中国南西部旅行

魁三鉄(永橋続男)

1985年8月5日〜8月12日

 

(1)

 私の海外旅行はアリゾナ研修により始まった。それを皮切りに妻も誘って一緒に旅行もした。体のこともあってか、海外旅行にはそんなに積極的でなかった妻であったが、私が一緒であるからということもあり、また担当医も普通の旅行である限りは特に問題はない、ということであったから、少しづつ出かける気になっていた。

私たちは新婚旅行も行けなかったし、二人一緒の海外の旅は近いところから始めた。最初はそんなところはいやだと言っていたのだが、台湾に行った。1983年のことである。

当時は、妻と一緒に台湾に行く旅行者はほとんどおらず、そのために現地でも「現地妻」と間違われて、中国語で話しかけられたり、中華レストランでも同伴ホステスと間違われたり、とおもしろい(彼女は「失礼しちゃうわ!」とおかんむりだった)経験をしたりの旅であった。

そんなところへ連れて行った手前、次はもっと日本人にとって過ごしやすいハワイが良いということでハワイに行った。時差も比較的少ないし、快適な気候にすっかりご機嫌で、何度も来たいと言っていた。行く行くは別荘をなどという夢も語っていた。私はアメリカとかヨーロッパへ一緒に行くことばかりを考えていたが……。

 そんな夢も1985年2月下旬の突然の死によりすべて台無しになってしまった。葬儀も一段落した三月の下旬頃、銀座のSONYビル前のスクランブル交差点で赤信号が青信号に変わって歩行者が一斉に歩き出した時、スクランブルの向こうから妻が「あなた!」と笑いながら小走りに走りよってくるような錯覚に襲われ、私の足も前へ出かかった。

もう一度前を見返したら、大勢の人々がどんどん向かってくるだけだった。その時、胸の中に本当に隙間風が吹き抜けて行った。

 それ以来、なんだか妙な思いに取り付かれてしまった。世界のどこかに彼女はいるのではないか?と。そしてそんなことある訳がないと思いながら、口の利けない同じ女がいるのではないかとの妄想を懐き始めた。口の利ける日本人では嫌だった。違うに決まっているから……。でも、口が利けない同じ女がいるならば、愛せるのではないか?という幻想をいだき始めた。

 そしてなんとなく中国へ行ってみようという気になった。夏休みという時期を使って行けるところは限られる。中国はでかいから、3,4回は行かないと北東から南西の広大な地域を回りきることはできないだろうと思い、それに妻は顔立ちが多分南方系だろうとの思いもあって、中国南西部を訪れてみることにした。

 それまでの旅ではあまり紀行記録を残そうという気も薄かったためか、写真も記念写真的なものが多く、また訪れた先の資料などもあまりとっておかずに捨ててしまっていたが、一人旅をするようになってから、いろいろな資料などを溜め込んでゆくこととなった。すこし、記録性のある文章として残したいと思うようになったからである。また後々、戯作創作のネタとして使えるかもしれないなどという気持ちも持ち始めていたからである。

 

(2)

 1985年当時、日中国交回復はなっていたものの、中国国内の旅行は自由化されておらず、一人旅は許可制か届出制になっていたかと思う。私は中国語もできないし、初めての中国旅行ということで、中国国内だけグループツアーになる企画、主催「よみうり海外ツアー、香港、広州、桂林、昆明 8日間」に申し込んだ。

 香港までは一人で、広州で他のグループと合流という旅であった。香港も初めてであったので、丸一日もない滞在であったが、とりあえず代表的な観光ポイントだけでも行ってみようという気でいた。

 キャセイパシフィックの直行便(CX501)で午後2:20到着であったので、景色が良く見えてよかった。夜寝るだけの滞在に比べると得した気になれるし、事実、市内を少しでも周れるわけだから得である。

 飛行機の着陸前に空港を見るとなんとも小さい飛行場であり、林立する高層ビルの真上をそれこそ翼をかすめながら着陸する。当時の啓徳(カイタック)空港は世界一着陸の難しい空港といわれていた。

 香港では、リーガル・メリディアンという立派なホテルが割り当てられており、チェック・インしてすぐに街へと出てみた。二階建てバスやタクシーやら道路は非常に込んでいたので、地下鉄へ乗ってみることにした。シチャムツァツァイという九龍半島の一番賑やかなところからすこし島をのぼったアーガイルまで乗ってみた。ただ街を見るためである。夕方ではあったが、とにかく人は多い。でも女性は顔立ちが私の趣味に合わない人ばかりで小柄な人が多い。

              

 ネイザンロードという幹線道路を下ってまた九竜半島の中心まで戻って来た。時間もないし、香港で一箇所だけ行くとしたらどこへ行く?という時はやはり、ビクトリア・ピークだろう、と考え、夜景を見るために行った。九竜側から香港島側へフェリーで渡ると、ペニンシュラ、とかリージェント、ヒルトンなどの世界的な一流ホテルが林立している。

ヒルトンホテルの裏側にあるケーブルカー(
PEAK TRAM)に乗りビクトリアピークへ上がる。このケーブルカーはかなりの急坂を上下する。山頂駅に着くと絵葉書のような香港の港の全体が見える。その入り組んだ天然の良港ぶりが良く判る。百万ドルの夜景といわれるのも納得の景色だ。しばらく景色を楽しんだが、それ以外に何もない。真夏のせいか、日はまだとうてい暮れそうもない。

そこでまた九竜に戻り、すこしホテルの周りをふらふらした。市民の生活は10階建てくらいの高層アパートだ。そこにはいわゆるベランダがなく、窓からいきなり洗濯物や干し物が並んでいる。なんとも異様なスラム街という感じだ。人々の暮らしぶりも路上観察からする限り、20年前の日本の下町という感じだった。全体雑然としている。

 またセントラルへ行き、そこからバスでタイガーバウム庭園へ行った。あの万能薬で大もうけしたという胡文虎氏の私的庭園だ。虎や猿など、動物や花の彫り物がけばけばしい彩色で並んでいる。釈迦、観世菩薩像などもあった。大もうけしたお金を社会的な還元策として庭園化するという発想はやはり大陸的だろうか?

 

(3)

 翌日、九竜にある、先々は北京へとつながる、九広鉄道駅(ホンハム)から広州行きの列車に乗った。駅はものすごく混雑しており、パスポート・チェックが行われる。日本人の団体客がたくさんいる、そうした人々と合流することになっているらしい。九竜駅を出ると列車はNon stopで広州まで走る国際列車である。列車は日本の列車と同じで広軌のぶん車幅が広く、座席もゆったりしている。冷房も効いている。途中、香港側はどんどん景色が寂れて行き、農村はド田舎という感じになる。国境を越えて暫く走ると、スラム化した建物を解体し、新たな高層ビルを建てるシンセン特別経済区らしい。

 九広鉄道駅        
 シンセン特区

 2時間くらい列車に乗ると広州だ。ここで他のグループの人たちと合流した。九州の高校の教員グループということだった。公衆の駅にはたくさんの出迎えの人々が貧しい身なりで群がるようにいた。本当の家族などの出迎えの人はほとんどいづ、みな外国人見たさとか、物乞いのために来ている。子供たちが香港ドルを欲しがって群がってくるが、お金を渡してはいけないとガイドさんの注意がある。子供は手先であり、彼らを背後で操っている大人の不良グループがいるのだという。さもありなん、という感じだ。

 広州駅は近代的なモダンなビルで中国臭さが全然ない。五星紅旗がなければ日本の地方都市の市庁舎という感じだ。

 ホテルは着いてみなければわからないといっていたが、広東迎賓館という立派なホテルだった。夕方、ホテルへのチェックインが住んだ後、街へ出てみた。自転車へ乗る人々がやけに目立った。それは広州だけの事ではないと後々分ったが。

街の屋台には豚肉や生々しいものが売られていた。

 8月7日桂林へ行く前に、市内ツアーがあったが、その前にホテル周辺を散策してみた。朝6:30頃自転車で通勤する人がたくさんいる。かれらの顔はあどけない。中国では小学校、中学、高校の授業料は有料で、大学は無料であるそうだ。自転車に乗って職場に向かう人々はみな学校へ行かずに、(行かれずに)働きに自転車で通っているということだった。バスも満員の労働者たちを乗せていた。

 観光バスツアーは中国旅行社の提供するもので、お決まりのものである。中国では孫文が台湾の中華民国でも大陸の中華人民共和国でも近代国家建国の祖として崇められている。中山先生と現地では呼ばれ、中山公園がかならず大都市の中心部にある。越州・広州博物館へも行ったが、アヘン戦争時の大砲くらいしかめぼしものはなかった。

 桂林までは中国民航の飛行機(飛机機という)でとんだ。桂林にはたくさんの観光客が乗降する。市内の璃江大飯店に宿泊した。中国の都市の道路の幅は広い。ただ、車も夕方なかなかライトをつけない。自転車などは夜になっても無灯火のまま走るのであぶない。

街の中の政府の掲示板には漫画入りの諸規則とか注意が掲示されていた。このころは政治的にはいよいよ資本主義化を目指す軌道に入っており、政治的なスローガンとか党派闘争のスローガンなどは見当たらなかった。

 

(4)

 8月8日は丸一日、桂林の璃江下りだ。桂林から朔陽まで観光船にのって下る船旅だ。ひたすら奇形をなす桂林の山々を見物する船旅である。桂林の港を出るとまもなく象の鼻の形をした象鼻山という岩山を見ながら通り過ぎて行く。河はは浅く、船は底の平たい船であり、バランスも悪そうなものである。

ただ河は流れも緩く、波もないのでそんな船でも特に問題はない。眼の前、左右にはとんがり帽子の連なる奇形奇岩の山並みが繰り広がっている。地名などは全然知らないから、そのうちどこもかしこも皆同じ山のように感じ始める。

ところどころで地元の人の操る竹で編んだような小船と出くわす。これで雨がそぼ降り霧の中に山並みが霞めばまさしく山水画の世界だ。しかし、率直に言って、講同じような景色を見続けていると見飽きてくる。一日中のんびりと時間を過ごしながら非日常的な世界に浸る場所という感じだ。

 そういう意味で、桂林は一度訪れたらもういいという感じだ。観光客ばかりで辟易というところ。それでも一度は訪ねてみたかったところなので満足した。


               


 翌日は昆明へ飛んだ。旅の前に今回のこの旅で魅力的であったのは桂林とこの昆明であった。雲南省は中国でも僻地であり、行く人もあまりない。常春の街といわれているとかで、タイとの国境もそう遠くないとあって気候も暖かい。街自体は標高1,5千メートルくらいのところにあり、周りには高山がある。

     

この街には動物園があり、そこにパンダと並んで珍獣の金糸猿という孫悟空のモデルになったとかの猿がいる。まぁどうということのない猿ではあったが、やはり見てみないことにはそう言えない。パンダは四川省の山奥にいるのだが、この動物園でも人気らしい。のんびりした木偶の坊という感じの動物である。猫熊と書く猫科らしい。

この昆明では西山という断崖からの景色が良いと聞いていた。1333段の階段を登ってみれば眼下に湖が広がり、龍門という頂上からはなかなかの眺望だ。この奇岩と展望以外には特にどうと云うことはない。

    
昆明では耳が四つ重ねられた聶耳という人物が有名だ。なぜかといえば、中国国家の作曲者であるからだ。彼は日本の鵠沼海岸で溺死したということだ。鵠沼海岸のある藤沢市はそんなことが縁で姉妹都市である。

この頃(1985年)の中国は自由化されつつあったとはいえ、まだ全体、所得水準も低く、女性たちも化粧などしておらず、都市部でもパンタロン姿である。他方で、人民服などを着ている人もきわめて稀であった。

8月10日には昆明からバスでさらに山奥にある石林へ行った。越南(ベトナム)国境へと通じている鉄道もあり、べトナム戦争の時にはアメリカが北ベトナムへの輸送路として使われているということでこの鉄道を爆撃対象としており、一時、中国との間に緊迫した状況が生じたということである。石林への途中、日本の切り妻屋根とほぼ同じ造りの家があった。屋根の反り具合なども中国や韓国のものと違いほぼフラットである。

石林は太古の時代海の底にあったとかで、その浸食作用で奇岩の林立が生じたらしい。岩の林立もさる事ながら観光客の「人林」もはなはだしい。

        

 このあたりはタイ国境も近く、ミャオ族とかいう少数民族がいて、この人たちは水田工作をしており、日本人のルーツの一つではないかといわれている。女性たちが観光客用に紺碧色の半纏に紅色の鉢巻などをしてみやげ物を売っている。

なんとなく、アリゾナのナバホのインディアンに似ている。このあたりと蒙古あたりの人々が2〜1,5万年位前にアメリカへと放浪しながら移動していったのかもしれない。

人間の足とはすごいものである。何世代にも渡ってそのようにして南から地球の北端まで上がりさらにまた大陸を渡って南端下へと降り続けたのだから、その好奇心と意志たるや相当のものがあったに違いない。恐らくは狩猟などで食べ物を追いかけた結果、そうした厳しい気象条件を乗り越えて移動をすることになったのだろう。

あるいはまた丸木舟などを使ってうまく日本漂着したのだろう。文明といわれるものがまだない時代の、人間の原始的な意志と知恵には驚かされる。

 昆明では太和宮という庭園にも行ったが、写真では「円通勝境」というところと「大観楼公園」(昆明湖)が写っているが、あまり覚えていない。

 むしろ夕方、路に迷って一般民家を覗ける機会があった。とても貧しく木のベッドに万年床のような薄い布団が敷かれていた。街の中は生活の活気があり、貧しいながらも生きてゆく生気にあふれていた。食生活物資などは日本よりもはるかに安い値段で民衆が売り子と駆け引きしながら買い物をしていた。先々こうした人々の欲に火がついたらどうなることだろうと思った。

 

(5)

 こうして最終日は昆明から広州へ戻り、香港行きの帰りの列車に乗る前にグループから離れ一人となった。そして香港へと乗り継いで、そのまま夕方の飛行機で成田へ戻った。9時頃の到着である。

 成田へ着くと、飛行場全体がなにかおかしい。人々がテレビに群がっている。なにかとはすぐには分らず、そのまま帰宅した。すると日航機が群馬県の山中に墜落したと大騒ぎになっていた。

あの御巣鷹山激突事故である。JAL機の尾翼付近の圧力隔壁に亀裂が入り、そこが吹っ飛び、その衝撃で方向舵などが損傷を受け不安定な飛行を続けながら最後は山に激突し、大破炎上、わづかに数人が生還できたものの、乗客のほとんどが死亡した。我々の飛行機が富士山近くを航行中、JAL機は迷走飛行をしていたということがのちに分かった。

 この時、私の人生の迷走はまだ始まったばかりであった。

<了>

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