国審査もスムースにお終わり、3,4時間は寝られるかな、と思っていたところが、荷物が出てこない。この荷物が出てこない待ち時間の間に今度のツアーでご一緒するみなさんと顔合わせをすることとなった。参加者は全部でご夫婦1組、そして女性2人、それにわたしを入れて5人の小グループだ。

 ようやく現地1:30過ぎにわたしの荷物が出てきた。でもまだ全員分が揃わない。結局全部が揃ったのは2時過ぎ。出迎えに出たのは現地ガイドの日本語の堪能なラワットさん。彼の説明によれば、明朝は4:45出発のため4:00起床だとのこと。おいおい何のためのホテルだよ!という感じ。

 ホテルは空港近くの素晴らしい国際ホテルだ。ターバンをつけ白いアラビア服を着たシーア派の背丈2m以上の巨人がドアボーイとして迎えてくれる。ホテルの設備も上等だ。だが睡眠時間は1時間しかない。荷物も開けず、ただ服を着たまま横になって仮眠。あっというまに起床時間の4:00だ。ゆっくり2,3日くつろぎたいホテルだった。残念!

 

      

 ボンベイからは訪問地オーランガバード(Aurangabad)へ約40分の飛行。到着地では濃い朱色のブーゲンビリアの花がわれわれを迎えてくれた。飛行場の前には1930年代の自動車のようなクラシックな形の車が並んでいる。空は高く、気温も上がってきた。

 オーレンガバードではひとまずホテルへ直行。アショカ・ホテル(Ashok htl)はその地では格の高いホテルらしい。西洋式の普通のホテルだが、中には入ってみるとさすがインド!(失礼)蛇口からはお湯が出なかったり、停電してポットが使えなかったり、それに蚊が飛び回っていたりと、うわさに違わず、というホテルであった。それでも寝不足と疲労回復には自分の部屋で落ち着ける時間となり、とても楽になった。

 さて、ここで気を使ったのが水。ぜったい生水は飲むまいと心がけていたので、ボーイさんにBoiled water(煮え湯)を頼んだ。このホテルでは英語は問題なく使えたが、この先ずっと英語が通じるとは限らないと思い、煮え湯をインド語(ヒンズー語?)ではなんというのか?ということを訊き、覚えることにした。ガランパニという単語だ。最初に覚えたインド語であり、終生忘れない唯一のインド語となった。実際街の中でガランパニと言ったら通じた。これをコーラのビンに詰めてもらい持って歩いたのだ。

 

 少し休んでからは好奇心のほうが疲労感より強いせいか、外へ出てみたくなった。エローラの岩窟へ行くまでまだ数時間あるということで。撮った時刻が何時かは書いてないのだが、写真を見ると人影がほとんど写っていない。つまり真上から太陽が照っているのである。暑さそのものにはアリゾナの暑さに慣れていたせいかあまり体にはこたえない。ホテル付近やホテルの庭を散歩した。チャイと呼ばれるマサラ入りの紅茶を飲んでみた。これはお湯だから大丈夫だ。暑さからくる渇きに対する水分補給物としては実に良い。町には昔懐かしいダイハツ、ミゼット三輪自動車がリキシー(タクシー)として走っている。パーキスタンのカラチでもそうだったことを思い出す。しかし、インドのほうがごてごてしていない。

 ホテルのプールでは女学生たちが7,8人老人の男の先生について水泳を習っていた。わたしが見ようとプールサイドへ寄って行ったら、女学生たちはみな怯えたようなひきつった顔をして一箇所にかたまってしまった。老人の先生がわたしの存在に気がつき、私に向かってニコリと笑って会釈をしたので、わたしも会釈をしたが、そのままそこに立っているのも変だなと思って後ろを振り返らずに帰ってきてしまった。多分、インドでは女性が人前で肌を晒すなどということは「ありえない」非日常的な世界なのだろうとはしばらくしてから分ったことだ。

 ホテルのプールは見た目は水色の綺麗な水であったが、いわゆるホテルゲストの西洋人たちはロビーでたくさん見かけたがプールで泳いでいる者は一人もいなかった。恐らく、現地の人は大丈夫であってもプールの水を飲むと風土病になるということを徹底されているからだろうと思った。

 十分な休憩時間を過ごしたと、午後2時ガイドを含めわれわれ6人はホテルを出て、エローラへと向かった。エローラへ向かう途中の車窓からはデカン高原が見える。一定の高さの高原がずっと続いている。途中城砦の跡を通過しながらやがて目指すエローラの岩窟寺院へと着いた。そこには34の岩窟があるという。仏教、ヒンドゥー教、そしてジャイナ教の寺院が順に掘られて、像は彫られて行ったらしい。その宗教にしても信じるという力を梃子にして岩に穴を開けくりぬきながら石窟寺院を作り石像を刻んだのだ。信仰の力の強さ、これは人間の持つ精神力の中でもっとも崇高で強いエネルギーを持つものだ。近現代はいわば科学教という信仰によって自然と闘ってきた時代なのだ。魂を救うのではなく、捨て去るという逆のエネルギーで。その行く末は?

       

 石窟のなかでも仏教のそれらは中に彫られた石像の姿、ポーズ(印契)が肝心なところ、重要な意味を持った手や腕などがみな破壊されている。後から入った宗教(ヒンドゥー)が仏教を邪教として破壊を進め、自分たちの宗教をそこに定着させた動きの現れである。いわば、宗教闘争、戦争の跡が見えるわけだ。目に見えない精神の世界に命をかけて戦い抜くこの人間の精神の力の偉大さそして怖さを思わずにはいられない。

 岩窟の中にはところどころこうもりが棲んでいる。人を襲うタイプではなさそうだが、逆さまになってぶら下がっているのはちょっと不気味。第1〜12岩窟までが仏教(主に7世紀)、13〜29窟までがヒンドゥ教(主に9世紀ごろ)、30〜34がジャイナ教ということである。

 仏像などはその意味を辿りながら見始めると一体を見るだけでも場合によっては一日が必要になることもある。つまり、こういう観光旅行では観ることはできない世界だ。そこを見て回ろうというわけだから、いきおい、ただ見てくるだけになる。

              

 仏教寺院岩窟にはなくてヒンドゥ寺院岩窟に目立つのは動物の象の彫像だ。象はヒンドゥ教では特別意味を持っている。ところがこの象の彫像がまたみな破壊されている。壊したのは?西からのイスラム教徒の侵入である。イスラムの征服王朝は偶像を徹底的に破壊した。だからこの地のものは皆破壊された。イスラム教は他宗教に対して、攻撃されない限りは寛容であるといわれているが、こうした歴史上の事実を見ると果たしてそうかな?という思いは懐く。

 

 ジャイナ教の岩窟では柱を叩くとブォーンブォーンと反響があったという叙述が堀田善衛の本にあったが、これのことかなと思った。ジャイナ教徒は商人に信仰者が多く、比較的富裕な層によって支えられた宗教ということである。

 

 エローラの岩窟寺院群を見た後はオーランガバードへと戻って来た。夕方の自由時間には街の中に出歩いてみた。昼間、町を歩いた時には面白いことに女性の姿がまったくなかった。インドには女性はいないのかな?まさか!であったが、夕方になると少し出てきた。しかし、ぜったい一人では歩いていない。3人、4人と必ず集団で歩いているのである。それも女性だけで。それでも歩いているのは圧倒的に男が多い。街は日本の田舎の町と比べてももっと貧弱な建物が多いが、スラム化した街ではない。全体が貧しいつくりであるが、人間社会としての秩序は保たれているのである。

 

(4)

 

 よく5月6日、今回の主目的であるアジャンタ(Ajanta)へ出発。朝8:30頃ホテルから専用チャーター小型バスで一路向かう。

 車窓からの眺めは人里を離れてしまえばもう一面農耕地か荒地である。ところどころに潅木のような群れがあるが、そのほとんんどは茶色の大地だ。それでもエジプトなどとは違って、雨水の臭いというか土に湿り気があるのを感じ取れる分、殺伐とした、という印象はない。貧しい大地が広がっているのだ。ところどころで集落を通り過ぎるが、集落の中を行く人はほとんどが男ばかりだ。たまに老婆を見かけたりするが、女性はまるでどこかに隠れているかのように誰も歩いていない。浅黒い髭面(ひげずら)の男かターバンを頭に被る男たちである。

 ただ、一応舗装されている道路をひた走る中で感じ取れるのは送電線の充実ぶりである。ホテルの電気などはよく停電するが、それでも人里はなれた集落にまで送電線が引かれているのには感心した。インドは石炭産出国なので火力発電所は結構あるらしいのだ。ただ、送電技術や基盤技術がそれらを十分に活用できていないのがその当時の状況であった。

        

 走る途中の土地勘はほとんどないので何という村落かは分らないが、車窓の中から色彩豊かな塊が眼に入ってきた。女性たちである。屯しているのだ。けして一人でいるのではない。濃緑、黄色、黄緑、橙色、桃色の頭から足先まですっかり肌を隠したいわゆるサリー姿の女性たちが地べたに座り込んでおしゃべりに花を咲かせている光景が見えた。一時日本の若者たちの間にもそういう若い人々がいたが、ジベタリアンというやつである。

 男の服装はだいたいが白い開襟シャツに適当なズボン、そして履いているのはゴム草履か布靴というのが普通である。なにか自然界の鳥や動物たちとは逆に雄の方が見た目はみすぼらしい。

 こうして集まるところにはチャイと呼ばれる紅茶やバナナやスイカなどのジュース売りが屋台を構えている。否、こういう場があるから人々は飼うものを求めて集まるのかもしれない。因果は分らない。

家の造りは藁葺き屋根のような家もあるし、トタン屋根に重石をのせている家もある。ブロックを積んだだけのような家もある。中には4隅に4本の木を立て、そこにテントを張っているだけの家もある。見た目は貧しいい農村だ。

 農村には石を積んだ円形の壁塀の中に村の共同の井戸が掘ってあり、そこへ壺を頭に載せた女性たちが水を汲みに来る。大人に混じって少女もお手伝いをしている。昔懐かしい荷台の付いた牛車と痩せた牛が地面の草を食んでいる。どこか第2次大戦以前の農村でも見られたような農村の姿である。

       

 そんな農村を通り過ぎながら3時間くらいバスは走ったろうか、高原の大地のなかに盆地のようにくぼんでいる地帯が見えてきた。そして荒涼たる大地の中の崖のある部分が濃い影を作り濃い鉛筆で馬蹄形磁石のような線を引いたように見える。アジャンタの石窟寺院群だ。バスは盆の底へ降りて行くように下って行く。まもなくして鬱蒼と繁る樹木の間に広がる駐車場についた。

 

(5)

 

 駐車場にバスが停まると、色の真っ黒な大人や子供が甘いものに群がる蟻のように押寄せ、お土産品の絵葉書や彫り物などを盛んに売りつけてくる。愉快だったのは、そしてある種の非日常的なちょっとした大名気分になれるであろう誘いは4人で担いで見学をするある種の籠乗りである。なにしろ4人の男たちが担いで見学路をお神輿のようにして連れまわるというのだから、体力のないお年寄りや歩く意欲のない人、歩けない人にはありがたい乗り物だ。しかし、人並み以上に健脚である(つもりの)わたしが乗るわけがない。

          

 階段状の観光通路をいったん登りひたすら歩く。ツアーで一緒の仲間たちも皆歩く。この時期デカン高原一体は乾季であり、空は青く澄み渡っているが、6月から9月までは雨季に入り激しい雨が連日続き、いまはせせらいでいるその川を濁流と化してしまうという事であった。石窟寺院群は崖の中腹にあり、その下はワーグラー川という川が流れているのである。

 いよいよ石窟寺院の中に入る。最初は目が慣れていないから暗くて何も見えない。ガイドさんの懐中電灯によってかろうじて何が描いてあるかがわかる。第一石窟内には今回目指した法隆寺金堂壁画の原像といわれている蓮華菩薩像があるはずだ。7世紀頃の作ということだ。目は慣れてきたものの全体くらいから細部は見えない。カメラ撮影はOKではあるが、フラッシュ撮影は禁止だ。自分でとった写真を見てもぼんやりとしか菩薩像がみえない。なぜか金色に光ってしまっているが、実際は絵葉書にあるような色だ。

 法隆寺壁画との比較は専門家の研究によらなければならないが、素人が見ても分る違いは鏡でいう像の向きが左右反転である。たしかに似ていると言っても良いが、わたしの目から見ると、やはり法隆寺の方が、輪郭線の美しさといい顔のつくり、表情といい、慈悲深く柔らかく穏やかな感じがして美しく感じる。インド北部→中国→韓国→日本と渡来の過程で大きく変容されてきたことが感じ取られる。

 色彩は暗くてよくわからないが、かつては極彩色という面もあったのではないかと推測される残滓があった。

 おもしろいのは、この壁画の人物像は宗教空間でありながら男女像とも上半身は裸のままを素直に表していることである。そこに淫靡であるとか猥雑な感じがない。人間の素のの姿をそのまま活写したという感じなのである。インドは性(エロス)に対して開放的、寛容、肯定的であったのかもしれない。そういえば、この壁画にはなかったが、ガイドブックには男女のセックス体位のヴァリエーションをおおらかに表現した絵だか、彫刻があったな、と思い出した。

 アジャンタはその頃でも既に世界文化遺産に指定されていたが、その割にはあまり観光客の数は多くなかった。時々インド人一家の家族づれがいたが、押すな押すなと順をなして会場に並ぶなどという日本でよく見られる「〜特別美術展」などという感じはまったくなく、ゆっくりと自分のペースで見学できるところであった。

 石窟寺院は全部で17くらいあったと思うが、第一石窟寺院以外はなんとなく皆同じような感じがしてしまい、写真も撮らず惰性で歩いたという感じである。絵解きをした物語とともに鑑賞するのが本来の姿であることはわかっても、保全が優先されているから何しろ絵がよく見えない。中身を知ろうとするならば、現物よりもガイドブックのほうが良い、というのが実態だ。

 さて、このアジャンタ石窟寺院のある場所であるが、この5月は乾季の最後ということもあり、太陽がじりじりと照りつける。午後1時には直射日光下ではなんと40度を越える暑さだ。私は昔の日本兵のように白い帽子の下に首筋まで覆う白いタオルを挿んで熱射病対策をして歩いた。岩窟の中は乾燥していて湿気がなく、暗い分ひんやりと感じられる。風がそよと吹きぬけた時は特に爽快な感じがした。

 石窟寺院は遠く人里はなれたところにあるため、エローラと違ってイスラム教徒の破壊活動を受けることなく眠り続けた。19世紀初頭イギリス人が虎狩りに来て、第10石窟付近に逃げ込んだ虎を追っていた時に発見されたのがこのアジャンタの石窟寺院群なのだ。

したがって、ジャングルとして埋もれたまま仏教寺院とヒンドゥ教寺院が残ったのである。ヒンドゥ教は男性性器信仰があり、亀頭部状の半球石が聖なるシヴァ神として崇められている。この石窟寺院の中にあるリンガは一大聖地の扱いではないらしく、訪れる人もそれだけ少なくてすんだというわけである。ヒマラヤ、アマルナート山中にある、天然氷の桃色のリンガを手に触れるためにその旅に参加した職場の同僚(女性)にその時の体験話を聞いたが、(神田外語学院のギャラクシーに収録された文章としても発表されている)みなその聖なるものを見て触る時には恍惚然とした世界であるという。性というものに対する人間の欲望とその信仰への昇華行為のエネルギーはすごいものである。私は嫌悪派ではなく礼讃派である。特に結婚生活を送ったことでその感は強いものとなった。キリスト教倫理においても禁欲よりは解放肯定派の宗派を支持したい。それゆえに破戒者として扱われるとしても……。

 仏教寺院には涅槃像もあった。つまり、仏陀の永眠につく姿をかたどった彫像である。インドへの旅に参加する人には仏陀の生涯に関連したインドの各地を訪れるという目的の人も結構多い。誕生の地ルンビニからクシナガールの涅槃の地までという旅もまた感興の湧く旅となるだろう。キリストの誕生から磔刑のゴルゴダの磔刑の地までを辿る旅のように…。

 後から聞いた話ではこのアジャンタ一帯の地を観光巡りするにベストのシーズンは11月から3月の頃だということである。日本のちょうど冬が一番体には楽ということのようだ。

 

(6)

 

こうしてアジャンタへの往復バス旅行は無事終え、夕方5:00頃再びオーランガバードへと戻って来た。オーランガバードはやはり、町であり、自動車も数台走っており、二輪バイクに二人乗りというのが最先端の人々の姿であった。路上には時々牛もゆっくりと歩いている。ジベタリアンはお茶を飲みながら悠々と生きている。自動車は右ハンドルで左側通行、日本と同じである。英国の支配下にあったからだ。日本はなぜ交通システムを英国式にしたのだろう?

翌日7日、われわれはウダイプールへと飛んだ。ここはいわゆるマハラジャ(日本でいえば地方大名)のリゾートだ。ウダイプールはラジャスタン地方の支配豪族の住んだ中心地であった。さすがに豪勢な屋敷に住んでいただけあって、それを改造して造られたホテルは豪華そのもの。今度の旅は民衆の生活を知るのではなく、上流社会を垣間見る旅という感じ。ホテルの部屋にはマハラジャ一族が狩をして遊んだ成果や贅を尽くして遊んだ様子などが絵画や織物で権勢を誇示するがごとく壁に貼られ飾られている。虎の頭付きの全身毛皮も壁に掛けられている。ホテルは人造湖畔にあり、プール付きの豪華なホテルだ。ホテルの名前はラクシュミ・ヴィラ・王宮ホテルという。日本円で1万円/泊も出せば、大変豪華な王室に寝泊りできる。

ウダイプールは大きな観光都市のようだ。人々の服装も少し立派な感じ。女性はお腹のところでセパレートしたカラフルなサリーを着ているのが一般的。パンジャビースタイルのサリーはパーキスタンの男たちが着ているようなだぶだぶのズボンと医者や床屋さんの白衣のような上着のスタイルの上下。ただし、色は白ではなく、黄色とかピンクとかカラフル。

さて、観光地は「侍女たちの庭園」。豪族たちが涼をとるように工夫した庭園で、噴水が優雅に吹き出ている。わざわざ雨音のような音がするように噴水が四方八方に円冠状に吹き上がり、着水地点でピチピチとした音の跳ね音が聴こえるようになっている。眼をつぶってその音を聴き涼をとるという優雅な趣向なのだ。池には蓮の花と葉がたくさん浮かんでいる。

ウダイプールの名所はこの庭園とジャグディッシュ寺院という石造りのヒンドゥ教寺院。寺院は石造りであるがただ、石が積み重ねられているのではなく、石の一つ一つに彫り物が入っているのが特徴だ。それらの像は各動物であったり、人間であるが、人物は大概がグラマーな上半身裸の女人像である。

      

人の周りには綺麗なサリーをまとった老婆がバクシーシ(喜捨)を求めて屯している。その美しいサリーの色と老婆の醜悪?な態度がなんとも不釣合いな感じがする。あるいはまた安物のお土産品を売りつけようとしている。

町の中を歩いてみると、男たちは商売の品物をそっちのけて、トランプに興じている。お客さんが来たら応対するだけのこと、という感じだ。インド商人はアラビア商人ほど商売っ気がないということか?路上にはあいかわらず、国宝?のように痩せた牛たちが我が物顔でのんびりと歩いている。痩せたロバには穀物などの荷物が背負わされている。牛は何も背負っていない。牛天国。手伝いをする女の子供たちはみな素足のままだ。

        

ウダイプールという町はウダイというマハラジャがムガール帝国の3代目アクバル王によって放逐された豪族によって開かれた町だという。そこにCity Palaceと呼ばれている王宮がある。これがこの町の観光ハイライトポイントのようだ。王宮は大理石を組んだ大変重厚なつくりだ。その石の一つ一つに象嵌細工が施されている。ガネーシャと呼ばれる半象顔半人間顔の富の神さまが中心にある。文化的にはイスラムとヒンドゥの混交といった文化形態だ。コリドール(回廊)の柱石のスタイルもその典型的な混交形態だ。窓の造形などにその姿がはっきりと見えている。楼閣のガラス窓のない窓からはピチョラー湖、そして国賓を迎えるホテルが見える。

望楼からのウダイの町は白一色の建物が見える。大理石を使った家が非常に多い。この町ではミニュアチュール(細密)絵画がお土産として売られているが、品質は上から下までピンキリ。本物の象牙に描かれた細密画は良いものは1,000ドル位する。私は300ドルほどのものを購入した。

 

ホテルのトイレは西洋式であるからまったく違和感がないが、インドの普通の家、公共のトイレでどうしても受け入れられないのは、特に大便の際は尻拭きである。幸い私は急にお腹が痛くなり……ということは一度もなく、すべてホテルの様式便所で済ますことができたが、女性は困惑したのでは?と思われるのが、「紙」がないということである。ごく普通のお店で小用のためにトイレを借りたが、そこは男女兼用であり、トイレットペーパーがなかった。代わりに壺に水が貯めてあり、それを左手で使うというのがものの本に書いてある使用法である。勘弁してくれヨ!という世界である。そういえば、イスラムのパーキスタンでもエジプトでもお腹が痛くなったりすることはなかったなぁ!良かった!!

この町ではヒンドゥ語よりも英語表示が町の中には多かった。外国人観光客が多いせいだろうか?牛車やボロバイク、それにポンコツ自動車が多いというのは変らない路上の姿である。

夕方、マハラジャに招かれたゲストのごとく?ピチョーラ湖周遊クルージングを楽しんだ。我々一行6人の貸切遊覧船だ。夜はラジャスタン人形劇を見た。人が幕の後ろに隠れて人形を操る仕掛けの人形劇だ。話の中身がわからずしかもやたらギャーギャーうるさいだけという感じの劇でおもしろくなかった。

        

(7)

 

5月8日、次に我々が向かったのはジャイプールだ。ジャイプールではおもしろい人に会った。われわれ日本人にはまったく知られていないが、インドでは大変人気のある女優さん、ハタンガディさんである。インド人では知らない人はなく、インド一の稼ぎ頭女優さんなのだそうだ。見た目はごくごく普通のおばちゃんで、どこにでもいるという感じの方だったが、ガイドのラワット氏の勧めもあって、一緒に記念写真を撮り、サインももらっておいた。日本でいうと、京塚マサコとか泉ピン子といった感じの女優というところ。

ジャイプールはインドの中でもデリー、アゴラと並ぶインド3大観光都市のひとつである。われわれが泊まったホテルはアメリカンスタイルのホテル。そこでは上流階級夫人のためのサリーの展示販売会が行われており、お金持ちのご婦人方が集っていた。

一方、町には観光客目当ての物乞い人たちがあちこちで活動している。

赤茶色のピンクシティと呼ばれる「侍女の館」(=後宮のようなもの)がある。赤茶色の石で組み合わされた石造りの建物である。この町は砂漠に近いせいか、町の中には牛ではなく、駱駝が荷役作業に従事して路上を闊歩している。駱駝は巨大で力持ちだ。この町のメインポイントはアンベール城というマハラジャの城。この藩王は歴代政治的に非常に柔軟であり、11世紀から20世紀まで、インド支配王朝の度重なる政権交代下でも巧みに生き延びてきたマハラジャであるということだ。

      

ここで、われわれはインド象に乗る旅をした。もちろん観光用のだ。象の背中に乗るときは象を動かすのではなく、われわれ乗客が高い石台(プラットホーム)へと昇り、そこで象の背中に移る。象は一見従順そうに見えるが像使いの言うこと以外は聞かない。象への命令は先の尖った金属製の棒で像の耳のある部分を象使いが突いて命令を使い分ける。背中にくくりつけられた木枠の台にわれわれは腰掛ける姿勢で乗る。さぁ、準備ができた。出発!となり、のっそり象が動き出す。背中のわれわれは大きく揺すぶられる。落ちないように木枠につかまらないといけない、と思って少し緊張する。とまもなく、後ろ後方から「ヤスイヨ!ヤスイヨ!」と声が追いかけてくる。子供たちがお土産を抱えて走って追いかけてくる。象はそんな声に耳を貸すこともなく、黙々とわれわれを運ぶ。結構なスピードだ。坂道になってもなお、子供たちは走って懸命に追いかけてくる。こういうときってのは複雑な気持ちになってしまう。

アンベール城まで大した時間ではないが、象タクシーで行き、城の中を見学する。イスラムのムガール帝国の支配下を生き延びたヒンドゥ教徒たちの延命作として採用した混交文化がやはり目立つ。この建物の中ではイスラム的な幾何学的な模様が象嵌細工として天井にはめ込まれていて、それが夜になると暗い中で蝋燭の火一本でキラキラ星の瞬くように部屋を明るく照らすという部屋がとてもよかった。

アンベール城と並んで有名なのが風の宮殿と呼ばれているマハラジャ在住の王宮である。宮殿の内部には世界一の大きさを誇る銀製の大壺があった。マハラジャたちの贅沢な暮らしぶりが伺われる場所である。

    

さて、このジャイプールは一大観光都市ということは記述の通りであるが、それ故に物乞いの多さ、大道芸人などもたくさんいる。おもしろいのはキングコブラの蛇使い。コブラ使いは観光客とみるとまず「フォト!フォト!」と叫ぶ、そしてやおら笛を吹きコブラを刺激する。開いたざるのような籠の中のコブラが二匹鎌首を上げてゆらゆらと笛のほうを突付くポーズをとる。そこでシャッターを切ると、笛は突然やんで、籠のふたを閉めて「10ルピー!」とお金を請求する、という仕掛けである。これを桜を入れてグルになってやる。私は5ルピー渡してそれ以上あげなかった。そのようにして蛇使いたちはカモを待つのである。

もう一つの物乞いはすごい世界であった。ジャンヌル・マンタルというところへ行った時のことだ。さーっと一瞬視界を突然横切るものがあった。猿が跳んで来たという感じであった。視線の動いた先に見たものは、日本の手、一本の足ですばやく跳び動く猿ではなく、まさしく人間の姿であった。二足歩行のスタイルではなく、両手を足のように使っている類人猿である。顔の中の両目は敵意を含んだような鋭さを持ちギラギラ、ランラン、コウコウと輝きこちらの顔の表情を読んでいる。気の弱い女性ならば、キャーと叫び恐怖のあまり、身をよじり、誰かの胸の中にでも顔を埋め、その世界から一刻も早く抜け出たいと叫ぶであろう姿である。低い一本足でかがむ姿勢から金をくれと両手を出してせがむポーズを無言のうちにとっている。同情の表情があれば、もっと近づいてくるという姿勢である。私はこのとき、同情というよりは戦闘態勢に入り、体に緊張が走った。その顔を睨み返しながら負けるものかと眼を三角にした。(なっていたかな?)このあいだ、数秒というところ。するとその物乞い人はさっと3本の手足を使って別の人のほうへと跳ね跳んで行った。まるで猿そのもの動きである。狼に育てられた人間の子供の話が実話としてインドにはあるが、サルと一緒に生活している人間というのはまだいるのではないか、という感じがする。ここまで相手が動物的であると、人間としての慈悲とか惻隠の情というものはその時には沸き起こらないものである。本能的に身を守るという姿勢になる。

戦場などで敵兵を認識する時の感情はこういうものなのだろうか?そういえば、アンマンで銃で待ち構えていた兵士たちの鷹の目のような光はこの物乞いと同質であったような気がする。

また、今では日本では使ってはいけない言葉となっている「イザリ」そのままの、台車に座り込み手で地面を蹴りながら観光客に物乞いのためにつきまとう老婆もいた。動くたびにジャリ、ゴー、ジャリ、ゴーと地面をはいずる台車の動く音が耳から離れずしばらく困惑していた。

  

その日の夜、ジャイプールのホテルでは夜孔雀の羽を身にまとった孔雀の踊りやサリー姿のダンスなどを見た。インドの踊りには官能性はない。手足の動きで感情表現をするという意味ではフラダンスやベリダンスなどと同じであろうが、胸を突き出したり、腰をくねらせ男を誘うような姿勢はない。穏やかなダンスである。

 

(8)

 

5月9日、ジャイプールからもう一つのメインポイント、タージマハール廟のあるアゴラへの移動である。距離は約250km。この間をアンバサダーというインドの国産自動車(TATA)で移動する。車のスタイルはクラシカルな昭和30年代に日本で見かけたタタの車。車による移動はいろいろなインドの現実を眼にできそうなので楽しみだ。

            

道路は一応舗装されている。一応というのは日本やアメリカの幹線国道のように平らにアスファルトが敷かれているわけではなく、結構くぼみがある舗装道路だからだ。それでもぬかるみに轍をとられることがないだけ高速走行が可能だ。交通量は少ない。ただ荷物を制限以上に過剰に満載したトラックが時々走っている。自動車にはバックミラーはなく、追い越しはダライバーの目視と勘でやるから結構怖い。中央分離帯もハッキリしたとk路はほとんどないからやはり危険だ。クラクションをビッビーと鳴らし続けながら対向車の存在を確かめる走り方だ。道路の脇には特に村の存在が近いと一定間隔に大きな樹木が立っている。道路の両脇に何にもないところから樹木が立っているところへ来るともうすぐ何がしかの村があることが推測される。昔はこうした木の下で疲れを癒したり、馬車や駱駝を休ませながら旅を続けたということである。

村には道路の両脇に商店街という趣でお店が並んでいる。駱駝が主なる荷役車だ。村の子供たちはわれわれの車が休憩のために停止すると珍しいのか寄ってきて、物珍しそうに自動車を触ったり、われわれのことを見ている。けして物乞いということではなく、好奇心に満ちた子供らしいいきいきした顔をした子供たちだ。何の警戒心もなく、眼があうとニコニコしている。陽光焼けの褐色の肌の中に真っ白な大きな歯をした子供たちが笑っている。われわれの子供時代のような素朴さがなんともいえなく懐かしく心地よい。

別の村に停まった時はジャリを入れた籠を頭の上に乗せた労働する女性たちが5,6人群れを成して歩いていた。彼女たちも肌は真っ黒だ。やはり、強烈な太陽による日焼けなのだろう。村でスイカを売っている移動式屋台があった。丸ごとのままのものもあるし、4分の1サイズに切ってあるものもある。真っ赤なスイカでおいしそうだ。ところがところどころが真っ黒になっている。種にしては一箇所に集まりすぎた感じだ。近づいてみるとハエが何匹も群れをなして人の気配も怖がらずにスイカに群がっているのだ。人が手で叩かない限りハエたちは図々しく留まったままだ。買って食べてみたかったが、急に意欲がなくなった。しかし、村の人々はハエなど全然気にしない。ハエが留まったままのスイカを買い、そのまま食べてしまう。ハエはそれでもへばりついて汁を吸っている。生きているものはみな共存というこの感覚について行けない。

              

女性たちが共同井戸で水を汲み、彼女たちの頭の上に壺を乗せて運ぶ姿も目撃した。上下水道のインフラはまったく整っていないのがインドの田舎である。

アゴラへの途中、廃墟となったファテプール・シクリという赤茶色の石でできた城砦と宮殿跡を訪れた。砂漠の中にある熱風すら吹くような灼熱の大地の中の廃墟である。人影もなく、ただわれわれのような観光客だけが訪れるというところのようだ。かつてはイスラムの支配者たちが君臨したところということで、建物は幾何学的な文様の彫り物が多く、その石柱などは往時の栄華を偲ばせるものであった。建物の特徴としては柱石と壁そして窓からなるがガラスがないのでいわゆる窓は窓枠だけである。風の通りをよくして過ごしやすくする工夫であったのかもしれない。インドの建物はヒンドゥ様式、イスラム様式の混合形態が圧倒的に多い。各時代の支配層の変転に応じてのことである。

 

約4時間くらいの後、われわれはアゴラへ到着した。タージ・マハールは大人気スポットだ。観光案内書で見るままのタージ・マハール廟が眼前にある。やはりインドに来たのだ、という実感が強く湧く。ただ観光写真では群青色の空の下に白亜の廟がコントラストを強く押し出されて撮影されていることが多いが、実物の廟は純白というよりは薄茶色の大理石で組まれている。遠方かららその日のお天気によっては純白に写るのであろうが、肉眼では大理石の実際の色と石の性質がよく識別できる。

                 

おもしろいのはここへの入場料が時間帯によって変わる事。夕方4:00過ぎのほうが入場料が高く、われわれが入った昼間のほうが安いとのこと。恐らく夕方のほうが「白亜」の色彩がよくでて綺麗に見えるからなのだろう。

タージ・マハル廟というのは、ムガール帝国国王シャージャハンが愛妃マハルのために建てた廟である。インド皇帝は江戸の徳川将軍と同じように愛妾を200人以上持つのが普通であったということだが、シャージャハンは彼女だけを寵愛して他の女性には眼もくれなかったということである。マハル妃は傾国の美女であったのか、この廟を建築するためにシャージャハンは莫大な散財をし、あげく息子に気ちがい扱いされ、アグラ城に幽閉の身となったということである。シャージャハンの生涯というのは十分小説の素材になるものとしてマークしておくことにする。

その幽閉されたアグラ城からはジャムナ河の向こうにタージ・マハール廟が見える。当時の幽閉された身のシャージャハンの心中やいかに……。

このタージマハールは翌朝10日にも再度見に行った。朝の廟は人もほとんどおらず、貸しきり状態。この建物はイスラム建築の粋というもので、草木紋、幾何学紋の組み合わせが白い大理石の中へ象嵌細工として組み込まれている。実に細密な飽きの来ないきれいなものである。

 

(9)

 

10日、アゴラを立ちデリーへ向かった。デリーに近づくにつれ、郊外にはスラム化したみすぼらしい家、小屋が増えてくる。貧富の格差が見えてくる場所である。都会生活の影響からまったく自由な村のほうが生活は貧しくても人々に活気が見られる。

やはりデリーはインドの有数の大都市であり、国際都市である。街を走る自動車の種類も数も急に多くなる。デリーでは国立博物館へ行ってみたが、未開民族のプリミティブ・アートの類が陳列されているほかはあまり興味を持てる展示品はなかった。NAGA族といいうのがおもしろい。もうひとつ興味を持ったのは博物館の中に細密画の展示があったが、その図柄の中に「イエスキリストの誕生と東方の3賢人」の画題のついた作品があり、それがイスラム的細密画の様式でイエス伝説の絵解きとして描かれていたのだ。このキリスト教とイスラムの混交文化もはなはだもって異文化コミュニケーション研究の具体的なものとして関心を曳くものである。

         

デリー市内では建国の父マハトマ・ガンジーの墓を訪れたほかはめぼしい場所はなかった。一応、大統領官邸や官邸前広場そして昔の天文台などを訪れたが、わたしにとっておもしろかったのはデリーの庶民の生活ぶり、エネルギーであった。町の中には人力で引くリキシャ(力車と偶然一致?)やオートリキシャ(自転車で引っぱる人力車)があり、観光客を奪い合っている。男たちは胸をはだけたYシャツ姿にズボンといういでたちで道を歩いている。公共バスはエジプトのカイロで見たのと同じようにガラス窓明けっぱなしで、入り口付近はしがみついて乗ろうとする人に溢れている。そして牛車に荷物満載の荷役車、三輪ミゼット。

人々が屯しているところを覗いてみると宝くじ売り場。一攫千金を夢見る人々のさまは何処も同じ。

デリーでは観光ツアーにつきもののお買い物ツアーとして宝石店訪問があった。インドは宝石の原石の産地として有名ではあるが、素人は原石の良いものを選ぶ眼力がないのが普通。本当に国際的にX千万級の宝石(ルビーやエメラルドの原石)はインドの市場には出ず、ロンドンとかニューヨークへ行ってしまうそうだ。ただ、資産価値とは別に手ごろなお土産装飾品としては日本の相場よりもかなり安く原石が買えることは確かだ。インドの研磨技術はそれほど優れていないので、加工技術料は高くはないが、原石のよさは出てこないということだ。宝石についてはこのインドを含め、セイロンで土にまみれて本格的に原石採取をしたことがある職場の同僚のO氏が雑学として体験話を聞かせてくれていたことが役に立った。宝石というのは確かに人を、特に女性を狂わす、魔力的なものである。小説素材としては出番の多い小道具である。

 

(10)

 

 この旅はいわゆるツアーへの参加の旅であった。他の4人の参加者とはそれほど仲良しになったわけでもなかったが、男性の同僚はO氏しかいなかったが、なかなか豪快なところがあり、文化批評なども鋭いところがあり、性格も太っ腹でおもしろかった。夫人はそんなやんちゃぶりに辟易しているところもあったが、ともに愉快な仲間だった。ただし、このO氏はバブルの崩壊後事業がうまく行かなくなったらしい。その後のことは知らない。

36本のフィルムでは足りないほど写真を撮りそれらを現像してアルバムに記録文書や備忘録と一緒に収録した。この旅行記はそれをもとに印画紙写真をデジカメで取り直して載せている。したがって画質は例によっておちている。

インドについての感想としては、いわゆる観光旅行を安全に行っただけであったが、自動車の旅も含め田舎の民衆の生活の一端を垣間見ることのできた旅で、その元気の良いエネルギーは印象深かった。中国とともにこれからの国であることを感じさせるに十分な潜在的な底力を感じた。ただ、インドについては本当は後2回は行かねば全体はわからないようだ。中国も5回は行かないと全体はとても見られそうにないのと同様、インドはでかい。あるいは最初の1週間、下痢や発熱を伴う風土病に耐えながら、体を向こう用に適用し直させ、貧乏旅行をしながら人間の持つ根元的な生命力に触れなおすか、そんな問いを懐くことになった。

 

2010年というあれから約15年の時の流れの中でインドの発展はすさまじい。天然資源も豊富であり、数学に強い、コンピュータソフト開発に優れた人材の宝庫、英語に強いなどという人力(Manpower)もいよいよ寄与し始めている昨今である。堀田善衛氏の言う「生きたい、生きたい」と欲する国が生きる術を手にして動き出しているのである。日本はヨーロッパ諸国と同じように「死にたくない、死にたくない」と喘ぎ始めた昨今である。

日本を取り巻くアジア諸国との関係は中国そしてこのインドへと、なぜか仏教の発生の地から伝来の国との関係へと、これまで欧米へ向けたエネルギー以上に全力でエネルギーを振り向けなければならない時代になっているような気がしている。欧米離れを主張するということではないのだが……。

 

<了> 


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