わが名はヘボタ(10)
魁 三鉄
以前、オレは影のことを書いたが、うまれてからこの方、常日頃、オレにはどうしてもその正体がわからないままに不思議に思い続けていることがいくつかある。もちろん、わからないことというのはわからないことがわかっているという意味でわからないことを云うのであって、改めて問題とされれば、わからないことなどは残念ながら無数といっても良いほどにある。つまり本当はみんなわからないということになってしまう。これから書こうとしていることは、つまりそれなりに意識して見ている事柄であるにもかかわらず、よく理解できない不思議なものということだ。
そのひとつが水という奴だ。主人などはこの頃は水が信用できないと妙に案じている様子で、わざわざ1000年も昔から出ている熊野の聖水という湧き水をタンクに汲みに行っているらしい。自宅にある水道水というのは人間たちが街に集団で住むための知恵としてわざわざ飲むために河や地下から引いてきて貯め置きしている水らしい。その水道水が必ずしも体によいものではなく、蓄えられたり、ろ過され、管を伝わって来るうちにどんどん健康によくない成分を含んでしまったり、あるいは「変な」臭いがしたりして不快なものになっているというのだ。なんといっても水がなければ人間に限らずオレを含めた生物という奴は生命を維持できないことは云うまでもない。種族の生命の維持を心配することは自然なことだと思うが、人間さまは、オレに言わせれば、少し手前勝手な生き物だ。オレなどは人間と一緒に仲良くする生活する立場にあるからあまり実感としては感じていないが、人間と仲良く生活する奴だけを大切にすればよい、仲良くしないやつは滅ぼしてしまえとか、人間に直接利益をもたらさない奴などはそいつらが生存を脅かされるようなことになってもほっぽらかしておけば良いのだ、というのは勝手というよりはむしろ視野の狭い危険な考えであり、態度だ。人間中心主義というのは、確かに訳のわからないお呪いや妙な権威におびえたり、惑わされたりしない、素直な自分の目でものをみる人々を生み出してきたし、またかれらを励ましてきたけれども、中心主義という「中心」は人間だけの利益が全てであるから人間はみな我利我利亡者になりましょうということではなかったはずだ。
このごろではさすがに自分たちだけの生活環境の破壊にまで事態が及ぶようになってしまったということでしきりに反省の気運が盛り上がってきているが、まだまだお金をできるだけ得ることとより健康的な人間生活を作ってゆくこととどちらが大切なのだという選択の迫られる状況では「お金さ。お金。自分の身の回りさえ悪くならなければ環境などに気を使うことはないよ」と思っている人が多いようだ。総論賛成各論反対というのはなにごとにも出てくる毎度の人間さまの行動様式のようだ。こんな様相では衆愚社会ここに極まれりというところだ。オレの友達のゲジュラ一族にしても、やせ蟷螂のヒョロにしても感じている事はオレと同じだ。否、オレなどよりもはるかに真剣な危機感を持っている。ヒョロの奴が言っていたが、葉っぱや草の朝露がもう数年前に比べて酸っぱくてたまらないというのだ。ヒョロの身内はみな草色というか、爽やかな新鮮な、あかるい緑色の衣を羽織っているのが普通だが、ヒョロが言うことには、身内の中には赤茶けた変な色をしたのが生まれてしまってみんなおお困りしたということだ。結局、その子ども蟷螂は体が弱くて死んでしまったということだ。なんでも、雨が降ったときに、草葉の裏に隠れて雨露をしのげば良かったのに、雨に濡れても一生懸命餌採りに夢中になっていたのがそもそもの原因らしい。気の毒な事が現実にオレの仲間たちの近いところでも起こっているのだ。
とまぁ、オレは少し憤りみたいな気持ちで興奮してしまったが、オレが水についてこれから書こうとしていることは、実は環境破壊に関連して思いついていたことを記すのではないのだ。確かにオレが毎日飲む水も味がどんどん落ちている。錆付いた箱の中に何百年、も閉じ込められていたような澱んだ重苦しい、生気のないかび臭いにおいとそれをなんとか力ずくで無理やり生き返らせようとする薬がもつれあっているところに発せられるくさい水がどんどん増えてきている。人間さまの嗅覚ではあまり気にされていないようだが……でも、そのことについてはこれ以上ここで触れることはやめておこう。
オレが水というものに対してむける好奇心というのは、その揺らめく姿であり、また変幻自在にその姿を変えるそんな姿に対するものだ。このシリーズを前から読んでくれている皆さんはもうご存知のことだが、オレは基本的には家の中に住んでいて昼間はお日様が出ると外の庭に出してもらう生活をしている。オレが鎖につながれているそばには丸い形をした池と呼ばれる水溜りがある。オレは最初これが何のことかさっぱりわからなかった。池の縁には少し盛り上がったコンクリートの塊が出鱈目な形でぐるっと囲んである。通りすがりの人が、やわらかいコンクリートの塊を握りとり、どうぞ好きなところに好きなように投げて行ってください、という掲示板を見て、てんでんに好き勝手に投げつけていったのでは、という感じのよくぞこれだけ出鱈目にでこぼこが付いたという感じの形だ。実を言うと、この縁(フチ)のでこぼこはよその人に頼んで作ってもらったのではなく、わが主人の学生時代のころの作品だ。作品と呼ぶにはちと悲惨な影がある。本当は設計図とやらを片手に日本庭園の思想を盛り込んで……というたいそうな構想の下に始められた一大事業であったらしい。といったところで、丸一日も頭をひねらなければやれそうもない、などという一大事業は家事にはあるまいと高をくくっているくらいの人だから一大事業といったところで三時間も構想を練ったりすればそれはもう彼にとっては一大事業に相違ない。『日本美の再発見』などという本を読んでは桂離宮風にとか、竜安寺石庭風にとか、それはそれなりの検討はしたらしい。そしてコンクリートを捏(こ)ね回しては、生乾きの状態で名園の池を気取っては、ひとり品評を重ね、造っては壊し、手を入れては削り取り、とやったらしい。そうして二日間の突貫工事でめでたく様式美を備えた池ができあがり、後はただ水を張って……という段まで来たそうだ。
ところが、池は肝心の水を張っての池、このことを主人はすっかり忘れていた。すっかりといってしまうと、まるで才覚のない馬鹿と同じになってしまうので、少し配慮に欠けていたということにしておこう。それに若いという言葉も使えるかな。ともかくも、完成をみた池は土の中に埋め込まれることとなった。主人の思惑では形を造ってからでも十分に土の中に埋め込むことができると考えていたらしい。車で引っ張ろうかと思うが自分ひとりでできないし、それにそんなスペースもない。そこで鉄棒を大きな石を梃子(てこ)にして池の下にくぐらせ、力いっぱい下へ体重もろとも力を入れた瞬間のことだ。バキッ、ゴッキンという音がして池が二つに裂けてしまった。造船所で造られた船が進水式で転覆してしまったようなものだ。力学的計算なくして美的様式におぼれてのことといえばそれまでのことだが、あまりにも簡単に壊れたものだから、主人は自分の人生を全てあっけなくすべて否定されたようでショックを受けたらしい。一度割れてしまったものを水漏りをしないように修復するのは至難の業らしい。結局、池は既成のコンクリートの土管を縦に土の中に埋めることにして、堅固なものにすることになってしまった。それなりの格好をして造られていたコンクリートの庭園風の池は使いものにならなくなってしまったので、一部分を砕いてその土管の池の周辺縁として使うこととなったというわけだ。この期に及んではもう美観などは頭になく、絶対誰にもまねできないような独創的な姿にしてしまえ!とばかりにコンクリートの塊となって積み上げられたのが、オレが独創的出鱈目と名づけている池だ。
そんなわけで、オレはこの池に張られた水を見たときにその正体の不可思議の理由がこの池の成立に因っているのではないかとさえ思ったくらいだ。
なんといっても、オレが覗き込んだときのこと、そこには鼻の長い狐の顔をしたような奴がオレを不思議そうな眼で見つめている。オレが不思議だと思うのと同じ度合いでそいつもオレを不思議そうな眼で見つめる。オレは得意の鼻を使って臭いを嗅ぎにかかるが苔臭いにおいがごく微かにする以外には生きているものに特有のあの生のにおいがそこにはない。と、そいつも鼻をオレの鼻の方にずっとくっつけるように近づけてくる。ギョッ!!オレは一瞬後づさりする。するとそいつも奥の方へと引っ込む。オレはじっと再び見つめる。そいつもじっとオレを見る。なんだ?!なんだ?!
最初はオレはそいつのことしか眼に入らなかったが、慣れてくるにしたがっていろいろなものがそこにあることがわかり始めた。オレが空気の中で見ている木や葉に似たものがやっぱり映っている。形が同じばかりでなく、色も付いているらしい。らしいというのは、オレはそれが当たり前のように思っているのだが、オレの外の世界は黒から白の諧調(グラデーション)による変化ではなく、色が無限に豊かに彩られているらしいのだ。でも残念ながらオレにはそれらをそのように見ることができないのだ。さて、オレの世界には色はなくても色はあるという、言葉としては成り立たないけれども、確かに感覚としては色が存在していると感じさせるあの水墨画で言うところの五彩の感をやはり水面の上の木や葉にも感じるのだ。ただ不思議なのはその五彩の感じが日によってあるいは時間によって変化することだ。あるいっときのこと、オレは日がな池の凹凸に足をかけて覗いていたものだ。不思議だ。見ているうちにオレは少しも動かないのにいままで真っ黒であったところが少し灰色がかってきたりする。かと思えば、いままで白く輝いていたところが濃く暗い色に変わっても来る。オレの眼の中ではバケツの中に水流の渦巻きをつくり、そこに墨汁をたらしこんだ時のように黒やら濃灰色、ねずみ色、薄貝色、などがたゆたい、大きさを変えながら生き物のように変幻自在に動いて行く。その変化につれて木や葉の形、それにそいつの形も、あるところははっきりと、あるところは輪郭がぼけてくる。なんだ!なんだ?!これは?生きているぞ、こいつらは……。オレは思わず空を見上げた。眼の中にはキラキラと光の切片がまるでガラスの破片のように刺さってくる。まばゆい!思わず下を向いて眼を休める。するとしばらくは眼の下は真っ暗な世界だ。慣れてくるとまたぞろそいつらの姿がおぼろげながら姿から次第次第にはっきりとした輪郭を取りはじめる。それになんだか自分の眼が回ったようにゆらゆらと眼に映る映像がたまゆらに波打つように動いている。たゆたう水面は白く光り、また黒く重なる動きを繰り返す。
それに引き換え、お日様の出ない日は水面もどよーんとしていて木や葉の形も鈍重な鉛の塊のような映像となって冷たく鈍く光っている。水面の全体が静謐に濃い黒味がかった草色をしている。
ははぁーん、ある時突然、オレは水の面に生息する変幻自在の姿をしたものたちがどうやらお日様の加減によって姿かたちを自在に変えるらしいということを思いついた。それはなんと主人がアイネ・クライネ・ナハト・ムジークという名曲を誰に頼まれるでもなく、掛け始めたときに突然オレの頭にひらめいたのだ。タン・タン・ターラ・ターラ・ラ・ラ・ターラ・ラ・……、そんな出だしが突然オレにお日様の光が一条差し込んで来たような錯覚をもたらしたからだ。その時はもう夜になっていた。なぜ、それなのにそんな時、突然、お日様と水に映る像がオレの頭の中に現れたのかは説明出来ない。ただオレは訳はわからないが、きっとそうだ、まちがいない、という確信のようなものがぴたっと張り付いてきたように感じた。そのときオレは無性に夜の外へ出たいという衝動に駆られた。そんな理由のハッキリわからないインスピレーションによってオレはお日様と水の映像を関係付けてみた。
それが正しいのかどうかは今もってオレにはわからない。ただ、その後、ガシャ君が来たときに主人と話していたことからするとオレの頭に突然浮かんだ思いはまんざら全くの見当はずれではなかったらしい。ガシャ君はモネというフランスの画家が特に好きなのだそうだ。日本人というのは、ひとつにはジャポニスムとか云われる当時のフランス人たちの日本贔屓の投影が見られるからということもあってか、このモネに代表される印象派といわれる画家たちの作品がことのほか好きらしい。主人のところに遊びに来たガシャ君がいかにモネが野外の光に取り付かれ、それを表現しようと腐心したかを画集を片手に事細かに説明し、彼が光り輝きながら水面のたゆたう様を的確に表現する技術を持っていたかを論じたとき、オレはその画集に描かれた水面の表情がまさしくオレが見たものに一致したものであることをハッキリ知ることができた。それは写真ではけっして表現できない眼の中で生きている水の表情を生きたままに表わしているのだ。確かに、その絵を見ていると水の作る表情がそのまま瞼の中に棲み込んでいるような錯覚を覚えるものだ。静止的な止まった表情ではなく、見ている者が水面のゆらゆらと揺れ動く、生きている世界に引き込まれてしまうのだ。自分は今本当に揺れ動く水面を見ているというようなリアリティ(現実感)を感じてしまうわけだ。描かれた姿かたちはおぼろげになりながら臨場感のある現実を感じてしまうわけだ。それをわずかの暗色と白の組み合わせで、後は画家の筆の力で作ってしまったのだからこれはすごい!絶対に人間にしか表現できない絵画力の勝利だということになる。この画家は一瞬の光の表情をも見逃すまいとこころを張って対象を見つめていたということだ。
そんなふうにして、光はヨーロッパの画家たちにとっては一大テーマとなったらしい。ガシャ君はモネのほかにもマルケという画家の光の表現もなかなか味があるという。ストレートな光の描写ではなく、河や海の水面を独特の静謐な草緑で表わした彼の作品が良いという。そんな話をした後で主人が大事にしている絵をしきりに褒める。主人は印象派の画家たちへの関心はそんなに強くは持っていないらしいが、今日の絵画といえどもおのずとそれは印象派との地下水脈的なつながりは必ず持っているはずであるという点においてはガシャ君と同じ土俵に立っている。主人のところに飾られている絵はJ=F・ドゥマルヌという若い無名の画家のものだが、表現技法は印象派とは全く異なるが、テーマを光の表現としている点では同じとみているらしい。主人は知ってか知らぬか、この若い画家の光の表現のリアリティと澄んだ絵肌、宝石のような色彩、そして明晰な構成に強く惹かれて手に入れたらしい。ガシャ君は現物を前にして眼に突き刺さるような強い南仏の光の煌きを単色で表現しているその画力をしきりに褒めている。おもしろいことに「これは光と時間の立体画だ!」と叫んでいる。ガシャ君のフランス絵画を見慣れた眼でみると、その絵は「これまでの伝統的なフランス絵画に立ちながら、ひとつ頭を抜け出した現代性が入っている。これは残るナ」といっている。わが主人は黙って聴いているがそう云われてまんざらでもないという顔をしている以上に、悦びを感じている。オレが池の縁から空を見上げたときに光の破片が眼の中に刺さってきたときの煌きとおなじものがそこには表現されている。朝の光と真昼の光と夕方の光が同時に表現されている。そんな絵は確かにこれまでに存在したことはなかった。オレはそれがこれまで誰にも表現されたことのない、彼独自の表現方法によるものであるかどうかを判断するすべはないが、主人はそれをその画家の独創的な表現方法だと確信している。ガシャ君もすっかりそのことを認めているらしい。ただ、ドゥマルヌは水との関係で光を表現することに対してよりは、鏡に映る影と光の表現に関心を寄せているらしい。
そんなガシャ君と主人のやり取りを聞きながら、やっぱりそうかとオレは心密かにオレの勝利を確信したというわけだ。つまりは、水面の正体に迫ることができたとういう自己満足感にひたったわけだ。とは言っても、それによって水の映像のすべてがわかってしまったのかと言えばそうではない。
どうして、水というのは自分より低いところに必ず入り込んでくるのだろう?これも依然として解けない疑問だ。隙間という隙間があれば必ず逃すことなくそこに染み込んでくる。そういうところを逃すことなく必ず見つけ出す嗅覚を備えている。そしてじわりじわりと自分が入り込む場所を手探りしながら、かならずその場を手に入れてしまう。蛇のペロよりもお利口な生き物?だ。それにお日様がカンカンと照りつけている日などには煙のようなものがうっすらと、ゆらゆらと今度は水面の上に漂いだす。それらがどこへ昇ってゆくのかさっぱりわからない。ある高さまで昇ってゆくとそれらはオレの眼には見えなくなって姿を消してしまう。これもオレにはわからない。いったい水ってなんなのだ?さらにそいつは正体を変える。オレの大好きな寒い冬になるとそいつは今度は固いガラス板のように姿を変えてしまう。鼻を寄せて臭いをかいでみるが、ぴちゃぴちゃした水のそれと臭いは変わっていない。しかし、鼻の先に当るそれは固くて冷たい。それに鈍く光っている。木や葉の姿はそれとは分からぬ輪郭でぼーっとした影となっているだけだ。少し押し込むように鼻をつけるとピシッとかミシミシと、軽く音がすることもある。息を吹きかけるとそいつはぬめぬめと潤い始め、やがて温かくなったそこだけ穴が開いてしまい、水が薄―く浸り始める。まったく不思議で不思議で仕方がない。
この固まった水面に映る姿は今ひとつ輪郭がハッキリしないが、オレがやはり不思議に思ったのが部屋の中にある鏡という奴だ。今ではカガミとかミラーとかいう言葉を聞くことにはすっかり慣れてしまっているが、こいつの正体についてはオレにとってはいまもって謎だらけだ。改めて考えれば考えるほど分からなくなってくる。第一こいつはいつでもハッキリした映像を映す力がある。オレが空気の中を通してみているものが同じように映っている。ただし、こいつは水面と違って地面に垂直に掛かっている。まだそいつに慣れないころは、オレが近づけば同じ勢いでオレに近寄ってくる奴がいることに腹を立て、オレはそいつを吠え立てたものだが、生意気にもそいつはオレが吼えるのと同時に歯をむき出しにしながらオレに飛びかかってくる。思わずオレは身をかわして敵の襲撃を避ける。その瞬間、そいつはくるりと向きを変えて同じように身を翻す。オレはつるつるに光っている面に手をかけてみるがつるつるした向こう側にいる奴のことはどうしても直に触っている気がしない。しばらくオレはそいつから離れ様子を伺うが、そうするとそいつもじっとオレのことを伺っている。とうとうオレは攻撃をあきらめた。オレは裏側にも回ってみたがそこには何もない。なにかがいた気配もない。オレは懸命に鼻を使ってみるが変わったものはなにもないし、においも何もない。そんなオレの姿を主人は見て、ヘボタの奴はカガミに興味をもっている、と推測したらしい。オレは抱きかかえられて、なんとコの字の形をした鏡のところへ連れて行かれた。オレはキョトンとして正面を見るが同時に右の方にはオレの主人に抱かれた奴がいるし、また左眼のほうに神経を集中すれば、オレを抱きかかえながらニヤニヤしている主人の左側の姿が写っている。オレは鏡を覗き込んでいる奴がどうやらオレ自身らしいとこの時初めて気がついた。だってオレは確かに主人に抱かれている。これはオレが直接見ている現実だし、感じることのできる生の世界だ。そして紛れもなくそれと同じ姿をしたものが鏡に映っているのだ。ただ、右と左が、左と右がなんだかオレには変だ。オレの頭はなんだか変なことになっている。でも、そこに映っているのはどこからどう考えてもオレだということになる。ここに至り、オレは水面に映っていた奴もオレだということがわかった。オレはいろんなところにオレとなって出現する。オレを同時に何匹にも増やしてくれるものなのだ。水も鏡も……。それにしても鏡という奴は不思議な奴だ。いつのことだったか、散歩の途中に割れたカガミが捨てられたのか、落ちていた。それはいくつかの破片になっていたのだが、オレがそれを覗きに行くと、小さなオレがその破片の数と同じだけの数に映っている。オレはそのとき、ああ、オレもカガミのように一度にいくつかの体に分裂できたらいいなぁ、と思った。同じ時刻に自分と全く同じ存在の分身が、同じ頭、同じからだ、同じ手足を持って、違った場所に同時に存在できたらこれはすごいことだ、と思いついたからだ。もしそんなことが可能ならば、オレはこの住んでいる世界のどんなことだって知ると同時に検証でき、証明することだってできる、と思ったからだ。オレが見た!とか、わかった!と心の中で思ったことを極秘のうちうに、違う別の場所に同時に存在しているもう一匹の自分に瞬時に伝えて……、わかったということを分身に即座に確認、検証してもらうなんてことが簡単にできてしまうからだ。
普通は、わかった!と思って、確かめに行こうとすると、確かめに行く時間の経過の間に、その分かったと思った人を欺くように事態が変更されてしまい、「わかった」ことが検証できず、結局「わかってはいなかった」ことにされてしまうからだ。こういうのを発表効果というらしい。人間の心は気が変わりやすいし、天邪鬼(あまのじゃく)なところがあって、現実や事実を素直に認めさせずに、かえって逆に否定させたりする作用を果たしたりするからだ。ひとりのこころの中の対応ならば大して意味もない心の動きだが、これが組織という集団の力で連携しながら行われることによって証拠隠しや状況変化といった否定現象となって現れるらしいのだ。
それが、複数の分身がいれば、こんな組織的な妨害、攪乱行動に妨げられることなく、知ることと検証することとを同時にできてしまう訳だ。こうなれば全知全能の神のようなものだ。組織的に仕組まれれたどんな悪事だってたちどころにその全貌がわかってしまうし、証拠だって捕まえることができる。心の変心や揺らめきみたいなものも全部読み取ってしまうこともできるし、また逆に心の移ろいやゆらめきみたいなものをすっかり超越してしまい、万事をお見通し、ということだってできてしまう。シャボン玉の泡に映るのと同じ数だけの自分が同時に存在したらどんなに心強いことだろう。
揺らめきといえば、オレはもうひとつ不思議に思っているものがある。もったいぶらずに結論を先に言ってしまえば、それは星の瞬きだ。オレは蚊の奴らの運ぶフィラリアという恐ろしい病原菌から守られる必要もあってほとんどの夜を家の中で過ごしてきたから、夏の夜にそのまま庭につながれたままほって置かれたときには、寂しさとか無視されたなどという気持ちよりは、新鮮な感動に思わずわれを忘れたものだ。確かに草むらからはオレの生き血を嗅ぎつけてプーン、プーンと蚊の奴らが襲来してくるのがうっとおしいのだが、濃いブルーの空が至るところに小さくキラキラと光るものを時間と共に無数にちりばめてゆくのを見ることは夢中になれることであった。オレのほぼ真上にはベガと呼ばれる星がことのほか強い光を放っている。その東側にはデネブと呼ばれる星が天の川の中に光っている。真南の水平線の方にはさそり座のアンタレスが赤く輝いている。もっと西に強く光るのはスピカだ。そうした光るものに眼の焦点をあわせて行くと、夜空は暗い闇のなかに、ひとつ、二つ、四つ、七つ……と電球の玉に明かりをともして行くような趣がある。一体誰が星の一つ一つに明かりを灯しに歩きわたるのであろうか?あるいは誰がいっせいに光のともる配線コードを用意しているのだろうか?美しい不思議だ!!
それらを見つめているとオレはなんだか本当に有頂天とか天国というものが存在し、そこにいられるような気になってくる。星の光はオレにオイデオイデをするように揺らめきながら光っている。オレのような想像力の乏しいものであっても、光っている星群を見つけていると星の光の強さにあわせて、点として光っているそれらを線としてつなげてみたくなる。つなげようとして眼を凝らしているといままで見えていなかった星がまた新に光ってくる。もしかしたら、ずーっと、ずーっと見続けていたならばキラキラと光る星だけで天空は満杯になってしまうのではなかろうか?空は空ではなくて無数の密度の細かい星の瞬き、揺らめく絨毯なのだ。実に不思議な魔法の絨毯だ。オレに想像できることはそれで精一杯だ。
そこへ行くと、人間さまの想像力とはなかなかに美しく、またゆたかだなぁとオレは素直に感心する。人間というのは、大昔から洋の東西を問わず天空に架かる星を季節ごとに、場所ごとに眺めてはそれらに美しい名前を与え、そこにロマンを創ってきた。点から線へ、線から面へと創造の飛翔を繰り広げては夢のある人生を支えていた。そこには筆舌に尽くしがたい、なにか目に見えないものに対する畏敬と敬愛の気持ち、感動が常に素直に語られている。毎日、これでもかこれでもかとばかりに生み出される商品としての文化の中には絶対に見られない素直な感動が宿っている。星につけた名前こそギリシャと中国と日本では違っているといえども、人々の託した感動や夢の強さはどちらがどうのという比較を拒む素朴な強さがある。そしてみんなに共感され、語り継がれ、伝えられて行く生命力がある。こういうのが本当の人の心を純粋にとらえた精神文化というのだろうな?!
ついでに、ガシャ君とわが主人の話を思い出しながら、ふとこんなことも思ってみた。水の揺らめきを画題にした画家たちはモネを代表としてたくさんいるが、星のまたたき、揺らめきを画題にして、それを巧みに表現した画家は一体誰だろうか?昼の光ばかりでなく夜の光だって対等にその存在を主張していることに気がついた画家は一体誰かな?などということを……。ゴッホの『夜のカフェテラス』や『星月夜』は星を描いているけれども星の揺らめきまでは十分には描かれていない。画面を見ていると、星の光がきらめいて、瞬いているような錯覚に陥るようなそんな星の光と闇を的確に表現している画家を誰か知らないかな?なんて生意気なことも思った。
というような訳で、今回はオレが常日頃自然の中に不思議に思っていることやら、謎に思っていることについて筆を進めてみた。
<(11)へ続く>